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罪の改釈、教義への柔らかい挑戦~朝日新聞「自殺と宗教・下 キリスト教」

朝日新聞の4月10日朝刊・文化欄に、「自殺と宗教 下 キリスト教」と

題する記事が掲載された。6日の「上 仏教」に続くもので、筆者も同じ

磯村健太郎記者。大見出しは、「『罪』の解釈 問い直す」、中見出しは

人の弱さ包む優しさ伝える」だ。

     

記事全体の論調は、前回と同じかそれ以上に、自殺に対して温かいま

なざしになっている。扱われている内容も、今までキリスト教は自殺に冷

たかったけれど、最近は温かくなって来た、という話。ただし、仏教の時

よりも、過去あるいは現在に至るまでの冷たさが明確に示されている。

     

キリスト教では「命は神に与えられたもの」というのが大前提だから、

殺は「罪」。カトリックの以前の教会法では、自殺者に対するミサや埋葬

などの禁止が定められてたとのこと。83年制定の新教会法でほとんど

の規定が削られたものの、罪とみなす基本的立場はそのままらしい。

          

こうした歴史に対して、新たな動きが2つ挙げられている。一つは、関西

学院大学・神学部教授で、NCC(日本キリスト教協議会)宗教研究所・

研究員の土井健司の主張。昨秋の日本生命倫理学会で、代表的な神

学者アウグスティヌスの『神の国』とトマス・アクィナス『神学大全』を取り

上げ、彼らの自殺禁止を再検討。

       

どちらもむしろ自殺防止に努めていることがわかる。そもそも聖書に自

殺の是非をめぐる議論はない。聖書解釈の歴史のなかで、自殺の『罪』

にアクセントが置かれすぎた」との立場を取ってるそうだ。

       

問題となってる2冊は、どちらも我が家にあると思うけど、残念ながらす

ぐには見つからない。『神学大全』なら、Googleブックスで英語版の全

文表示があるようだけど、非常に長い書物だし、今回はチェックを諦め

ることにした。

         

その代わり、にはならないものの、英語版ウィキペディアで「Christian

 views on suicide」(自殺に関するキリスト教の見解)を閲覧。ま

ず、アウグスティヌスの自殺禁止の根拠は、聖書の「汝、殺すなかれ

とプラトンの著作『Phaedra』(パイドロスのことか?)とのこと。トマスに

ついては、自殺は神に背く行為であり、もはや悔い改めることのできな

い罪(sin)だと中傷した(vilified = けなした)ことが挙げられていた。

      

ともあれ、自殺禁止と自殺防止の違いは何とも曖昧で、恣意的な(=

思うがままの)解釈も十分可能だろうから、ここでは一つの参考意見と

して受け止めとこう。それより興味深かったのは、もう1つの話だった。

    

       ☆          ☆          ☆

自殺に対する心優しい態度の2番目は、日本カトリック司教団2001

年公式メッセージ、「いのちへのまなざし」。記事に添えられた写真も、

その記者会見だ。調べてみると、ネットでは公開されておらず、小冊子

で販売したようだ(税込315円)。他の発表は色々とHPに掲載されてい

るのに、どうしてこれは販売物としたのか、不思議な気はする。

       

とにかく、とりまとめ役の一人、森一弘司教にとって、従来のバチカンへ

の「挑戦」だったとのこと。聖人トマスの教義をくつがえすのは、司教団

にとっては難しい。そこで、メッセージという形式で、これまでの冷たい

態度を反省すると共に、人間の弱さや矛盾を包み込む神のあわれみ

や優しさを伝えようとした。

                   

ここで、朝日の記事の本文は終了。右脇には、「現実的な姿勢 心強い

というコメントが付け加えられている。自殺対策NPO「ライフリンク」代表

で内閣府参与でもある清水康之の談話で、従来の宗教の冷たさを非難

した後、最近の変化を心強いと語っている。ここでも、逆の立場のコメン

トは書かれてないから、これが朝日新聞社の絶対的方針ということか、

あるいは筆者の個人的信念なのか。。

       

        ☆          ☆          ☆

結局こうしてみると、2回の記事には、一切の異論がないことが分かる。

これまでの宗教は間違い、最近の流れが正しい、という報道だ。多くの

場合、最低限の両論併記を心がける朝日としては、異例の態度だろう。

       

私は、宗教とは現世の普通の感覚に合わせるべき存在ではないと思っ

てるので、ここまで一方的な議論が展開される状況に少し違和感がある。

もちろん、こうした新しい動きこそが、現代日本で一般ウケするものだか

ら、異論はあらかじめ厳しく封じ込められているわけだ。差し当たりここ

では、ネットで公開されていた興味深い pdf ファイルを指摘しとこう。

                   

自殺について ──カトリックの立場から」と題する、坂本堯(たかし)・

聖マリアンナ大学名誉教授の文章で、『平和と宗教 24号』に掲載され

たものだ(庭野平和財団,2005)。ここでは、例の「メッセージ」が朝日

よりも詳しく取り上げられていて、それだけでも参考になる。でも、私が

なるほどと思ったのは、そのメッセージが日本的なものだという指摘だ

(その論文の中では好意的な文脈)。

              

   「日本カトリック司教団は・・・日本の伝統に従い、日本の自殺の

    問題を人情に従って思いやりの立場から取り上げている。これ

    は諸民族の伝統を重視する第二バチカン公会議の影響が日本

    のカトリック教会に現れてきた結果であると筆者は考えている

       

日本の風土に即したヴァージョンのキリスト教が、長い間の抑圧から解

き放たれて、ようやく自立の道を歩み始めた。こう解釈するのなら、一連

の動きも、最近の風潮に合わせたものというより、土着の自然なあり方

のように見えてくる。ただ、それと同時に、西洋思想と日本の伝統の間

の矛盾も、鮮明に見えてくるわけだ。その矛盾にたいする、ある意味「日

本的」な妥協こそが、例のメッセージということだろう。

          

自殺禁止にせよ、自殺防止にせよ、温かい受容にせよ、自殺しないで

済む世の中を求める点では変わりない。したがって、その方向に社会

を変えて行くことにも問題はないだろう。ただ、それでも自殺が急に無く

なることはない。

                

自殺しようとする人、自殺した人、あるいは遺族も含めてその周辺の人

達に対して、宗教はどのように接するべきなのか、もっと本格的な議論

が行われていいと思う。たとえ今の日本が、そのような議論、あるいは

論争を許容するだけの底力を持っていないとしても、真の宗教なら、そ

のような社会に対する自律性を持ち合わせてるはずだ。

          

なお、「自殺しないで済む世の中」とは、「自殺のない世の中」とは限ら

ない。実際、私はこんな一般ウケしない重苦しい記事を「書かないで済

む」のだけれど、本当に「書かない」わけではないからだ。人間は、必

要に従ってのみ生きる生物なのではない。

         

ここで初めて、「欲望」という問題が浮上する。その観点からとらえ直す

と、今回の記事や仏教・キリスト教の流れも、全く違って見えるだろう。

とりあえず、今日の所はこの辺で。。☆彡

     

         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

cf.釈尊は自殺について価値判断せず

                  ~朝日新聞「自殺と宗教 上 仏教」

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