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芥川龍之介『羅生門』と今昔物語『羅城門』

(☆20年3月29日追記: 『藪の中』を原作とする映画『羅生門』を新たにレビュー。

 芥川龍之介「藪の中」の暗い雨に差し込む、微かな光~映画『羅生門』(黒澤明監督、1950年) )

   

      

ここ1年半ほど、学問系記事はコンスタントに書き続けてるけど、最近は理

 

数系に偏ってしまってる。そこで今日は、久々に文学に触れてみよう。1年

 

前に書いた芥川龍之介『藪の中』の解説記事は、おかげ様でロングセラー

 

になってるし、『蜘蛛の糸』の記事もそれなりにマニアックな検索を集めて

 

る。今回は芥川シリーズ第3弾。教科書にも度々採用されてる有名な短編

 

『羅生門』と、その出典である『今昔物語』の比較だ。

 

    

 

『羅生門』については新潮文庫『羅生門・鼻』を参照した。1915年(大正

 

4年)の作品だから、著作権は消滅。無料の電子図書館「青空文庫」でも

 

簡単かつ合法的に読める。一方、今昔については、芥川自身が参照した

 

可能性のある『攷証(こうしょう)今昔物語集 上、下』(芳賀矢一編、富山

 

房)を、国立国会図書館・近代デジタルライブラリーのpdfファイルで無料

 

ダウンロード可能。以前はシステムが重かったけど、今回は軽かった。

 

         

 

100727a

 

 『羅生門』の出典は、文庫本の解説(吉田

 

 精一)に二つ挙げられている。そのまま引

 

 用すると──『今昔物語』巻二十九「羅城

 

 門登上層見死人盗人語第十八」をとし、

 

 同巻三十一「太刀帯陣売魚嫗語第三十一」

 

 を部分的に挿入──(p.192、漢文の返り

 

 点は省略)。読んでみるとその通りだった。

 

      

 

 主たる出典の方は、普通に訳すと、「羅城門

 

 の上の階に登って死人を見た盗人の語る話」

 

だろう。以下、『羅城門』などと略す。平安京の大きな門のことで、羅「生」

 

と書くのは、近世までよく使われた当て字らしい(ウィキペディア)。ちなみ

 

100727b

 

 にこの門の復元模型の写真がウィキ

 

 にある。要するに二階建ての立派な

 

 門(or 楼)で、この二階が舞台なの

 

 だ。一方、部分的に挿入される出典

 

 の方は、普通に訳すと、「太刀帯(=

 

 警護官)の詰め所で魚を売った老婆

 

 が語る話」。以下、『魚売』などと略す。

 

        

 

 大物作家の小説に明確な出典がある

 

 というのは、今の感覚だと珍しいだろ

 

う。ただ、小説にせよ、映画やドラマにせよ、部分的に見るなら、出典や

 

元ネタの類はいくらでも見出せる(原作は別扱いとしても)。更に視野を広

 

げるなら、理数系の世界では、ほとんどの議論が「出典」(=先行研究)を

 

持ってるわけだ。。

 

                                 

 

         ☆          ☆          ☆

 

芥川と今昔物語の共通のあらすじをごく簡単にまとめるなら、「羅生門で

 

若い女の髪を引き抜く老婆を見た男が、老婆から衣服を奪い取る話」と

 

なるだろう。相違点や詳細は、以下で明らかにする。

 

     

 

両者を比べた時、すぐ気付くのは長さの違いだ。今昔2本合わせても

 

2ページ弱、芥川8ページ強。分量だけ見ても、現在の著作権法でさえ

 

問題のない引用・参照と言える。もちろん内容的にも、芥川には十分過

 

ぎるオリジナリティーがあるわけだ。

 

        

 

先のあらすじ以外で、物語の大枠を比較した時、今昔「悪」の世界が中

 

なのに対して、芥川「善悪の間(はざま)」から「悪」に向かうプロセス

 

を描く。文庫本解説には、「善にも悪にも徹しきれない」と書かれてるが、

 

小説の流れを見れば、悪に向かってるのは明らかだ。実際そのプロセス

 

は、「夕方」から「夜」への時間的移行としても明確に表現されている。

 

      

 

さらに、プロセス=過程の場所、間(はざま)として、門の上(=「楼の内」)

 

が使われる。そこは、下界とは切り離され、死体がいくつも捨てられてる

 

ような場所だが、墓地ではなく都の立派な建物の中だし、主人公の「下人」

 

もそこで一夜を過ごそうと思ってたほど。まさに、対立する「二つの世界」

 

の中間領域になっている。それに対して、今昔の『羅城門』と『魚売』は、い

 

ずれも一つの厳しく哀しい現実が、生々しく描かれてる。

 

                     

 

一方、登場人物を見ると、今昔『羅城門』の主人公は始めから盗人で、最

 

後も徹底的に悪人らしく振る舞い、老婆と死体の双方から奪い取るのだ。

 

それに対して、若い女(生前は主人)の死体から長い髪を盗んで鬘(かず

 

ら:付け毛やかつら)にしようとする老婆は、それほど悪人らしくは書かれ

 

てない。つまり、対比からも、主人公=盗人の悪が際立ってる

 

       

 

ところが芥川では、主人公はクビになったばかりの下人で、冒頭では、生

 

き延びるために盗人になるかどうか迷ってる。最後も、老婆の衣服は奪う

 

ものの、それは悪行と言い訳の説明を聞いた後の判断だし、死体からは

 

奪わず、その後どうなったかも明示的には描かれない。それに対して老婆

 

の方は、最初から妖怪か生き霊のように奇怪な人間として扱われてるし、

 

下人に対する言い訳(後述)もやや聞き苦しい。つまり、トータルで見ると、

 

下人も老婆も同レベル小市民的な悪なのだ。

 

                 

 

さらに、芥川はもう一人、同レベルの小市民的な悪を組み込む。それが、

 

もう1つの出典である今昔『魚売』の話で、老婆の言い訳の中に登場する。

 

つまり、髪を引き抜かれてる女も、生きるために仕方なく、蛇を干魚だと

 

称して売るような悪人だったから、疫病で死んだ後、自分に髪を引き抜か

 

れても、大目に見てくれるだろう・・・という言い訳なのだ。

 

        

 

生きるために悪事をなす人間から、自分が生きるために物を奪い取る。

 

魚売り女と老婆のこの構図が、今度は老婆と下人の間で反復される。つ

 

まり、生きるために悪事をなす老婆から、下人が生きるために衣服を奪

 

い取るわけだ。何とも哀しく残酷な光景だが、その残酷さを少し和らげて

 

るのが、老婆のネガティブな描き方。

 

                  

 

つまり、物語の最初から、この老婆は「鴉」(カラス)と同一視されてるのだ。

 

今昔にはない、門の上にある死人の肉をついばみに来る鴉を登場させた

 

後、芥川は老婆の目を「肉食鳥のような」と書き、さらに「鴉の啼くような声」

 

とも書く。このおかげで、男だけが際立って悪人になることはない。たかが、

 

小動物たちの食物連鎖が淡々と続いてるだけなのだ。それが当時の時代

 

状況だし、現在とも通じ合う側面なのだろう。。

 

        

 

          ☆          ☆          ☆

 

『羅生門』は、芥川が学生時代(東京帝大)のデビュー作みたいな作品で、

 

優秀な若者らしい理屈っぽさはさておき、私には、人間の心理描写がや

 

や単純で平凡なようにも思われる。それは、3年後(1918年)の『蜘蛛の

 

糸』と比較してもそうだし、『藪の中』(1921)と比較してもそう感じる。淡々

 

と手短に語る『今昔』と比べるなら、過剰に「近代的」な自意識にも見える。

 

      

 

ただ、その単純さや平凡さは、芥川の描写というより、現実の人間そのも

 

に属するものかも知れないし、過剰な自意識も近代そのものに属する

 

ものかも知れない。いずれにせよ、1000年以上前、平安時代末期頃に

 

成立したと言われる今昔の僅かなテキストから、学生時代にこれだけの

 

小説を書き上げる筆力は、飛び抜けた才能と言えるだろう。

 

                 

 

もう時間なので、この簡単な評論=レビューは、芥川『羅生門』のラストの

 

引用で終わりとしたい。ちなみに、個人的にはこの小説、登場人物の心

 

理よりも、当時の社会の暗さや悲惨さが心に響いて来た。それはもちろ

 

ん、今の日本の閉塞感とある意味重なるからだろう。ではまた。。☆彡

 

     

 

        

 

   ・・・下人は、剥ぎとった檜皮色(ひわだいろ)の着物をわきに

 

   かかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。

 

    暫(しばらく)、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中か

 

   ら、その裸の体を起こしたのは、それから間もなくの事である。

 

   老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃え

 

   ている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そう

 

   して、そこから、短い白髪を倒(さかさま)にして、門の下を覗

 

   きこんだ。外には、唯、黒洞々(こくとうとう)たる夜があるばか

 

   りである。 

 

 

 

    下人の行方は、誰も知らない。

 

      

 

       

 

        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

P.S.蛇と魚については、聖書にも似たような話があるという指摘をネット

 

    で見かけた。芥川の発想は今昔から来たものだと思うが、今昔と聖

 

    書の間にひょっとすると何か秘められた(間接的)関係があるのか

 

    も知れない。。

 

      

 

P.S.2 ネットで公開されてる論文、甲斐睦朗「教材研究『羅生門』:

 

      教科書の注記を中心にして」(『国語教育研究』第20号,1973)

 

      は、37年も前の研究とはいえ、なかなか興味深い。羅生門とは、

 

      多くの日本人にとって、まず教材なのであって、その注記は読者

 

      の解釈に関わるし、教員の解釈や教育指導にも関わる訳だ。。 

 

              

 

        

 

cf.芥川龍之介『蜘蛛の糸』と鈴木大拙訳『因果の小車』

 

  芥川龍之介『藪の中』の真相

 

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

  太宰治『人間失格』、軽~く再読♪

 

  谷崎潤一郎『春琴抄』とマゾヒズム

 

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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