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哲学者・鷲田清一の自殺論(朝日新聞)

日付け変更まで、もう時間がない。毎日更新継続のための間に合わせで書くよ

うな話でもないんだけど、他に思いつかないから、これで行こう。今日、2008年

7月17日の朝日新聞・朝刊文化欄に、大阪大学総長・鷲田清一の現代自殺論っ

て感じの文章が載ってた。見出しは、底知れない「孤立貧」。副見出しは、自殺者

10年連続3万人超過

       

鷲田を知ってる人の割合は多くないだろうけど、哲学者としてはかなりメジャー

な人だ。文学的で柔らかい文体と独特の着眼点・切り口が売りで、私もわりと好

感は持っている。ただ、文章の論理的な曖昧さと、実証性の無さはちょっと引っ

かかる所で、今回の記事もかなり読みにくかった。阪大総長の肩書きを持つと

はいえ、もし小論文のテストなら、かなり減点されてもおかしくはない。理系の論

文形式ともかけ離れたものだ。

                   

まず、1300文字程度のこの小論の内容を要約してみよう。

    

   多数の自殺の報道を見ると、我々は「なぜ?」と疑問に思う。同じ社会に

   生きながら、彼らが自殺して私たちが死なないのはなぜか、その分かれ道

   が知りたいからだ。でも、その問いは二重の理由で「やがて虚空に消える」

    

   まず、彼らと自分の間にはかなりの距離があるから。どうしても自分とは

   「無縁」なものという側面があり、「死なれた」痛手を感じにくいのだ。一方、

   自分たち自身も「所在のなさ」が膨れあがって、存在が曖昧になってるの

   で、彼らとの分かれ道=違いをとらえにくい。こうして、「なぜ彼らは自殺し

   て私たちはしないのか」という問いは、答のないまま消えざるを得ないのだ。

        

   ここに見て取れるのは、個々の人間が孤立して、存在が貧しくなった状態

   だ。柳田国男の言葉を少し変形して借りるなら、「孤立貧」と言えるだろう。

   昭和のはじめ、自殺者の数が毎年1万数千人となった頃、彼はこう言った。

   「われわれの生活ぶりが・・・・・・個人の考え次第に区々に分かれるような

   時代が来ると、・・・貧は孤立であり、従ってその防御も独力でなければな

   らぬように、傾いて来る」(『明治大正史・世相篇』)。

    

   柳田の言う孤立は、共同体から家族への細分化のことだが、平成に入る

   と、建築家の山本理顕が、最小単位としての家族でさえ最後の拠り所とは

   ならなくなってると指摘する。つまり孤立が、家族から個人へと更に細分化

   してるのだ。柳田が「われわれは公民として病みかつ貧しいのであった」

   (同上)と語った時代からも、唐木順三が自殺は「僕らと無縁ではない」と

   語った時代からも、遠く隔たった現代。私たちは、孤立した個人として、存

   在が貧しくなっている。まさに、底知れない孤立貧の状況なのだ。。。

     

          ☆          ☆          ☆

これを読んで最初に感じたのは、まず曖昧さだ。「孤立貧」は、直接的には、

他人の自殺に対する我々の隔たりを説明するキーワードとして挙げられてい

る。おそらく、孤立貧と自殺そのものも結び付けたいはずなのに、その表現は

見当たらない。また、柳田国男という超大物の民俗学者の名前を援用してるだ

けで、広い視野や細かい論証・データもない。柳田が語った貧しさと鷲田の言

う貧しさがどの程度関係してるのかも気になる所だ。

           

ただ、自分で深く考えることこそ哲学だという観点に立つのなら、鷲田の文章は

まさに哲学的だろう。つまり、「所在のなさ」という表現の意味とかも含めて、あち

こち読者に考えさせる箇所だらけなのだ。孤立貧という造語がしっくり来るという

人もいるだろうから、哲学とは新しい思考を求める営みだという観点からも、鷲

田の文章はやはり注目に値する。半ば理系の人間として、読んでてイラつく表現

だらけでも、やっぱり魅力や価値を感じてしまうのだ。

       

最後に、おそらく鷲田とは全く違う、私の見方を一言書いとこう。そもそも、自殺

は多いんだろうか? 急速な増加が続いてるわけでもないし、死因の主要な部

分を占めてるわけでもない。多様化の時代に、毎年1万人中の2、3人が自殺

(or 自死)し続ける割合というのは、巨視的に考えると不自然ではない気もする

のだ。この数字は、自分の周囲ではなかなか起こらないことを表してるのだから、

低い値と言えなくもない。

       

もしそうなら、孤立貧の状態だから他人の自殺と疎遠なままだという鷲田の主張

は、根底から崩れることになる。孤立貧など無くても、人々は、一つの死の形

あるがままに受け入れてるだけかも知れないだ。いわゆる自殺は、精神的な行

為だけど、ガンだって身体的自殺とも見れる。タバコによる肺がんや、無謀な運

転による交通事故死などは、精神的自殺と見ることさえできるだろう。その意味

で、いわゆる自殺をさほど特別視しない人がいても不思議でないかも知れない

           

ただし、誤解のないように付け加えると、私自身は現状を良しとしてるわけでは

ない。人間は、多少なりとも自然に逆らって生きる主体的動物だ。社会的に自

殺を減らしたいとは思ってるし、自分の周囲の自殺を絶対に避けたいとも思って

る。ただ、もし鷲田の言うように、人々が他人の自殺との隔たりを持ってしまって

るのなら、それは孤立貧など持ち出さなくても説明できるだろう。

    

人は、昔から全く知らない人の死に関心を持ちにくいし、現在は多様化の状況

にも慣れている。その程度の説明でも十分だと思う。その多様化を孤立貧と呼

びたいのなら、必ずしも反対しないが、特に賛成もしない。いずれにせよ、もう

少し精密で繊細な論証が必要な話なのだ。

   

とにかく、もう時間なので、今夜はこの辺で。。☆彡

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