石原慎太郎の小説『太陽の季節』、軽~い感想♪
今日は一週間の最後、日曜日。既に、週間字数制限2万字に接近してる
し、ランニング日誌&つぶやきで済ませようかと思ってたのに、あいにく1日
中、雨だった。昼間、ほんの少し止んだ時は、バッテリーのためだけにバイ
クの街乗りに出かけたから、結局まったく走ってない。いまも、外からかなり
の雨音が聞こえてくる状況なのだ。
そこで、ウチとしてはかなり珍しく、手短な書評を書いてみよう。マニアック・
サイトとしては、最低でも3000字以上のレビューを書きたい所だけど、今
週は残り1500字しか書けないのだ。どうせ、単なる立ち読みの軽い感想
だから、ちょうどいい分量かも。 (☆追記: 結局、4000字超♪)
なお、「ネタバレ」的な記事にもなるので、まだ小説を読んでない方はご注意
あれ。最後の物語のオチまで、書かざるを得ないのだ。。
☆ ☆ ☆
さて、立ち読みで短編まるごと読んでしまったのは、先日の記事で話題にし
た、石原慎太郎のデビュー作。1955年の第1回・文学界新人賞、56年の
第34回・芥川賞に輝いた、『太陽の季節』だ。恥ずかしながら今まで、題名
と賞の情報と、「太陽族」しか知らなかった。
先日の20分前後の立ち読みも、元々は単に、自分が書いた記事の文章
(ウィキペデイアから引用した小説の一部)が合ってるのかどうか、あとペー
ジ数が知りたくて、チェックしただけのこと。ところがグイグイ引き込まれて、
最後まで読んでしまった。私にとって、滅多にないことだ。
まあ、この書店では今までさんざん本を買ってるから、たまに新潮文庫の巻
頭(73ページ+扉1ページ)を立ち読みするくらい、OKだろう♪ 買わなかっ
たのは、どうせ図書館や古本屋にあるだろうし、買うと他の小説も全部、読
んでしまうだろうから。そうすると作品同士の関係も当然考えることになって、
超・軽~い感想では済まなくなってしまう。
☆ ☆ ☆
私が引き込まれたキッカケは、冒頭の3~4行目(?)にある、次の文章
表現だった。英子という女性と拳闘(ボクシング)に共通する魅力を、主人
公の少年・津川竜哉が語る箇所だ。
・・・リングで叩きのめされる瞬間、抵抗される人間だけが感じる、
あの一種驚愕の入り混った快感・・・
この文、特に「抵抗される人間」という部分の意味が分からなくて、何度も
前後を読み直したけど、それでもハッキリしない。仕方なく、その先まで読
み進めてる内に、例の当時としては過激な性的描写や、映画のキャッチコ
ピー(「俺の恋人を兄貴に五千円で売ってやらぁ!」)の話が出て来たし、そ
の後は、物語が急展開になったから、ラストまで読んでしまったわけ。
引用文に戻ると、「叩きのめす瞬間、抵抗される人間・・・」と言うのなら、す
ぐに理解できる。それなら、弱い相手が必死に粘るのを叩きつぶす強者の
快感だが、ここでは強い相手のようだ。そこで、「叩きのめされる瞬間、猛
反撃された人間」という意味かと思ったが、ちょっと違う気がする。「抵抗さ
れる」という言い回しは、自分を本当に叩きのめしてKOするような猛反撃に
はふさわしくないから。。
☆ ☆ ☆
強い相手との闘いにワクワクするといった、ありがちな男性的・格闘家的
感覚とも少し違ってる。まず、攻撃する自分が逆にやられるのだ。それで
ますます闘魂に火がつくと言うより、やられること自体にも快感をおぼえて
る。だからこそ竜哉は、再び相手に向かう時に笑顔を見せるし、得意な賭
け事でも、負ける可能性がなくなったら興味を失う。試合でも、やられる描
写の方が目立つのだ。
(以上で本日、計1455文字。以下は日付け変更後の来週分。)
ここまで考えると、若くしてフランス語や文学をたしなんでいた石原が、無意
識の内に精神分析理論の影響を受けてたと、考えられなくもない。当時は精
神分析の全盛期だし、フランスは分析の大国の一つ。「抵抗」とは、自分の
本当の恥ずかしい姿をあらわにされることを拒否しようとする、分析用語だし、
竜哉の快感は明らかに、サド=マゾ的なものだからだ。分析理論では、サド
とマゾは反転可能、両立可能だし、特にその傾向は幼い頃に目立つとされ
ている。
さて、竜哉に「抵抗される」快感を与えてくれるものには、3種類ある。サンド
バッグと、ボクシングの相手、そして、強者(つわもの)の女性・英子だ。大き
く分けると、ボクシングと女性だが、サンドバッグと相手とでは決定的な違い
がある。それは、物と人の違いだ。
この当たり前の区別は、この小説では、巧みに使われている。竜哉が最初
に殴るのがサンドバッグ、次は相手選手で、最後はまたサンドバッグになる
のだ。攻撃対象、バトル相手が、物→人→物と変化する。これこそ、女性に
対する竜哉の接し方のメタファー=比喩なのだ。最初は、しばしば金で買う、
物として。それが、英子を通じて、人への愛に変わり始めた時、逆の動きも
生じる。やはり、壊れないオモチャ、程よい強度を持つ相手を叩き続けたい。
愛と共に、反発する攻撃性がぶり返し、その結果として、「素直に愛すること
が出来ない」竜哉には悲劇が生じる。人が突然、文字通りの「物」になってし
まい、最後はまた、サンドバッグを殴り続ける状態に戻ってしまうのだ。しか
し、物の抵抗は弱くて物足りないし、既に竜哉は人間的な愛に目覚めてしまっ
た後。もはや彼は、徹底的に負けてしまったわけで、不敵な笑いを浮かべる
余裕もない。おそらく肉体的な暴走と、母への幼児的、いわゆるマザコン的
な愛に、むなしい救いを求めるしかないだろう。。
☆ ☆ ☆
ちなみに、最後にある意味、英子のお墓の象徴となるサンドバッグは、2人
が初めて結ばれる直前、英子がつついて遊んだ物でもある。もちろん、少
女がつついたくらいでは、その太くて長い物はビクともしない。既に覚悟を
決めてた彼女は、その時、1人で笑うのだ。
その直後、例の物議を醸した性的描写が出る。竜哉のモノがいきなり、英
子がいた部屋の障子を突き破り、英子は本を叩きつけるが、竜哉には「抵
抗される」快感でしかない。そのことに英子自身、満足して、進んで身をゆ
だねることになる。実はこの時、英子の側にとってもそれは、「抵抗される」
快感だったのだ。経験豊富な2人の夜、長い闘いは、英子の「勝利」に終
わった。相手から「奪うだけで、与えない」英子の愛は、その時点では今ま
で通りだったのだ。
しかしやがて、お互いの間に、人間らしい愛が芽生える。互いに自らを与え、
相手を奪おうとする、単なるキレイ事ではない愛。そこには当然、嫉妬も生じ
るし、新たな命も生じるし、相手への要望も強まるのだ。特に女性は、常に
男性を独占しようとする(少なくとも石原のここでの考えでは)。そこから、と
りわけ当時としては珍しくなかっただろう、男女の悲劇が生じるわけだ。
こうしてみると、英子が竜哉と初めてセックスする直前に、サンドバッグをつつ
いたのは、自らの悲しい未来を先取りするような行動だったことになる。と言う
のも、サンドバッグとは、強靭な男性自身の象徴であると共に、英子がまもな
く、その男性のせいで入ることになる、お墓の象徴でもあるのだから。。
☆ ☆ ☆
それにしても、ちょっと残念で奇妙に感じるのは、当時のこの小説の扱われ
方だ。過激な性的描写はごく僅かで、しかも文脈的・文学的に十分意味があ
る。既に英子には、自分からそのつもりで来てたのだし、その後も積極的に
愛の営みをリードして見事に勝利したのだから、男尊女卑的な箇所でもない。
マッチョとか、男根主義的に見えるのは、事の一面でしかないのだ。もちろん、
「些細な一面」とまで言うつもりもないが。
兄の道久に5000円で英子を売るという話も、映画は知らないが、原作小説
の中では結局、実現してない。お金とは別の関係なら持ったが、金で買われ
る事に対しては、英子は徹底的に「抵抗」。そして、自らのサディスティックな
悪巧みに「抵抗される」ことに、竜哉も満足だったのだ。
最後に、精神分析理論との関係を再び見るなら、竜哉は発達段階論におけ
る「肛門-サディズム期」を中心に揺れ動いてる。能動と受動、虐待と被虐、
ペアになる原初的な快感を上手くコントロール出来ず、逆に自らの欲望、本
能、欲動に弄ばれてるような状況だ。
それに対して英子は、それ以降の「男根期-(潜伏期-)性器期」辺りのトラ
ウマ(心的外傷 : 愛した男性たちの死)にとらわれてると言えるだろう。2人
が初めて、人間的な愛に目覚めたのが、ヨットという揺りかごの上での激し
いキスだったのは、印象的だ。つまり、もっとも原初的な「口唇期」まで遡っ
て、成熟した大人への階段を登り直そうとし始めたわけだ。残念ながら、不
運か天罰も加わって、失敗気味に終わったが。
少し精神的発達の見方を変えるなら、父母との愛憎・ライバル関係を生き
る「エディプス期」(3~5、6歳程度)の健全な通過に失敗した物語と言える。
退廃的・享楽的な若者2人は、大人びた一面を見せる一方、幼児的な心性
の中に生きてたのだ。英子が8歳くらい、竜哉が5歳くらいか。そして、英子
が13歳以降へと進みかけた時に、いきなり「人生ゲーム」は終了。竜哉は
スタート地点近くの、前エディプス期まで引き戻されるだろう。非常に強く「叩
きのめされ」たので、ダメージは少なくとも数年間、残るはずだ。
なお、この作品は55年だが、この時に芥川賞の選考委員の1人だった石
川達三(第1回・芥川賞受賞者)は、68年になって、代表作の一つ『青春の
蹉跌』を発表した。私は少年時代、たまたまそれを読んで、エリート青年の
蹉跌=つまづきに強いインパクトを受けたが、この蹉跌は、『太陽の季節』
のラストに少し似てるのだ。まあ、ありがちなエピソードではあるし、作品全
体としては全く違ってるが、石原が『青春の蹉跌」を読んでたら、苦笑したか
も知れない。
まあ実際には、68年と言うと、ちょうど石原が参院選・全国区(自民党)で
トップ当選した年だから、先輩の小説など気にしてる時期ではなかっただろ
う。とにかく古今東西、男にとって、女は圧倒的な強敵だということだ♪
なお、途中で字数制限を超えたので、その分は日付け変更後の翌週分に
回すことになる。今週は、計19967文字となった。この記事全体では結局、
4200字超。自分で楽しみながら、3時間で一気に打ち込んだ感じだ。現
在80歳の石原が、現実の政治の中で「抵抗される」時、何を感じ、どう対
処するのか。今後の展開に興味を抱きつつ、それではこの辺で。。☆彡
(翌週分、2777文字。 記事全体では、計4232文字)
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