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対称的な関係の中にある前進~高橋源一郎&小阪淳&森達也「論壇時評」(朝日新聞・1月)

(☆2013年2月3日追記: 遅まきながら最新記事をアップ。

  アートとツール(道具)

   ~小阪淳&高橋源一郎&平川秀幸「論壇時評」(朝日新聞・12年12月) )

       

      

         ☆          ☆         ☆

丸2日遅れだが、今月も朝日新聞「論壇時評」をじっくり見てみよう。2012

年1月26日の朝刊掲載で、例によって右に大きく高橋源一郎の時評、中

央に小阪淳のCG、左に森達也のコラム。そして下には小さく、編集部が選

ぶ注目の論考が掲載されている。

   

今月は全体的に興味深くて、新聞1面分の大型企画をすぐに読み終える

ことが出来た。ただ、一番優れてる作品は、3ヶ月連続で小阪淳CG

と思う。まずは、この非言語的表現から、丁寧に読み解いてみよう。

      

「明日」と題されたこのCGは、新聞の白黒画像よりも、朝日新聞デジタル

のカラー画像を見る方が遥かにキレイで明解だ。有料契約してない方で

も、手続きすれば無料で一定期間見れるので、お勧めしとこう。色が大き

な含意を持つ作品だからだ。

      

120128

 まず、ウィキメディ

 アから頂いた「国会

 議事堂」の写真(作

 者はWiiii氏)を

 見てみよう。中央に

 塔がそびえ立ち、両

 翼が伸びてるが、両

翼の端の辺りは木で隠されてる。

        

上の写真で木がさらに生い茂ると、「左と右」の翼が覆い隠されて、「中央」

の「塔」だけが残るだろう。それが、小阪淳のCGのメイン構造なのだ。た

だし、中央の「塔=党」にも雑木が生い茂り、ボロボロの状態。CGをカラー

画像で見ると、上の写真とは逆に、議事堂の方が青系の濃淡模様となって

いる。ごく自然に、「ホームレス」の方々の仮住まいを思い浮かべる所だろ

う。「しっかりした家のない人達がかりそめに住む空間」だが、ちょっとした

風でシートを吹き飛ばされそうだし、雨、暑さ、寒さにも弱いだろう。

     

おまけに塔の先端には、塔と互角の高さを持つ1本の巨大な木が直立し

ている。精神分析的にはファルス(男根)的な象徴となってるこの木も奇

妙で、インパクトのある高さに比べて、左右の幅はごく僅か。ちょうど、日

立グループのCM(この木なんの木・・)で使われ続けてる、左右に大きく

伸びたハワイの木の反対になっている。左右の代わりに、上下に伸びて

るのだ。

         

もちろん、石原慎太郎・都知事と橋下徹・大阪市長を中心とする、「父親

的強さ」を誇示する新しい動きをイメージしたものだろう。新しいと言って

も、新党の中心人物とされる石原は既に79歳、国民新党・亀井静香は

75歳、立ちあがれ日本・平沼赳夫は72歳なのだが。

         

小阪のCGは、細かい所まで面白くて、選挙グッズとしてのダルマ招き

がチョコンと上の方に鎮座してるし、あちこちにはキレイなお花も咲い

ている。これもカラーでないと分かりにくいが、つい先日ラウンドガール姿

が話題になった民主党・早川久美子など、華のある女性議員を意味して

るのだろう。

      

あちこちに貼られたお札らしきものは、ホームレスの方々の青いシートを

補修するガムテープのようにも見える仕掛けになっている。塔の中央の

太陽は日本の象徴だろうか。下側の左右に配置された月と星は、イスラ

ム諸国の国旗でよく使われてるものだから、草の根の市民運動による革

が接近する様子を控え目に示してるのかも知れない。

     

この小阪の作品を、過去2ヶ月の作品と合わせて見た時、世界の政治の

動きをシャープに把握していることがよく分かるし、本人の政治的立場は

ともかく作品としては、左右にも上下にも偏ってない、対称性を保ったもの

になっている。このバランスの取れたCGを、論壇時評のページ中央に大

きく配置している点が、左傾した朝日新聞の常識=良識的な配慮であっ

て、だからこそ左傾していない読者にとっても、依然価値があるわけだ。。

    

           

    

         ☆          ☆          ☆

続いて、普通に見ればメイン記事扱いとなっている、高橋源一郎時評

に移ろう。今回のタイトルは、「民主主義 対等な関係の中にある学び」。

         

「対等」、「学び」というのは、教育や医療の関係者が好みそうな表現だ。

と言うのも、まさにそれらの領域では、一見した所、対等ではないように

思われる営みが行われてるからだ。知識の足りない生徒に先生が教え

る、病気やケガで苦しむ患者を医師・看護師などが手助けする、等々。

    

高橋が最初に取り上げたのは、公開中の映画『普通に生きる』。重度

心身障害児(者)を持つたちが、通所施設「でら~と」を作るまでの戦

いの記録らしい。養護学校を「卒業」すると、自宅か入所施設かの選択

を迫られるのが普通で、社会との交流が遮られる形になっていたようだ。

   

早速、ネットを見てみたが、「でら~と」という生活介護事業所(富士市)の

名前の意味がどこにも見当たらない。似た発音のめぼしい外国語もなか

なか見つからないが、おそらく中心的意味は英語の「ディライト(delight)」、

つまり「喜び」ではないか。

           

同じ社会福祉法人「インクルふじ」(インクルージョン=包み込むより)が

営む他の事業所が、「らぽ~と」(関係)と「さぽ~と」だから、当初から統

一的な名前を構想したのかも知れない。少し西の名古屋弁の「でら」(す

ごい、すごく)とか、「アート」(芸術=創造)と関係している可能性もある。

お母さん方の趣味を考えると、「デザート」の語感もあったかも知れない。

    

    

         ☆          ☆          ☆

名前や理念はさておき、定員25名(06年以降)の施設を作るまでも、作っ

てからも、親子スタッフ、地域住民共に成長し続けている。これが高橋の

大まかな見方で、それを差し当たり、「『教育』のもっとも重要な本質、相

互性」と呼んでいる。

     

私は、もっとも重要とまでは思わないが、相互性が大切なポイントなのは

その通りだろう。例えば、自分が「分かっている」つもりの事柄を、他人に

「教える」際には、実は自分もそれほど「分かっていない」ことを「教えられ」

たりするわけだ。教えることで、その内容や社会・人間について教えられ

自分の学びとなる。ごく普通の相互的、より一般的な言葉を使うなら「対称

的」な経験だろう。

      

     

         ☆           ☆            ☆

ただ、それを次に「対等」と呼び変えるのは、単なる言葉の好みの問題と

は言い切れない。と言うのも、「対等」とまで呼んでしまうと、事の本質が

曖昧にされてしまうからだ。

      

そもそも、その親たちがなぜ行動を起こしたかというと、対等ではないから

だ。親にも、その他の人達にも、基本的に通所施設は必要ない。子どもの

側だけに施設や介護が必要で、コミュニケーションも難しいからこそ、社会

で「普通に生きる」のが難しいし、親が行動を起こすわけだ。対等という言

葉は美し過ぎて、現実的・人間的な問題にそぐわない気がする。

      

映画のロング・ヴァージョンのPVを見ても、映像的にも音楽的にも、そう

した「美しさ」が満ち溢れている。例えば終盤、「他の人から見ると悲しい

だろうなとか、辛いだろうなとか、思うかも知れないけど、全然だな」という

ご家族の言葉が入る。実は、私の知人にも重度心身障害者がいるのだ

が、ご家族も周囲も、「全然」どころか非常に深刻なまま。それでももちろ

ん、力強く一緒に生き続けているわけだ。

      

私は、美しい姿より、もっと普通の姿の方が自然体で現実的だと思う。障

害者が「普通に生きる」ために、社会がもう少し成熟しなければならないの

はその通りだろうが、社会の側も「普通に成熟する」ことで十分だろう。

      

対等と考えたい人達だけなら、それでいいかも知れない。でも、社会全体

の問題として見るなら、「気の毒だから、自分にできる範囲で手助けしたい」

といった昔ながらの素朴な優しさの方が「現実的」だ。現実に即してるという

意味においても、実用的という意味においても。。

     

        

          ☆          ☆          ☆

さて、その「対等」という言葉が高橋の時評に登場するのは、映画の次の

題材である、「きのくに子どもの村学園」に関する部分においてだ。きのくに

とは、「紀の国」、つまり和歌山県が出発点という意味。学年試験通知

表も無く、普通の学科(基礎学習)は全体の3分の1。にも関わらず、フリー

スクールではなく、文部科学省に正式に認可された私立学校だそうで、HP

を見ると、小中学校中心の小規模な学校グループらしい。学年が無いと言っ

ても、小学校を卒業する子としない子は分けるはずだが、流しておこう。

        

ここでは、「先生」「生徒」という呼び名もなく、「対等」のパートナーが

し合いで物事を決める「民主主義」が成立しているとのことだが、その

実が気になる所だ。入学システムや時間割は「大人」が決めていることだ

し、もし本当に「先生」的な教育なしに子供たちが楽しく体験学習している

のなら、かなり選び抜かれた子供が集まっていると考える方が自然だろう。

   

実際、生徒数は現在の全体でも300名程度。誰もが入れるわけでもない

し、費用も相当な高額で、経済的・教養的な富裕層の子息が多いのでは

ないかと想像する。例えば、小学生の長期滞在寄宿生の費用が135万

円とだけ書いてあるが(グループの一つ、かつやま子どもの村)、体験費

用や入学金などから考えて、これは年間の費用だろう。食費・寮費・教材

費用込みとはいえ、「普通」の家庭の感覚からは程遠い金額だ。

    

ここから考えると、誰でも気になる学力の問題についても、ある程度の予

想が立つ。普通の小中学生たちが一生懸命、受験勉強で苦労している

のに、きのくにでは受験勉強なしで上手く行っているそうだが、もしこれを

そのまま真に受けるなら、もともと優秀な子供が集まっているのだろう。

     

学力や進路の具体的データは見当たらないが、「学力」という言葉を、き

のくにの感覚だけで捉えてるわけではなさそうだ。全国のほとんどの中学

生が、中3の夏くらいでクラブ活動という名の体験学習を止めて、受験勉

強に切り替えることを考えると、教育システムの素晴らしさという話では説

明するのが難しいはずだ。熱心に部活を行う「生徒」、「先生」は全国に大

勢いるし、先生の教えなどほとんど無い部活動も大勢あるはず。事実、私

の中学の陸上部では、ほとんど指導は無し。生徒の自主的活動だった。

       

実は、きのくにのHPを見ても、「対等」とか「民主主義」という言葉や概念

強調されているわけでもないし、障害のある子供は入学できないことも

示されている(かつやま)。「でら~と」と違って、基本的には通所施設でも

なく、入所施設だ。様々な意味で、「外部」と切り離された特殊な空間にお

ける、体験学習・自己決定・個性重視の教育。もちろん興味深いが、ここ

から対等という概念やその価値を引き出したいのなら、そこでの「おとな」

と「こども」の関係の内実など、考えるべき事は多いだろう。

   

ドイツの有名な思想家・ハーバーマスの話も、高橋は付け加えているが、

雑誌『世界』の論文をまだ読んでいないので、論評は差し控えとこう。

     

    

           ☆          ☆          ☆

高橋の時評の終盤、第3節では、唐突に「デモ」が賞賛されている。一応、

デモいこ!』という楽しいブックレットの紹介という流れにはなっているが、

毎月読んでる者としては、やはり最後はそこなのか、という気がする。実

際、編著者は「TwitNoNukes」。その名の通り、ツイッター中心の反原発

ループのようだ。

    

スローガンに関わらず、路上でもどこでも「学び」の場になるという考えに

は、私も賛同する。ただ、「どこでも」だから、路上でなくてもいい訳だ。高

橋が最後に出した例が、デモで無く、家で普通に受験勉強する生徒の話

であれば、時評全体の説得力は遥かに上がっていた。そもそも今は、受

験の季節。おそらく全体では200万人以上の受験生が頑張ってるのだ。

少なくとも中学3年生にとって、「普通に生きる」とはそうゆうことだ。もちろ

ん、「普通に生きない」のも一つの生き方ではあるが。

     

時評のラスト、高橋は「でら~と」の赤ちゃんを「抱かせていただいた」経

験に触れ、「天使」とか「最良の『教師』」と語る。その言葉に続けて、「と

同時に、いま私の手元にはセンター試験の問題がある。これもまた、大

人にとっても優れた教師なのだ」とかオチがあれば、私は大きく頷いてい

ただろう。小中学校の普通の教科書でもいい。

    

介護する者とされる者は、「同じ」ではないが、相互的に与えあう関係では

ある。先生と生徒、大人と子どもについても同様。それぞれ違った者たち

が、違いを認めつつ、相互的、対称的な関係を作り上げ、少しずつ前進

する。『対等な関係の中にある学び」というより、「対称的な関係の中にあ

る前進」。社会における共生と成熟に関しては、そんなモデルの方が現実

に即していると考える。。

    

     

      

         ☆          ☆          ☆

最後に、複合記事「論壇時評」の左に位置するコラム、「あすを探る」に

ついて。今月のテーマは「社会」で、執筆者は森達也。タイトルは非常に

彼らしく、「死刑の存廃 揺れてもいい」。     

       

簡単に言えば、穏やかな死刑反対論であって、差し当たりじっくり現実を

見て考えてみようということだ。ポイントは2つ。まず、「二項対立」的な思

は「現実ではない」ということ。つまり、正義と悪、敵と味方、黒と白、被

害と加害といった二分法は、「決定的に間違え」てしまう恐れがあるとい

う主張。そして2つ目は、情報公開が不足してるということだ。

      

まず、二項対立について言うなら、昔から批判はあるが、ほとんど減った

様子はない。物事を考える際の基本の一つは、分けること。そのスター

トが二項対立であって、「世界はもっと複雑で多面的」なのはその通りだ

が、人々の思考をもっと複雑で多面的にするのは、一般的には無理が

ある。そもそも、1と0の二項対立、つまりデジタルが驚くほど有効なのは、

この100年のコンピューターの歴史で実証済みだ。

     

二項対立という形を責める昔ながらの批判より、その使い方とか、「三項」

対立という考えに注意を促す方が有効だろう。例えば、黒と白という判定

は今後もずっと残るだろうが、黒と判決をくだされた人が白になることは

ある。別に黒と白という考えを無くさなくても、事の難しさは分かるのだ。

    

あるいは、被害者の人権と加害者の人権も、被害者だけ、加害者だけ、

両方、の三項に分けるだけで、話は進んでいく。例えば、死刑被害者

の人権だけを考えたもの、無期刑(仮釈放あり)は加害者だけ終身刑

(仮釈放なし)は両方、という三分法だ。二項対立を土台にした三項対立

と言っていい。

           

ちなみに個人的には、最後の選択肢辺りが最善の妥協点ではないかと

思っているが、森も言う通り、国民の8割以上が死刑賛成だから、強く

主張することも難しい。

      

一方、情報公開の不十分さや遅れについては、私も森と同じ考えだ。

首刑というのが、実際問題どうゆう事なのか。その残虐さを目の当たりに

するだけで、死刑制度はさておき、絞首刑という刑罰はかなり揺れるだろ

う。もちろん、電気椅子を使おうが、薬物注射を使おうが、人間が人間を

法的に殺す点においては同様だが。

     

    

         ☆          ☆          ☆

森のコラムは、全体的に普通の内容だが、複合記事「論壇時評」に含ま

れているということは、「時」代に即したものでもあるということだ。それは、

冒頭で昨年11月のシンポジウムを話題にしている点とか、法務省の最

近の死刑存続的な動きの記述に表れている。

    

ただ、非常に残念なのは、実証的な統計データほとんど無いことだ。た

とえば、被害者や加害者の意識調査とか、死刑に関する冤罪のデータと

か。国民の「8割」が死刑支持という状況を揺さぶるためには、質的な話

だけではなく、量的な話、つまりそれなりの数字が欲しい所だ。「冤罪は想

定以上に多い」と言うのではなく、実際どれだけなのか。その推移や、他

の刑罰に関する冤罪率との比較が問題になる。

       

他には、そもそもどのような経緯で、日本だけ突出した死刑存置国の

1つになったのか。詳しい中立的説明が、朝日新聞に掲載されれば有難

い。裁判員制度によって日本は、「国民が国民の死刑を決める稀有の国

になったのだが、国民が国民の死刑を強く支持する稀有の国になったの

はなぜなのか(ちなみに死刑大国とされる中国の陪審員制は詳細不明)。

    

もちろん、現在の日本が、他の国や昔の日本に従う必然性はない。しかし、

国民全体があらためて考えるための一つの契機にはなるだろう。森がパ

ネリストとして参加したシンポで、「揺れ」を示す高校生の発表の後、「被害

者の人権はどうなるんだ!?」と怒声が飛んで、全員沈黙したそうだ。そう

ゆう時、被害者家族の意識調査のデータを示しながら冷静に応答できる

高校生が出てくれば、時代も変わるだろう。大人でも困難ではあるが。

     

死刑とか殺人というのも、まったく対等ではない関係が問題となっている

場面だ。自分で残酷な殺人を認めていて、しかも死刑を望んでない死刑

囚に対して、釈放のない終身刑を科し、費用も可能な限り懲役その他か

出させること。この辺りが、加害者と被害者の対称「的」な関係をそれ

なりに作り上げる落とし所ではないか。私は今、そう考えている。

     

世の中は対等でも対称でもないが、対称「的」な考えや行動はしばしば有

効だし、民主主義的でもある。ただし、左右が対称でも、上下が非対称で

あったりするわけだ。それでは、今月はこの辺で。。☆彡

        

    

       

cf.震災後、身の丈超えぬ「ことば」に希望

         ~高橋源一郎&小熊英二「論壇時評」(朝日新聞) (4月)

  非正規の思考、その可能性と危険性

         ~高橋源一郎&濱野智史「論壇時評」(朝日新聞・5月)

  みんなで上を向いた先に真実はあるか

         ~高橋源一郎&平川秀幸「論壇時評」(朝日新聞・6月)

  スローな民主主義と『スローなブギにしてくれ』

          ~高橋源一郎&森達也「論壇時評」(朝日新聞・7月)

  柔らかさ、面白さが無ければ伝わらないのか

          ~高橋源一郎&菅原琢「論壇時評」(朝日新聞・8月)

  人を指さす政治的行為のマナー

          ~高橋源一郎&酒井啓子「論壇時評」(朝日新聞・9月)

  希望の共同体を楽しく探るために

          ~高橋源一郎&小熊英二「論壇時評」(朝日新聞・10月)

  アート・ロック・ゲーム、多様な変革運動

    ~高橋源一郎&濱野智史&小阪淳「論壇時評」(朝日新聞・11月)

  どの常識をどう疑い、何に立ち向かうのか

    ~高橋源一郎&小阪淳&平川秀幸「論壇時評」(朝日新聞・12月)

  現在の中に過去を見ること

      ~高橋源一郎&小阪淳&菅原琢「論壇時評」(朝日新聞・2月)

  自ら切りひらく主体相互の共生

        ~小阪淳ほか「論壇時評」(朝日新聞・3月)  (未完)

  「常識がない」ということの意味

       ~小阪淳ほか「論壇時評」(朝日新聞・12年4月)  (未完)

  破壊と建設、悪意と善意

   ~小阪淳&高橋源一郎&濱野智史「論壇時評」(朝日新聞・12年5月)

  古きを温め、新しきを育む

   ~小阪淳&高橋源一郎&森達也「論壇時評」(朝日新聞・12年7月)

                 

                                 (計 7567文字)

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