毎年、このブログで恒例となってる、共通テスト(旧センター試験)の記事。特に、小説の全文レビューの需要が非常に多いので、今年もまず、小説の全体の書評を書くことにしよう。
国語の試験が14時半に終わると、SNS(特にX:旧 twitter)には受験生のつぶやきが溢れる。昔はその中に、問題文の画像が少しだけ混ざってたけど、今年はあらかじめ注意が徹底されてたこともあって、何が引用されたのかもなかなか分からなかった。
やっと評論と小説のタイトルを書いた投稿を発見したのは、約30分後の15時ごろ。待ち構えてた私は、直ちに元の小説を読みながら、ニヤニヤと笑ってしまった。
普通に考えると、笑う内容ではなく、重くて暗い内容。ただ、各年代における主人公の気持ちがどれも分かるし、父と母の気持ちや言い分もよく分かる。私がいっぱい登場してるよな・・と思って笑ってたのだ。
ということは、登場人物たちは、私の「影」でもある。つまり、私と「密接に結びついてる似姿、暗くて黒い分身」。
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さて、遠藤周作の未発表作『影に対して』。わずか5年ほど前、2020年に発見されたこの作品は、まず『三田文学』2020年夏季号に掲載。解説も2つ付いてた。
(☆追記: 執筆は1965年~1969年と推定されてる。完成はおそらく1966年3月以降。)

続いて同年、新潮社の単行本『影に対して 母をめぐる物語』が出版。「影に対して」という表題作以外に6本の小説がまとめられてるから、題名に「母をめぐる物語」と添えられてる。

未発表作そのものには、このような副題は付いてないので、念のため。さらに2023年には、新潮文庫にも収録。ただし、「母なるもの」という作品だけは別の文庫本の表題作になってる。
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単行本の中で、表題作「影に対して」は、実質的にp.9からp.81までの73ページ。その内、共通テストの国語・第2問で引用されたのは、p.40~p.46の7ページ分だから、全文の10分の1にすぎない。
ただ、普通に読解するだけなら、決して難しい物語ではないから、読みやすいと感じた受験生も多いと思う。要するに、父と母と子の関係という普遍的なものを描くストーリーだから、理解も感情移入もしやすいはず。
ちなみに、その小説は、かなり作者本人の自伝に近い私小説的な作品と考えられてるようで、NHKのETV特集でも2021年にミステリアスなドキュメンタリー的特別番組が放送されてた。「遠藤周作 封印された原稿」。現在はオンデマンドで視聴可能。

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さて、「影に対して」というタイトルは、冒頭のまえがきで書いたように、主人公(かつ筆者)である私・勝呂(すぐろ)有造の「暗くて黒い分身に対して」という意味だろう。もう1人の闇の私、ダーク・エゴ。闇とは、「病み」でもある。広い意味で。
その影とは、表面的にはまず、母を表すように見える。実際、だからこそ単行本や文庫本では、「母をめぐる物語」として扱われてる。
共通テストの問題冒頭、引用直前の説明でも、「彼は母のことを思い出しては現在の自分の生き方について考えるようになる」とだけ書かれていて、父という言葉は使われてない。
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以下、いわゆるネタバレになるので、ご注意あれ。すぐ手に入る新しい本だから、自分で先に全体を読むのは簡単。電子書籍にもなってるから、ネット購入すれば今すぐ読める。
母の勝呂(すぐろ)節子は、ヴァイオリンを極めようとして、結婚して子供が生まれた後も練習に打ち込んでた。それが、夫(主人公の父)や伯母に強く批判されて、結局は普通の専業主婦のような暮らしを始める。
でも、本当は一つの音を追求したい性格・生き方だから、内心では強い不満を隠し持ってる。母のそうした葛藤、つまり主人公の影の陰(または翳)は、やがて病院行きにもつながってしまう(おそらく服薬による自殺未遂)。
結局、父親に捨てられるような形で離婚して、満州から日本に帰国。息子とはほとんど会えないようになった後、ヴァイオリンでも上手く行かず、孤独死してしまうのだ。
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一方、母を愛する息子=主人公も、本当は小説家を目指してる。でも上手く行かないし、家族(妻と息子)を養う必要もあるから、仕方なく翻訳家で生計を立ててる。
でも、それは母を捨てた父のような、平凡で安全な生き方。母も、自分ならではの独自の生き方をして欲しいと、息子に強く話してた。歩きやすいアスファルトの道ではなく、歩きにくくても自分の足跡が残る砂浜のような道を歩いて欲しいと。
しかし現実として、母は1人さみしく死んでしまって、アパートの管理人に発見されることになった。砂浜に足跡を残したとしても、ほとんど注目されないまま消えてしまって、自分の記憶に残ってるだけ。
それどころか、どうも周囲の大部分の人に冷たい視線で見られてたらしい。母の従兄にも、成功したヴァイオリン仲間にも、学校の教え子たちにも。
それでは自分は、今後どう生きるべきなのか。愛する母を追うのか。それとも母から自立するのか。母子未分、一体化された幼児的状態から、分離不安を断ち切って、独立した存在になれるのか。。
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今年の共通テストが問題にしてたのは、そうした部分、側面にほぼ限られてる。
基本的には、文字通りの意味での「マザー・コンプレックス」。劣等感とか、通俗的な意味でのマザコンいうより、母に対する複雑な思い。母という「影に対して」強く持ってる、様々な感情や考え。同じく自伝的な遠藤の小説「母なるもの」には、「母に対するコンプレックス」で嘘をついてたという記述もある。
しかし小説の全体を読んで考えると、本質的にはむしろ、父の方を強く表してるのではないか。つまり「ファザー・コンプレックス」、父という「影に対して」強く持ってる、複雑な思い。
私がそう思い直すキッカケになったのは、ネットでも(ほとんど)全く注目されてない、父の不思議な趣味だった。主人公である息子も、その中身については考えてない。読者の大部分も、おそらく分からないまま素通りになると思う。私がある独自解釈に気づいたのも、半ば以上に偶然だった。
(☆追記: この小説の仮題は「男」だったらしい。やはり、父親を中心に書かれた小説なのだ。専門家・山根道公の論文「遠藤周作『影に対して』より。『三田文学』2020年・秋季号。)
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小説の序盤(単行本p.13~)、父は、翻訳家になってる息子に対して、原稿用紙300枚もの長い文章を書いたから有名出版社を紹介して欲しいと頼む。李商隠の伝記。電子書籍の無料サンプルでも確認可能。この妙なエピソードは、小説の結末の直前にも再登場する。
昔の中国の詩人で、知る人ぞ知る存在だけど、普通の日本人なら知らない存在、気に留めない人名だろう。私が知ったのは去年、三浦しをんのベストセラーをドラマ化した『舟を編む』をNHKで見て、レビュー記事を書いたから。
原作小説で引用されてるのが、李商隠の有名な漢詩の一部。
嫦娥応悔偸霊薬
碧海青天夜夜心

上図は、ウィキペディアの項目「嫦娥奔月」より。詳しい説明は、以前のドラマレビューに書いたので、ここでは省略する。要するに、私と専門家の1人は、こんな感じで解釈してるのだ。チャッピー(最新AI、ChatGPT5.2)も賛成してくれた。
彼女はどうして、遥かな月の世界へと旅立ってしまったのか。
今ごろ後悔して、こちらの世界を見てるんじゃないか。
そう思いたいほど、彼女に対する私の思いは今でも強い。。
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これこそ、「影に対して」における、父の思いではないか。
妻はどうしてヴァイオリンの世界へと旅立ってしまったのか。
今ごろ後悔して、昔の家族生活を思い出してるんじゃないか。
そう思いたいほど、別れた妻に対する私の思いは今でも強い。
父のそうした思いは、共通テストの引用箇所の直前にもハッキリ表されてる。離婚する前、母が演奏会を開いた時、父は廊下の椅子に座ったまま、壁と向き合って座ってたのだ。
「父のうしろ姿には、だれからも相手にされない、寂しそうな翳があった」。
その姿を見る息子も、演奏会を抜け出して1人でトイレに向かう途中。他の誰かが見ればまさに、「息子のうしろ姿には、だれからも相手にされない、寂しそうな翳があった」ということになるはず。
ちなみに、男児がトイレ(便所)に行くということは、普通なら性器を触ることになる。母という愛する女性に相手にされなくて、自分の手で男性器を触る。非常に性的、自愛的な象徴表現。
そこで、ポイントになる言葉の「影」(かげ)が、「翳」という感じで書かれてる点も見落とせない。影=かげ=翳=父。「影に対して」という題名が、母だけでなく父に向けられてることが明示されてる部分の一つ。
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最後に、ウィキペディアの「遠藤周作」の項目にもある、エディプス・コンプレックスという概念と結びつけてみよう。
単行本の後半に収録された「母なるもの」という小説に、「精神分析学など詳しくはない私」といった表現が含まれてる。ということは、一応知ってるし、意識してるということの裏返しだろう。そこでは、母に似た人物が登場する夢を見る話が書かれてた。
フロイトが1900年ごろに創始した精神分析学の中心概念の一つで、神話のエディプスみたいな複雑な思いという意味。ごく簡単にまとめると、男の子の場合、父への憎しみと、母への愛ということになる。父殺しと近親相姦。
ちなみに、古代のエディプス神話では、息子のエディプスが知らないうちに(無意識の内に)父を殺して、知らないうちに母と結婚。その後、自分で気づいて、罪悪感に苦しむというような物語が展開されてる。
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ただ、ごく簡単にそうまとめてしまうと、その後はどうなるのかが抜け落ちてしまう。最も重要なことは、男の子は父を殺す代わりに、父と「同一化」するという点なのだ。そうすれば、母は父の妻だから、自分の妻ということになって、危ない葛藤は解消される。特に、無意識の領域では。
例えば、フロイトの「エディプス・コンプレクスの消滅」という論文では、次のように書かれてた。
「子供の自我は、エディプス・コンプレクスから目をそらしてしまうのである。・・・リビドーの対象充当が放棄され、同一化がこれに代わるのである。父親または両親の権威が自我の中に取り入れられ、そこで超自我の中核となる」(人文書院『フロイト著作集』第6巻)。
(☆追記: 先ほどの追記のように、この小説の仮題が「男」だったとすると、遠藤周作自身が、父と自分を男として同一視してることになる。つまり、同一化を認識してるのだ。)
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小説の最初と最後が、実は、父との同一化について暗示してるのだ。冒頭は、主人公が、父との写真を見てるシーンになってる。
「・・・父と一緒である。どの写真のなかでも、今の彼と同じ年頃の父は愛想笑いを浮かべていた。(彼は自分も写真をとられる時、この父と同じように、気の弱そうな微笑を頬に浮かべることをふと考えた)」
父と「一」緒、父と「同じ」。小説の最初から、これほど分かりやすい同一化の描写があるのは珍しいはず。
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ところが小説の最後。息子である主人公は、あれほど反発してた父にお金を借りに行くハメになる。自分の息子である稔(父の孫)の病院代。そして、妻にこう言われてしまうのだ。
「あなたなんか、お父さまぐらいにも、なれないんじゃありませんか」
父との同格の同一化に失敗する可能性。取り込まれてしまう恐れ。愛する母は、既に淋しく死亡。母の代わりになるはずの妻にも冷たく扱われてる。妻の言葉に激怒した息子は、妻を撲ろうとしたけど、父よりも気弱だから出来ない。
行き場を失った絶望的な場面で小説は終わる。最後に彼が思い浮かべたのは、「母の死顔」、「まだ苦しそうな翳」だった。
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他にも、母の演奏会の時、父と息子は同じく廊下で孤独な思いをする。現実の遠藤周作がどうだったのかは、また別の機会に考えてみたい。とりあえず私も、ブログにこだわり過ぎて孤独死するリスクは避けるとしよう♪
今週は計19380字で終了。それでは、今日の所はこの辺で。。☆彡
cf. 蜂飼耳の小説「繭の遊戯」(25共通テスト国語)全文レビュー・書評
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(追記212字 ; 合計5095字)
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