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福岡伸一「動的平衡」(朝日新聞)と詩人シラー『人間の美的教育についての書簡』(ドイツ語原書)

正確な出典を自分で調べ直すだけで時間がかかったので、書く時間が無く

なってしまったが、とりあえず手短に記事をアップしとこう。

 

昨日、2015年12月3日の朝日新聞・朝刊で始まった、福岡伸一新連載 

コラム、「動的平衡」。話題は興味深いし、文章もいつもながらキレイにまとめ

られてる。ただ直観的に、軽い違和感を持ったので、元のドイツ語の論文まで

探し当てたのだが、やはり原文はちょっと異なる話のような気がするのだ。

 

まあ、福岡としては、最初に自らの「動的平衡」という主張があって、そこに

面白い素材を当てはめてみた・・・といった感じなのかも知れない。それは普

通の事だし、文芸作品の解釈は基本的に自由だから、別にいいとは思う。

 

ただ、元の文章がかなり有名なものらしいし、福岡の文章のかなり前から、

ややミスリーディングな(誤解を招く)情報が拡散してるような気もするので、

本来の文章と意味について、私なりに書いてみる。後で調べ直して、修正

するかも知れない。。

 

 

           ☆          ☆          ☆

まずは、福岡の新連載コラムから。今回のタイトルは、「生命の惜しみない 

利他性」。横浜のみなとみらい駅で降りて、長いエスカレーターを昇った所

にある、壁一面の碑文が題材だ。私も何度かその辺りを通ってるはずだが、

まったく思い出せない。

 

151204a  ネットで写真を見て、ようやく思

  い出した。あまりに巨大なオブ

  ジェだし、立ち止まってじっくり

  読むような置き方ではないのだ。

  左はウィキメディアで公開中、

  Nandaro氏の写真より。

 

  18世紀のドイツの詩人、フリー

  ドリッヒ・フォン・シラーの独語の

  詩と和訳が刻まれてるそうで、

  福岡が部分的に引用したのは

2つのフレーズだ。

 

 

           ☆          ☆          ☆

まず1つ目、写真とドイツ語付きで(アクセント記号は省略)。

 

  「樹木は、この溢れんばかりの過剰を 

   使うことも、享受することもなく自然に還(かえ)す

 

151204b

 

 Was er von seiner verschwenderischen Fulle ungebraucht

 und ungenossen dem Elementarreich zuruckgiebt

 

 

続いてもう一つ。実際には「・・・還すが、・・・」という形で連続した1つの文だ。    

 

  「動物はこの溢れる養分を、自由で 嬉々とした自らの運動に使用する

 

151204c

 

  das darf das Lebendige in frohlicher 

  Bewegung werschweigen.  

       (注. 2行目の右半分の独文は、福岡が引用した和訳の

           次の文と対応するので、この記事では省いた。)

 

 

            ☆          ☆          ☆

さて、福岡は、訳文をわりと素直に受け止めたのか、樹木がもたらす過剰が

動物に与えられるとみなして、次のように論じている。

 

   「生命は利己的ではなく、本質的に利他的なのだ。その利他性を

    絶えず他の生命に手渡すことで、私たちは地球の上に共存して

    いる。動的平衡とは、この営みを指す言葉である。」

 

しかし、2つのフレーズのどこにも、動物の利他性については書かれてない。

普通につなげて読めば、植物は結果的に利他的かも知れないけど、動物は

利己的・・・といった感じになるだろう。しかも、動物と訳されてる「Lebendige」

の普通の訳語は「生命」とかだから、植物と動物の対比は明示されてない。

 

それでは、御影石の碑文の全体を読めば、福岡の言うような意味に受け取

れるのか。そう思って、ドイツ語原文を調べてみた。ちなみに翻訳は、「ドイツ

語の先生」が担当したそうだ(はまれぽのインタビュー記事)。

 

 

            ☆          ☆          ☆

碑文(米国のジョセフ・コスース作)の説明はネット上に多数あるが、ウィキペ

ディアも含めてほとんどは、商業施設「クイーンズスクエア」のHPの説明と似

たものになってる。

 

   「フリードリッヒ・フォン・シラーよりデンマーク王子アウグステンブルク

    公にあてた美学的なことに関する書簡第27号より一部を抜粋

 

ところが、東京大学大学院・井藤元氏の論文によると、「王子宛書簡」は元の

草稿みたいな物であって、火事で焼失したらしい。それを半ば復元しつつ、新

たに学問的な論文として書き直したのが、『人間の美的教育について』(Uber

 die asthetische Erziehung des Menschen,1795)。成立の経緯

を考慮して、『人間の美的教育についての書簡』とも訳される、この論文の第

27章の一部分こそが、碑文なのだ。手紙として考えるなら、第27書簡。

 

クイーンズスクエアの説明は、省略表現としてなら間違いではないが、あの書

き方だと、シラーの著作そのものにたどり着くのは困難だろう。著作のドイツ語

原文は、無料の電子図書館グーテンベルクで公開されてるのだ。下はその一

部のコピベ。

 

151204d

 

一方、その英訳もフォーダム大学によって公開されてた。

 

151204e_2

 

 

          ☆          ☆          ☆

これらにざっと目を通した限り、利他性というより、生命の自由ということが

話の本質のように感じられる。利他性というと、自由というより、道徳的な束

縛のイメージが強まってしまうだろう。生物学的な必要性、人間的な道徳性

という限界、束縛を超えて、植物は豊かに生産するし、動物は楽しげに運動

する。

 

こうした活力あふれる生命の方向性、良い意味での無駄遣いへの傾向を、

シラーは「遊びの衝動」(Spieltrieb : 遊戯衝動)と呼び、それが向かう自由

な状態を美学的状態(あるいは)とする。

 

結局、植物が過剰な生産で遊び、動物が過剰な運動で遊ぶように、人間も美

学的に遊ぼう。。そういう感じで、人間を美に向かわせるのが、「人間の美的

教育」ということのような気がする。植物の遊びが、人間や動物の側からは

利他的にも見える、ということだろう。。

 

 

          ☆          ☆          ☆                       

そう考えると、横浜の巨大なアートに、「The Boundaries of Limitless

という逆説的なタイトルが付けられてることも納得できるのだ。「無限の(様々

な)境界」、「無限の限定」。自由という無限に向かう壮大なプロセスの中に、

植物、動物、人間といった境界が並んでる様子をおぼろげにイメージすること

が出来る。

 

シラーの論文については、かなりの論争や批判もあるようなので、あまり深入

りするつもりもないが、私が福岡のコラムを読んで調べたこと、考えたことは

以上の通りだ。

 

それでは今朝はこの辺で。。☆彡

 

 

 

P.S. 小栗孝則訳『人間の美的教育について』(法政大学出版局)の「第

     二十七信」では、次のように訳されていた。二回使ってる「楽し」の

     元のドイツ語が異なる点に注意が必要だ。

 

       樹木がこうしてその贅沢な豊富さから、使いもせず楽しみもせ

       ずに、元素の国に返却していくものを、生命あるものは楽しい

       動きのうちに融けこませることができるのです。

 

 

P.S.2 12月10日の第2回「動的平衡」では、細胞の「この絶え間のない

       分解と更新の流れを私は『動的平衡』と呼ぶ。これが生命の定義

       であり、生きていることの本質である。」とのこと。

 

       第1回の説明との関係や、「この」の正確な意味が気になる所だ。

       単なる分解と更新の連続なら、生命である必要はないし、平衡で

       ある必要もない。ちなみに「生命の定義」である「これ」とは、動的

       平衡を保つ存在という意味だと思われる。少なくとも、このコラム

       の文脈では。。

 

                                   (計 2729字)

                      (追記 216字 ; 合計 2945字)

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