井上荒野「キュウリいろいろ」2~長編小説『キャベツ炒めに捧ぐ』全体を読んで
ふと考えてみると、私は物心ついて以来、ごく身近な人のお葬式以外
で泣いたことはない(と思う)。大人の男性なら、普通かも知れない。
でも、この長編小説を読んでる間はずっと、目の奥で涙がにじんでた
気がする。全編がたまらなく切ない。哀しくて、愛しいのだ。
文学の名作とか傑作というより、上質の連載コラムをまとめたような
小説。大人の女性の心に沁みそうな、一般向けの佳作だろう。私は
ほとんど料理をしない男性だし、本来なら読む機会は無かったけど、
2018年センター試験・国語で出題されたので、運良く遭遇できた。
センターの記事は例年通り、すぐにアップしてある。
自転車というキュウリに乗って、馬よりゆったりと♪
~井上荒野『キュウリいろいろ』(2018センター試験・国語)
しかし去年に引き続き、今年もあらためて作品全体の感想をまとめる
ことにしよう。以下、ネタバレになるのでご注意あれ。ちなみに去年の
記事2本は次の通りで、地味にアクセスが続いてる。おそらく高校生・
受験生以外も多いと思う。
「春」の純粋さと郷愁が誘う涙、野上弥生子『秋の一日』
~2017センター試験・国語
野上弥生子『秋の一日』2
~センター試験の省略箇所も含めた全文を読んで
☆ ☆ ☆
さて、井上荒野『キャベツ炒めに捧ぐ』(角川春樹事務所)は、初出が
角川PR誌『ランティエ』、2010年1月号~11月号。加筆・訂正後の
単行本が2011年(上の画像)。装画・あずみ虫、装幀・大久保明子。
文庫本は2014年(下の画像)。装画・高井雅子、装幀・藤田知子、
表紙イラストレーション・門坂流(出版の数ヶ月前に他界してるはず
だが詳細不明)。
内容をそのまま可愛いイラストにまとめたのが上で、色鮮やかな
デザインにしたのが下ということか。文庫本は小さいし、数が非常に
多いので、単行本よりハッキリした目立つデザインが多い感がある。
毎月11ヶ月間の連載だから11章の構成。「章」とは書かれてないし、
番号も付いてないけど、センター試験直後の作者のツイッターに、
“「キュウリいろいろ」は・・章タイトルで・・長編の一部”と書かれてた。
全体は次の通り。番号は私が順に付けただけなので、念のため。
1.新米 2.ひろうす 3.桃素麺 4.芋版のあとに
5.あさりフライ 6.豆ごはん 7.ふきのとう 8.キャベツ炒め
9.トウモロコシ 10.キュウリいろいろ 11.穴子と鰻
ほぼ全ての章タイトルが、それぞれ1つの食べ物を表してるのに、
最終章だけ2つの食べ物になってるのには、隠された意味がある
(後述)。各章を単独で読んでも、それなりに楽しめるとは思うけど、
やはり基本的には長編小説だった。テレビ番組にたとえると、1話
完結の連続ドラマに近い。
☆ ☆ ☆
先日のセンター試験記事の時点では、私は第10章の半分くらい
しか読んでなかったわけだが、主張のポイント2つは合ってるのが
確認できた。
つまり、問題文で「自転車」が「キュウリ」を表してたように、食べ物が
その章の中心的なものの象徴、比喩になってる。あるいは、両者が
強く結び付いてる。また、個人と家族の物語であると同時に、恋愛や
「性」の物語にもなってるのだ。
逆に、長編を読んで初めて分かったのは、試験問題の主人公である
郁子(いくこ)が、必ずしも全体の主人公ではないこと。
主要人物は小さな総菜屋「ここ屋」で仲良く働く3人の女性で、郁子
(予想通り60代半ば)、江子(こうこ、オーナー、冒頭61歳)、麻津子
(まつこ、冒頭60歳)。かなり高齢だけど、内容的にはアラフォー
(40歳前後)でも不思議はない。この3人が順に各章の中心となる。
1.郁子 2.江子 3.麻津子 4.郁子 5.江子
6.麻津子 7.郁子 8.江子 9.麻津子
10.郁子 11.江子&麻津子
全体を読んでる間も、私は郁子が主人公だろうと思い込んでたけど、
最終章の最重要人物は麻津子だし、ラストは江子のエピソードで
終了。長編全体のタイトルに使われてる「キャベツ炒め」が最も強く
関連するのも江子だし、単行本の帯に引用されてる文章は江子の
元夫である白山(しろやま)の描写だ。
というわけで、郁子1人を主人公と考えるのは難しい。郁子&江子
と考えることは可能だけど、やはり3人が主人公だろう。話の語り手
も、その時々で交替してるのだ。
江子(こうこ)が「来る」、麻津子が「待つ」、郁子が「行く」。これに
アイドル的、ジャニーズ的な若い男の子「進」(すすむ、米屋の新米
=しんまい)を合わせると、みんな移動を表す名前ということになる。
郁子だけは、「逝く」という意味も強く感じられるだろう。彼女だけが
毎日、死(息子と夫)と向き合って生きてるし、最年長でアルコール
中毒(キッチンドリンカー)気味だから、自分の死にも一番近いのだ。
☆ ☆ ☆
続いて、主人公の思いや記憶と料理について、一人ずつ見てみよう。
まず、「きゃははは」と陽気に笑う江子。身内の若い女性と浮気して
離婚&再婚した元夫への未練を断ち切れない彼女にとって、彼が
作ってくれてた美味しいがんもどきは特別な料理。京都出身の彼は
「ひろうす」と呼んでた(2章)。
別れを切り出された時に食べ続けたのが、あさりフライ(5章)。この
章の冒頭、あさりにナイフを差し込んで貝柱を断ち切る描写がある。
そして章末には、元夫の悲し過ぎる嘘をこっそり確認して、自分の
未練を断ち切ることにする。
そのために、今度は彼女自身が哀しいウソをつく(8章)。すっごい
年下の彼(=進)と結婚することになった。彼の得意料理はキャベツ
炒め。元夫の白山は半信半疑だったけど、自分への特別な思いが
まだ残ってるのは感じたはず。というのも、キャベツ炒めは彼らが
昔結婚した日の夜、江子に作ってあげた思い出の料理だから。
☆ ☆ ☆
次に、2歳年下で幼馴染のダーリン・旬が別の女性と結婚して、すぐ
離婚。ずっと微妙な関係を延々と続けてる、麻津子。
母が亡くなった直後、母の思い出の失敗作「桃素麺(ソーメン)」を、
旬にプレゼントする。母に向けてた複雑な思いを、旬へと移し変える
(転移させる)ように(3章)。
その後、2人のお花見で、さや付きの豆をむいて別ゆでして作った
豆ごはんを食べながら、いきなり「なんで結婚したの」と問い詰める。
その直前、麻津子が「豆はやっぱ未通子(おぼこ)」と言って、江子が
「いやあねえ」とからかったから、花見の豆は「処女」麻津子の象徴だ。
逆に、普通の炊き込み豆ごはんは妻の象徴で、嫉妬の対象(6章)。
旬は、麻津子でない女性と結婚した理由がトウモロコシだと告白。
八重歯のせいで屋台のトウモロコシを食べられない麻津子を見て、
そんな女性を丸ごと引き受けるのが怖くなったらしい(9章)。
今は麻津子も八重歯を抜いて、トウモロコシを丸かじりできる。旬も
流石に大人の器が出来てきた。あれからもう、40年近く経ってる。
今夜こそ、お互いに丸かじりしよう。まだ少しかじっただけだから。。
☆ ☆ ☆
最後に、郁子は総菜屋のバイトとして「新米」(第1章)。お米屋さん
の新米である進を見て、死んだ息子と重ね合わせる。
続いて、喪中なのに届いた年賀状を見ると、「鹿島郁子」という同姓
同名の他人へのものが混ざってた。届けに行くと、去年亡くなった
とのことなので、渡さずに帰宅。亡き夫との思い出が詰まってる芋版
をまた作って、差出人への年賀状を作って自宅に飾る。自分は元気
ですと書いて、彼岸からのメッセージに答えるように(4章)。
その後、去年亡くなった夫・俊介の妹から2年ぶりにふきのとうが
送られて来たので、進の車で信州旅行。義妹の案内でふきのとう
の採取場所を見て、俊介が「君みたいな景色だ」と言ったのを思い
出す(7章)。
夏の緑と、冬の雪の白がまざった状態。それは、俊介に対する郁子
の接し方でもあった。仲が悪いわけではないが、心の底では俊介を
憎んでる。風邪を悪化させた息子を見て、すぐ病院に連れて行こう
としたのに、俊介はまだ大丈夫だと言ったから。あなたのせいで息子
の草(そう)は死んでしまったのよ。
しかし、前のセンター試験記事で書いたように、過去の写真を見ると
実は自分と夫は思ったより仲良く暮らしてたようだ。自分の心象風景
が暗すぎた事に気づかせてくれたのが、夫の同窓生が乗せてくれた
自転車。それは、お盆にキュウリの馬でやって来る仏様みたいな、
懐かしくて大切な訪れだった。
さらに、亡き息子・草と進が似てるというのも、自分の思い込みに
過ぎないことに気づく。私は自分だけの内省的世界に浸り続けて
来たようだ。真実と向き合おう。そして前に「進」み出そう。。(10章)
☆ ☆ ☆
長編の最後、第11章については、あえて書かないことにする。
麻津子も江子も、それぞれの道で新たな一歩を踏み出すのだ。
なお、前の記事の終盤に、私は一言こう書き添えてた。
「キュウリという細長い野菜には、男性的な意味合いもあるが、
ここではもう触れないことにしよう」。
これが単なる考え過ぎでないことは、長編を読み始めてすぐに推測
できたし、後半を読む内に確信できた。60代前半の女性3人は、性
の露骨な話でキャーキャー楽しくはしゃいでるのだ。まるで女子高生
みたいなノリで。
おまけに、最終章のタイトルだけ、「穴子と鰻」の組合せ。鰻とは、
麻津子の彼氏である旬が、男性的なスタミナをつけるために用意
した食材。それと穴子が組み合わされて、最後のエピソード(省略)
を考えると、「女と男」というセクシャルな意味があるのは明らかだ。
もちろん、それだけとは言わないが、無視できない遊び心でもある。
その直前、10章の始めに、郁子はキュウリをかじる。キュウリ=夫
=夫の友人の自転車、とつながって、最後に郁子は、鰻を買う。その
鰻が最終章で文字通りの「男性性」の象徴になってるのだ。江子なら
「キャハハハ」と笑う所だろう。
☆ ☆ ☆
ベテラン女性作家が性とか恋愛を描くと、例えばこのような語り口
になるのか。あらためて男女の違いに驚きつつ、この簡単なレビュー
を終わりとしよう。
なお、井上荒野は直木賞受賞作家だが、今年の芥川賞を獲得した
若竹千佐子(63歳)は、受賞作『おらおらでひとりいぐも』について、
青春小説とは対極の玄冬小説だと語ってるらしい。それなら井上
の『キャベツ炒めに捧ぐ』は、玄冬青春小説とでも言うべきかも。
それでは今日はこの辺で。。☆彡
(計 4170字)
(追記 55字 ; 合計 4225字)
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