学問一般に言えることだが、偉大な古典とか難解な書物というものは、
自分で本当に読んでる人は意外なほど少ない。別に外国語の原書に限
らず、翻訳さえあまり読んでないことが多くて、大抵が何かの解説本の
請け売りとか、孫引き(元の著作からの引用の引用)に過ぎないのだ。
これは、専門家レベルでさえ珍しくないことだと思う。
日本の人文系の学者に限ると、欧米との言語の差が顕著だから、自分
の専門分野に限っては、それなりに原書は読んでるだろう。ところが理
系の学者の場合、古典的著作に関してはほとんど無頓着な人が多い
ように思われる。これは一応理解できることで、要するに理系は、最新
の動向とか一般的事実を知ってれば十分なことが多いわけだ。
しかし、理数系科目の中でも特殊な位置にある数学について、その根
本を考える時、すなわち、数学基礎論的な考察を行う時には、例えば
古代ギリシアのユークリッド(=エウクレイデス)の『原論』などは、いまだ
に熟読に値する本だろう(いずれ扱う予定)。他にも幾らでも「必読文献」
はあるはずだ。
今回、私がこだわったのは、「ペアノの公理」とか「自然数の公理」という
自然数論の業績で有名な、イタリアの数学者ジュゼッペ・ペアノ( Giuseppe
Peano )の論文「数の概念について」[ Sul concetto di numero,1891]だ。
関連論文「数学的論理学の公式」[ Formole di logica matematica ]と共
に、共立出版『数の概念について』に収められている(小野勝次,梅沢敏
郎訳)。
残念ながら、イタリア語の原論文はネット上で発見できてないし、国内の
所蔵図書館でさえ僅かだから、差し当たりは諦めよう。何しろ、「数の概
念について」のイタリア語の原題さえなかなか見つからず、翻訳本にさえ
書かれてないほどなのだ(単なるミスだろう)。
それでも、数式や記号の表記に関しては原書と翻訳で同じであって、重
要な公理・定義・定理などに関しては、ペアノ自身の記述に触れることが
出来た。論文自体は短いけれど、中身は深くて濃密だから、何回かに分
けて記事にしよう。。
☆ ☆ ☆
今回はまず、最も根本的な、自然数とは何かということについて扱う。以
前に書いたように、複素数に至るまで様々な数が、自然数から構成され
るのだ。現在の数学では、0も含めて考えることが少なくないようだが、
普通の扱いでは1から2、3、4・・・と続く数だし、ペアノでもそうなってる。
ところが現在、ペアノの自然数の公理を「紹介」する際には、0から始め
てることが多いようだ。実際、私が前に記事で使った『現代数学小事典』
(講談社)も『新版 現代論理学』(東海大学出版会)もそうだし、ウィキ
ペディアの英語版だけでなく、イタリア語版まで0から始めている(日本
版については後述)。
まず『小事典』から、わりと普通の形の「ペアノの公理」を引用してみよう。
以下、Nは自然数全体を想定した集合。「´」は以前のウチの記事でも使っ
てたもので、自然数に対して「次の数」(successor)を対応させる記号だ。
つまり下の「n´」とは、日常的な書き方だと「n+1」のこと。先行する研究
者・デデキント(R.Dedekind)の表記法に従ったのだと思う。では、始めよう。
Ⅰ 0 は N の要素である。
Ⅱ n が N の要素ならば n´ も N の要素である。
Ⅲ Ⅰ、Ⅱの過程で得られるものだけが、N の要素である。
Ⅳ N のどの要素についても、n´ は 0 と等しくない。
Ⅴ Nの2つの要素 m と n とについて、m と n とが等しいとき、
かつそのときに限って m´ と n´ とが等しい。
これらの公理系がみたされるとき、N を自然数の集合といい、その
要素を自然数という。
Ⅰ、Ⅱ、Ⅲだけから、自然数の集合Nは0,1,2,3・・・だと決定するよう
にも見えるし、特にⅣは不要にも感じられる。この点について『小事典』で
は、Ⅳ、Ⅴは「等しい」ということ(=の使い方)に関する基準だと説明して
ある(それにしてもⅤは回りくどい)。また、Ⅲの形をした公理は、自然数
に限らず見られるもので、一般に「排他公理」と呼ばれるものだと補足し
てある。Ⅰ、Ⅱの過程で得られるものの他は排除するから、「排他」と呼
ばれるのだ。
ちなみにこのⅢは、日本版ウィキや『論理学』だと全く違う書き方になって
いる。比較的分かりやすいウィキを少し参考にして、Ⅲを書き直すなら、
「0がある性質を満たし、aがある性質を満たせばa´もその性質を満たす
とき、すべてのNの要素はその性質を満たす」となる。この形なら、高校
数学でもお馴染みの「数学的帰納法」、あるいはその基礎だと、すぐ分か
るだろう。実はこの方が、ペアノ自身の表記に近い。『小事典』は、かなり
筆者独自の解釈が入ってるような気がする。
☆ ☆ ☆
では、いよいよペアノ自身の記述について。書き方が非常に独特なもの
になってるし、「公理」という言葉も使われてない。運よく、ハバート・ケネ
ディ(Hubert Kennedy)がネットで無料公開しているペアノ関連の論文集
『Twelve Articles on Giuseppe Peano』を発見できたので、そこからコピー
&ペーストさせて頂こう。パソコンの普通の文字だと、感じが出ないのだ。
訳本だとp.93にある上の5つの文字式は、「原始命題」とされている。
つまり、他からは導けない、最初に位置する命題だから、現代では「公
理」と言い換えるのだ。この言い換えが可能かどうか、そもそも気にな
る所だけど、ここではとりあえず流しておこう。それよりも、この書き方自
体の解説が必要だ。
珍しく、日本版ウィキが「ペアノ自身による記述」としてキレイに訳してる
ので(「ペアノの公理」の項目ラスト)、番号だけ追加して引用してみよう。
Ⅰ 1 は自然数である
Ⅱ 任意の自然数 a に対して、a+ が自然数を与えるような右作用
演算+が存在する
Ⅲ もし a,b を自然数とすると、 a+ = b+ ならば a=b である
Ⅳ a+=1 を満たすような自然数 a は存在しない
Ⅴ 集合 s が二条件「(i) 1 は s に含まれる, (ii) 自然数 a が s に
含まれるならば a+ も s に含まれる」を満たすならば、あらゆ
る自然数は s に含まれる。
これで大体、ペアノ自身が何を何番目に書いてるかは理解できる。注目
すべきは「+」という記号の使い方で、日常的には「1+2」のように、前
後に数を並べる記号なのに、ここではある1つの数の右側に付加されて
るだけなのだ。つまり、『小事典』だと「´」とだけ書いてたもので、厳密な
な言い回しだと「右作用演算」ということになる。
もう1つ、注目すべきはⅤで、集合「sに含まれる」という言い回し。これ
は前の「数学的帰納法」の表現だと、「ある性質を満たす」に相当する。
つまり、s とはある性質を満たす数の集合のこと。また、『小事典』のⅢ
は、ペアノ自身では5番になってるのだ。
さらに細かく、ペアノ自身の書き方を見てみよう。「1εN」は、今の書き
方だと「1∈N」。つまり、「1は集合Nの要素である」。0ではなく、1から
スタートしてるのだ。続いて「+εN/N」とは、「+は、“Nの要素からNの
要素への対応づけ(or 演算)全体の集合”の要素である」と読む。+とは
自然数の中での関数記号ということだ。集合の要素という話を多用して
るから、読みづらくなっている。
3番の右側は、今の書き方だと「(a+=b+)⊃(a=b)」。カッコの代わ
りに黒い点を使って、その数が1個、2個、3個と増えるほど、区切りが強
いことにしてある。4番は、今だと「『1∈{x+1|x∈N}』ではない」。この
「ではない」ことを示す記号をパソコンで打てないので、仕方なく日本語で
書いてる。要するに、1は、Nの各要素を+1ずつずらした集合N+には
入ってないということ。1が最初、または左端だと言ってるのだ。
ラストの5番が内容的には最も分かりにくい。前半は、sはK(集合)であっ
て、1はsの要素だ(=ある性質を満たす)と条件を付けてるにすぎない。
その後は、今の書き方に翻訳すると「((s+)⊆s)⊃(N⊆s)」。つまり、
集合 s をプラス1ずつズラした集合が s に含まれる(=ある性質を満た
す)なら、N全体も s に含まれる(=その性質を満たす)。要するに、数学
的帰納法だ。
今だと、部分集合の記号、つまり集合が別の集合に含まれることを表す
「⊆」と、論理的な「ならば」を表す「⊃」は似て非なる記号を使うけど、ペ
アノでは同じ記号(Cを左右逆転させたようなもの)なのだ。
☆ ☆ ☆
最後に、もっと本質的な問題を改めて書いとこう。それは、これら5つが
何なのかということだ。ペアノでは「原始命題」、つまり他から導けない最
も基礎的な話とされていた。これを現代では「公理」と受け取ってる訳だ
が、「原始命題」と「公理」が本当に同じかどうかはかなり気になる所だ。
今の所、少し違うような気がするものの、はっきりした事はまだ言えない。
あと、これら5つが何を行ってるのか、どのような意義を持つのかも問題
だ。日本版ウィキは、「自然数そのものを定義しようとはしなかった点に
は注意・・・」と書いているが、この点は微妙だ。
確かに「定義」とはされてないものの、実際には5つの性質で、我々は「1,
2,3,4・・・」みたいな集合しか思いつけない。ダッシュを使って「1,1´,
1´´・・・」と書こうが、集合論のカッコで「{ { } }, { { },{ { } } },・・・」
と書こうが、本質的には何も変わらない。
したがって実際上、ペアノの5つの原始命題は、自然数の定義として機
能することになる。だからこそ、『小事典』は「定義」として扱ってるのだ。
ただし、そこで使われてる「1」とか「+」は、明確な定義が与えられてい
ないから(いわゆる無定義語)、5つの命題も厳密な意味では定義と言
えないのだ。
☆ ☆ ☆
以上、今回は、ペアノの自然数論の原点とも言うべき「ペアノの公理」を、
原論文に即して考察してみた。次はいつになるか分からないが、最も初
歩的で基礎的な算術、足し算(加法)を考察する予定だ。今回、右作用
演算の記号であった「+」が、左右作用演算の記号に拡張される。つま
り、我々が普通に「1+2」などと書いてるように、2つの数に対する計算
(=2変数関数)になるのだ。
なお、ペアノの公理の初出をこの「数の概念について」とする考えは、日
本版ウィキにもあるものだが、もしかすると翻訳者(とりわけ小野)を代表
とする一部の学者の見方にすぎない可能性はある。世界的には、多数
派でさえないかも知れない。
実際、欧米ではこの論文はあまり話題になってないし、そもそもなぜペア
ノの論文であって、デデキント(R. Dedekind)の「数とは何か、何であるべ
きか 数の本質と意義」(岩波書店『数について』所収)ではないのかとい
う問題もある。加法も含めて、先行者のデデキントの方がむしろ明晰に
感じてしまうのは事実だ。
ともあれ、今日はもう時間だ。ひとまず、この辺で。。☆彡
P.S. 約4年後の13年12月、足立恒雄『フレーゲ・デデキント・ペアノを
読む』(日本評論社)に目を通してみた。ペアノの公理系(のような
もの)は、先行論文『算術の諸原理』(1889)で既に一応登場して
たが、より公理的な扱いになった論文が2年後の『数の概念につい
て』のようだ。足立の記述を見ても、やはりペアノという数学者はな
かなか評価が難しい大物なんだろう。。
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cf.「1+1=2」はなぜか?~ペアノの自然数論(足し算)
「1×1=1」はなぜか?~ペアノの自然数論2(掛け算)
引き算の証明、負の数~ペアノの整数論(減算=減法)
集合論における自然数の表記と計算
0、1、「次の数」に関する哲学的考察~フレーゲ『算術の基礎』
デデキントの「切断」による実数の構成~対角線論法2
「1+1=2」はなぜか~小学1年生の算数の教科書
引き算、足し引き連続、0(ゼロ)~小学1年生の算数2
掛け算の導入、足し算・引き算との関係~小学校の算数3
同じ数ずつ分ける計算、割り算(除法)~小学校の算数4
原始リカーシヴ関数と足し算(加法)、掛け算(乗法)
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