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仏教の語り方と目的~佐々木閑「日々是修行」(朝日夕刊)

先月の末(09年2月28日)に、朝日新聞・夕刊連載コラム「日々是修行」に関す

る記事「信仰、信頼、愛」を書いた所、地味ながらもアクセスが続いてる。Google

の検索順位が高いという分かりやすい理由はあるものの、やはりこのコラムは結

構読まれてるようだ。花園大学教授・佐々木閑(しずか)が2007年から連載中で、

最近は毎週木曜が掲載日となってる。

    

前回も書いたように、コラムとしては上手いと思う。まとまりはいいし、気楽に読め

て、分かりやすい。それでいて、独自の刺激も与えてくれる。元・理系の仏教学者

という点も、理系・文系を問わず支持される一つの要因になってるだろう。例えば

先週ならニュートン、今週は科学法則の話を交えてる辺りが特徴的だ。

     

宗教の指導的立場にいる人間が科学を語るのを聞く際には、色んな意味で注意

する必要があるけど、私が読んだ限り、少なくとも無意味な権威付けとかトンデモ

科学の部類の話にはなってない。同じく理系の理屈屋の私から見て、色々と引っ

掛かりはするものの、まあ概ね穏当で普通の話が書かれてる。天下の朝日新聞

が長期連載してるコラムだから、当然のことだろう。

            

            ☆          ☆          ☆

さて、今回また記事を書くことにしたのは、意外にアクセスが続いてるからだけじゃ

なくて、どうも3月で終了する気配があるからだ。しばらく前から、コラムの下に、

「この連載に補筆した『日々是修行』(ちくま新書)が5月10日、発売される予定

です」という宣伝文が書き添えられている。そう言えば確かに、過去の文章をま

とめればちょうど新書一冊くらいになるだろう。コラムが終わる前に、もう1回くら

いコメントしてもいいかと思って書き始めたのが、この記事だ。

        

先週(2009年3月12日)のコラムの見出しは、「仏教を語るということ」。もちろ

んこれは、佐々木自身がこのコラムを書くこと自体をも意識したものだ。主要な

部分を引用してみよう。

     

   「釈迦の教えを人に伝えるための言葉は、必ず穏やかで理を尽くしたもの

    でなければならない。仏教を伝える場合には、『正しいこと』を、『正しい

    かたち』で語ってはじめて正当性が認められるのである

       

だから、「正しいこと」を語るだけで十分な科学とは違うし、「乱暴で傲慢な言葉」

で語られた仏教に真実はない、というわけだ。自らを律する仏教者として当然の

話には聞こえるものの、よく考えると素直に頷くだけでは済まない部分もある。

                 

まず実例として、私はインドで仏教の布教に努める日本人僧侶・佐々井秀嶺

ドキュメンタリー(フジ・NONFIX)を数年前に見たことがあるが、穏やかというよ

りは迫力があった。「インド仏教の頂点に立つ男」という番組サブタイトルの通り、

相当な支持を受けてる方みたいだったし、テレビの前の私にさえ独特の魅力が

十分伝わって来た。その後この番組は、実に4回も再放送されてるから、よほど

視聴者の心を強くとらえたんだろう。

                              

また、視野を広げて教育の場に目を向けても、穏やかな語り方だけがいいとされ

てる訳ではない。特に今の時代、穏やかさの方が一般ウケしやすいものの、基

本的には臨機応変の緩急こそが重要なはず。そもそも佐々木の語り方も、知識

人としては普通かやや強い口調であって、特に穏やかなものにはなってない。

                                    

私は、それがいけないと言ってるのではなくて、それはそれで悪くない、必ずしも

穏やかでなくていいと言ってるのだ。「穏やかに実直に生きることが釈迦の教え

の第一歩」かどうかも微妙だけど、仮にそうであるとしても、その釈迦の教えが正

しいとは限らない。この点は佐々木自身が先月強調してた事で、釈迦といえども

1人の人間。絶対に正しい存在ではないのだから、その教えをすべて「信仰」す

る必要はない。正しい部分だけを「信頼」すればいいわけだ。

          

という訳で、語り口の穏やかさを強調することにはあまり賛成できない。そうでな

くても、今の世の中、ニコニコと穏やかに語って衝突を避ける人間が多いのだ。

逆に「穏やかである必要はない」と激しく語るくらいで、ようやくバランスが取れる

と思う。まあ、佐々木が遠回しに主張したいのは、一部の仏教系宗教には注意

するようにという事なのかも知れない。ただ、世の中で有害なものは、しばしば

優しい顔で近づいて来るものだし、逆に「良薬、口に苦し」、つまり有益なものは

厳しい顔で近づいて来るということわざもある。その意味でも、穏やかな語り方

の重要性を強調するのは逆効果であって、決して得策ではないだろう。

             

          ☆          ☆          ☆

続いて、今週(2009年3月19日)のコラムの題名は「仏教が語る心の法則性」。

再び、主要な部分を引用してみよう。

    

   「宇宙法則を解明して、それを社会の向上に役立てるのが科学の目的。

   人の心の法則を解明して、それを『苦しみからの脱出』に役立てるのが

   仏教の目的である。・・・・・・煩悩を刺激する外的な原因は、世の中に無

   限にあって、それを消すことなどできないから、『心の中の仕組み』の方

   を消すのである。それが『修行による心の改良』である

        

「宇宙法則」なんて言葉は科学の世界でもあまり使わないもので、普通は自然

法則か物理法則だ。だから、「宇宙法則」なんて大袈裟な言葉を、科学と結びつ

けて宗教者が語ると、怪しいニュアンスを醸し出してしまうわけだけど、その辺

りは自覚してないのかも知れない。まあ、枝葉の問題だから良しとしよう。

                     

ここで彼が語っているのは、仏教としては全くの正論、あるいは普通の話だから、

その意味では別に、問題ある文章を書いてるわけではない。ただ、その正論と

か普通の話が本当に妥当なものかというと、単なる選択肢の一つだと思う。趣味

の問題と言ってもいいだろう。

                                

仏教がしばしば語る目的は、煩悩からの脱却だ。あるいは宗教全体に視野を広

げるなら、苦しみからの解放を目指す傾向が強い。それに対して、私も含めて

多くの人間が(無意識の内に)思ってるのは、煩悩があってこその人間だという

ことだろう。「かなうはずのない願望」を抱いたり、「失望」したり「もだえ」たり。仏

教が消し去ろうとするものは、まさに人間性そのものだ。「仏陀」になりたいのな

ら、それもいいだろう。でも、そんな人はごく一部のはずだ。

            

あえて大胆に断言してみよう。宗教を信仰(あるいは信頼)してない人はもちろん、

信仰してる(と思ってる)人の大部分も、本当は煩悩を消し去ろうとはしてないし、

苦しみ全体を消滅させたいわけでもない。過去から現在に至る現実をよく見れ

ば、明らかなことだろう。実際は、どうしようもない苦しみを消したいだけ。あるい

は、特別な「安らぎ」が欲しいわけだ。

      

どうしようもない苦しみを消したいのは当たり前であって、時間が解決してくれる

のを待てない人は、宗教に限らず様々なものを頼るしかないだろう。カウンセリ

ング、ペット、酒、恋愛、(合法的な)向精神薬など、色々あるわけで、仏教が好

みならそれもまた一つの選択だ。でも、普通の苦しみなら、それを乗り越えれば

逆に喜びや楽しさなどに変わるのが世の常というもの。だから、苦しみは苦しみ

としてそのまま受け止めればいいわけだ。

                                

一方、安らぎを求める姿勢は、佐々木「閑(しずか)」という名前にも表れてるけ

ど、客観的(or 第三者的)に見るなら一つの煩悩(欲望)に過ぎないし、不思議

なほど現代社会に広がってる流行とも言える。しばしば「癒し」という言葉で語ら

れてるのは、安らぎの現代ヴァージョンだ。ストレス、疲れ、不況、理由はともか

くとして、たとえば恋と比べた時、安らぎを求めることの方が正しいと言えるだろ

うか。好ましいと言えるだろうか。

                

恋をすると、安らぐどころか心はときめくし、不安や嫉妬にも苛まれる。失恋の苦

しみや悲しみの可能性も強い。別の例なら、仕事や趣味で成功を目指して必死

に頑張ることでも同様で、当然いい事ばかりではなく、辛いことが多いわけだ。で

も、それはそれとして受け止めればいい。また、安らぎの重要性を語るよりも、む

しろなぜ安らぎがこれほど求められてるのかを考えることの方が大切だろう。

景とか原因が変われば、選択も当然変わってくるわけだ。。

                        

             ☆          ☆          ☆

さて、この記事の「語り方」は彼に気に入ってもらえるだろうか。「穏やかで理を尽

くし」てるつもりだけどね。私は基本的に佐々木のコラムは評価してるし、仏教に

もわりと好意的なので念のため。ただ、面白い、素晴らしいという感想だけを書く

よりも、あえて疑問点を追求する方が生産的作業だと思ってるだけのことだ。も

ちろん来週のコラムも熟読するつもりで、本当に最終回なら、ひょっとすると3本

目の記事を書くかも知れない。

                      

今日の所はこの辺で。それでは、また。。☆彡

    

      

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

P.S.仏教の語り方よりも、むしろ科学の語り方の方が遥かに重要だと思う。

    また、科学者も「正しいこと」を語ればいいとは言えないはずだ。

           

cf.信仰、信頼、愛~佐々木閑「日々是修行」(朝日夕刊)

  宗教学者という困難、あるいは至福~佐々木閑「日々是修行」(朝日夕刊)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  NHK『永平寺』~身体の行動形式

  続『永平寺』~禅問答

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コメント

仏教を勉強したことがないこと宣言した上で書いたなら単なる無難な感想文としていいんじゃないでしょうか。

投稿: あき | 2009年12月18日 (金) 12時24分

> あきさん
    
はじめまして、でいいんでしょうね。
前にコメントくださった「あき」さんとは、
別人のような気がするもんで。。
     
さて、失礼ながら、ちょっとこのコメントの
意味や意図が分かり辛いんですよ。
なぜ分かり辛いのか、具体的に説明するのも
無粋だから、それは差し控えることにしときます。
     
その代わり、とりあえず無難な応答文として、
「コメントありがとうございます」と書いときましょう。
   
ウチには他にも6本、仏教系の記事があるので、
よろしければそちらもご覧ください。。☆彡

投稿: テンメイ | 2009年12月19日 (土) 02時58分

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