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フィクションとしての妖怪娯楽と、フーコー的アルケオロジー(考古学)~香川雅信『江戸の妖怪革命』(2021年・共通テスト・国語)

2021年(令和3年度)1月16日、初めての大学入学共通テストの第1日が終了。コロナ禍=コロナ下の初回実施としては、無難に成功したようだ。夜の時点で、53万人の受験生に大きな混乱は報告されてない。

    

当サイトでは毎年、国語と数学の解説記事を書いてて、国語では小説を本格的に扱うことが多かった。問題文の範囲を超えて、元の著作全体を扱うとか。別に評論や理屈が避けてるわけではないが、小説の方が面白くて奥行があるし、温かい記事を書きやすいのだ。

   

ただ、今年は評論で「妖怪」の話が登場。ツイッターでも妖怪へのコメントが目立ってたし、個人的にも幼い頃の妖怪映画の思い出は強烈に残ってるから、とりあえず第1問の評論について軽く書いとこう。ちなみに過去の国語記事は、この記事の末尾にリンク付きで提示する。

    

   

     ☆     ☆     ☆

軽くと言っても、予備校などの解答や分析とあまり重ならないマニアックな事を色々書いてみる。例えば、言及されてたフーコーの哲学書の原文とか♪ 私には、妖怪そのものより、フーコーの方が興味深い。

      

ちなみに、ツイッターで「共通テスト 妖怪」を検索すると、大量のつぶやきがヒットする。「共通テスト 芥川」も結構多い。ところが、「フーコー」に変えると8つしかツイートが出ない。

   

大人気の有名哲学者でさえ、こんなものか。「アルケオロジー」は3つ、「考古学」は1つ。ヒネって、「パラダイム」や「クーン」を検索すると、ゼロになる。「カント」も実質的にゼロ(無関係なつぶやきのみ)。

   

実はこの問題文は、フーコーというより、科学史家クーンのパラダイム論の通俗的応用。その前にはカントのアプリオリな形式の議論がある。その辺りまで触れるのが、マニアックな考察だ。出典の題名に「革命」という言葉が入ってるのは、クーンの代表作『科学革命の構造』を意識したものだと思う。

        

地理の『ブラタモリ』的中とかは、SNSにお任せしよう。問題作成者は、NHKの看板番組との一致に動揺したはず♪ まさか問題漏洩はないと思うが、果たして。。

    

    

      ☆     ☆     ☆

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問題文はいつものように、河合塾HPで確認した。ただ、今年は珍しく、わりと早い時間帯から堂々とtwitterに問題文が全てアップされてた。例年ならせいぜい、ごく一部の画像のみだ。

  

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上は、問題の出典となった著作、香川雅信『江戸の妖怪革命』の最初の単行本。河出書房新社から2005年に出版。

  

表紙の画像はamazonより。江戸時代の作品か、現代の作品かは不明。人間自体が妖怪とか、著者が妖怪というヒネった見方も可能だが、普通に見ると、下の部分が妖怪の姿。

   

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障子紙を突き破って、ろくろ首が女性を襲ってるのに、首の下の男は知らんぷりで吹き矢で(?)遊んでるように見える♪ こうした感覚が、「妖怪娯楽」ということか。

  

  

     ☆     ☆     ☆

この本は人気があるようで、2013年には角川ソフィア文庫になってるし、アマゾンの電子書籍・キンドル本にまでなってた。

   

おかげで、無料サンプルを入手して、問題文の前の部分を読むことが可能。元の単行本より分かりやすい妖怪の絵が5匹(?)、表紙に描かれてる。5人とか5体と呼ぶべきかも。

     

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その中心は、元の単行本と同じく、ろくろ首。首が長いとか、目が3つあるとか1つしかないとか、妖怪の特徴は一目で誰でも認識可能。ただし今現在だと、障がい者や多様性への配慮から、扱いが微妙な存在かも。

   

  

     ☆     ☆     ☆

さて、問題文は、序章「妖怪のアルケオロジーの試み」の途中の箇所。それより前の部分はまず、柳田国男『遠野物語』における河童の記述の引用から始まる。

  

「・・・二代まで続けて川童(かっぱ)の子を孕みたる者あり。生まれし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。その形きわめて醜怪なるものなりき・・・」。

   

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上図は無料の電子図書館・青空文庫より。著作権は消滅。2021年の現在だと、ブログに引用するのもためらわれるような文章を長めに引用した後、著者はこう語る。

  

「女性を惑わし、子どもを孕ませる醜い怪物。遠野に実際に語り伝えられていた河童は、そうした忌まわしい存在であった。それが現在では、丸っこく愛らしいキャラクターとして、遠野のシンボルとなっている。変貌を遂げたのは遠野の景観ばかりではない。妖怪に対する考え方、接し方も、また大きく変わっていったのだ」。

    

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上は遠野市HPのトップ画像。確かに、これはもうカワイイだけのキャラクター♪ カリンちゃん(カッパ+リンドウ)。下の左側は、巡回タクシーのイメージキャラ、くるりんちゃん。

  

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     ☆     ☆     ☆

こうした具体的な文章やイメージを先に与えてくれれば、受験生も問題文を読みやすかったはず。あぁ、なるほど、「革命」的に妖怪が変化してるんだな、と。

  

ところが、大学入学共通テストではいきなり難しげで真面目な文化論から始めてるから、そもそも妖怪を娯楽として楽しむという感覚を持ちにくい。だから、後の設問の選択肢から最適なものを選ぶのも難しくなってしまう。

   

おまけに、いきなりフランス現代思想の通俗的説明が登場。問題文でも、著作の序章でもポイントとなる箇所を引用してみよう。

  

アルケオロジーとは、通常『考古学』と訳される言葉であるが、フーコーの言うアルケオロジーは、思考や認識を可能にしている知の枠組み ── 「エピステーメー」(ギリシャ語で「知」の意味)の変容として歴史を描き出す試みのことである。人間が事物のあいだにある秩序を認識し、それにしたがって思考する際に、われわれは決して認識に先立って『客観的に』存在する事物の秩序そのものに触れているわけではない。事物のあいだになんらかの関係性をうち立てるある一つの枠組みを通して、はじめて事物の秩序を認識することができるのである。この枠組みがエピステーメーであり、しかもこれは時代とともに変容する」。

   

  

     ☆     ☆     ☆

あらかじめ、高校の倫理とかで大まかな話をかじってないと、大学受験生にはキツイだろう。フーコー自身は後でまた見るとして、その方法論を用いた著者の方は、妖怪の歴史を不連続的に3つに分ける。後に続く本論を先取りした要約。

  

まず、中世。妖怪は、「物」であると共に、神秘的存在(神仏など)からの警告の「言葉」を伝えるもの、吉兆だった。言葉を伝える物としての「記号」。

   

具体例は書いてないが、例えば、ある妖怪が現れたら、神が村人に「謝罪して反省の態度を示せ」とか激怒してるということか。で、村人が何か、神に捧げて一斉に頭を下げるとか。

   

次に、近世。この中期と後期を「江戸」とみなしてるような感じだ。近世では、物は物として、神秘的存在の言葉からは切り離されるし、人間が人工的に作ってコントロールできるようになる。

 

妖怪の意味は人間が与えることが出来るし、意味よりも形(形象性)や見た目(視覚的側面)が重視される記号なので、中世の記号と区別して「表象」と呼ぶ。キャラクター的で、リアリティを失ったフィクション。もはや娯楽の題材。

   

最後に、近代。簡単に言うと、明治以降のことか。妖怪は、謎めいた内面を持つ不安定な人間、「私」を投影した存在として、以前の中世などとは別の(人間的)リアリティを持つことになる。

  

これを著者が「記号」と呼んでないのは、近代の妖怪が反映する人間とか私という存在が、まとまった意味というより、曖昧で複雑な全体的広がりだからだろうか。案外、本論では記号と呼んでるのかも知れない。。

   

   

      ☆     ☆     ☆

著者が、「物」「言葉」「記号」「表象」「人間」といった言葉を特別扱いしてるのは、参照してるフーコー『言葉と物』の中心概念だから。「物」のフランス語は「chose」(ショーズ)で、物体だけでなく「物事」を広く表す。

      

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副題は、新潮社の日本語訳で「人文諸科学の考古学」とされてるが、人文諸科学の人文は、フランス語でも英訳でも「人間の」という意味。つまり、副題に「人間」と「考古学」が入ってる。

    

フーコー自身は哲学者だから、今回の著者よりも遥かに慎重で難しい語り口をしてる。『言葉と物』の序で、アルケオロジー(考古学)について説明する文章を引用してみよう。

  

あきらかにしようとしているのは、認識論的な場、すなわち、合理的価値や客観的形態に依拠するすべての規準のそとにあるものとしての認識が、そこにおのれの実定性の根をおろし、そうやってひとつの歴史、みずからの漸次的完成化の歴史ではなく、むしろみずからの可能性の条件の歴史といえる、ひとつの歴史を明確化する、そうした場としての《エピステーメー》なのである。そしてそのような物語のなかにあらわれるものこそ、知の空間において、経験的認識の多様な形態をつぎつぎと生みだしてきた、さまざまな布置にちがいない。だからこれは、語の伝統的意味での歴史というよりは、むしろ『考古学』と言うべきであろう」。

  

この渡辺一民と佐々木明の翻訳文は、先駆的な労作ではあるけど、失礼ながら今の感覚ではちょっと古くて読みにくい所もある。長い仏文の直訳に近いから、例えば「ひとつの歴史」という言葉(関係代名詞 qui の先行詞 une histoire)を2回くり返すことになってる。今だと、2文に分けて訳す方が読みやすい。

     

むしろ英語が読める人なら、Googleでプレビューとして部分公開されてる英訳の方が分かりやすいだろう。英訳タイトルは『The Order of Things』(物事の秩序)、Routledge(ラウトレッジ)社。

   

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     ☆     ☆     ☆

なお、上の英訳の最後、「archaeology」(考古学)には注の番号が付いてて、考古学については次の著作で検討するとフーコーは書いてる。

   

その著作、3年後の『知の考古学』では、さらにアルケオロジーの意味は複雑に変化。通俗的な解釈に釘を刺すような、あるいは水を浴びせかけるような言葉を、フーコーは一番最初から書いてるのだ。

  

「・・・これまで空(から)のままで放置してきた<考古学>という語に意味作用を与える・・・。<考古学>とは危険な語である。というのは、それが、時間の外にぬけ落ち、今や無言の中に凍結されたさまざまな痕跡を呼び起こすように見えるからである。事実は、重要なのは、さまざまな<言説>(ディスクール)を記述することである」。

   

要するに、普通の歴史や歴史学のさらに根本にあるもの(特にテキスト)の総体がアーカイヴ(英 archive)で、その研究・分析がアルケオロジー(英 archaeology)。

   

   

     ☆     ☆     ☆

したがって、フーコー的な考古学は、簡単に要約できる枠組みの変容の描写と同じではない。また、カント哲学の比喩として使われる色メガネ(かけると世界がその色に見える)のような認識装置でもない。まったく無関係な別物とまでは言えないにせよ。

   

簡単に・・とか言いつつ、既に長くなってしまったので、この辺で終わりにしよう。芥川龍之介の『歯車』も、青空文庫にある。

    

一言でまとめるなら、歯車とは、機械的な人間(特に自分)の幻覚のこと。背景には、人間の未知の内面、リアリティと関わる精神病や精神医学があるわけだ。

  

今週は計16681字で終了。ではまた来週。。☆彡

   

  

  

cf. 妻、隣人、そして自分・・戦争をはさむ死の影のレール~原民喜の小説『翳』(2020年センター試験・国語

 妻と再会できた夜、月見草の花畑~上林暁『花の精』(2019センター試験・国語)

 自転車というキュウリに乗って、馬よりゆったりと♪~井上荒野『キュウリいろいろ』(18センター国語)

 「春」の純粋さと郷愁が誘う涙、野上弥生子『秋の一日』~17センター国語

 キャラ化されない戦後の人々、佐多稲子『三等車』~16センター国語

 啓蒙やツイッターと異なる関係性、小池昌代『石を愛でる人』~15センター

 昭和初期の女性ランニング小説、岡本かの子『快走』~14センター

 幻想的な私小説、牧野信一『地球儀』~13センター

 鷲田清一の住宅&身体論「身ぶりの消失」~11センター   

   

       (計 4868字)

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