芥川龍之介『藪の中』の真相
(☆20年3月29日追記: 『藪の中』を原作とする映画『羅生門』を新たにレビュー。
芥川龍之介「藪の中」の暗い雨に差し込む、微かな光~映画『羅生門』(黒澤明監督、1950年) )
5月上旬に書いた芥川龍之介『蜘蛛の糸』に関する記事は、反応がかなり意外だった。ウチの読者があまり興味を示してないのは拍子抜けだったけど、検索アクセスは予想よりかなり多いのだ。『因果の小車』という変わった話と組み合わせたのが一つのポイントだろうけど、世間一般でやっぱり芥川が人気なのは確かだろう。
そこで今日は、芥川記事第2弾として、同じく有名な短編『藪の中』を扱うことにする。太宰治の記事以来、一ヶ月ぶりの文学ネタだから、間隔的にもちょうどいいと思う。私が読むのは、おそらく中学以来のことで、懐かしい体験となった。
☆ ☆ ☆
『藪の中』(1922)とは、真相は「藪の中」という有名な言葉の語源になった作品だ。この言葉を『大辞林』第二版(三省堂)で引くと、「関係者の言い分が食い違っていて、真相がわからないこと」と説明されている。またこの作品は、黒沢明の映画『羅生門』の原作としても有名だ。ただし、芥川の別の小説『羅生門』も映画の原作みたいな扱いだから、話がややこしくなっている。
一方、『藪の中』のもとになった作品へと遡ると、『蜘蛛の糸』の場合と同じく、はっきり題材となった作品が見つかる。遥か昔、平安時代末期に成立したとされている『今昔物語集』の、巻二十九・第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語」。つまり、妻を連れて丹波国(京都の近辺)に行く男が、大江山で縛られた話だ。
ネットで検索すると、「今は昔・・」で始まるお馴染みの形の物語をすぐ読むことが出来る。『藪の中』との関連で注目すべきは次のような点だろう。一致点では必ずしもないので、念のため。
場所はまさに、藪の中。悪者(若き男)が立派な太刀を持って
て、夫から弓矢を騙し取る。悪者はウソが上手い。妻は実際
に襲われて、その様子を夫は目撃する。悪者は夫を殺さず、
立ち去る。妻が夫の縄をほどいて、不満を口にする。語り手
によって、男は情けないとされ、悪者は女の着物を盗らなかっ
たという理由で褒められる。。
ちなみに、ウィキペディアでは「妻の気丈さ・・を褒め称えて」と書いてるが、これはちょっと言い過ぎだろう。妻は不満を口にしただけのこと。気丈さの表現は、『今昔』ではなく、むしろ芥川の『藪の中』にあるものだ。
☆ ☆ ☆
では、いよいよ『藪の中』自体を見ることにしよう。著作権が消滅してるので、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで無料で読めるし、pdfファイルの一括ダウンロードも可能だ。僅か17ページだから、一読または再読をお勧めしとこう。特に、「藪の中」で迷うことになる裁判員、また裁判員候補者にとっては必読文献だ♪ (手軽に読みたい方には青空文庫がお勧め)
作品は7人の証言のみで構成されている。順に書くと、夫の死体を発見した木樵り(きこり)。事件前に夫婦を見かけた旅法師。盗人「多襄丸」(たじょうまる)を捕まえた役人。妻の母。盗人。妻。夫の死霊。
まず、最初の4人の証言は正しいと仮定しよう。もちろん、一般に証言というものは疑わしいものだけど、特に否定する根拠も理由もないし、脇役の口を借りる形で単に話の大前提を書いただけのようにも見えるからだ。
すると、次のことは考察の前提となる。
盗人は女好き。夫は優しい気立てで、人の恨みを買うはずない。
妻は男に負けないほど勝気で、事件後は行方不明のまま。。
☆ ☆ ☆
後は話の核心、事件の当事者3人の証言となる。ここでまず悩むのは、「巫女の口を借りたる死霊の物語」と書かれてる、夫の死霊の言葉をどう受け取るかだ。
もちろん、現実の世界では全く相手にされない話だけど、これはあくまでフィクション=虚構としての小説にすぎない。死霊のような超現実的存在の設定は珍しくないし、死霊が巫女を通じて話したのではなく、死ぬ間際の夫が通りがかりの人に語ったとしても、似たような物語になるだろう。少し面白さや味わいが減る程度のことにすぎない。
したがって、巫女を通じた死霊の話は、夫の話として普通に受け入れることにする。結局、盗人、妻、夫の3人の証言が問題なわけだ。もちろん、小説だから物証は無い。
この状況で「藪の中の真相」、つまり「夫の死の経緯」を探るなら、頼りになるのは3つとなる。まず、それぞれのポイントを証言する人数。次に、論理的な整合性(つじつま)。更に、一般常識や知識だ。
そこでまず、3人の話の共通点を探すと、次のようなものが見つかる。ただし、全員認めてる場合だけでなく、2人認めて1人触れてない場合も含むし、認めてるように感じられるだけのものも含めている。
盗人は妻に乱暴した。盗人は夫を縛った。夫は事の最中に声
を出さず、妻に目で何かを伝えた。妻は、夫が殺されてもいい
と思った。妻が小刀を手にした。妻は最後に逃げた。
さらに妻の証言に付いたタイトル、「清水寺に来れる女の懺悔(ざんげ)」もそのまま信じてよう。つまり、女は何か罪を犯して強く後悔してるのだ。一方、3人が決定的に対立する「ように見える」のは、誰が夫を殺したか。盗人も妻も自分だと言い、夫も自分で刺したと主張する。
以上の全てから、3人の具体的証言をもとに推測・再構成すると、「藪の中の真相」は以下の通りだろう。
盗人は妻に乱暴した後、口説き落として連れて行こうとした。
妻は必死の思いで、女の魅力を漂わせつつ、「その前に夫を
殺して」とお願いする。夫の目線が、乱暴された自分を蔑むよ
うに見えたのも影響したのだ。
妻の言葉を真に受けた盗人が夫に向かった瞬間、妻は大声
で叫びながら逃走。捕獲に失敗して諦めた盗人は、自分もそ
の場から逃げ去る。その際、元々殺す気がなかった夫の縄を
一か所だけ切って、何とか脱出できるようにする。残された夫
は縄をほどき、妻の裏切りらしき姿に衝撃を受け、また絶望し
て、落ちていた小刀で自分の胸を刺す。
ところが、即死ではなく、死の直前に妻が戻って来る。胸の小
刀に手を当てて苦しそうにしてるので、咄嗟に小刀を引き抜く
と、途端に血が溢れて夫は絶命。元々動揺してた上に、まる
で自分が夫を殺してしまったかのように感じた妻は、完全にパ
ニックになって逃走。清水寺で懺悔する。。
☆ ☆ ☆
したがって、ウィキペディアは「殺人事件」と書いてるけど、実際は「強盗&婦女暴行&自殺事件」となる。どうだろうか。独自の解釈も含まれてるはずだし、私自身は今現在これで十分納得している。これなら、誰が殺したかについての見かけ上の対立も消えるし、今昔物語で悪者が夫を殺してないこととも合っている。
さらに追加の論点を加えると、実は盗人の証言には、非常に興味深い内容が含まれてるのだ。事件そのものとは直接関係ない話の中で、「殺す」という言葉を比喩的に使ってる。つまり、文字通りには殺してないけど、回復不可能なくらいのダメージを負わせるという意味で、「殺す」とか「殺される」と言ってるのだ。
その上、決定的なのは、「どうせ女を奪ふとなれば、必、男は殺されるのです」という言葉。要するに、自分が殺したという盗人の言葉は、妻を奪って夫を回復不可能な状態にしたという意味に取ればいいだろう。本当に殺したわけではないし、単なるウソでもないのだ。
なお、映画『羅生門』では男同士が決闘するらしい(byウィキ)。もちろん映画は映画でまた別の話だけど、小説でその解釈を取ろうとするのは苦しいだろう。と言うのも、決闘という話をしてるのは盗人だけだし、その説明も説得力がないからだ。
妻が言ったとされるのは、どちらか一人死んでくれという言葉。そこで、卑怯な殺し方はしたくないから堂々と太刀打ちしたという話だけど、女にしか興味なかった盗人がそんな事をするとは思えない。むしろ、盗人の言葉の端々に出てるように、自己の美化とか虚栄心と見る方が自然だろう。気立ての優しい男が、突然の真剣勝負で「天下にあの男一人だけ」と称賛されるほどの健闘を見せるとも思えないのだ。。
以上、小説『藪の中』で起きた死亡事件の真相を明らかにした。これを機に、「藪の中」という言い回しが死語になることを期待しよう♪ ではまた。。☆彡
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(☆10年10月14日追記: 韓国からのアクセスが増えたのでご挨拶。
韓国の皆さん、こんにちは。
日本文学の研究、頑張ってください♪ )
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コメント
たびたびすみません。
新潮記事について、丁寧なお返事ありがとうございます。
なるほど・・・週刊誌も、自分の文章や考え方と比較してみると面白いかもしれません。
運動部と兼部で文芸部もやっているので、参考にしてみます(^-^)
そして、『藪の中』。
この記事、嬉しかったです。実はちょっとしたきっかけで去年読んだのですが、何が真相なのか見当もつかなくて、諦めてたので。。。
テンメイさんの解説を読んでからネットでもう一度読んでみると、納得できました。
ありがとうございますm(_ _)m
投稿: ゆず | 2009年7月28日 (火) 20時58分
> ゆずさん
こんばんは
こうゆう学問的な記事はなかなかコメントが
つかないので、嬉しいですよ
週刊誌の記事に限らず何でもそうだけど、
何かを批判する時には他のものと比べてみる。
とりわけ、自分と比べてみる。
これはいつでも大切な事です。
たとえば、新潮のあの記事はレベルが低いと
僕が書く時には、ウチの記事、特に本格的
レビューが比較の対象としてある。
あるいは山Pの肉体のとらえ方なら、なぜおかしいのかを
書いた後、自分のとらえ方もちゃんと書く。
こうゆう作業を積み重ねると、自分の方も
レベルアップしていくし、それまで見えなかった
相手側の価値も見えて来たりするわけです。
で、『藪の中』ね。去年ってことは、
僕が初めて読んだ時期と同じくらいかも♪
僕も当時は、「世の中って複雑だよなぁ・・」って
感じの漠然とした印象だった気がします。
今だと、一つ一つ話をチェック、全体を整理して、
真相を解明していける。
ま、大人になったってことですよ ^^
ウチの記事を読んだ後、作品をネットで再読するって
いうのは、素晴らしいですね☆
その調子で、地道に頑張り続けて欲しいもの。
あんましKinKiにハマり過ぎないように (^^)
ではまた。。
投稿: テンメイ | 2009年7月30日 (木) 01時00分
すいません通りすがりですが
以前この題材を取り扱ったことがあり興味を持っています。
一つだけ書かせていただきますと、盗人の白状の中で「太刀で胸を突いた」といっているのですが。
盗人が逃げたあとで男が自殺したとなると、なぜ盗人は男が胸を刺したことを知っていたのでしょう?
投稿: とおりすがり | 2009年9月11日 (金) 00時06分
> とおりすがりさん
はじめまして。コメントありがとうございます♪
まず、ご質問の文を少し変更させて頂きます。
「盗人は男が胸を刺したことを知っていた」というのは
ミスリーディングな(誤解を招きやすい)表現でしょう。
僕の説に合わせる形にしたのかも知れませんが、
より正確には、こう言うべきです。
①盗人は男の胸を刺したと言い、
それが致命傷だと示唆した。
②男と女と木樵りの話からも、
男の致命傷は胸の傷だと思われる。
まず、①②から、男の致命傷は胸の傷だと
いうのが事実だとしましょう。
全員一致の点で、特に問題も見当たりませんからね。
すると①が直接示してるのは、盗人がその事実を
知っていたという事とは限らず、差し当たりは、
盗人の話が事実と一致したということだけです。
盗人は取り調べを受けてるわけだから、当然
男が刺殺されたことくらい知ってるでしょう。
どこを刺されたのか、一般的にメジャーな場所は、
頭部、首、胸、腹の4ヶ所。
すると、単なる偶然でも確率25%で的中します。
でも、実際はそれより高い確率になるでしょう。
と言うのも、剣道でも、首を突くのは難しい。
いきなり頭部を刺すというのも、あまり聞かない話です。
表面積の大きさを考えても、致命傷が胸のものだと
いう確率は30~40%程度あると考えられる。
これは、単なる偶然でも十分起こり得る現象です。
この程度の確率の偶然では納得できないのなら、
もう少し現実的な説明も加えましょう。
『藪の中』では、取調官(=検非違使)の言葉が
省略されていますが、当然色々喋ったはず。
その中に、胸の傷に関するものがあったと
しても何の不思議もない。
今でさえ、ありがちな話だし、まして1000年前の
取り調べ。かなり大雑把なものだったでしょう。
不注意はもちろん、誘導尋問の可能性もあります。
最後に、それでも引っ掛かると言うのなら、
別の角度からも補足しましょう。
胸の傷という話が、もし殺人犯しか知り得ない事実
なら、盗人が殺人犯だという有力な証拠になります。
ところが、明らかにそうではない。
現在の裁判を考えても、たかが傷の場所を正しく
胸だと供述した程度では、とても有罪にはできません。
疑わしきは罰せず。推定無罪。
だから、胸の話だけから盗人を犯人だとして
罰するのは無理があります。
それに対して僕の説は、誰も殺人犯としては
処罰しないものです。
男は単なる自殺(未遂)者。
女は、悲惨な犯罪に遭遇して気が動転、
自分を責めることになった気の毒な被害者。
盗人は、既に自分の命を諦めて、最後に
虚栄心と反骨精神を見せてるだけ。
したがって、僕には有罪の立証責任もないのです。
と言う訳で、『藪の中』は僕にとって、
少なくとも不思議な話ではない。
ただし、これよりも説得的な真相がもし
見つかれば、そちらを支持するでしょう。
自分にとって一番納得できる説明は何か。
あくまで、各個人における比較の問題です。
ただし、様々な説明の間でも、支持する人数の
違いとか、支持の度合いの違いは生じるでしょう。
なお、『藪の中』の真相解明を求める姿勢自体を
否定する立場は、この知的ゲームに参加する気が
無いと言ってるわけだから、別に構いません。
単なる好みの違い、生き方の違いですからね
P.S.ウチはコメント欄を自由にしてる代わりに、
名前を書いて頂いてます。
自分の言葉に責任を持ち、常識的なマナーを
保って書きこむように、ということです。
過去4年間、繰り返し強調して来ました。
今回のコメントは内容もマナーも問題ありませんが、
「とおりすがり」というのは、他人と識別可能な
名前にはなってません。
もし、再びコメントする機会がありましたら、
今度は自分の名前を書いてください。
投稿: テンメイ | 2009年9月11日 (金) 20時14分
こんにちは~
ココに食いついたのは…
「多襄丸」と聞いて、小栗旬君が思い浮かんだから
ちょうど映画になる頃で記事に?
なんてテンメイさんは違うかな。
お陰で、映画『TAJOMARU』が楽しみになってきましたよ~。
ちょうど本日公開
「真相は藪の中」。。。へ~、ここから来てたんですかぁ。
勉強になりました。って遅いか!
小栗君効果で「藪の中」は死語になるどころか復活し、
流行語にもなってしまうかもよん。チガウカ
でもこういう言葉の語源って面白いですよね。好き~。
三国志とか…
良く知らないけど、映画とかで発見したり
持続力がない私は小説が苦手。
面白かったドラマや感動した映画でも、
本屋さんで見る分厚い原作には、読んでみたくても手が出せない
ドラマに限らず小説まで解読してくれるなんてありがたや~。
文学青年でもあるのね~、テンメイさん
って訳で、読んでみようかなぁ。。。
テンメイさんの文学記事ヾ(゚∇゚*)ソッチ?(笑)
そうそう『春琴抄』も映画で観ました。
百恵&友和ゴールデンコンビ
昭和の思い出だわね~('▽'*)。。oO
投稿: mana | 2009年9月12日 (土) 11時25分
> mana さん
こんばんは
「重い記事」にいらっしゃったなと思ったら、小栗旬ね
道理で絵文字が多いこと♪
一応、ニュースは小耳に挟んでたけど、
この記事は関係ないし、全く忘れてました。
そうか、9月12日公開だったんだ。
それで「たじょうまる ネタバレ」とか妙な検索が
入ってたのか。「襄」って漢字をスルーしたわけね♪
「TAJOMARU」と書くのもダルイし。
『藪の中』での検索も地味に増えてます。
早速公式サイトを見たけど、いきなりたっぷり映像を
見せてくれるから、映画は見なくていいかも ^^
原作『藪の中』って言っても、かなり大胆な翻案☆
新人脚本家かと思ったら、ベテラン・市川森一か。
で、持続力がないから小説が苦手?
それなら、芥川ほどふさわしい小説もないでしょ♪
短くて面白くてネットなら無料。しかも有名で高評価☆
ウチでも記事を書いてる『蜘蛛の糸』なんて、
小学校5年の教科書に採用されてるほど。
文才DNAの豊かな mana さんなら楽勝でしょ
あ、ヨイショしたから何かください ^^
僕は文学青年って言うより、昔読んでたって感じかな。
実家に子供向けの全集があったこともあって、
小中学校でそこそこ読んでますが、
その後、小説はあんまし読んでません。
特にブログを始めてからは、ドラマの原作くらい。
『春琴抄』って、百恵&友和なんだ!
・・って言うか、百恵って誰?(^^)
昭和は苦手だなぁ。。平成世代の僕には、
『東京ラブストーリー』(平成3年)が限界です♪
投稿: テンメイ | 2009年9月13日 (日) 19時15分
今更この記事にコメントするのはどうかと思いつつ、読んだそのままの勢いで書き込ませてもらいます。
具妻行丹波国男 於大江山被縛語では盗人は着物までは盗んでいかなかった、とのことですね。
僕は芥川さんの本をほとんど読んだことがありません。
ですがこれに対する芥川さんの解釈が藪の中であったと感じました。
それは多襄丸が言っていた
「何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。
どうせ女を奪うばうとなれば、必ず、男は殺されるのです。ただわたしは殺す時に、腰の太刀たちを使うのですが、
あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。
なるほど血は流れない、男は立派りっぱに生きている、――しかしそれでも殺したのです。
罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません」
この「どうせ女を奪うばうとなれば、必ず、男は殺されるのです」の殺されるとは実際に殺すのではなく。
殺されたも同然だという事だと思うのです。
つまり着物まで盗らないという事は襲った事により殺したも同然の女の着物までは盗らないという解釈です
そして藪の中では三人は真実が明るみに出れば殺されたも同然、ならいっそ罪をかぶろうとします。が
僕は夫の霊が言っていることは全て本当の事だと思うのです。
なぜなら先ほど上げた考えを前提にして見ると明るみに出れば殺されたも同然の真実が夫の霊だけ既に出てしまっているのです。
それは妻を目の前で奪われたという事です。
そして夫の霊が言っている事が真実だという前提で見ると、妻が隠したいのは多襄丸について行こうとした
事と、夫を殺すようにけしかけた事です。
そして多襄丸にはこの真実を隠す必要がないと思われるかもしれませんが、ここからは完全に僕の解釈です
多襄丸が隠したかったのは、夫を殺すようにけしかけた妻を良しと思わない自分です。
殺したも同然の夫を殺そうとする行為は、
具妻行丹波国男 於大江山被縛語でいう着物まで盗ってしまう行為なのです。
多襄丸が本当にこの考えを隠したがっている描写はないかもしれませんが、世間で通っている多襄丸は女好きで、昨年の女房と女の童を殺したのも自分だと「自分から言っています。」
自分から言うと言う事は多襄丸にとって女好きな事も昨年の殺人も自分にとって殺されたも同然には値しないからこそ「自分から」言えるのではないでしょうか
以上ですが、ここまで書き終える頃には当初の勢いは薄れて気恥ずかしさが増すばかりです。
そもそも本をほとんど読まない人間ですので、これをきっかけに色々な本に触れてみたいと思います。
投稿: unknown | 2016年2月10日 (水) 12時55分
> unknown さん
はじめまして。コメントどうもです。
まず、コメント欄には自分の名前を書いてくださいと
私は上で書いてますが、気付かなかったのだと
解釈しときます。
「unknown」は「自分の名前」とは言えませんから。
さて、ご主張の序盤のポイントは、
「女を奪うと女も夫も殺されたも同然。
ただし実際に殺そうとはしない」と多襄丸は
考えてるのだ、ということでしょうね。
その解釈は、芥川の文章から考えて難しいと思います。
「男は殺しても、女は奪おう」、
「わたしは殺す時に、腰の太刀を使う」、
「できるだけ男を殺さずに、女を奪おう」、
「切れ切れに叫ぶのを聞けば・・・・・・
男を殺したい気になりました」、等々。
これら全ては、殺されたも同然にすることでなく、
普通の意味で殺そうとすることを表してます。
特に最後の引用は、女を奪った後の気持ちの話だと
いう点が注目されます。
ただし、実際には刺さなかったという点は
私の考えとも同じです。
一方、ご主張の中盤のポイントは単なる
読み落としのように感じます。
「僕は夫の霊が言っていることは全て本当の事だ
と思うのです。
なぜなら先ほど上げた考えを前提にして見ると
明るみに出れば殺されたも同然の真実が夫の霊
だけ既に出てしまっているのです。
それは妻を目の前で奪われたという事です。」
妻が夫の目の前で奪われたというのは、
夫の霊だけでなく、3人一致してる主張です。
もう一度、小説をご確認ください。
多襄丸「わたしはとうとう思い通り、男の命は
取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。
男の命は取らずとも・・・・・・
所が泣き伏した女を後に、藪の外へ・・・」
妻「男は、わたしを手ごめにしてしまうと、
縛られた夫を眺めながら、嘲るように笑い
ました。夫はどんなに無念だったでしょう。」
最後に、ご主張の終盤は、ご自分でもお分かりでしょうが、
一応あり得なくもないことを独自に想像してみた、
といった感じでしょう。
「多襄丸が隠したかったのは、夫を殺すように
けしかけた妻を良しと思わない自分です。」
という見方は、確かに面白いと思います。
ただ、直接的な根拠らしきものが見当たりません。
逆に、女がどちらか一人死んでくれと言った後、多襄丸は
「わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。」
と語ってます。
もし多襄丸が「良しと思わない」のであれば、
こうゆう文章のつながりにはならないでしょう。
たとえ仮に、自分の思いを隠そうとしてたにせよ。
むしろ、「その時、不思議なことに、女を殺したい
気になりましたが・・・」などと書く方が自然です。
なお、色々と書きましたが、もちろん、
フィクションの解釈というものは原則的に個人の自由です。
本を読んで、自分で考え、自分で書く。
とても知的な営みなので、お互い続けていきましょう。
それでは、私のレスはこの辺で。。
投稿: テンメイ | 2016年2月11日 (木) 21時29分