菊池寛100年前の短編小説『マスク』~スペイン風邪の不安と、マスクをつけた他人への不快感、葛藤・矛盾の心理描写
朝日新聞・朝刊(21年9月22日)のコラム、天声人語は、終盤で一言、作家・菊池寛(きくち・かん)の短編小説『マスク』に触れてた。一般的には、本人の小説よりも、芥川賞・直木賞の創設の発案で有名だろう。
「スペイン風邪の時代を生きた作家、菊池寛に『マスク』という短編がある。感染が収まって多くの人がマスクを卒業しても、心臓に持病がある主人公はマスクを手放さない。
『伝染の危険を絶対に避ける。臆病でなく文明人としての勇気だと思ふよ』。外したい気持ちを抑え、自分に言い聞かせる場面が印象深い」。
☆ ☆ ☆
コラム全体の中心的主張は、最後から2行目の「いましばらくマスクをつけ続けよう」。そのため、菊池寛の小説もそうした安全重視の姿勢としてとらえてる。
しかし当時の作家が、そんな普通の立派な主張だけを書くはずはない♪ そう思って早速、国立国会図書館デジタルコレクションで『菊池寛全集 第四巻』(春陽堂、大正11年、1922年、p.325-p.335)を閲覧。死後73年が経過、著作権は消滅。
実際に自分で読むと、想像通りというか、想像以上に屈折してた。そもそも最後、自分はマスクを外した状態で、マスクを付けてる他人を不快に思ってるのだ。これこそ、昔の「私小説」(わたくししょうせつ、ししょうせつ)らしい告白だろう。
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読み終えた後、日経新聞の紹介記事を発見。菊池寛記念館HPで去年から『マスク』を一般公開してるとのこと。
早速、記念館のウェブサイトに飛ぶと、どこで公開してるのか分かりにくいから、Googleで検索。直ちに見つかった。
読みやすさなら、こちらの方が遥か上。pdfファイルのダウンロードも可能。国会図書館の全集とは別の、『菊池寛全集 第二巻』(高松市発行)が出典で、少しだけ中身が違ってるようだ。
一応、2つの全集を比較しながら、核心部分を引用、簡単に解説してみよう。ネタバレになるので、念のため。
☆ ☆ ☆
『マスク』の初出は、1920年(大正9年)7月、文芸誌『改造』。1918年~1919年に猛威をふるったスペイン風邪(インフルエンザA型、H1N1亜型)がちょうど収まった頃に書かれてる。
全世界の死者は推定2500万人。今の新型コロナは500万人弱だから、5倍の死者数で、しかもすぐ死亡したようだ。
日本の死者数は39万人で、当時の人口は5000万人程度。現在の日本の人口は2.5倍になってるから、今の感覚だと、死者100万人弱になる。ちなみに、新型コロナの日本の死者数は17000人だから、スペイン風邪の60分の1にすぎない。
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当時は情報も医療体制も恵まれてなかったはずだから、新型コロナより遥かに悲惨だったのだ。小説の主人公(菊池寛自身)がおびえるのは当然だろう。
そもそも、朝日は字数の制限もあって「心臓に持病がある」とだけ書いてたが、小説を読むと、悪い所だらけだったらしい。「見かけ丈(だけ)は肥(ふと)つて居るので、他人からは非常に頑健に思はれながら、その癖内臓といふ内臓が人並以下に脆弱」。
ところが、さすがは文学者。いきなり屈折した微笑ましい心理も描写してる。「『丈夫さうに見える。』と云ふ事から来る、間違った健康上の自信でもあつた時の方がまだ頼もしかつた」。
しかし、手加減なしの医者に厳しい注意を受けた上に、流行性感冒(スペイン風邪)が猛烈に流行り始めたから、現在の普通の日本人みたいな対策をとることになる。
「他人から、臆病と嗤はれやうが、罹つて死んでは堪らないと思った。自分は、極力外出しないやうにした。妻も女中も、成るべく外出させないやうにした。そして朝夕には過酸化水素水で、含漱(うがひ)をした。
止むを得ない用事で、外出するときには、ガーゼを沢山詰めたマスクを掛けた。そして、出る時と帰つた時に、叮嚀(ていねい)に含漱をした。・・・咳をして居る人の、訪問を受けたときなどは、自分の心持が暗くなつた」。
☆ ☆ ☆
その後、朝日が少し言葉を変えて引用した立派な台詞「臆病でなくして、文明人としての勇気だと思ふよ」が登場する。
しかし、文脈が全く違うのだ。小説では、これは自分の臆病な行動を「友達に弁解した」言葉として登場。しかも、「幾分かはさう信じて居た」だから、自分ではあまり信じてないのだ。そんな弁解は、友達も信じてないはず。
既に2020年の3月。「マスクを掛けて居る人は殆どなかつた」。その中で、まだ外出せず、マスクはしてたから、「妻までが、自分の臆病を笑つた」。
ところが、4月、5月になると、暑さも加わって、主人公もマスクを外す。「日中は、初夏の太陽が、一杯にポカポカと照して居る。どんな口実があるにしろ、マスクを付けられる義理ではなかつた」。
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そんな頃、市俄古(シカゴ)の野球団が来たから、帝大との試合を見に行く。快晴の日で、おそらく当時の早稲田大学・戸塚球場(後の安部球場で、既に閉鎖)。
「ふと、自分を追ひ越した二十三四ばかりの青年があつた。自分は、ふとその男の横顔を見た。見るとその男は思ひがけなくも、黒いマスクを掛けて居るのであつた。
自分はそれを見たときに、ある不愉快な激動(ショック)を受けずには居られなかつた。それと同時に、その男に明かな憎悪を感じた」。
1人でマスクしてる青年に対して、不愉快、憎悪。「感冒の脅威を想起させられた」よりも、「強者に対する弱者の反感ではなかつたか」。
ちなみに春陽堂の全集では、「強者に」ではなく「強弱に」と書いてた。初出の雑誌までは確認してないが、「強者に」が正しいと思う。
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朝日的な読み方では、これは青年の勇敢さを称える文章だということになるのかも知れない。解釈は自由だが、普通に考えてそれは誤読だろう。というのも、青年に対する描写にはネガティブ(否定的)な言葉が並んでるからだ。末尾の一文でも、それは確認可能。
「此の男を不快に感じたのは、此の男のさうした勇気に、圧迫された心持ではないかと自分は思つた」。
これで最後になるのが、当時の私小説的な筋書き。不快、勇気、圧迫という並び方は、要するに不快の方が強いことを示してる。
とはいえ、今の中学・高校の国語の授業なら、「主人公は、自分を反省して、青年の勇気を見習おうと考えている」と解釈するのが正解になってしまうのかも。
人間はそんなに立派に出来てないし、社会もそれほど綺麗に出来てない。少なくとも来年までは、日本も世界も混乱したまま、試行錯誤&論争することになるだろう。海外では既に、マスクの争いで銃撃のニュースまで出てるほど。
ちなみに私は、夏の暑い時には、人がいない場所で少しだけマスクを外して深呼吸。他はずっとマスクで、外出は仕事その他、必要なものだけに留めた。イベントや夜の街は、私にとっては不要不急だから行かないが、必要で急ぎだという人を否定するつもりもない。
なお、小説にワクチンの話は全く出てなかった。当時も一応、ワクチンは開発されてたが、(あまり)効かなかったようだ。それでは今日はこの辺で。。☆彡
(計 2909字)
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