魯迅『孤独者』が敷いた死のレール~2020年センター試験・原民喜『翳』全文を読んで
魯迅(ろじん=ルー・シュン)の文章を読んだのは、中学か高校の国語の教科書以来だろう。私は子ども時代からそれなりに、小説は好きだったが、魯迅には正直、良い印象は無かった。
まず作家名の漢字が読みにくくて、中国人の人名にも見えない。実際、今はじめて調べると、魯迅というのはいくつかある筆名(ペンネーム)の一つであって、本名は周樹人(チョウ・シュウレン)らしい。これなら少年時代でも、わりとしっくり来る人名だが、作家としてはむしろ違和感があるほどインパクトある名前が欲しかったということか。
小説か私小説か随筆(エッセイ)かはともかく、文章の内容も暗く重いもので、中国語から日本語への翻訳の問題もあるのか、堅苦しくてぎこちなく感じる。百年ほど前の文学者・思想家だから、時代背景や文化的背景もかなり分かりにくい。
ただ、流石に大人になった今読むと、評価が高いのは理解できる気がした。特殊な現実を多少変更して、独自の文体と視点で語る文章。左翼とか革命家、左派・リベラルなど、政治的立場は抜きにしても、孤独で「翳り」のある知識人には魅力的だろう。原民喜(はら・たみき)にとっても、彼の友人・知人たちにとっても。
もちろん人はみな、ある程度は知識人であり、孤独で翳りのある存在だが。。
☆ ☆ ☆
2020年、最後のセンター試験の国語の第2問『翳(かげ)』を読んだ時の第一感は、全体的にいま一つだな・・というものだった。ツイッター検索をかけても、最近のセンター国語としては盛り上がりに欠けてて、面白ネタに期待するネット民も拍子抜けといった感じ。
ただ、読んだ後すぐ作者・原民喜の情報を調べて、鉄道自殺した作家だと知った時、問題文の見え方がかなり変化。印象が良くなった所で、すぐにこのブログでレビュー記事をアップした。当サイトにとって毎年恒例、正月明けの行事だ。
妻、隣人、そして自分・・戦争をはさむ死の影のレール~原民喜の小説『翳』(2020年センター試験・国語)
その後、上の記事に書いた初出の情報を確認するために、『定本 原民喜全集』第一巻(青土社)をチェック。全文を読んで、短編小説『翳』の評価はさらに上がった。と言うより、全文を読まないと、この小説の価値は半減以下になってしまうと思う。もちろん、センター試験は小説の評価や鑑賞のためにあるのではなく、受験生の選別のためにあるわけだが。
ちなみに、初出は前の記事で推測した通りだった。雑誌『明日』第14号(日本人民文学会編、公友社、1948年・昭和23年11月号)。この3年前に広島で原爆被災、3年後の1951年に東京で自殺(または自死)。以下、いわゆる「ネタバレ」であって、受験生はもちろん、一般にほとんど知られてないと思われる情報を書くので、ご注意あれ。
☆ ☆ ☆
さて、原民喜『翳(かげ)』の全体は、二部構成になってる。センターの問題文は後半の「Ⅱ」(第二部)であって、全集の11ページの内、7ページ分。一番最後あたりに「魯迅」という作家名が出て、注20で簡単な説明があった。「中国の作家(一八八一 ─ 一九三六)。本文より前の部分で魯迅の作品に関する言及がある」。
そのⅡの前には、「Ⅰ」(第一部)が5ページ分あるのだ。画像はamazonより借用。
冒頭でいきなり、魯迅と「影(かげ)」が結びつけられる。やや長くなるが、決定的に重要な箇所だから引用してみよう。引用全体は、最初の一段落を構成している。「旧字・旧仮名」と呼んでいいのかどうか知らないが、今とは違う原文のままの文章にしとこう。
私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであつたが、あのなかの葬(とむら)ひの場面が不思議に心を離れなかつた。・・・とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳(かや)のなかで目が覚めた。茫と目が覚めてゐる私は、その時とらへどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。
・・・向側の蚊帳の中には、誰だか、はつきりしない人物が深い沈黙に鎖(とざ)されたまま横はつてゐる。その誰だか、はつきりしない影は、夢が覚めてから後、私の老いた母親のやうに思へたり、魯迅の姿のやうに想へたりするのだつた。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知つたのは恰度(ちょうど)亡母の四十九忌の頃であつた。 (第一段落終了、引用終了)
☆ ☆ ☆
母と魯迅の死を先取りする正夢、あるいは予知夢みたいな妖しい夢。そこには、満州事変の後、日中戦争(日華事変)や太平洋戦争・第二次世界大戦の前、という時代背景もあるし、現実の魯迅の小説もある。
そこで私は、久しぶりに魯迅の小説を読んでみた。国会図書館デジタルコレクションでは一般公開されてないし、青空文庫にも無いが、アマゾン電子書籍の読み放題、kindle unlimited(キンドル・アンリミテッド)に入ってたのだ。
魯迅『阿Q正伝』、増田渉訳、角川書店。この本自体は新しいが、底本が1961年の角川文庫だから、訳文がかなり古くて読みづらい。英語が非常に得意な人なら、むしろインターネット・アーカイブで無料公開されてる英訳の方がいいかも知れない。「The Misanthrope」というタイトルも、人間嫌い、付き合い嫌いの人という英語だから、意訳としては分かりやすい。
「孤独者」(孤獨者)は上の訳本の中盤に収録。冒頭の一文だけでも、内容の想像がつく。「私が魏連殳(ウエイリエンシュー)と親しくしたのは、考えてみると風変わりであった、というのが葬(とむら)いにはじまって、葬いに終わった」。
この訳文を活かして今の翻訳へと修正するなら、「というのも・・・からだ」といった感じだろう。「孤独」という表現が適当なのかどうかハッキリしないが、人付き合いの悪い変わり者の知識人と「私」(魯迅)が葬儀で出逢い、葬儀で別れるのだ。最初は、その彼の祖母の葬儀。最後は、彼自身の葬儀。
彼は、独自のこだわりを持って一人で生きていたが、やがて生活に困ったような形で仕事に就き、遊びも覚え、自嘲気味の現実的生活の中、病気で孤独に死ぬ。小説の一番最後は、この日本語訳では「かげ」という言葉で締めくくられるのだ。文章的にも内容的にも美しく文学的な終わり方なので、あえて引用しない。ちなみに前述の英訳では「かげ」に当たる英語は無い。
☆ ☆ ☆
さて、魯迅「孤独者」を読んだ後、原民喜「翳」と彼の人生を振り返ると、魯迅の敷いたレールの上を原が辿っているのが分かる。作者としても、一人の知識人としても。
もともと原がこの「孤独者」を読んだのは、文学畑の若い友人・岩井繁雄の言葉がキッカケだったようだが、この友人は文学から離れた職につき、召集されて戦地で病死する。愛人(内縁の妻)は、彼が戦地に行った後、別の愛人を作り、彼の死後は恩賜金を受け取った後、岩井の(?)老母を見捨てて立ち去ったとのこと。岩井が「孤独者」に見えて来る。
彼と出会った研究会の主催者、重々しく沈鬱な長広幸人も、戦地で病死。妻は資産目当てだったそうだから、これも「孤独者」の類。さらに、原に岩井を紹介した友人だけ、なぜか「S」と書かれてるが、おそらくこれも魯迅「孤独者」を意識したネーミングだろう。魯迅は冒頭の3行目くらいで、なぜかアルファベットを使って「私はS町にいた」と書いてるので。
結局、原民喜の周囲を取り巻く「死のレール」は、少なくとも15年間にわたって延びてたことになる。必ずしも時系列ではないが、魯迅「孤独者」のリエンシュー(実在モデルは范愛農=フアンアイノン)、原の母、魯迅、センター問題部分の魚芳、妻。そして、大勢の戦死者を挟んで、本物の鉄道レール上の自分。
☆ ☆ ☆
ちなみに、最近はほとんど乗ってないが、私はバイク(オートバイ)が好きだ。バイクの世界では、自分が進もうとする方向に視点をおく、視線を向けるのが操縦の基本になる。
特に、コーナー(曲がった道)では、意識的に内側を見る。もし外側を見てしまうと、遠心力に従って自然に外に進んでしまって、ガードレールに衝突したり転落したりしてしまうのだ。
人間が意識的・無意識的に持つ、心理的イメージの巨大な影響力。もちろん、誰もが死に向かう存在だし、長く生き延びることが良いこととも限らないわけだが、本人も周囲も多少は自覚的であるべきだとは思う。作品と向き合うにせよ、人と接するにせよ。
なお、今週は計14525字で終了。ではまた来週。。☆彡
(計 3475字)
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