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土中の餓死でミイラ化した遺体、「即身仏」をたどって~朝日新聞・夕刊

2014年12月3日から、朝日の夕刊で5回連載された短期シリーズ、「即身仏

をたどって」。朝日新聞デジタルでたまたま見るまで、紙面では気付かなかっ

たが、読むと小学生の頃の思いが鮮やかに甦って来た。畏怖と妖しい好奇心。

 

ちょうどその頃、幼心に、「みんな、いずれ死ぬんだな・・・」という事を理解して、

寝る前に「みんな、いつまでも生きて行けますように・・・」とかお祈りすることも

あった。一方、どうせ死ぬなら自分で厳かに死にたいという思いもあって、その

際の極限的なモデルが即身仏(そくしんぶつ)だったのだ。キッカケは忘れたが、

故郷の書店の宗教関連コーナーで何度か立ち読みした気がする

 

「コトバンク」で『世界大百科事典』第2版の説明を読むと、即身仏とは、「即身

成仏した行者のことであるが、通常その遺体がミイラ化して現存するものをい

う。・・・」と書いてある。ところがウィキペディアには、「即身仏と即身成仏は全く

別物である」と書いてある。

 

ウィキの間違いや出典の怪しさについては、これまでも度々具体的に指摘し

て来たし、この即身成仏の項目も、『岩波仏教辞典』だけを出典とした非常に

短い説明に過ぎない。ただ、朝日の即身仏の記事でも、おそらく意図的に「即

身成仏」という言葉を避けてるので、ここでも一応、別扱いとしとこう。個人的

には、おそらく『世界大百科』の方が妥当だろうと思う。総体的かつ相対的に。

 

 

           ☆          ☆          ☆

朝日の記者・川戸和史を即身仏へと向かわせた理由は、何とも文系的で漠

然としたものだ。── 社会全体の死が、ありふれた平穏なものになっていく

中で、悲しみ方、悼み方、社会保障の考え方なども変わっていくだろう。そうし

た変化への「考えを深めるには、何か対極から照射する強い光のようなもの

が必要だ」 ──。

 

現代の死生観の圏外から光を放ってくれそうなものこそ、即身仏。山形県の

日本海沿岸、庄内地方に集中して残ってるらしい。木の実や草の根を食べる

「木食」(もくじき)の苦行で腐らない肉体を作り、最後は土の中に埋まって餓

死。1000日後とか、しばらく経ってからミイラ(広義)として掘り出されるとのこ

と。ちなみに狭義のミイラは、遺体に人工的な防腐処理を施したもので、後で

登場するお寺、大日坊のHPでは、即身仏との違いを強調してた。

 

連載第1回「『やさしい』と女、『できない』と男」では、唯一、2体が並ぶ海向寺

が舞台。忠海と円明海、江戸時代の2体を目にした様々な反応を挙げてるが、

男である私はやはり、自分には「できない」というのが第一感。ということは、

「できるだろうか」と直ちに自問してるわけだ。女性にとってはあくまで他人で

あって、自分とは別物なのだろう。

 

掲載写真では、ちょうど仏様が見えない角度になってるが、画像検索すると

大量にヒットするから、必ずしも撮影禁止ではないのだろう。まあ、カメラやネッ

ト程度で有難みが薄れるような存在ではないはず。

 

キリスト教徒らしい外国人が「これは自殺だ」と叫んだとか、外国の宗教学者

が「これは宗教じゃないね」と語ったという話は、型にはまったものだが、本音

だろう。自殺と呼ぼうが自死と呼ぼうが、要するに自分から死んでるわけで、

自分が死んで神や仏になるという発想のない人には、非常に奇妙に見えても

不思議はない。

 

ちなみにキリスト教や仏教と自殺の関係については、以前、記事を書いてる。

 

  釈尊は自殺について価値判断せず~朝日新聞「自殺と宗教・上 仏教」

  罪の改釈、教義への柔らかい挑戦~朝日「自殺と宗教・下 キリスト教」

 

 

          ☆          ☆          ☆

連載第2回「誰と対面しているのか」は、本明寺にある現存最古の即身仏、本

明海をめぐって。元は下級の武士で、最後は修行で足腰が弱って、村人たち

が境内の縦穴に入れたとか。現代なら、自殺幇助の罪に問われる恐れもある

行為だ。禁止されたのは、明治維新の後らしい。

 

即身仏は、生前も死後も、周囲の人達と密接な関わりを持ってる。そもそも死

後、即身仏として掘り出すのは必ず周囲の人。それどころか、本当は病死な

のに、手術で内臓を取り出して即身仏にした例もあるらしい(南岳寺の鉄竜

海)。他の例でも、本当に土中で自ら餓死したと実証された即身仏は無いとの

こと。結局、即身仏とはそれ自体で存在するものではなく、周囲との関係性の

中で成立するものなのだ。

 

なぜ即身仏になるのかという、本人に対する問いは、なぜ即身仏を求めるの

かという、周囲に対する問いと不可分のもの。もちろん、この場合の周囲には、

現代の我々や記者も含まれることになる。その意味で、「誰と対面しているの

か」と問われれば、「仏様とわれわれ」だと、ひとまず答えるしかない。

 

そして、その場合の「と」という並立助詞の前後は、決して切り離せないわけだ。

客体と主体のようによそよそしい二項対立ではない。。

 

 

          ☆          ☆          ☆

第3回は、「超越者は座り続ける」。月山の注連寺にある即身仏のスター、江

戸後期の鉄門海をめぐるお話。この寺での経験をもとに、森敦が小説『月山』

を執筆。翌年(1973年)に芥川賞。小説に鉄門海は登場しないものの、即身

仏をめぐる怪しげな話が登場するので、月山ブームで観光客が集まったらしい。

 

戦後、森と親交のあった太宰治を含めて、若者の自殺が増加。モーリス・パ

ンゲは『自死の日本史』で、「遅れてきた特攻」と語る。森にも自殺への思い

があったが、大義を持った自殺に対する疑問もあったので、即身仏に対する

斜に構えた態度が小説に表れたのではないか。視線は注ぐものの、真正面

から見つめることはない。

 

そう、記者は言いたいのだと想像するが、記者の文章自体が何とも曖昧な

のだ。「研ぎ澄まされた作家の感性を森は無意識の自己韜晦(とうかい)に

包み込んだように思えてならない」。こうした文自体が、記者の側の韜晦、自

分をつつみ隠すことになってる。

 

とにかく、小説や月山のブームが過ぎても、武士殺し、艶話、男根切除、片目

摘出などの派手な伝説が学問的にほぼ否定されても、鉄門海は超越者として

静かに座り続けるのであった。。

 

 

P.S. 2015年6月3日、NHK『歴史秘話ヒストリア』で、鉄門海がドラマ仕

      立てで紹介されたらしい。

 

 

           ☆          ☆          ☆

時間も字数も無くなって来たので、後は簡単に。第4回「歴史の闇はこの世の

興味」では、大日坊の即身仏、江戸の百姓だったという真如海をめぐるお話。

 

明治維新による廃仏毀釈(神仏分離)や火災などで、歴史の闇に沈んだ実態

が、観光ブームで再び勢いを取り戻す。メディア、観光客、寺に対して、記者

は冷めた態度を遠回しに示してるが、新聞記事そのものにも「この世の興味」

を超える深みがさほど感じられない。

 

その点は、最終回(第5回)、「生きる者だけの権力なのか」を読むと、より明確

になる。元々、金融・財政政策担当の論説委員だったという記者は、「即身仏

をたど」る前から、答えらしき持論を用意していたようだ。6体目、国内最後と言

われる即身仏、観音寺(庄内の南の新潟県)の仏海(~1903)をめぐって色々

書いた後、終盤に次のような話を持ち出す。

 

── 江戸も今も、大衆は愚かな支配層、権力に対して、哲学者ニーチェの言

うルサンチマン(怨恨)を抱く。そしてその思いは、即身仏をめぐる伝説に使われ

ることもある(生前の武士殺しとか)。

 

ただ、今は昔と違って、哲学者フーコーの言う「生の権力」を国民が支持する。

高齢化社会を支えるため、無理な国債発行でマネーを脹らませ、かろうじて

社会保障を保っている。しかし、国債という名の膨大な借金を背負うのは、現

在の生ではなく、未来の生。やがて、この先送りシステムは破たんし、「生」の

仮面をかぶった「死と差別の権力」が台頭するのではないか ──。

 

 

          ☆          ☆          ☆

こうした記者の考えは、平凡とはいえ、重要な議論であるのは確か。けれども、

それを即身仏とつなげる論理が、連載ラストの次の文章だけだと、あまりにイ

メージ的、人文的、あるいは詩的なつぶやきに聞こえてしまうのだ。

 

   「神仏に祈るほかない時代が残した即身仏に『メメント・モリ(死を想え)』

    といわれた気がするだけでも、人生に幾ばくかの含みが加わるように

    思える。」

 

政治・経済は、芸術ではない。テレビ朝日の『朝まで生テレビ』とかなら、田原

総一朗が強い口調で問い詰めそうだ。

 

  「頭が良過ぎて、何を言いたいのか分からない。要するに、十分な社会保

  障を諦めて、即身仏みたいにシンプルに死んで国債を減らせってこと? 

  アベノミクスの無理な金融緩和も危ないから、衆院選の投票にも気を付け

  ろってこと?」。

 

即身仏や飢饉みたいに、一人で自然の中で餓死するのは無理だけど、生と

死のシステムにかなり無理があるのも事実。だからと言って、民主主義の多

数決を基本にすると、システムを変えるのも非常に難しい。

 

多くの人は、今生きてる自分たちの生活を豊かにしたいのだし、不自由な状

況になると高度な医療や介護が欲しくなる。グローバル化社会の中、日本だ

け清貧の思想でやって行こうとすると、貧し過ぎて清らかでない状況になるリ

スクもある。実は、即身仏になれなかった失敗例も多いそうだ。。

 

 

          ☆          ☆          ☆

とりあえず、われわれが出来るのは、目の前にある食べ物を大切にいただく

こと。任された仕事を誠実にこなすこと。出来る範囲で、助け合うこと。必ず来

る死を想いつつ、生を有難く享受すること。そういった当たり前の事だろう。

 

未来の生も含めて、他の生に過度の重荷を負わせることなく、いかにして、ど

の程度まで、自らの生を豊かにするか。そして、どのように死ぬのか。いかに

して、社会が決定を行うのか。これらを真剣に考え続ける生きた存在こそ、ミ

イラ化した死体とは無関係の、身近な「即身仏」かも知れない。あるいは、現

実的な「即身成仏」の方向かも知れない。

 

なお、以上に登場した6体の上人、高僧を安置する5つの寺はいずれも、月山

のすぐそばにある湯殿山信仰を担う真言宗の寺。ウィキの「ミイラ」の項目によ

ると、他に全国で12体あるそうだ(西生寺の弘智法印を最古とするなら11体)。

 

それでは今日はこの辺で。。☆彡

 

                                    (計 4104字)

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