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「私」とは一人の他者なのです~詩人ランボー「見者の手紙」(フランス語原文付き)

久々に休日の土曜日。記事ローテーション的にはそろそろ数学記事を書くべ

きだが、溜まった新聞を片付ける途中、人文的記事が目に留まってしまった。

と言うより、冒頭に掲げたわりと有名な言葉が目に入ったのだ。

 

2015年10月29日の朝日新聞・朝刊1面、シリーズ「折々のことば」。そ

の筆者については、今まで2本の記事を書いてる。

 

   哲学者・鷲田清一の自殺論(朝日新聞)  (2007年)

   鷲田清一の住宅&身体論「身ぶりの消失」~2011センター試験・国語

 

前にも書いたが、この人の文章は「なるほど」と納得したり、「素晴らしい」と

感心したりする対象と言うより、「面白い」と刺激を受ける対象だと思ってる。

刺激を受けた後は、自分で調べたり考察したりすればいいわけで、今回の

短い囲み記事もその類だ。

 

 

          ☆          ☆          ☆

僅か200字ほどの連載コラムだから、引用の仕方に気を使うが、前半だけ

引用させて頂こう。

 

     ≪私≫ってのは他者なんです。

                     アルチュール・ランボー

     私は自分のことを「私は」と語りだす。が、「私」は私だけが使う語

     ではない。だれもが自分のことを「私」と言う。そのかぎりで「私」は

     もう私に固有のものではない・・・・・・。  

                            (注. 末尾の点も元のまま)

 

 

151031a  18世紀のフランスの詩人、ランボー

  (A.Rimbaud ; 1854-1891)に

  ついては、翻訳本を昔サラッと流し読

  みした程度だが、この言葉だけはあち

  こちで見聞きしてた。写真はウィキメ

  ディアより。パブリック・ドメイン(公的

  所有)。作者はEtienne Carjat。

 

鷲田は鈴村和成訳『ランボー全集』から引用してるが、フランス語原文(後

述)をもっと普通の日本語で訳すなら、「『私』とは他者である」、「『私』とは

一人の他者なのです」となる。現代の口語体でも、「ってのは」とは言わない

から、「私って、他人なんです」とかだろう。。

 

 

          ☆          ☆          ☆

鷲田の短い説明だけ読むと、次のような論旨だと感じられる。──「私」とい

う言葉は誰でも使うから、これだけを考えても、「私」は私に固有のものでは

ない。その意味で、「私」とは他者だ──。

 

これは「私」という単語の一般性、共通性に偏った説明で、元のランボーの

考えからズレてるような気がするし、もちろん鷲田自身も、ズレを分かってて

意識的に書いたのだと想像する。

 

そこで、フランス語の原文をチェックしてみた。著作権が消滅してる有名人の

文章は、ネットですぐ見つかることが多い。ただし、ネットでは多少間違った

情報の拡散も多いので、信頼性のあるソース(情報源)を使う必要がある。

今回は、ウィキペディアと同系列の「ウィキクォート」(引用集)、「ウィキソー

ス」(原資料集)で簡単に発見できた。

 

原文は2つの手紙で、ほぼ同じ時期に似た内容を書いてるから、「見者の

手紙」(letter du voyant)と呼ばれてる。「見者」とは「賢者」ではなく、文

字通り「見る者」のこと。最終的、理想的には賢者を目指すものの、差し当

たりは「見る者(を目指す詩人ランボー)が書いた手紙」という意味で、内容

的にも、見る者(=自分)についての告白だ。

 

それは「話者」でも「書者」でもないし、「聞者」でもない。言葉より、認識が中

心となってる。時代的制約もあってのことか、認識は言葉に応じて変わると

いうような、かなり20世紀的な思想もあまり感じない。少なくとも2通の手紙

を読む限りは。。

 

 

          ☆          ☆          ☆

では、まず1通目。1871年5月13日、教師・イザンバール(Izambard)へ

の手紙の後半より。文字化けを避けるため、フランス語独特のアクセント記

号は省略。

 

   ・・・・・・C’est faux de dire : je pense : on devrait dire :

   On me pense.── Pardon du jeu de mots.──

     Je est un autre.Tant pis pour le bois qui se

   trouve violon,et Nargue aux inconscients,qui ergotent

   sur ce qu’ils ignorent tout a fait!

 

   「私は考える」と言うのは間違ってます。「私は考えられる」と言うべき

   です。── 言葉遊びですみません。──

      私とは一人の他者です。自分をヴァイオリンだと思ってる木材な

   んて、お気の毒さま。全く知らないことについて屁理屈を語るような無

   自覚な人達には、軽蔑を!

 

 

まず前半について。おそらく、哲学者デカルトの有名な言葉「je pense,

donc je suis」(我思う、ゆえに我あり)をもじって、「je pense,On me

pense」と遊んでるのだと思うが、ここだけだとハッキリしない。

 

いずれにせよ、色々と思う主体(デカルト『省察』に詳しい)、とりわけ考える

主体としての特権的な私の代わりに、(単なる)一人の他者として私(je)を

考えてるのだろう。次の手紙の内容も考慮して解釈すると、おそらく、見られ

る者としての「未知」なる私に対して、見る者、見ようとする者としての私は

一人の他者だと言いたいのだと思う。

 

だからこそ、大変なことなのだ。もう1人の深遠なる他者としての自分を見る

こと、見者になることは。そして、それに言葉を与える詩人になることは。

 

後半は、「Je」という一人称・単数の「私」に対して、3人称・単数の動詞「est」

を使ってる。一人の他者としての私だから、文法的に自然だ。その後は、単な

る木材のくせに楽器だと思いたがる人達への強烈な批判が続く。人文系で特

別な才能を持つ人によく見られる攻撃で、一般人の読み手としては、あっさり

受け止めるか、あるいは受け流す所だろう。ランボーのファンを除いて。。

 

 

        ☆          ☆          ☆

続いて、2通目。1871年5月15日、詩人である友人・ドゥムニー(Demeny)

への手紙。時間的にも余力が無いので、ほんの少しだけ。こちらは、先生で

はなく対等な相手への手紙だから、翻訳の文体は変えておいた。

 

     Car Je est un autre.Si le cuivre s’eveille clairon,

     il n’y a rien de sa faute.

 

     というのも、「私」とは一人の他者だから。もし銅が目覚めてラッパ

     になるとしても、銅に落ち度はない。

 

 

「というのも」が、直前の文章(ロマン主義とシャンソンの話)とどうつながって

るのかは分かりにくいので、とりあえず保留しとこう。後で分かったら補足する。

 

簡単な事実として、この2通目だと、文の途中なのに「Je」と大文字で始まっ

てるから、日本語訳でも「私」とか≪私≫と強調することになる。ただ、明治大

学の権藤南海子氏の論文だと、小文字で「je」とされてるので、ウィキソース

その他が間違ってる可能性も一応ある。この点もとりあえず保留。ちなみに、

1通目の「Je」は文頭だから、大文字で当たり前。ちなみに2通目の少し後で

は、大文字で「Moi」(私、自我)とも書かれてる。

 

ランボーは、1通目で、バイオリンだと思いたがる木材のような人達を軽蔑し

てたけど、2通目では自分を、ラッパを目指す銅だと見て、正当化してるよう

な感じだ。ラッパだと自称してるのだから、自嘲的に自負心を示してるのだろ

う。ラッパを動詞として使うと、甲高い声で言いふらすといったネガティブな意

味も入って来る。日本語と同様、バイオリンとラッパのイメージは違うのだ。

 

 

         ☆          ☆          ☆      

なお、2通目の少し後には、「詩人になりたい人が最初にする学習は、自分自

身の(sa propre)完全な認識だ」とも書いてる。

 

この辺りを読んでも、たとえば精神分析家ジャック・ラカンによる現代思想とは

かなり違ってるように感じる。ラカンなら、「自我とは他者なのです」という言葉

に加えて、自分の認識など誤解にすぎない、と笑い飛ばすわけだ。

 

主観=主体と、客観=客体との本質的断絶や、文法的な階層の違いを重視。

決して到達できない主語としての「Je」を、対象化してとらえようとする動きは、

本質的欠如に向かう欲望なのだ。不可能だからこそ、歪曲され、反復するこ

とになる。

 

長くなって来たので、今日はそろそろこの辺で。。☆彡

 

                                  (計 3296字)

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