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松本清張の「悪女」のとらえ方~小森陽一(in朝日新聞)

右と左(右派と左派)の単純な対立はもはや無くなったとか、有効でないとか、そ

の種の主張はあちこちで耳にする。たとえば先日ウチでも記事にした、朝日新聞

「耕論」での、東浩紀の主張の冒頭にもそう書かれていた。

         

これは、大まかな見方としてはその通りだと思う。でも、右翼とか左翼という強め

の言葉の使い方でさえ昔から曖昧さを含んでたし、違う側面から見るならば、今

だって右と左を分けれる場合も少なくない。だから、右と左の単純な対立は、最

近になって無くなったのではなく、薄まった、あるいはより曖昧になったわけだ。  

              

にも関わらず、今でもかなり明確な左寄り路線を継続する行動派の学者の1人が

東大教授・小森陽一だ。日本近代文学が専門の学者だけど、むしろメディアや一

般社会においては、政治的発言や行動で目立ってる人だ。「九条の会」事務局長

としての護憲活動。天皇制や靖国神社の批判。教育基本法改正(or 改悪)への

反対など。一連の活動は、一言で単純にまとめるなら「反権力」ということだろう。

               

今まで小森の学問的文章はまったく読んだことが無かったけど、それは彼の非

常に積極的な活動がどこかで引っ掛かってたからだと思う。彼が反対する権力

的なものは、かなり政治的・思想的に偏ってるように見えるし、権力のとらえ方も

人間社会のとらえ方も、浅薄に感じてしまう。

        

私は、権力に反対するよりも、権力のあり方を模索することの方が、遥かに重要

だと考えてる。そもそも、東大教授が頭脳と地位と名声を駆使して政治活動を行

うことも、十分に権力的なことなのだ。それが悪いと言ってるのではなくて、我々

権力的なものから離れられないのだから、一部の権力だけを固定的に批判し

続けるのはどうだろう、と疑問を感じてしまうということだ。。

              

          ☆          ☆          ☆

とはいえ、身体を張り頭脳を駆使して、これだけ活動するパワーは只者ではない。

同じ東大の盟友・高橋哲哉もそうだけど、学者としてはやはり優秀なのだ。ただ

結局は、その優秀な頭脳とパワーをどのように使うかが重要なんだなと改めて思

わされたのが、昨日(2009年4月28日)の朝日新聞・朝刊の記事だった。

         

文化面の左側に掲載された小森の文章の題(見出し)は、「『悪女』の抵抗描いた

清張」。その左の小見出しは、「生誕100年、今日性を考える」。正直言って清張

の話は最近多すぎるので、見飽きた感はあるものの、小森の文芸批評を読むい

い機会だし、ちょうど藤木直人&木村佳乃のドラマ『夜光の階段』もスタートした

所だ。何となく引き付けられて、いつの間にか読み終えてしまってた。言うまでも

なく、藤木は「悪女」のヴァリエーション、「悪男」なのだ。

                 

1500字程度の非常に明晰な文章は、その文体とか構成だけならまさに優等生

的で、いかにもオピニオンリーダーの東大教授らしいものだ。内容は、3月に北

九州市で開催された、清張文学の今日性を考えるシンポジウムを意識したもの。

彼の印象に最も残ったのが、「悪女」に関する議論だったらしい。

           

そこで登場した『黒革の手帖』、『けものみち』という題名なら、ドラマファンにとっ

てもお馴染みのものだろう。ファッション誌『CanCam』の専属モデル上がりの

米倉涼子は、これらの作品を通して、(悪女)女優としての地位を固めたわけだ。

            

さて、清張の描く悪女に関する議論について。それが、近代日本の「毒婦物」(悪

女を描く作品)の系譜を正しく受け継いでいるという主張なら、普通の文学史的な

考察だろう。ところが小森は、樋口一葉や平塚明(後の平塚雷鳥)の名を挙げな

がら、清張の悪女を「抵抗する女性」の系譜へと位置づけしていくのだ。いくつか

の言葉を引用してみよう。

        

   「男性中心主義的な社会制度の中で、最も抑圧され差別された領域の

    中で生き抜いてきた弱者の女性が、その諸制度に全身全霊で立ち向

    かい、権力や金力を握る者たちよりも巧妙に法の抜け道を利用しなが

    ら、強者に対して意趣返しをしていく」。

      

   「ルサンチマン(ニーチェの言う弱者の強者に対する憎悪と復讐心の堆積)

    の文学としての清張小説」。

   

   「抑圧されつづけた弱者の、弱者の論理における意見表示の文学」。。

         

小森の文藝批評は、他に何一つ読んでない。でも、清張の悪女に焦点を当てる

時、自然にこうした「反権力」的枠組みにはめ込まれてしまうのが、彼の限界じゃ

なかろうかという気がしてしまう。

                 

私は清張の小説も全く読んでなくて、ドラマで『けものみち』(全編)、『黒革の手

帖』(1回のみ)、『夜光の階段』(今のところ第1話のみ)、映画で『砂の器』を見

ただけだ。その範囲だけで言うなら、強者に対する弱者の抵抗とか怨みといった

見方は表面的だと思う。それは物語の中心構造に見えて、実は枝葉の問題に

すぎない。

           

むしろ重要なのは、そういった表面的枠組みの中で描かれる、主人公(小森の

言う弱者)の側の切なさ、悲しさ、力強さ、美しさだろう。強者への抵抗とか、権力

への反抗といった、外向きの政治行動的なものよりも、そこから描かれる主人公

内面のディテール(細部)が重要なのだ。そもそも、強者に対する弱者の意趣

返しなら、たかが強者が入れ替わるだけのこと。「権力」の否定というより「昔の

権力」の否定、「ある種の権力」から「別の権力」への移行にすぎない。

                   

小森自身、記事の冒頭ではこう書いていた。「戦争や革命という、時代の暴力的

な転換期を登場人物の背景に据え、権力と金力の関係を浮き彫りにすること。

松本清張の文学の基本的特徴・・・強者と弱者の関係が暴力的に転換・・・それぞ

れの人間はどのように境界領域を生き延びたのか」。こうした中立的・客観的観

点に留まっていれば、「悪女」の抵抗といった通俗的かつ政治的な主張へと流さ

れることも無かっただろう。

            

優秀な小森なら、こうした点は自分でよく分かっているはずだが、それでも逃れら

れないのは、個人的歴史や背景の重さがもたらす限界なのかも知れない。かな

特殊な人生を歩んで来た学者のようだけど、それについてここで触れるのは避

けておこう。いずれ自伝で自己分析されるのを期待しておく。

             

とにかく、私が『夜光の階段』を見る時、抑圧された悪女ならぬ「悪男」・佐山道夫

(=藤木)が外部の他人に抵抗する姿を見るのではない。悪い男の内面的哀しさ

を通じて、人間とか自分を見るだけだ。もちろん、それらを描く手段としての映像

やストーリーの面白さもたっぷり楽しませて頂こう。できれば、大人のテーストで。

               

ではまた。。☆彡 

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