哲学者・鷲田清一の自殺論(朝日新聞)

日付け変更まで、もう時間がない。毎日更新継続のための間に合わせで書くよ

うな話でもないんだけど、他に思いつかないから、これで行こう。今日、2008年

7月17日の朝日新聞・朝刊文化欄に、大阪大学総長・鷲田清一の現代自殺論っ

て感じの文章が載ってた。見出しは、底知れない「孤立貧」。副見出しは、自殺者

10年連続3万人超過

       

鷲田を知ってる人の割合は多くないだろうけど、哲学者としてはかなりメジャー

な人だ。文学的で柔らかい文体と独特の着眼点・切り口が売りで、私もわりと好

感は持っている。ただ、文章の論理的な曖昧さと、実証性の無さはちょっと引っ

かかる所で、今回の記事もかなり読みにくかった。阪大総長の肩書きを持つと

はいえ、もし小論文のテストなら、かなり減点されてもおかしくはない。理系の論

文形式ともかけ離れたものだ。

                   

まず、1300文字程度のこの小論の内容を要約してみよう。

    

   多数の自殺の報道を見ると、我々は「なぜ?」と疑問に思う。同じ社会に

   生きながら、彼らが自殺して私たちが死なないのはなぜか、その分かれ道

   が知りたいからだ。でも、その問いは二重の理由で「やがて虚空に消える」

    

   まず、彼らと自分の間にはかなりの距離があるから。どうしても自分とは

   「無縁」なものという側面があり、「死なれた」痛手を感じにくいのだ。一方、

   自分たち自身も「所在のなさ」が膨れあがって、存在が曖昧になってるの

   で、彼らとの分かれ道=違いをとらえにくい。こうして、「なぜ彼らは自殺し

   て私たちはしないのか」という問いは、答のないまま消えざるを得ないのだ。

        

   ここに見て取れるのは、個々の人間が孤立して、存在が貧しくなった状態

   だ。柳田国男の言葉を少し変形して借りるなら、「孤立貧」と言えるだろう。

   昭和のはじめ、自殺者の数が毎年1万数千人となった頃、彼はこう言った。

   「われわれの生活ぶりが・・・・・・個人の考え次第に区々に分かれるような

   時代が来ると、・・・貧は孤立であり、従ってその防御も独力でなければな

   らぬように、傾いて来る」(『明治大正史・世相篇』)。

    

   柳田の言う孤立は、共同体から家族への細分化のことだが、平成に入る

   と、建築家の山本理顕が、最小単位としての家族でさえ最後の拠り所とは

   ならなくなってると指摘する。つまり孤立が、家族から個人へと更に細分化

   してるのだ。柳田が「われわれは公民として病みかつ貧しいのであった」

   (同上)と語った時代からも、唐木順三が自殺は「僕らと無縁ではない」と

   語った時代からも、遠く隔たった現代。私たちは、孤立した個人として、存

   在が貧しくなっている。まさに、底知れない孤立貧の状況なのだ。。。

     

          ☆          ☆          ☆

これを読んで最初に感じたのは、まず曖昧さだ。「孤立貧」は、直接的には、

他人の自殺に対する我々の隔たりを説明するキーワードとして挙げられてい

る。おそらく、孤立貧と自殺そのものも結び付けたいはずなのに、その表現は

見当たらない。また、柳田国男という超大物の民俗学者の名前を援用してるだ

けで、広い視野や細かい論証・データもない。柳田が語った貧しさと鷲田の言

う貧しさがどの程度関係してるのかも気になる所だ。

           

ただ、自分で深く考えることこそ哲学だという観点に立つのなら、鷲田の文章は

まさに哲学的だろう。つまり、「所在のなさ」という表現の意味とかも含めて、あち

こち読者に考えさせる箇所だらけなのだ。孤立貧という造語がしっくり来るという

人もいるだろうから、哲学とは新しい思考を求める営みだという観点からも、鷲

田の文章はやはり注目に値する。半ば理系の人間として、読んでてイラつく表現

だらけでも、やっぱり魅力や価値を感じてしまうのだ。

       

最後に、おそらく鷲田とは全く違う、私の見方を一言書いとこう。そもそも、自殺

は多いんだろうか? 急速な増加が続いてるわけでもないし、死因の主要な部

分を占めてるわけでもない。多様化の時代に、毎年1万人中の2、3人が自殺

(or 自死)し続ける割合というのは、巨視的に考えると不自然ではない気もする

のだ。この数字は、自分の周囲ではなかなか起こらないことを表してるのだから、

低い値と言えなくもない。

       

もしそうなら、孤立貧の状態だから他人の自殺と疎遠なままだという鷲田の主張

は、根底から崩れることになる。孤立貧など無くても、人々は、一つの死の形

あるがままに受け入れてるだけかも知れないだ。いわゆる自殺は、精神的な行

為だけど、ガンだって身体的自殺とも見れる。タバコによる肺がんや、無謀な運

転による交通事故死などは、精神的自殺と見ることさえできるだろう。その意味

で、いわゆる自殺をさほど特別視しない人がいても不思議でないかも知れない

           

ただし、誤解のないように付け加えると、私自身は現状を良しとしてるわけでは

ない。人間は、多少なりとも自然に逆らって生きる主体的動物だ。社会的に自

殺を減らしたいとは思ってるし、自分の周囲の自殺を絶対に避けたいとも思って

る。ただ、もし鷲田の言うように、人々が他人の自殺との隔たりを持ってしまって

るのなら、それは孤立貧など持ち出さなくても説明できるだろう。

    

人は、昔から全く知らない人の死に関心を持ちにくいし、現在は多様化の状況

にも慣れている。その程度の説明でも十分だと思う。その多様化を孤立貧と呼

びたいのなら、必ずしも反対しないが、特に賛成もしない。いずれにせよ、もう

少し精密で繊細な論証が必要な話なのだ。

   

とにかく、もう時間なので、今夜はこの辺で。。☆彡

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テレビの視聴率について再び考える

2006年12月6日のウチの記事「テレビの視聴率(上)」では、朝日新聞の記

事で解説されてた視聴率というものについて、私のとらえ方を次のように書い

ておいた。

   

   原則として週1本だけとはいえ、本気でドラマ・レビューを書いてて、さらに

   他のドラマにも多少は目配りしてるブロガーとしては、どうしても視聴率と

   いうものに関心を持たざるを得ない。もちろんそれは、自分が注目するド

   ラマの視聴率が高ければ喜んで、低ければ悲しむなんて単純で平凡なも

   のではない。高いものを見て低いものを見ないって訳でもない。・・・逆に自

   分が評価するドラマの視聴率が低い方が嬉しいなんて部分もある。なぜな

   ら、多くの人には分からない良さが、自分には分かるって事になるからだ。

   視聴率に対する私の主な関心は、・・・脚本への関心と同種のもの。つまり、

   ドラマを構成する重要な要素の一つ・・・ドラマを理解する上での、一つの

   重要な外的要素が視聴率・・・」。(着色は今回)

      

この1年以上も前の記事から今さら長々と引用したのには、2つの理由がある。

1つは、昨日(2008年2月10日)の朝日新聞朝刊3面の特集記事が「視聴率 

重みと限界」だったこと。「あしたを考える」というシリーズの中の、最近の企画

が「テレビどこへ 選択のとき」で、その1テーマとして視聴率が取り上げられた

わけだ(執筆記者は青山祥子雑崎徹)。

   

もう1つの理由は、先日のウチの本格的ドラマレビュー「善悪の混沌への誘い~

『あしたの、喜多善男』第5話」で視聴率の話を書いたから。ウチが冬ドラマから

1本だけ選び出した『喜多善男』の視聴率が、5.2%なんていう記録的に低い

数字に落ち込んだことに衝撃を受けたことから書き始めたものだった。

     

さて今回の朝日の記事は、最新の話を取り入れてキレイにまとめたものではあ

るけど、1年以上前の解説と比べて大きな違いは感じなかった。簡単にまとめ

ておこう。

            

調査してるのはただ1社、放送局や広告会社が出資するビデオ・リサーチ社の

み。全国27地区で専用機器を使って自動的に調査。うち、11地区で毎日集計。

記録は1分ごとで、いわゆる番組視聴率とは放送時間中の平均値。普通は世

帯視聴率だけど、関東・名古屋・関西の3地区では個人視聴率も毎日集計。調

査世帯は無作為の抽出で、上の3地区では各600世帯、他は各200世帯。

聴率をもとに、CMの価格や量(本数や時間)が決定される。

視聴率調査方法の技術的問題としては、統計的誤差(600世帯地区で1.8~

4.1%)、計測されない視聴の増加(録画・パソコン・ワンセグなど)が挙げられ

る。2011年の地上デジタル放送完全移行を前に、新たにより詳細で正確な視

聴率調査の検討が行われてる。。

     

この視聴率が、たとえば放送中の連続ドラマにどう影響してくるかというと、まず

ドラマ自体については、内容・ゲスト出演者・放送期間・続編(orSP)企画など

に影響がある。視聴者の側では話題性・安心感・満足度などにつながっていく。

ブロガーの世界ではさらに、記事数、記事内容、反応(アクセス数、コメントなど)

の形で変化が現れる。

    

こうして、テレビを中心とする世界全体に視聴率が関わっていくわけだけど、数

年前の偽装事件の際にも議論されたように、「視聴率至上主義」には批判も多

い。けれども、多数の視聴者の意見を把握するにはやっぱり視聴率しかないと

いう反論が遥かに勝ってるのが現状だ。

それに対して、「視聴質」を調べたり重視したりする動きも一応ある。テレビ朝日

と慶応大が97年から始めたネット調査「リサーチQ」、オリコンの「ドラマ満足度

ランキング」、あるいは、大手スポンサー企業への反応の調査など。

     

          ☆          ☆          ☆

さて、ここからは私の考えを書いて行こう。そもそもテレビ局がなぜ視聴率を稼

ぎたいかというと、局のイメージアップ、優秀な人材の確保とかもあるだろうけ

ど、最大の理由は広告収入その他で利益を増やしたいからだ。つまり、視聴率

とは金、マネーの問題なのだ。業績のいいテレビ局の株価は上がりやすいから、

株主の資産価値上昇、配当収入増加にもつながることになる。

        

でも、これは企業の問題、資本の論理というものだ。それに対して、実際に番

組を作ってるのは、お金じゃなくて人間だ。制作サイドの人間全体、特に番組

に直接関わるスタッフ&キャストの問題。その中でも、リーダーシップを取れる

中心人物がいるわけで、スタッフならプロデューサー・演出家or監督・脚本家・

音楽担当者。キャストなら、主要な出演者5人~10人程度。

   

この人たちの大部分は、現在それなりの収入を得てるはずだし、今後しばらく

も大丈夫なはずだ。そうゆう人たちが、目先の視聴率や収入の変動にとらわ

れることなく、いいもの、新しい番組、やりたい企画を実現していけばいいだけ

のことなのだ。たとえプロデューサーが上層部からの圧力をはね返しきれない

としても、現場の人間全体で圧力の効果をうやむやに吸収してしまえばいい。

    

もちろん、そのためには、周囲のフォローも必要だろう。たとえば、自分の意識

でしっかり仕事してる人間が、残念ながら仕事で窮地に追い込まれた時に、救

いの手を差し伸べる映像関係者。これは、現実社会の中で一般に起きてること

のはずだ。視聴率取れなくて干された人の仕事ぶりをしっかり見つめる視線は

確かにあるし、もっと増えるべきだろう。いまや転職&キャリアアップの時代、

終身雇用制度が揺らいでる時代でもあるのだから。

   

また、視聴率が落ちても内容に問題が無ければCMを提供し続けるスポンサー

の姿勢も必要だ。『あしたの、喜多善男』第5話で言うと、LION、TOYOTA、 

ヘーベルハウス、KDDI、DHC、エースコック、DAIHATSU、VISA。もちろん、

番組スポンサーがその番組を評価してるとは限らず、単にCMの量を確保した

くてたまたまスポンサーになってる可能性もある。CM続行も、単なる契約上の

ことかも知れない。でも、事実としてその番組に多額のCM料を払ってるわけだ

し、少なくともCM打ち切りより継続の方が番組作りにプラスなのは確かだ。

         

そして最期は、視聴者のフォロー視聴率は低くてもこの番組は素晴らしい

いう思いを、何らかの形で制作サイドに届けることが重要だ。例えば、毎回見

続けること、満足度調査で高く評価すること、公式サイト等の書き込みでの応

援、満足度調査で高いポイントを付与すること、DVDの購入やレンタル。そし

て、ブログなどの個人的情報発信。一つ一つはちっぽけなこうした行動は、や

がて視聴率とは別の力を、確実に制作サイドに与えていくはずだ。テレビ番組

の応援に限らず、何に関しても、一般市民が出来ることはこうゆうことだし、実

際これらは無視できない力を発揮してきたわけだ。

               

制作サイドの意識とか、それに対する周囲のフォローとかで視聴率に対抗でき

るなんていう考えは現実離れした机上の空論にすぎない、とかいう反論は、当

然あるだろう。でも実は、この反論の方がむしろ現実離れした虚構なのだ。増

殖するブログや動画投稿(YouTube、ニコニコ動画など)を見てみよう。これら

のほとんどは、全く儲からない表現、あるいは赤字の作品なのに、私も含めて

非常に大勢の人が世界中でエネルギーを注ぎ込んでいる。人間が生きるとは

こうゆうことだ。

       

生きるために、最低限の金は必要だ。でも、生きるとは金を増やすことでは

いし、貯めた金は死後には紙くずになる。財産は一気にゼロ円の価値になっ

てしまうという事実から目を背けた生き方の方が、遥かに現実離れしたものだ。

遺産を家族が分け合った時点で故人の存在はほぼ消えるし、そもそも金や土

地などの財産は、当人が集めただけのものであって、創り出したものではない。

      

それに対して、しっかりした作品を創り出しておけば、死後も社会の中で、人々

心の中で、その創造は生き続けるし、本人の存在も消えることはない。「最期

は笑って死にたい」という言葉の意味をよく考えてみよう。魂の永遠性などとい

うものは認めない人でも、自分が死んだ後のこの世について気になる人は多い

だろう。だからこそ、人は生命保険に入るのだし、ある種の覚悟をもった自殺も

無くならない。現代科学が宇宙の最期について語るのを思い出してもいいだろ

う。全員いなくなった世界でさえ、人は気になるのだ。自分の死後の数十年、数

百年にわたって、社会の中で自分の生きた証が愛され続けることの凄さを考え

てみよう。。

                            

という訳で、ウチは今後も、『あしたの、喜多善男』を支援し続ける。内容の質

が急激に悪化しない限りは、たとえ視聴率が低くても、金にならなくても、目先

のアクセス状況が悪化しても。だから、スタッフ&キャストにも、今まで通り優

れたドラマを作り続けて欲しいもんだ。

あなた方がやってる仕事を理解し評価してる人間は、確かに存在している。

とりあえず、ここに1人。そして私も、数百年後まで価値を持ち続けるようなレ

ビューの創造を目指して歩んでいこう。。☆彡

    

cf.テレビの視聴率について(上)

  テレビの視聴率について(下)

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07年映画界を支配した東宝&テレビ局

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昨日(2008年2月1日)の朝日新聞文化欄トップ記事は、「圧勝・東宝、TV

が主導」、「’07興行収入、上位10本『独占』」という見出しで、映画界の現状を

伝えてた。1月31日に日本映画製作者連盟が発表した全国映画概況から、

07年に公開された映画の興行収入ベスト10をまとめると、すべてが東宝系

(配給or製作)で、大半がテレビ局主体の製作だという記事だ。

    

朝日掲載の表を参考に、ウィキペディア情報を加味して書き直したのが上の表

で、映画とテレビの関係は予想以上に複雑だったので、単純化して書いてある。

1位、『Hero』(木村拓哉,松たか子)。2位、『劇場版ポケットモンスター』。3位、

『ALWAYS続・三丁目の夕日』(吉岡秀隆,堤真一)。4位『西遊記』(香取慎吾,

深津絵里)。5位、『恋空』(新垣結衣,三浦春馬)。6位、『ドラえもん』。7位、

『どろろ』(妻夫木聡,柴咲コウ)、8位、『マリと子犬の物語』(船越英一郎,松本

明子)。9位『アンフェア the movie』(篠原涼子,瑛太)。10位『名探偵コナン』。

     

「テレビ局主体」かどうかはともかく、すべてがテレビ局と深く結びついたものだっ

た。ちなみに、07年興行収入5位の松竹『武士の一分』は、06年末の公開なの

で、この表には入ってない。キムタク人気、恐るべしってことは感じるね。。

    

東宝はテレビ局とのつながりが非常に強いようで、「いい企画があれば、まず東

宝に持ち込むのは今や業界の常識」なんていうテレビ局幹部の言葉も引用され

ている。松竹や東映と比べて、東宝の抜きん出た力が示された格好だけど、実

東宝主体で製作された07年の映画に大ヒットはない。結局は、テレビ局が邦

画界の実権を掌握してると言っていいだろう。

     

この状況に対して、映画業界紙『文化通信ジャーナル』の指田洋編集長は、「テ

レビドラマの延長のような企画ばかりが映画になって、それでいいのだろうかと

いう思いはある。他の2社も東宝のように、自前の映画製作に力をあまり注がな

くなると、日本の映画文化の衰退につながりかねない」と懸念を表明してるようだ。

     

私自身は、ここまで映画界がテレビ化してるのには驚いたものの、今の日本の

メディア状況を考えると当然かなって思いはある。映画よりも本よりも、まずテレ

ビ。ネット(PC,携帯)やDVD・ビデオも、テレビにはまだ勝てない。宣伝力もプ

ロダクションやスポンサーとのつながりも圧倒的だ。だから、映画がテレビ化す

ることは自然だし、「必ずしも」悪いことでもない。

  

ただ、テレビの「現状」を考慮すると、やっぱりマズイなという気はする。その多

くは無料だし、自宅や職場で見れるから、視聴者の見方もまったく気軽なもの。

途中でチャンネルを変えたり席を立ったり、携帯やパソコンをいじったりなんて

こともできるし、本気で見る人間もごく少数。アイドルや人気タレントの姿に萌え

たりして、その場だけちょっと楽しめれば十分という姿勢は、ドラマの世界から

も強くうかがえる。上で映画紙編集長が暗に示してるように、テレビドラマの現

状を全体的に見ると、大衆化しすぎてる、あるいは通俗的すぎると感じてしまう。

       

だから、映画界の水準をキープするためにも、テレビ界の「現状」が変われば

いいわけだ。と言うか、今や衛星テレビやネット、さらにDVDによる視聴も一般

化してるから、テレビとか映画とか言わずに、映像メディア全般の現状が上が

ればいいってことだろう。ただしその際、これまでの長い歴史でテレビを引っ張り

続けてきた映画界があまりにも急速に廃れるのは危険のような気はする。

     

いずれにせよ、とりあえず私個人ができることは、映像文化を本気で見る姿勢

を示すことしかないだろう。つまり、映像メディアに関して他人事のように、ある

いはコメンテーターのようにあれこれ口出しするよりも、自分が作ってるブログ

というメディアを向上させるしかない。ささやかながらも、自分が作り手の立場

に立って、記事という作品の製作に力を注ぐしかない。

    

ってことで、ウチは今後もマニアックな路線を貫いていく。ただし、あまり視聴率

(=アクセス状況)が下がるのもマズイし、時間もパワー限られてるから、多少

は妥協せざるを得ない。読者の人数を確保するとか、検索サイトのランクを維

持するとかってことも考えざるを得ない。

      

結局、現実を生きていくのは大変だなっていうのが、平凡な真実なんだろうね♪

それでは、また。。☆彡

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続・NHK『永平寺』~禅問答

想定外の雑用が入って時間がなくなったけど、先日のNHK『永平寺』の記事

そこそこアクセスが入ってるようなので、今日は続編を簡単に書くことにしよう。

約1時間の番組の最後あたりで、「小参」(禅問答)の様子が映し出された。活字

で目にした事はあるけど映像は珍しい。毎月1日と15日に行われるこの禅問答

は、太鼓の音で始まった。最初の一人は、字幕の説明が無かったので、古語を

よく聞き取れないし、意味もよく分からなかった。修行僧が両腕を身体の前で袖

に隠すように組み、「正法眼蔵・仏性の巻に示して曰く、一切衆生なにとしてか

仏性ならん、仏性あらん、もし仏性あるは、これ・・・・・・」とか続く問いを老師に

力強く語りかけつつ、ひざまずく。すると老師は、「衆生と仏性と、どうじどうさん」

とか即答。僧は、「尊答を謝(じゃ)し奉る」と手を合わせて感謝しつつ下がる。

問答の際の身体的形式も、厳密な作法として決められてるようだ。例の「威儀

即仏法」という考えがここにも表れている。問いは、道元の名著の重要な箇所

に関する本質的質問みたいだけど、素人にはそもそも言葉が分からなくて白旗。

正法眼蔵の文庫本が部屋のどこかにあるはずだけど、すぐには見つからない。

ネットで検索しても、該当箇所が見当たらず。。

二人目は「如何なるか、これ、仏」っていう分かりやすい問い。老師は「すべて

仏でないものはない」(字幕解説)と答えた。素直な人なら、なるほどとうなずく

所かも知れないけど、私はすぐにはうなずけない。例えば、煩悩も仏なのか、

問い返したくなる。ただ、一問一答の短いやり取りしか許されてないようだ。

続いて三人目は、「この永平寺は雪で真っ白ですが白くない時はいつでしょう

か」(字幕)と、全く意味不明っていうか意図の分からない問いを投げかける。

老師も即答せずに数秒考えて、「白い時は白く 白くない時は白くない」(字幕)

と、これまた意味不明な答。これぞ「禅問答」って感じ。。。

最後に映された四人目は、「煩悩の根源はどこから来るのですか」(字幕)。

老師は一瞬考えて「自分の心の中をよく見なさい」(字幕)。

         

こうした禅問答は、素人考えでも、普通の質問と答ではないことくらい感じ取

れる。普通の質問っていうのは、「正しい答」を相手に求める言葉のことだ。

「あなたの名前は何ですか」とか、「東京駅へはどう行けばいいですか」とか。

相手の答で分からなければ、再び問い直すこともできる。それに対して、

問答は、まず厳密な作法に則って老師と言葉を交わすこと自体が一番重要

なんだろうって気がする。ちょうど、悟りとか関係なくただ坐ること自体(只管

打坐)を重視するように、正しい答など関係なくただ問答を交わすこと自体

の重視。それが根本で、二番目(以降)に続くのが、自分で問いを組み立て、

老師の答について再考することなのではなかろうか。

もっと大胆に素人考えを述べると、実は正法眼蔵の意味の解釈なんてのも、

二番目(以降)の話であって、やはり曹洞宗の根本は「威儀即仏法」厳密

な(身体行動的)形式に従って生活全体を律すること自体なのではないか。

ところが、人間はどうしても、ただひたすら何かを行うという事はできず、つい

色々と頭で考えてしまうので、(仕方なく)その思考習慣に対応しようとする

のが禅問答とか正法眼蔵なのではなかろうか。

             

こんな事を書くと叱られるかも知れないけど、それもまた面白そう♪ ご意見

のある方、どうぞ。ただ、TV番組を真剣に見た素人が自分のブログで自分の

考えを真面目に書いただけ、という点はご承知を。。<(_ _)>

               

P.S.早速、本屋で正法眼蔵をチェック。一人目の問いの後半が、かなり

分かった。「もし仏性あるは、これ魔儻(とう)なるべし、と。ならば、衆生これ、

仏性憶測せざるや、よきいかん」。要するに、すべての生きもの(衆生)は仏

になる可能性(仏性)を持ってるという普通の教えに反して、道元は「持って

ない。持ってたら魔の徒党みたいなもの」と書いてるので、これだと衆生は

仏性がよく分からないことになるではないか、と老師にたずねたのだろう。

それに対して老師は、衆生と仏性は一つのものだと答えたんじゃないかな。。

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生きる場所を求めて~野ブタ再考

人気アイドル達を中心とする学園ドラマ『野ブタ。をプロデュース』が終了して、

早くも3週間近くが経過。その後も、日テレHPのアクセス・ランキングで上位に

位置してる。年末に見た時は1位! 今現在は、一昨日・昨日と放映された『箱

根駅伝』が1位、年末に再放送した『女王の教室』が2位で、野ブタは3位。主演

の3人(亀梨和也・山下智久・堀北真希)の人気はスゴイし、大型書店では依然

として原作本が平積みだし、ウチのブログの記事にもいまだにかなりのアクセス

が入り続けてる。野ブタが、視聴率以上に広くて深いインパクトを与えたのは間

違いない。したがって、こんな時期に今さら野ブタを再考することにも、そこそこ

の意味はあるだろう。以下は、野ブタの原作をふまえた上での、ドラマ全体の

再考で、かなりマニアックな内容になってる。ドラマ、原作、ウチの記事(一番下

に列挙)についてのある程度の理解を前提としてるので、その点よろしく♪

               

放映中の記事でも、既にかなりの考察を行ってるけど、ドラマ終了時点でも

気になる点が色々と残されていた。全体として、何を表してるのか? 主役

3人はどうゆう人間なのか? プロデュースとは何か? 「野ブタ。パワー注入」

とは? カスミの不自然な設定はなぜ? これはハッピーエンドなのか?・・・

これらを考える上で録画が役立ったのはもちろんだけど、それ以上に役立った

のは原作だった。原作そのものについては、既に記事を書いたけど、ここで今

書いてるドラマのまとめ記事も、原作の手助けによる所が非常に大きい。

                

そこでまず、原作とドラマの関係について、野ブタに限らず一般的に考えてみ

よう。原作は小説だから、ドラマ放映前までは、基本的に少数の活字愛好者を

前提としている。そこでは、かなり深い内容、難しい表現、過激な題材が許され、

評価される。一方、ドラマはTV番組だから、遥かに多くの人を対象としており、

当然かなり制約が強い。特に民放の場合は、スポンサーからクレームを付けら

れそうなものは作りにくい。その代わり動画の持つ圧倒的な力で、有名タレント

や美しい景色の魅力を最大限利用できる。いずれにせよ、原作とドラマは一長

一短。それぞれ異なった特性をもつ、独立した作品だ。だからこそ、ドラマ終了

までは原作を意識的に避けて、ドラマだけをまず鑑賞していた。

ただ、「原作」と言う以上、ドラマは原作をある程度以上は反映する必要がある

のに対して、原作はドラマを気にする必要はない。この違い(非対称性)のため、

ドラマの理解に原作が大きな役割を果たせることになる。もちろん、ドラマは一応

独立した作品だから、その理解に原作が必要不可欠なわけではないし、原作を

「基準」にしてドラマを考察するのも不自然で不自由なことだ。今までの記事の言

葉で言うと、あくまで原作はドラマの「外側」にある。それでは、原作はどんな役割

を果たせるのか。まず、ドラマだけでは理解しがたい部分を納得するのに役立つ。

「原作がこうなってるから・・・」と考えることで初めて納得できることは色々とある。

もう一つは、単なる「ヒント」とか「参考」として役立つ。単なる「思いつき」の材料

して利用できるってことで、「原作はこうなってるのか。フーン、試しにドラマもこう

考えてみようかな。アッ、これは筋が通ってるな!」って感じで利用する。当然、

こっちの利用法は、上手くいかなかったり、複雑な変形が必要だったりする事が

多い。いずれにせよ、原作はドラマと別物だけど、ドラマの理解に役立つ。それ

では、原作をふまえたドラマの全体的考察に向かおう。

                                          

まず簡単な補足から入りたい。もともと、野ブタに関してここまで本気で書くこと

になるとは思ってなかったので、最初のうちは記事が軽いし、第1話と第2話に

は題名が付いてない。今付けるなら、第1話は「生きる場所を求めて」、第2話

は「外見と中身」だろう。そして、この第1話の題名が、ドラマ全体を現す言葉

でもある。つまり、このドラマは、3人がそれぞれの生きる場所を探していく物語

であり、その中心は修二だ。野ブタは修二の模索を手助けする(あるいはプロ

デュースする)役であり、彰は修二の分身あるいは内心。また、生きる場所を求

めるってことは、今現在、生きる場所がなくて困ってるってこと。詳しく見ていこう。

                      

まず、修二について。彼は、本当はすごく孤独な淋しがり屋で、だからこそ人が

大好きなんだけど、嫌われたり傷ついたりするのが怖いし、実際の他人には色々

と違和感を感じることも多い。だから、本当の自分とは別に、人気者「桐谷修二」

をセルフ・プロデュースすることで、自分を守りつつ孤独を何とかまぎらわせてる。

けれども、所詮ウソの自分、表面的な人気にすぎないから、心の底では孤独感

が増していて、どうする事もできない。ドラマの冒頭で、この世のすべてはゲーム

だと思わないとやってられない、とか語ってたけど、これは少し不正確。本当は、

自分のセルフ・プロデュースなんていう虚しいものこそ、ゲームだと思わないとやっ

てられないはず。でも、ゲームの外に本物の対人関係を築けるわけでもないから、

このゲームは終了できない。結局、表面的に上手くやってても、実際は凄く生きに

くい状況に陥ってるわけで、だからこそ第1話で、孤独だけどたくましく生きてる柳

の木を心の支えにしていた。

                     

次に野ブタ。=信子について。彼女も淋しい女の子だけど、修二とは淋しい

理由が違ってる。修二はもともと人一倍の淋しがり屋なんだけど、信子は周り

に人がいないから淋しいだけって感じ。人がいないのは、オドオドした内向的

性格が主な理由で、これをもたらした一つの原因は、幼児期に義父から受け

た冷たい言葉。いずれにせよ、修二の寂しさとは違ってる。この微妙な違いは、

ラストにも反映されていた。信子は最後は一人立ちして、修二は彰と再び一緒

に。もちろん、2人とも淋しい点は同じで、それを的確に表してたのが第3話の

文化祭で修二が先生達と歌ってた『真夜中のギター』だ。「街のどこかに 寂し

がりやが一人 今にも泣きそうに ギターを弾いている 愛をなくして 何かを

求めて さまよう 似たもの同士なのね・・・」。この曲が直接的に表してたのは

信子と義父だけど、間接的には信子と修二を表してる。ただ信子の場合、修二

と違って、日常的な学園生活でもイジメなどで非常に生きにくい状況だから、柳

の木で自殺をイメージしたりもするし、表面的には人気者へとプロデュースされ

る側に立つことになる。

              

この2人と比べると、はかなり違うキャラになってる。彼は信子と違って、

イジメられてる訳ではないけど、クラスの中で浮いてる存在。ただ、孤独に

苦しんでるって感じでもなく、なぜか修二と信子に特別の好意を持ちつつ、

マイペースで生きてる。したがって彼の場合、生きにくさをもらたしてるのは、

孤独と言うより、生きる方向性の無さだ。第1話で「やりたい事も欲しいもの

も何もない人間」と自嘲してた彰からすれば、修二と信子はある意味で羨ま

しい存在。なぜなら、修二は自分のセルフ・プロデュースにパワーを注いで

るし、信子は悲惨な実生活の中で生き延びる事にパワーを注いでる。それ

に対して彰は、瓦を何枚も空手で割るパフォーマンス(第4話)に象徴される

ようなパワーを何に注げばいいのか分からないまま、階段を降りる時のクセ

みたいにヒラヒラと生きてる(第1話)。この方向性の無さを表現してたのが、

彰が最初にドラマで語ってた、「神は死んだ」っていう哲学者ニーチェの言葉。

つまり、たとえ自分で方向性を作れなくても、社会共通の絶対的価値に従って

生きるっていう方法はあり得る。例えば、聖書に従って生きるとか、共産主義

社会の建設を目指すとか、一流大学に入って一流会社に就職してお金を稼ぐ

とか。けれども、そんな社会共通の絶対的価値はいまや消滅してしまった。

だから自分で方向性を作らなきゃならないのに、どうも作れない。その意味で、

彰も生きにくい状況にある。ただ、こんな悩みはごく普通のもので、とりあえず

生きるのには困らない。彰だけ金持ちっていう設定に表現されてた、この余裕

が、孤独な修二と信子を結びつけることになる。確かに、もともと修二と信子は

「寂しがりや」の「似たもの同士」で気持ちが通じる部分はあったけど、プロデュ

ース・ゲームへと2人を導いたのは、余裕があってパワーを持て余す彰だ。

また、2人がもめた時に仲を取り持つのも彰だし、3人が集まってたのも彰の

下宿だった。

                 

ここで、原作と比較してみよう。原作でも野ブタは、イジメられっ子の転校生

だけど、信子じゃなくて男の信太(シンタ)。信太は不運にも外見に恵まれてない

からイジメられてるけど、実は社交的で律儀で優しくて力も行動力もある。プロ

デュースのキッカケも、たまたま暴力から助けてくれた修二に自分から頭を下

げて弟子入りしたことだし、プロデュースの手助けによってアッと言う間に人気

者になって、マリ子(原作ではカタカナ)まで奪い取ったほど。ただし、原作の記

事に書いた通り、原作は救いようもなく暗い話なので、そのままだと土曜のゴー

ルデンタイムのアイドル系ドラマには使えない。そこで、野ブタを(ホントは)可愛

い女の子にして、代わりにイジメられる理由をオドオドした内向的キャラにした。

すると、プロデュースするキッカケが無くなってしまう。原作では、信太の弟子入

り志願に加えて、修二がマリ子に嘘つきだと見破られてるかも知れないっていう

不安を持ってた。だから、自分の嘘つき能力、プロデューサーとしての力を確信

したくてプロデュースを引き受けた。ところが、明るく楽しい学園ドラマにこうした

設定は似合わない。そこで、修二と信子を結びつける新たなものとして、彰が

登場する。第1話で、最初にプロデュースをやろうと言い出したのは彰だった。

原作と比較すると、この彰には別の役割も見えてくる。原作の修二にあって、ド

ラマの修二にないもの、それを補うのが彰だ。修二(ドラマ)+彰=修二(原作)。

つまり、人気者「桐谷修二」のセルフ・プロデュースなんて虚しいものを除くと、修

二にも実は生きる方向性なんて無いし、パワーを持て余してるし、心の底では男

女を問わず深い本物の人間関係を持ちたいと願ってる。また、女には大して興味

ないっ感じを装いつつ、実は普通に女好きだ。修二のこういった部分をドラマで

明確に表してたのが、修二の内心を表す分身としての彰だ。こう考えれば、彰が

やたら修二に好意的だったこと、やたら信子に恋してたことも納得しやすいし、

時々エッチな言葉を発してたのもよく分かるし、引越&転校した修二にくっついて

行ったこと、「2人で1つ」とされてたことも理解できるだろう。 

               

ドラマ自体に戻って、今度は「プロデュース」というものについて考えてみよう。

彰の提案をキッカケにして始まった、野ブタ。のプロデュース。その理由は、表

面的に見るなら3人それぞれ異なってる。修二の場合は、成り行きと、ごく平凡

な同情と、プロデュース・ゲームの拡張による退屈しのぎ。信子は、イジメから

の脱出。彰はパワーを注ぐ対象の獲得だ。けれども、本質的には3人とも同じ

で、生きる場所を探すこと。第1話の柳の木が、引き抜かれて船で海を渡って、

新たな場所で再び生きようとしてたのと同様に、3人も、プロデュースの中で想

定外のプロセスを経て、新たな場所にたどりつくことになる。ブロデュースって

いう言葉は、本来はプロデューサーが自分以外の物事を離れた場所から思い

通りに動かすことを言う。だけど野ブタでは、ドラマも原作も、結局プロデュー

サーとタレントが互いに影響し合いながら、誰もが思いもしなかった場所で新

たに生きることになった。ドラマだと、修二と彰は、深い友情と信頼を携えて、

新しい街と学校へ。信子は、深い友情とほのかな恋心を、遠くの2人に差し

向けながらの、「ちゃんと笑える」明るく楽しい学園生活へ。一方、原作だと、

修二はセルフ・プロデュースを一からやり直さなければならない別の学校へ、

信太は友達にも可愛いガールフレンドにも恵まれた楽しい学園生活へ。この

プロセスを、今度は追ってみよう。

                   

第1話で、野ブタ。のプロデュースを始めることになった3人。既に予行演習

的な企画として、ゴーヨク堂での立ち読みに成功している。

契約後の第2話では、まず外見の好感度アップに取り組み、一定の成功を収

めたものの、結局は信子の気持ちを尊重して中止した。ここで大事なのは、

外見より中身だと考えるようになったことよりも、タレントの意見をプロデュー

サーが取り入れるようになったことだ。

第3話では、人気者になること自体よりも、偶然「キセキのような、かくりつ」で

出会った3人が、力を合わせて一つの事に向かうこと自体の価値やきらめきを、

今この瞬間に全身で味わおうって気持ちが生じてくる。つまりプロデュースが、

人気者作りから、仲間作りのための共同作業へと変質し始める。また、信子

と彰が相当なパワーを持ってることが明らかになり、特に信子の純粋さは人

の心を動かす力を持ってることが分かる。お化け屋敷の最後に書き記された

言葉がみんなの感動を呼んだことを思い出そう。

第4話では、悪意によって偶然巻き込まれた恋の告白イベントと、偶然知った

修二の誕生日、偶然出会った「ホントおじさん」などを通じて、3人が本当の自

分を見つめることになり、それが3人の新たな変化につながっていく。修二は

信子と彰を好きになってる自分に気付くし、信子は友情以外にも修二へのほ

のかな思いをかすかに意識し始めるし、彰は信子への恋心に気付いて動揺

する。また、信子がイジメっ子のバンドーの心を動かしたことで、表立ったイジ

メは収まることになった。バンドーと対決する力を与えてくれたのが、視聴者に

好評だった「野ブタ。パワー注入」のアクション。これを信子に教えたのが、一

番パワーに余裕がある彰だったのは、偶然ではなかろう。このアクションが与

えるパワーは、目的が限定されている。つまり、カラに閉じこもりがちな自分を

外へ開いていくパワーを与えるのが、「野ブタ。パワー注入」なのだ。

第5話では、信子がさらに成長する。初めて男の子に告白され、異性の好意を

受ける立場を経験する。プロデュースの一つとして、デートも体験。この途中で、

信子が「野ブタ。パワー注入」を行ったのは、修二たちと別れてまた閉じこもり

そうになる自分の心を、シッタカへと開いていくため。さらに信子は、2人のプロ

デュースを受けるだけでなく、キャッチボールみたいに自分も投げ返したいと

思うようになる。受け身になってるだけでなく、自分から能動的に言葉や行動を

投げかけていくことを目指したいと考え始める。これは独立心にもつながるから、

強気なプロデューサーの修二とケンカしたのは自然な流れで、彰のフォローで

無事解決。一方、イジメっ子バンドーの代わりに、正体不明の悪意(=カスミ)

が前面に登場し、信子の友達になりすます。修二と彰は、ますます信子の気持

ちを考えることの重要性を認識していく。

第6話では、プロデュースの目的が、人気者作りから金儲けや悪意との対決へ

と逸れていく。この脱線は、自然な流れだ。なぜなら、既に表面的なイジメは収

まってるし、信子には2人の親友と1人の片思いと1人の女友達モドキがいるん

だから、人気者を目指す意味がない。だけど、プロデュース無しの友情関係も

まだ築けないから、何か新しい目的に向かうのは当然のこと。金儲けは甘くな

かったけど、野ブタ。キーホルダーを通じて信子の人気は高まった。けれども、

信子が人気者になるってことは、みんなのものになることでもあって、恋する彰

にとっては辛過ぎる。ついに彰は、プロデュースを止めると宣言。ちなみに今回

の「野ブタ。パワー注入」は、自分達3人を広く大勢の人達へと開いていく道具

であるキーホルダーへと向けられた。

第7話では、最初にプロデュースが中止されたものの、結局3人で信子のビデ

オ作りを行うことに。一度修二から切り離された信子の中で、ほのかな思いが

今まで以上に膨らんでいく。これは彰の嫉妬を招き、気まずい状況になって、

彰は一応潔く諦めることを決意。修二は、信子や彰の友情や純粋さに触れる

うちに、ウソの自分にガマンできなくなって、まり子にキッパリ別れを告げたもの

の、まり子を泣かせた自分に落ち込む。これを見た信子は思わず抱きしめて

しまい、すぐ逃げ出したけど、修二は上手く信子をフォローしてやれず、そんな

自分にますます落ち込む。一番寂しい人間は、間違いなく修二だ。

第8話では、恥ずかしさで修二を避ける信子をフォローするためなのか、修二

がプロデュース再開を提案。昼休みの生放送『小谷突撃飯』のプロデュースに

成功して、信子の人気は決定的なものに。ところが、ひょんな事から修二が嘘

つきだってことがバレてしまい、さらに不運が重なって、修二は友達を裏切った

奴としてクラスの除け者に転落。おまけに、カスミが今までの犯行を修二に告

白し、対決姿勢を明確に。カスミは、3人がバラバラになるように嫌がらせを

続けたが、結局3人はお互いあらためて深く信じることで、結びつきを強める。

それぞれを、3人の輪へと導く(or 開いていく)のに使われたのが、「野ブタ。

パワー注入」だった。

ところで、正体不明の悪意の真犯人カスミの問題。放映中の記事では、不自然

だし不要だと厳しく指摘しておいた。違う言い方をすると、視聴率稼ぎのための

内容的失敗ってこと。ただ、その後原作を読んで色々と考え直すうちに、少し考

えが変わって来た。つまり、仕方ない面もあるな、登場する意味は一応あるな、

と思うようになって来たのである。まず、簡単な話をすると、原作のイジメはかなり

簡単に解決してるので、このままだと1クールのドラマは作りにくい。かと言って、

延々とクラス全体のイジメをドラマの中で続ける訳にもいかないだろう。イジメ抜

きの友情ドラマにすると、原作のもつ毒が消えてしまい、別の話になってしまう。

つまりカスミには、人間の負の側面を一人で背負うっていう役目がある。原作の

修二に見られる、絶望的な孤独の中で嘘をつき続けるっていう性格や、陰に隠

れて人を動かして遊ぶっていう悪趣味、あるいは、信太やマリ子も含めたクラス

みんなの冷たさ。さらに、ドラマでのバンドーを中心としたイジメ。こういった負の

側面を一手に引き受けることで、他の人達全体のマイナス・イメージを和らげた

り消したりしてる部分は認めてもいい。いわば、ドラマ作りの上での「スケープ

ゴート」。と言う訳で、カスミに対する現在の見方は、前ほど厳しくはない。ただ、

それでもやはり、不自然で不要だとは思ってる。

第9話では、カスミの攻撃が全面的に展開される。写真で脅迫して、無理やり

プロデュースに参加してワガママな言動を行ったり、信子に悪意をバラすことで

傷つけて、信子を部屋に引きこもらせたり。ところが、カスミの信子への攻撃

が、結果的に修二をシカトから助け出すキッカケを与えることになった。と言う

のも、信子を元気づけるためのビデオを作るために、修二がクラスみんなの

前で深々と頭を下げ、これをみんな素直に受け入れて、ビデオ作りと信子の

復帰を通じて修二へのシカトは収まったから。原作では、シカトは最後まで

収まらずに修二は転校へと追いやられるけど、学園ドラマがそんな暗い結末

を迎える訳にはいかない。その意味で、カスミは結果的に、シカト収束のキッ

カケ作りの役割も果たしてることになる。結局、修二、信子、カスミら全員が、

「取り返しのつかない場所」から、人の力で何とか帰還できた。

最後に第10話。もはや、イジメも悪意もシカトも収まってるし、3人の友情も

揺ぎないものになってるから、基本的に明るい局面。カスミ一人が、クラス全

体の負の部分を背負うかのように、自宅に引きこもる。あとは、原作に形だけ

合わせて、修二が転校するだけ。新しい学校や地域へと修二を送り出す時に

使われたのが、巫女さん姿の「野ブタ。パワー注入」。最後の視聴者サービス

とも言える。みんなとキレイにお別れして、修二は一人、田舎の海沿いの街へ。

そして、ラスト。意外にも、彰が修二にくっついて行き、信子はちゃんと笑える

ようになって、遠くの2人を思い描きながら空に向かって涙の笑顔。修二と彰

はビーチではしゃぎながら、修二のつぶやきで終了。

「俺たちは、どこででも、生きて行ける」。

           

こうして、プロデューサー2人もタレントも、思いがけないプロセスを通じて、

全く新たな生きる場所へと到達した。でも、最後にまだ大きな問題が残ってる。

このラストは、果たしてハッピーエンドなんだろうか? 信子はいいとして、修二

と彰はこれでいいんだろうか?

          

このラストを見た時の違和感とその納得の仕方については、既に第10話の

記事で触れておいた。簡単に言うと、修二と彰の友情をメインにするっていう

基本方針とか、主題歌の歌詞に合わせてるだけだろうって話。でも、実は他に

2つ気になる点があった。それは、最後の修二のつぶやきと、主題歌のメロディ

ライン。これまでわざと書かないように配慮してたけど、どちらも決して明るくは

聞こえない。メロディはともかく、つぶやきについては説明が必要だろう。前にも

書いたように、そもそも修二はホントに人気者だったのかっていう根本的疑問

がまずある。ドラマを表面的に見れば、確かに人気者に見えるだろう。でも、

修二は長い間、みんなをだます演技をしてきたわけだ。本人は上手くやってる

つもりのようだけど、所詮フツーの高校2年生のウソ。大勢のクラスメートが、

そんなものを真に受けるだろうか。また、もし本当に人気者だったら、たかが

些細なウソ一つと、クラスメート一人の裏切り者発言で、除け者へと一気に転

落するだろうか。まず、あり得ない。弁当を食べた、食べないなんてウソは、

全くどうでもいい事だし、裏切り者発言してるのは自分より人気で劣ってるクラス

メートただ一人なんだから、むしろその生徒の方がウソつき扱いされる可能性

が高いはずだ。さらに言えば、人気者がイジメられっ子とこっそり相談し続ける

なんて事が可能だろうか。実際、まり子は何度も目撃してたって話だった。

と言う訳で、控え目に言うとしても、別の見方が可能になる。つまり、実はもと

もと修二の人気者演技なんてバレバレで、それを周囲のみんなが暖かく(or

冷めた目線で)受け入れてただけなんじゃないかっていう見方。これは実際、

原作の設定と一致していた。この場合、エンディングの見方も暗いものとなる。

             

たまたま前の学校では、下手な演技を受け入れてくれてた。また、偶然にも

上手く1人プロデュースできたし、他に1人親友もできて今も一緒だ。だけど、

新しい学校でそんなに温かく迎えられるとは限らない。むしろ、都会の同じ

場所から仲良く来た2人は浮いてしまい、演技に関する自信過剰も以前の

ままだから、結局2人でカラに閉じこもることになるんじゃないか。この時、

修二のラストの自信に満ちたつぶやきは、本人の意識と反して、絶望的に

暗い響きを持つことになり、実はこれこそ原作のラストなのであった。さらに、

そもそも原作を参考にすると、まさしく修二と彰は「2人で1つ」だから、新た

な対人関係は、(遠くの信子を除けば)何一つ生じてないことになる。した

がって、修二がこれからすべき事は、彰と仲良くすることよりも、演技やゲー

ムを止めてリアルな人間関係を新たに真剣に築くことのはず。それなのに、

修二は新しい学校でも「この世のすべては、ゲームだ」とつぶやき、担任に

「すみません、ちょっと緊張しちゃって」っていう軽いウソをついて、トイレで

髪型を整えていた。つまり、多少は意味が変わってるとしても、依然として

セルフ・プロデュースゲームを楽しんでおり、一度リセットして、再スタート後

の演技を再び楽しんでるだけのこと。そして、ドラマの終了後には、あの暗い

メロディラインの中、自閉的な響きのある歌詞が続いていく。。。

もちろん、これは1つの解釈、非常に暗い見方であって、多くの人にとって

共感できないものだろう。イケメンのジャニーズが仲良くビーチではしゃぐ

姿に、素直に頬を緩めてる方が幸せなのかも知れない。ただ、これだけは

忘れて欲しくない。絶望的に暗い見方の原作が広く評価されたこと、その方

が、リアルな現実を映し出してるかも知れないということ。そして、暗い現実を

真正面から冷静に受けとめる事は、明るい未来への第一歩なのだという事を。。

          

P.S.ここで時間切れ。いずれ加筆・修正する可能性あり。

     「野ブタ。をプロデュース」、面白い♪(第1話の記事)

     「野ブタ。をプロデュース」第2話

     一瞬のきらめき、出会いの美しさ~野ブタ第3話

     本当の自分を見つめて生きること~野ブタ第4話

     人は人間関係に何を求めるのか~野ブタ第5話

     大切なもの、欲しいもの~野ブタ第6話

     人を好きになることの難しさ~野ブタ第7話

     信じること、本当の事~野ブタ第8話

     取り返しのつかない場所からの帰還~野ブタ第9話

     誰かのために、自分のために~野ブタ最終回

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

      リアルな人間との向き合い方~野ブタ原作

     野ブタ最終回(突っ込みヴァージョン)

     水田芙美子さん(野ブタ・バンドー役)の疑問への応答

           

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リアルな人間との向き合い方 野ブタ原作

野ブタ。の放映が終了して一週間、2つの事に驚かされた。

    

まず、ドラマ終了後まで避けてた原作をじっくり読んで、そのインパクトの強さ

に驚いた。誇張じゃなくホントに、読み終えた直後に寒気がした。面白さと明る

さにおいてはドラマの方が上だけど、完成度とリアリティにおいては、明らかに

原作の方が上。ドラマ記事の中ではっきり指摘しておいた、正体不明の悪意

やラストの不自然さは、もちろん原作にはない。また、コメント欄に書いておい

た根本的な疑惑が見事に的中してた点にも大きくうなずいた。つまり、修二は

「自分では、上手く人気者としてセルフ・プロデュースしてるつもりのよう」だけど

「むしろ、根暗なイケメンが無理して人気者になりきってるので、周りが温かく

受け止めてる」んじゃないか、「だから、除け者への突然の転落も自然」なこと

じゃないか、っていう疑惑が、原作の設定とほぼ一致してた。

     

この場合、物語は必然的に、救いようもなく暗い内容にならざるを得ない。けれ

ども、土曜のゴールデンタイムのジャニーズ系ドラマなら、視聴率を考えても、

細部はともかく全体として明るい話にした方が得策だ。そうゆう外側の事情が、

ドラマのラスト、主人公の突然の引越&転校に親友が付いて行って今まで通り

仲良くするっていう話に代表されるような、諸々の不自然さにつながったんだろう。

       

さて、放映終了一週間でもう一つ驚いたのは、俗っぽい話だけど、アクセス数が

ほとんど減らないこと。特に、このXmas期間のアクセスの入り方から考えると、

かなり多くの方が、予告済のまとめ記事を読みに来て下さってるようだ。書く側

としてはすごく嬉しいけど、その一方で、今さら下手なこと書けないなって感じは

強い。最終回の記事に「一週間以内に」と書いたのは、それを過ぎるともう人が

来なくなるかもと思ってのことだけど、予想以上に野ブタ人気は根強かった。

と言う訳で、こうゆう事にした。もともと、最終回の記事の時間切れ部分を補って、

チョコッと原作も考慮する程度の考えだったんだけど、もっと気合を入れて書く

ことにする。原作もきっちり扱い、ドラマや記事も全部見直してまとめたい。とり

あえず今夜は、原作について書いておく。残りは、年内に書き上げる予定。

            

原作『野ブタ。をプロデュース』(白岩玄著,河出書房新社,2004)のあらすじ

は次の通り。勉強、恋愛、友人関係、おしゃれ、日常生活、全てを上手くこなす

高校2年生「桐谷修二」を演じる修二。ある日、クラスに転校生・小谷信太が

やって来る。名前の読み方は、ノブタかと思ったらシンタ。デブでキモイ、イジメ

られっ子で、最初は修二もみんなと一緒に軽くイジメてた。けれども、ある日、

トイレでワルにやられて鼻血を出してる信太を助けてやると、信太は修二に

弟子入りを志願。そこで修二は、彼の外見そのままに「信太」を読みかえて

「野ブタ」と名付け、人気者へとプロデュースすることに。作戦は見事に成功、

野ブタは人気者になる。

           

ところが、プロデューサーの修二の方は、友達がワルにやられてるのを見捨

てたと勘違いされ、それをキッカケにして、これまでの人間関係が表面的な偽

物だったと見抜かれてしまう。突然、クラスで除け者になってしまった修二に、

ガールフレンドのマリ子は温かく手を差し伸べるが、修二は自らそれを拒絶、

迷惑だと暴言を吐いて、マリ子を泣かせる。4日休んだマリ子がようやく学校

に現れた時、修二は、ちゃんと謝った上で好きだと告白しようと決意。ところが、

泣いてるマリ子を野ブタが慰めてる光景を目撃して、修二はその場を去り、再

び自分のカラに閉じこもる。マリ子への暴言に対する不満を野ブタが言いに来

たとき、修二はプロデュース終了を宣言して、野ブタともケンカ別れ。完全な孤

独に陥った修二は、人気者「桐谷修二」を演じる新たな場を求めて、転校する。。

                             

この小説の本質は、プロデュースではない。野ブタのプロデュースにせよ、

「桐谷修二」のセルフ・プロデュースにせよ、二次的な問題だ。重要なのは、

なぜ他人や自分を「プロデュース」しなくちゃいけないかって事。それは結局、

彼がリアルな人間との向き合い方に失敗し続けてるから。「桐谷修二」の

セルフ・プロデュースは、リアルな他人から適度な距離を保ち、リアルな自分

からもしばらく目をそらすことができるから。一方、野ブタのプロデュースは、

「桐谷修二」のプロデュースに成功していると自ら確信(or 錯覚)するためと、

他人をコントロールできる有能な自分に自己満足し、自己愛を注ぐためだ。

       

具体的に見てみよう。彼が避けようとしていたリアルなものとは何か。身体的

なもので言うと、体温、臭い、唾、汗、脂、鼻水、血、傷、など。これらは人間

にとって全く基本的なものだから、いくら避けようとしても距離感ゼロで関わら

ざるを得ないし、否応無く影響されてしまうものだ。次に、精神的なもので言う

と、彼が避けてたのは耐え難い孤独感や他人の生々しい感情。これまた、い

くら避けても繰り返し直接的に襲ってくるものだから、常に適度な距離を保って

表面的な人間関係で気晴らしし続ける必要が生じてくる。

    

さらに、身体と心の両方に関わるもので修二が避けてたものは、性あるいは

「女」(生身の女性)。これは高校2年の男子にとって最もリアルなものだろうが、

修二は必死に遠ざけようとしている。「どうせ孤独は埋まらないんだ。愛してるっ

て抱きしめたって、抱きしめられたって何一つわかりやしない。いつだって疲れ

て、虚しさに苛まれるだけだ」(p.71)。実は童貞の修二に、なぜそんな事が分

かるのかは問わないとしても、性とか女から逃げ切れるはずはない事だけは明

らかだ。

          

人間にとってリアルなものは、いくら避けようとしても、必ず自分へと帰ってくる。

こうしたリアルなものを避けようとしてた修二が、転校生・信太をプロデュースし、

それに成功したのに「桐谷修二」のプロデュースに失敗、転校するハメになった

過程を追ってみよう。最初に修二が信太を助けた時、修二自身は風邪の鼻水

と熱に苦しみ、信太は鼻血を出していた。言葉のイジメなら自分も加担してた

けど、目の前で血を流して苦しんでるクラスメートを見れば、やっぱり何とか

してやりたくなる。でも、助けた信太に弟子入りされるのは迷惑だ。ところが、

その直後に保健室で寝てる時、家にいるっていうウソをマリ子について、すぐ

バレてしまう。「・・・・・・どうして嘘つくの?」。この時、セルフ・プロデュースへ

の不安が一気に広がる。実は、自分の演技はバレバレで、見透かされてる

んじゃないか。そこで修二は、自分が有能なプロデューサーであることを証

明するのに役立つ「楽しい遊び」として、野ブタをプロデュースし始める。

           

野ブタのプロデュースは見事に成功したのに、「桐谷修二」のセルフ・プロ

デュースはたった一つの偶然から崩壊する。友達がワルにボコられてる所

にたまたま居合わせたのに、友達とは気付かなかったから。ここで象徴的な

のは、修二と友達の距離。修二は明るいコンビニの中、友達はコンビニの外

の暗い駐車場。修二がこだわってた「適度な」距離感のために、「自分は相手

を友達と思わない(分からない)」けど、「相手は自分を友達と思う(分かる)」って

いうアクシデントが生じたのだ。そのため、修二は裏切り者になってしまい、そこ

からさらに、口先だけ適当な事を言って表面的に友達のフリをする人間だって

ことがバレてしまった。

      

アッと言う間に、人気者から除け者へと転落。直接のキッカケは偶然だけど、

いずれ似たような偶然と出会うことは必然だった。と言うのも、修二が思ってた

ほど、人気者「桐谷修二」のプロデュースは成功していなかったからだ。

     

 「騙されていたのは俺なのか。仲良いフリしてたはずなのに実際はフリされ

  てたのか。固めていたはずの自分の周りがぐにゃぐにゃと流動体に変わり、

  ゆらゆらと揺れ始める。その波に身を揺らされ、足を奪われ、俺にはしが

  みつくものが見当たらなかった・・・・・・誰も、俺のことなど信じていなかった

  のだ」(p.168)。

         

最後の言葉は、小説の中で一行だけ前後と切り離されている。つまり、原作

の中心にあるのは、救いようの無い絶望的な孤独感。それに対して、ドラマ

の中心に据えられたのは、揺らぐことの無い友情と信頼。その意味で、原作と

ドラマは完全に逆方向を向いてることになる。必然的に、転落の後の経過も

全く異なるものになる。原作ではどうなったのか。

           

実は、原作にはあと2ヶ所、一行だけ切り離されて強調された文がある。その

うちの一つは、性あるいは女に関するものだ。

 「下が膨らむことと好きだという気持ちは同じなのか?」(p.132)。

いくらマリ子と距離を保とうとしても、たまたま雨に「濡れて張り付いた灰色

のスカートが白い太ももをくっきりといやらしく浮かび上がらせていて」(同上)、

修二の下半身は反応してしまい、それは気持ちにも変化を及ぼす。その少し

後、クラスで除け者にされて自分のカラに閉じこもった修二の心をノックした

のも、「ルーズソックスに包まれたマリ子の白い足」(p.173)だった。テスト中

に無駄だと思いつつもマリ子に合図してみると、マリ子の足が左右に振れて

応答が返ってきた。これだけで涙を流し、救われた気がした修二。テスト後

に2人で帰った時が、立ち直りのチャンスだった。ところが、マリ子さえ、自分

を信じきってはいないことが分かり、おまけに同情のような言葉をかけられて

しまって、修二の溶けかけた心は一転。マリ子に暴言を浴びせてしまう。

    

 「私は・・・・・・そんなことで修二のこと嫌いになったりしないから・・・・・」

 ・・・・・・(中略)・・・・・・

 「迷惑なんだよ。俺の女みたいな顔しやがって。・・・・・・わかったような口

  きいてんじゃねぇ!」(p.176)

          

そして、この暴言を反省して、マリ子に謝り、好きだと告白しようとした時が

最後のかすかなチャンスだった。ところが、マリ子が野ブタに肩を抱かれて

泣いてるのを見た瞬間に、チャンスは終わった。文字通り、それまで「修二

がいた場所」(2人きりで弁当食べてた教室=マリ子のそば=上の立場)を

野ブタが奪ってしまった。これまた、単なる不運のように見えても、ある意味

必然だ。なぜなら、修二自身が分かってるように、「人間、中身を嫌われる

とどうしようもない」(p.105)から。中身を嫌われた修二と、外見は悪くても

中身はいい野ブタの、女をめぐる闘い。勝敗はおのずと明らかだろう。

     

皮肉にも、修二に最後に残った人間関係が、いまや人気もマリ子も手に入れ

た野ブタだ。ここで、原作にあと一つだけある、一行だけ切り離されて強調さ

れた文を引用してみよう。

 「あのブタ・・・・・・なぜ俺を助けない!」(p.65)。

これは、熱と鼻水に苦しみながらも、鼻血を出してる信太を助けた修二が内心

思ったことだけど、同時に、修二が転校するハメになるのを防ぐ可能性があった

唯一の人間、野ブタが、最後に修二を助けないことをも暗示している。けれども、

助けないのは、野ブタが悪いんじゃない。修二が、助けを求めれば良かった

だけのこと。野ブタは、泣きそうな目で助けを求めていたし、頭を下げて弟子

入りを志願した。危機に陥った時に、自分をさらけ出して、プライドを捨てて自分

を救おうと努力した。それが出来ない修二に、もはや救いはない。

     

ラストシーン、転校後の修二の言葉は、ほとんど絶望的に悲しい。

 「もう一度やり直しだ。

  敏腕プロデューサー『桐谷修二』なら、必ず俺を無敵のタレントにしてくれる。

  暑過ぎず、寒すぎない、丁度良いぬくいところ。

  そんな場所に今度こそ俺を連れていってくれ。

  ・・・・・・(中略)・・・・・・

  俺は人の好さそうな顔をつくると光の溢れる教室に入っていった」(p.186)

            

光溢れる、暗黒のラスト。読者に出来るのはただ、リアルな人間とそれなりに

上手く向き合える日が来るまで、彼が生き残れるように願うことばかりだろう。

たった一人、本気で愛せる女性を見つけるだけで、あるいは心から信頼できる

友達ができるだけで、光が差してくるはずだけど、それが間に合うだろうか。。。

             

以上、不十分ながらも野ブタの原作について考察してみた。それではいよいよ、

原作をふまえた上でのドラマの考察に向かうことにしよう。

              

P.S. 「野ブタ。をプロデュース」、面白い♪(第1話の記事)

     「野ブタ。をプロデュース」第2話

     一瞬のきらめき、出会いの美しさ~野ブタ第3話

     本当の自分を見つめて生きること~野ブタ第4話

     人は人間関係に何を求めるのか~野ブタ第5話

     大切なもの、欲しいもの~野ブタ第6話

     人を好きになることの難しさ~野ブタ第7話

     信じること、本当の事~野ブタ第8話

     取り返しのつかない場所からの帰還~野ブタ第9話

     誰かのために、自分のために~野ブタ最終回

     生きる場所を求めて~野ブタ再考

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

      野ブタ最終回(突っ込みヴァージョン)

     水田芙美子さん(野ブタ・バンドー役)の疑問への応答

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