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谷崎潤一郎『春琴抄』とマゾヒズム

明治の末期から昭和の高度成長期にかけて、長く活躍し続けた文豪、

谷崎潤一郎。実生活でも三度の結婚を経験した彼の作品が、性愛に満

ちており、特にマゾヒズムやフェティシズム(足フェチ)との関連が深い

とは、実際に読んだ人にとっては明らかなことだ。それどころか、読んで

ない人でさえどこかで耳に挟んでいるかも知れない。

                

たとえば晩年の代表作『瘋癲老人日記』の終盤では、瘋癇(ふうてん=

通常の生活をはみ出して世間をふらふら生きる人)の老人が若い女の

足型で墓石をつくり、その下で永遠に眠るという妙な話が出てくるのだ。

その石は薬師寺の「仏足石」(お釈迦様の足型の石)の模倣とされ、老

人は自分の死後、その石の下で「足」に踏まれながら叫ぶことを夢見る。

     

   痛イ、痛イ・・・痛イケド楽シイ・・・生キテイタ時ヨリ遙カニ

   楽シイ・・・モット踏ンデクレ、モット踏ンデクレ 

                  (新潮文庫『鍵 ・ 瘋癲老人日記』,p.217)

                   

ここからも分かるように、母への愛から生じたとも言われる谷崎の足フェ

チとは、主に足首から下の「足」(foot)に対するもので、股下全体の「脚」

(leg)へのこだわりは少ない。その意味で、ここでは「足フェチ」という書き

方をしておこう。ちなみにウィキペディアの谷崎の項では、両者を区別せ

ずに「脚フェチ」と表記してあるが、足(foot)へのこだわりというのはかな

り少数派の特殊な性癖だから、一応分けた方がいい。

                     

こうしたマゾヒズムや足フェチについては、去年の冬のドラマ『あしたの、

喜多喜男』(原作は島田雅彦『自由死刑』)の第二話レビューで、突っ込

んだ議論をしておいた。ポイントだけ、ここにまとめ直しておく。

               

   マゾヒズムとは普通の意味だと、苦痛や恥辱を好む心理・傾向

   だけど、しばしば足フェチ(あるいは脚フェチ)と結びつく。ところ

   で、苦痛や恥辱とは自分という存在を「下」に向かわせるものだ

   し、足は人間の身体の一番「下」にある部分だ。そこでマゾヒズ

   ムを広く解釈して「下に向かう傾向」と捉え直してみよう。。

             

そうするとドラマの場合、自殺願望の強い喜多喜男(小日向文世)がひざ

まづいて、しのぶ(吉高由里子)の足裏を笑顔でもみ続けたシーンがよく

分かる。一方、『瘋癇老人日記』でマゾヒストの墓石が足型になることも、

『春琴抄』の冒頭が上下関係のある二つの墓石の話から始まることも、

よく理解できるのだ。死とは、生やエネルギーの一番下であり、フロイトの

精神分析理論を持ち出すまでもなく、マゾヒズムの極致ともいうべき状態

なのだから。

                              

         ☆          ☆          ☆

という訳で、「下に向かう傾向」の中に、マゾヒズムと足フェチ、さらには死

に接近する傾向をまとめてみた。で、いよいよ『春琴抄』(しゅんきんしょう)

の話だが、この1933年(昭和8年)の短編小説の題名は、今なら『春琴

について』とでも言い換えた方が分かりやすいだろう。

                    

主人公・佐助が溺愛した女性は、本名・鵙屋琴(もずやこと)。後に和楽器

のお琴や三味線の師匠・春松検校から「春」という一文字をもらって、春琴

と名乗ることになる。彼女について、佐助が残した「鵙屋春琴伝」という小

冊子を中心に、語り手が淡々と2人の特殊な人生を探るのがこの小説だ。

               

先日記事にした太宰治『人間失格』と比べると、遥かに客観的な視点から、

抑制された語り口で書きつづられていて、物語というよりは事実描写に近

く感じられる。正直言って、おそらく今だと退屈に思う読者が多いだろう。

実際、私が昔買った時にはつい飛ばし読みしてしまったし、その新潮文庫

の解説(西村孝次)を読むと「人物の心理が書けていない」という批判もあ

るようだ。さらに、最近の小説で特に多用されてる「会話」、つまり言葉の

やり取りが非常に少ないのも、無味乾燥に感じられるだろう。

                                      

ただ、要するにこれは文学であって、言語芸術なのだ。芸術には「新しさ」

や「差異」、実験的試みが必須だが、面白さや分かりやすさは不可欠では

ないし、心地よさもさほど重要ではない。ドラマ(あるいは映画)と違って、

一般ウケしなくてもよい。独特の視点から客観的に語りつつ、よく読むと

主観的な内容がかなり織り込まれている、『春琴抄』の繊細かつ技巧的

な書き方自体、文体そのものが芸術=アートなのだ。

                     

その最も目立つ単純な特徴を挙げるならやはり、斬新なまでの改行と句

読点とカッコの少なさだろう。改行や読点(、)、あるいはカッコならともか

く、句点(。)まで省略されてしまうと、最初はかなり違和感があるが、不

思議なことにすぐ慣れてしまう。もちろん谷崎の文章が上手いということ

もあるだろうけど、案外日本語の表記にとって、句点は無くてもいいのか

知れない。

             

今まで考えてもみなかったそんな事をふと感じさせるだけでも「文学」だし、

おそらく脳科学的にも普段と違ったプロセスが生じてるだろうから、脳トレ

にもなるのだ。何なら代わりに、心が磨かれるとか、感性や理性が洗練

されると言ってもいい。。

            

       ☆          ☆          ☆

一方、物語=ストーリーのあらすじはこうなる(ネタバレ注意)。金持ちの

お嬢様で天才肌で容姿端麗だけど、盲人で性悪な春琴。そのお世話係

になった四歳年上の佐助は、意地悪されたり泣かされたりしながらも、ひ

たすら彼女につくし、自分でも密かに琴や三味線の練習を始める。やが

て、春琴が佐助に教えるようになり、更にこの師弟は男女としても結ばれ

て子供が出来るのだけど、春琴はその子の父が佐助だとは認めないし、

佐助も彼女に遠慮してはっきりとは認めない。

                                                      

公には認めないけど実質的に夫婦生活を営む中、敵の多い春琴に衝

撃的な不幸が訪れる。何者かが侵入して、春琴の美しい顔に熱湯を浴

びせたのだ。盲人でありながらも容姿の美しさに自信を持っていた彼女

は、火傷の痕を見られるのを極端に嫌がる。そこで佐助は、自分の両

目をつぶしてしまい、その時初めて春琴は佐助への素直な感謝と愛情

を全身で表現する。その後も2人の共同生活は続き、死後の墓石まで

連れ添うことになるのだ。ただし、生前の上下関係はそのまま。あくまで

佐助の墓石は脇で控え目に。。

      

さて、この物語においては、世話係であってしかも琴の弟子である佐助

という存在全体がマゾヒズムの体現だと言える。そもそも、相手は四歳下

の女性(最初は九歳のワガママ娘)なのに、繰り返し泣かされながらも、

ひたすら誠実に仕えるのだ。これが単なる忠誠心とか勤勉さではない

とはあちこちから読みとれるが、中でも足フェチの描写は際立っている。

                          

寝床で冷え性の春琴の足を自分の胸で温めていた佐助は、たまたま歯

痛で顔が火照っていたから、足の裏を自分の頬に当てる。おまけに、気

付いた春琴に思い切り足で蹴られてしまう。これだけなら、本当に頬が腫

れてただけで、失礼な行為をたしなめられただけのようにも思われるけ

ど、実は直前に、春琴の足を称賛する佐助の言葉があるのだ。

               

こうした関係を、単にサディストの女王様とマゾヒストの家来との変態カッ

プルとだけ見るのなら、この作品はその種の通俗的小説の中でも退屈な

出来損ないにすぎないだろう。しかし、文体の妙味や抑制された記述に

加えて、やはりそこには普遍的な愛が描かれているのだ。佐助が自分で

目をつぶした直後、物語のクライマックスを引用してみよう。読みにくい

が、二人の会話の記述だ。

            

   佐助痛くはなかったかと春琴が云ったいいえ痛いことはござり

   ませなんだご師匠様の大難に比べましたらこれしきのことが

   何でござりましょう・・・よくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ、

   ・・・本当の心を打ち明けるなら今の姿を外の人には見られて

   もお前にだけは見られとうないそれをようこそ察してくれました。

   あ、あり難うござい升その言葉を伺いました嬉しさは両眼を失う

   たぐらいには換えられませぬ・・・佐助もう何も云やんなと盲人の

   師弟相擁して泣いた   (新潮文庫,pp60-61)

              

ここに見られるのは、SM的倒錯とか異常な愛だけではなく、ごく普通の

男女の愛でもあるだろう。愛する男にだけは自分の醜い姿を見られたく

ない女。その気持ちを理解して、決して見ないようにすると共に、女と同

じ境遇で生きて行こうとする男。それを受け入れて、素直に感謝と情愛

の気持ちを表す女。ただし、たまたま女が極端な不幸に遭遇したから、

男が極端な行動を取ることになったわけだ。もちろん、男の被虐的な

性癖も加わって。

                

あらためて考えてみると、マゾヒズムというものにも色々ある。たとえば、

虐待される自分自身が愛しいのか、あるいは自分を虐待して喜ぶ相手が

愛しいのか。もちろん、どちらか一方という訳ではないし、単純にどちらが

良いと言えるような話でもない。ただ、『春琴抄』の佐助の場合には、後

者の側面が強いように感じる。つまり、本質的には特定の他者への愛

あって、その意味ではわりと普通のものなのだ。

                      

一方の春琴のサディズムについても同様に考えてみると、自分に虐待さ

れて喜ぶ相手が愛しいというよりも、上に立って虐待する自分自身が愛

しいのだろう。だからこそ、佐助に限らず誰に対しても加虐的だったのだ

し、人目をはばかる容姿になってからは強気が薄れてしまったしまった

のだ。もはや上に立つ要素が大幅に薄れてしまった自分を愛することは

難しい。

                       

とはいえ、そんな自己愛的な彼女にも、他者への愛の萌芽は昔からあっ

た。たくさんの小鳥を飼っていたのだ。佐助も含めて、あくまで自分の手

の中にある小さな存在たちを、いくつも同時に愛する思い。それを一気に

一人の男へと収斂させたのが、佐助の極度に過激な愛情表現だろう。

           

その意味で、佐助の目が閉じられた時に初めて、春琴の目が開かれた

のだ。自分とほぼ対等な存在、他人への愛に対して。逆に、佐助の目は

まさに閉じられてしまったのかも知れない。目の前、間近にいる現実の

春琴ではなく、記憶の中で自分の思い通りに、美しい春琴のイメージ

作り上げ、生涯にわたって保つことになったのだから。この現実逃避が

不幸よりも幸福を招く辺りが、人間の生の複雑さというものだろう。。

        

         ☆          ☆          ☆                  

最後は小説の最後、非常に美しい文章の引用で締めくくるとしよう。谷崎

についてはいずれまた記事を書くつもりだ。その中で、今回は触れる余

裕が無かった視覚・触覚・聴覚の問題にも触れるかも知れない。琴にせ

よ盲人にせよ、触覚と聴覚が重要なのだから。あと、サディズムについて

も改めて考えてみる必要があるだろう。当然それはマゾヒズムへの再考

にもつながるし、両者の複雑かつ非対称的な関係も見えて来るはずだ。

ではまた。。☆彡 

                                   

   斯くて佐助は・・(中略)・・八十三歳と云う高齢で死んだ察する所

   二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違っ

   た春琴を作り上げ愈々(いよいよ)鮮やかにその姿を見ていた

   であろう佐助が自ら目を突いた話を天竜寺の峩山和尚が聞いて、

   転瞬の間に内外を断じ醜を美に回した禅機を賞し達人の所為に

   庶幾(ちか)しと云ったと云うが読者諸賢は首肯せらるるや否や

                                  (同上,p.67)

        

                    

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

cf.芥川龍之介『蜘蛛の糸』と鈴木大拙訳『因果の小車』

  芥川龍之介『藪の中』の真相

  太宰治『人間失格』、軽~く再読♪

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  母を抱擁するマゾヒスト~『あしたの、喜多喜男』第2話

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