続・NHK『永平寺』~禅問答
想定外の雑用が入って時間がなくなったけど、先日のNHK『永平寺』の記事に
そこそこアクセスが入ってるようなので、今日は続編を簡単に書くことにしよう。
約1時間の番組の最後あたりで、「小参」(禅問答)の様子が映し出された。活字
で目にした事はあるけど映像は珍しい。毎月1日と15日に行われるこの禅問答
は、太鼓の音で始まった。最初の一人は、字幕の説明が無かったので、古語を
よく聞き取れないし、意味もよく分からなかった。修行僧が両腕を身体の前で袖
に隠すように組み、「正法眼蔵・仏性の巻に示して曰く、一切衆生なにとしてか
仏性ならん、仏性あらん、もし仏性あるは、これ・・・・・・」とか続く問いを老師に
力強く語りかけつつ、ひざまずく。すると老師は、「衆生と仏性と、どうじどうさん」
とか即答。僧は、「尊答を謝(じゃ)し奉る」と手を合わせて感謝しつつ下がる。
問答の際の身体的形式も、厳密な作法として決められてるようだ。例の「威儀
即仏法」という考えがここにも表れている。問いは、道元の名著の重要な箇所
に関する本質的質問みたいだけど、素人にはそもそも言葉が分からなくて白旗。
正法眼蔵の文庫本が部屋のどこかにあるはずだけど、すぐには見つからない。
ネットで検索しても、該当箇所が見当たらず。。
二人目は「如何なるか、これ、仏」っていう分かりやすい問い。老師は「すべて
仏でないものはない」(字幕解説)と答えた。素直な人なら、なるほどとうなずく
所かも知れないけど、私はすぐにはうなずけない。例えば、煩悩も仏なのか、
問い返したくなる。ただ、一問一答の短いやり取りしか許されてないようだ。
続いて三人目は、「この永平寺は雪で真っ白ですが白くない時はいつでしょう
か」(字幕)と、全く意味不明っていうか意図の分からない問いを投げかける。
老師も即答せずに数秒考えて、「白い時は白く 白くない時は白くない」(字幕)
と、これまた意味不明な答。これぞ「禅問答」って感じ。。。
最後に映された四人目は、「煩悩の根源はどこから来るのですか」(字幕)。
老師は一瞬考えて「自分の心の中をよく見なさい」(字幕)。
こうした禅問答は、素人考えでも、普通の質問と答ではないことくらい感じ取
れる。普通の質問っていうのは、「正しい答」を相手に求める言葉のことだ。
「あなたの名前は何ですか」とか、「東京駅へはどう行けばいいですか」とか。
相手の答で分からなければ、再び問い直すこともできる。
それに対して、禅問答は、まず厳密な作法に則って老師と言葉を交わすこと
自体が一番重要なんだろうって気がする。ちょうど、悟りとか関係なくただ坐
ること自体(只管打坐)を重視するように、正しい答など関係なくただ問答を
交わすこと自体の重視。それが根本で、二番目(以降)に続くのが、自分で
問いを組み立て、老師の答について再考することなのではなかろうか。
もっと大胆に素人考えを述べると、実は正法眼蔵の意味の解釈なんてのも、
二番目(以降)の話であって、やはり曹洞宗の根本は「威儀即仏法」、厳密
な(身体行動的)形式に従って生活全体を律すること自体なのではないか。
ところが、人間はどうしても、ただひたすら何かを行うという事はできず、つい
色々と頭で考えてしまうので、(仕方なく)その思考習慣に対応しようとする
のが禅問答とか正法眼蔵なのではなかろうか。
こんな事を書くと叱られるかも知れないけど、それもまた面白そう♪ ご意見
のある方、どうぞ。ただ、TV番組を真剣に見た素人が自分のブログで自分の
考えを真面目に書いただけ、という点はご承知を。。<(_ _)>
P.S.早速、本屋で正法眼蔵をチェック。一人目の問いの後半が、かなり
分かった。「もし仏性あるは、これ魔儻(とう)なるべし、と。ならば、衆生これ、
仏性憶測せざるや、よきいかん」。要するに、すべての生きもの(衆生)は仏
になる可能性(仏性)を持ってるという普通の教えに反して、道元は「持って
ない。持ってたら魔の徒党みたいなもの」と書いてるので、これだと衆生は
仏性がよく分からないことになるではないか、と老師にたずねたのだろう。
それに対して老師は、衆生と仏性は一つのものだと答えたんじゃないかな。。
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コメント
禅問答というのは、難しいですね。
おっしゃるとおり、老師の答えは、普通のQ&Aというほど単純ではありません。
ただ、形だけの問答。形式だけのものでもありません。
問者と答者の息が合えば、一言が大きな意味を持ちます。
ただ、答えの真意が理解できなければ、形式に堕してしまうこともあるのでしょうね。
禅問答と言うとわかりにくいのですが、
当事者と当事者の一言のやりとりを、端から聞いていると何を言っているのか分からないということはあるのでしょう。
たとえば、
問「雪が多いね!」答「もうなくなった!」
端から聞いているの何がなくなったか分からないけれど、当事者には、「石油」「食料」か、分かるのでしょうね。
この問答、当事者になったつもりで、解釈するとおもしろいと思います。
永平寺の雪は白い、当たり前のことです。
これを何かにたとえてみたら。
当たり前のことが当たり前でないときは、どんなときですか?
当たり前と思っていること自体が、こだわりがありはしないか?
などという風に、、、
これも、私流の解釈です。
投稿: ぜん | 2006年1月11日 (水) 18時54分
>ぜん様
貴重なコメント、ありがとうございます。
記事のP.S.にも書きましたが、早速『正法眼蔵』を
チェックしましたし、仏教と禅の入門書を一冊ずつ買って
来て、少し読んだところです。
根本的な所で色々と分からない事があるので、考えをまとめた
上で、応答しようと思ってたんですが、ちょっと時間がかかり
そうなので、とりあえず瑣末で簡単なことだけ書いておきます。
永平寺が白くない時はいつか?という問いの件ですが、録画では
「きちじょうのみね、はくまんまん、むはくなるは、うむのじせつぞ」
と聞こえます。字幕の「雪」という言葉は、元の問いには
入ってないのではないでしょうか。
もし「雪が白い」と言ってるのなら、「当たり前のこと」と
いう解釈は可能でしょうが、「永平寺(の付近)が白い」と
言ってるのなら、冬にしか当てはまりませんよね。
この場合、普通の答の一例は「(白くないのは)春、夏、秋だ」
となるのでしょうが、当然こんな事を聞いてるのではないでしょう。
ですから私は、時間とか変化に関する哲学的な問いのつもりなのでは
ないかな、と少し思ったのです。
細かい意図や期待してる答は分かりませんが、要するに
「今は寒い。暖かくなるのはいつなのか?」と問い直しても同じで、
「世界の変化とは如何なるものなのか、それは可能なのか、
時間との関係はどうなってるのか?」という哲学的な問いを
立てたかったのかな、と感じたのです。
ただ、あまりにも多義的なので、記事のように書いておきました。
いずれにせよ禅問答は、「正しさ」のレベルの行為ではないのでしょうね。
「正しい」解釈などないし、「正しい」答を求めてるのでもないのでしょう。
投稿: テンメイ | 2006年1月12日 (木) 12時06分
禅問答に興味をもってみています。 わずかしか見ていませんがわれわれの思い込み、認識論に関係しているように見えます。「門の外の音は何かと聞かれて、直ちに雨の音だと答えて、嘆かれますが、これは、直ちに雨の音と答えてしまったことが問題なのです。 おそらく、正解は、「見てまいります。」でしょう。 鳥がどこに飛んでゆくのだろうと聞かれて、飛び立ってしまいましたから分かりません。と答えて嘆かれるのは、疑問に共感して「どのようにしたら確かめられるのか考えて見ます・ が正解ではないでしょうか。
われわれは、さまざまな、思い込みや自身の乏しい経験に基づいて即断しがちです。これでは、いつまでたっても進歩はありません。 新しい発見や思想を深めることもできないのです。
先入観なしに、正しいことを答えるということ。その意味で、春や夏には雪が無くなると答えるのではなくて、雪の無いときには雪がない。と答えるほうが正解になるのではないでしょうか。
投稿: | 2009年10月29日 (木) 23時29分
> 名無しさん
こんばんは。コメントありがとうございます。
禅問答というのは興味深いですよね。
僕は中学生くらいの時に初めて本で読んで、
変わった世界だなぁという印象を強く受けました。
一口に禅問答と言っても色々でしょうが、
僕はこのテレビ番組を見て、永平寺の禅問答は
威儀即仏法の一例だと思ったのです。
言葉とか意味のレベルで考えることもできますが、
むしろ形式に従って心身を律する修行の一つとして
とらえた方が適切でしょう。
さて、頂いたコメントについて。
「認識論」という言葉をどうゆう意味で使って
らっしゃるのか、いま一つよく分かりませんが、
門の外の音を「見てまいります」というのは
普通の実証主義的な行動でしょう。
もっと普通に、科学的な姿勢と言ってもいいし、
認識の実践と言ってもいい。
即断せず、熟考したり実験・観察したりするのは、
古代ギリシャ以来の哲学や「科学」(広義)の伝統。
認識論というのは、例えば「門の外の音が何か、
目で見て知ることができるだろうか」とか、
「門の外から音が聞こえるけど、本当に外で何か
音がしてるのか。私にそう聞こえるだけではないか」
などと考える議論のことです。
つまり、認識の可能性、限界、真実性などに
ついて根源的に考えることであって、普通の
認識活動(知覚や思考)を実行することではありません。
一方、「正しいことを答え」ようとする姿勢はいいのですが、
だからと言って「正解」があるとは限らない。
また、「雪の無いときには雪がない」と答えても
「新しい発見や思想を深めることもできないのです」。
それは「P=P」という形の、典型的な同一律(or トートロジー)
ですからね。せめて、右辺の形くらい変わってないと。
あるいは、「(PまたはQ)かつ(Pでない)、ならばQ」と
いうような、多少は話の変化がある恒真命題でないと。
「Pは何か」という疑問に「それはPだ」と
答えるのは、論理的に正しくても、無内容な同語反復。
ただし、理屈では無内容な言語活動でも、厳密な作法に
則って他者の前で行うことには、修行としての意味がある。
そうゆう話なら、一応納得できるのです。
実際にやってみないと価値は分かりませんけどね。
最後に、コメントの作法についても一言 ♪
最低限、自分の名前くらいは書いてくださいね。
そうゆう作法=マナーの実践は、禅問答の考察よりも
遥かに重要なことだと思いますよ。
実際、永平寺で作法が出来てない者がどうなるか、
野々村馨『食う寝る坐る 永平寺修行記」に
詳しく書いてありました。
テレビの静かなイメージとは全く違う世界だし、
禅問答の意味を考える哲学的世界とも全く違う。
一読すると、永平寺の禅問答というものに対する
考えも大きく変わるかも知れませんよ。
後記には、修行を終えて「必要以上に深く考える
こともしなくなった」と書いてありました。
生きるとは、頭ではなく「からだ」の営みでしょう。
それでは。。☆彡
投稿: テンメイ | 2009年10月30日 (金) 03時51分