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牧田真有子『桟橋』(24共通テスト国語)、全文レビュー・書評 ~ 漁師に拾われた魚、捻じ切れた血の橋を自分で生き始める

最初に書いておきたいのは、この記事は続編だということ。2024年の共通テスト・国語が終了した半日後に、問題文だけを見た軽い解説をアップ。この1週間でかなりのアクセスを頂いた上に、紹介リンクもいくつか付けて頂いたようだ。

   

 船ではなく、枠のない海の波を係留する桟橋を夢見る少女〜牧田真有子の小説『桟橋』(24年・共通テスト・国語)

   

その後、私は小説の全文を読んだので、これから書くこの記事は「小説全文」レビュー、全体の書評・感想になる。

   

   

    ☆   ☆   ☆

ただし、設問の参考資料とされていた太田省吾「自然と工作」は、まだ読んでない。これについても、近日中に読むことが出来れば、この記事にコメントを追記する予定。

  

個人的にはむしろ、カフカの短編小説との関連の方が興味深い。難解で奇妙、幻想的で多義的な作品の数々で知られる世界的な男性文学者・カフカ。牧田の意識には無かったとしても、無意識的に過去の読書体験が反映されているような気がする。

    

牧田の『桟橋』は、カフカの『橋』を題材にして加筆した女性的小説だろう。カフカの『掟の門』へのオマージュ(敬意を込めた模倣)もまじえて、ややポジティブな方向性を持たせた改作。

  

なお、以下の内容は当然、ネタバレ的なものになる。おそらく、まだ全文を読んでない読者の方が大半だろうから、先に自分で全文を読んでみることをお勧めする。図書館、古本、メルカリ、国立国会図書館の遠隔複写サービス・・・etc.。いろんな手段で読むことが可能。おそらく、私の読みとはかなり違った体験ができるはず。

  

     

     ☆   ☆   ☆

て、『桟橋』の初出雑誌『文藝』2017年・秋季号(第56巻・3号、河出書房新社)では、p.152-p.165までの全14ページ(上下2段組)が掲載箇所。そのうち、共通テストの問題文の位置は下図のようになってる。文芸誌なので、文章は縦書きで右から左に進む。

   

240123a
     
  

上図だけ見ると、問題文は全体の7分の1強に見える。しかし、1ページ目の右半分は、大きな活字の題名と著者名。12ページ目の左端は広告。最後の14ページ目では、下段の多くが空白になっている。だから実質的には、問題文は全体の6分の1くらいになる。

   

240123d
    

問題文の箇所では、16歳の高校生・イチナ(全文を読むと女子高生だと分かる)が、幼い頃から、8歳上の風来坊の「おば」(問題説明ではカッコ付き)に好意と興味を抱いてることが描かれていた。

   

それは、受験生的には(?)「百合」という言葉で表される女性同性愛的な関係にも見えたらしい。それに対して私は、前の記事で、こう書いておいた。以下、自分で引用しておく。

  

私ならむしろ、女の子のマザー・コンプレックス(母親への複雑な思い)の変化形と呼びたくなる。あるいは、おばの父親的な要素・側面も加味するなら、エディプス・コンプレックス(両親への複雑な思い)のバリエーション

     

実際、問題文の冒頭には、『イチナが幼少期に祖父母の家で親しく接していたおば』と書かれてる。3歳と11歳なら、11歳は母親的な存在だろう。問題の前半では圧倒的に巨大な存在とされてるし、後半でも、おばさんはイチナの母と重なるような形で描かれてるのだ。」 (引用、終わり)

   

   

     ☆   ☆   ☆

女性同士の愛というより、親子の物語。さらに言うと、少なくとも表面的には、母親と娘の関係が中心。

   

この私の読みが基本的に合っていたことは、全文の冒頭を読むといきなり分かった。小説は次のように、重いイメージで始まる。

  

ばさばさした透明のビニール暖簾に一箇所、赤い指紋がついていた。血の跡だった。それが魚の血なのか漁師の血なのか、桟橋から望遠鏡で漁港の作業場を見ているイチナにはわからなかった。ただそれは強くイチナの心をとらえた。授業中に前ぶれもなく指名され、答えを要求されるときのように、十六歳の彼女ははりつめる。」(p.152)

    

私はたまたま、瀬戸内海の小さな漁港とゆらゆら揺れる「浮桟橋」のすぐそばで生まれ育ったので、この光景そのものはよく分かる。実際には、臭いと音・声が加わるし、いろんな液体が流れているので足元にも注意が必要なのだが、ここでのイチナは望遠鏡で見てるので、臭いや音、足の感触まではわからない。ハッキリ見えるのはただ1つ、赤い血なのだ。

   

しかし、漁港の血を見て、漁師の血だと考えたことはないはず。魚の血に決まっている。また、漁港を「望遠鏡」で見たこともない。

       

と言うより、もし見るとしても「双眼鏡」だろう。オペラグラスという言葉は流行ってないとしても、望遠鏡は不自然すぎる。それに対して双眼鏡なら、女子高生がライブ会場(ここでは演劇)に持参しても不思議はないのだ。実際、「ライブ 望遠鏡」で画像検索すると、安くて小さくて可愛い双眼鏡がズラっと並ぶ。あるいは、イチナが持っている「携帯」のズームとか。

     

    

     ☆   ☆   ☆

この謎解きの答は、小説自体には明示されていないが、「望遠鏡」という漢字をよく見れば分かる。

  

 望遠鏡 = 遠くを望む鏡

   

つまり、遠くにある自分の姿を見る手段・道具、装置なのだ。時間的にも内容的にも遠い自分を探す手掛かり。

   

それなら、まだ16歳の女子高生イチナは、魚だろう。では、漁師は? 魚=イチナの血と深く関わる人物、とりあえずは両親しかない(実はおばのイメージも加わる)。ここでは漢字ではなく、音韻的なつながりが出来てる。

    

 漁師 = りょうし ≒ リョウシン = 両親

    

望遠鏡で魚か漁師の血を見たイチナが、急に答えを求められた問題。それは、おそらく幼い頃から何となく微かに感じていた違和感のもと、両親との血筋の問題、血縁関係なのだ。前・言語的な不安、問いかけ。

  

「今の両親」と私は、血が繋がっているのだろうか? もし繋がっていないのなら、私と血が繋がっている「本当の両親」はどこでどうしているんだろうか?。。

   

    

     ☆   ☆   ☆

そう。イチナは実は、今の両親と血がつながっていないのだ。今の両親(りょうしん)は、良心(りょうしん)的に育ててくれているだけ。しかも、それを知らないのは、周囲でイチナただ1人だけ。

    

 漁師 = 両親 = 良心

  

ということは、家族・親族の全体が、素人だらけの劇団ということになる。才能を持つおばを除いて、おそらく大半の劇団員は、あまり演技が上手くないだろう。それで16年間(実は17年近く)もの間、血のつながった家族を演じ切れるだろうか? 誰も一度も致命的なミスをせずに。

     

それが簡単でないことは、現実社会を考えても想像がつくし、小説内でのおばに関する記述でも分かるような気がするのだ。

   

    

    ☆   ☆   ☆

おばの両親は、実は、イチナの祖父母ではない。おばの実の母親は、まだ17歳だった、イチナの「今の母親(を演じる女性)」。だからこそ、おばと母親、「二人の声質はそっくり」なのだ。おばの実の父親は、どこにいるのか分からない「風来坊」の男性。

  

おばはなぜか、幼い頃から「本当のこと」しか表現できなかった。当然、周囲と上手く折り合えない場面が生じて来る。最近なら、つい発達障害とかいう言葉を思い浮かべてしまうような問題児の日々。

   

やがてある時(小学校高学年~中学くらいか?)、最も「本当のこと」を偶然知ってしまう。自分のことだけでなく、イチナの出生・起源の秘密まで。

   

イチナの実の父親は、自分(おば)と同じ風来坊の男性。イチナの実の母親は不明。したがって、「おば」とイチナの本当の関係は、姉と妹なのだ。腹違いの異母姉妹。だからこそ、イチナがおばを「『おねえさん』にすり替えようとする度おじいちゃんから威嚇され」ていた。もうしばらく隠しておきたい秘密の真実だから。

   

本当の家系図は、こうなっている。

    

240123e

 

その話をたまたま聞いてしまったおばは、衝撃を受けた数時間後から、何も知らない自分という役柄を演じ始める。「本当のこと」ではないものを表現し始める。やがて、実の母がおばを産んだ年齢である17歳になって、周囲から全てを伝えられた時にも、まるで初めて知った衝撃の事実のように演じ切れた。その後、劇団まで立ち上げることになる。

   

   

     ☆   ☆   ☆

こうして、「風来坊」という妙な言葉の意味の全体が姿を現して来る。風来坊とは、風と共にどこからともなくやって来る子ども。それは、おば、おばとイチナの実の父親だけでなく、誰よりもイチナのことだったのだ。

    

風来坊の男が、ほとんど説明もなしに、勝手に昔の恋人(イチナの今の母親、おばの実の母親)のもとに置いて行った幼子。あえて、今では避けられる昔のきつい言葉を使うなら、イチナは捨て子。

  

2007年に九州・慈恵病院で運営を開始した「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)でさえ、多くの論争を呼び起こした。まして、イチナの実の父親は、2人の子どもを放棄して、1人目を産んだ女性に無理やり預けている。

   

もし、こんな事実をイチナが知ってしまったら、昔の自分以上に傷ついてしまうはず。だから、おばは、自分の演劇をイチナに見せようとはしない。その演劇の演目の一つは、のっぺらぼうの仮面をつけて、赤い装束で動き回る、恐ろしい踊りだから。何者でもないまま、「自分以内の」血と全身で戦う舞踏=武闘だから。

   

   

    ☆   ☆   ☆

なぜ身内が来ることを禁じるのか? 劇団員の問いに対して、おばは答える。

  

 本当に禁じたいのは姪ただ1人。「橋が捩じ切れるから」、「桟橋になるから」。

    

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上の写真は、佐渡UIターンサポートセンターより縮小引用させて頂いた、「あやめの桟橋」。前の記事に書いた「浮桟橋」ではなく、しっかり作られた桟橋らしい。お世辞抜きで、美しい観光スポットだと思う。

   

桟橋というのは、船の係留に使う施設だが、観光や遊びにも使える。ただ、普通の橋と違って、途中で切れた形をしてる。しかも、広くて深い海の真っ只中で。

  

桟橋の果てで、さらに奥に向かおうとした人は、海に落ちてしまう。それに対して、普通の橋なら、奥に進めば向こう岸に渡れる。イチナにとって、向こう岸とは何か? それは、血の川を挟んでつながっている両親。本当のものと、本当でないもの(偽物)がある。

  

だからこそ、小説の後半、物語の核心に迫る辺りでは、川と「多数の橋」が登場する。劇団の公演の前日、2人で旅行している時に突然いなくなったおばを、イチナが探し回る箇所を引用してみよう。

    

河口には長いがそっけない造りの橋が架かっている。渡る途中、イチナは川の上流へ望遠鏡を向けた。一つ向こうの橋の上を軽トラックが通り過ぎ、その向こうの鉄橋を一両編成の電車が走り抜けていく。さらに先のくすんだ橋梁は両方の袂が鬱蒼と繁った雑木林に埋もれており、その辺りで大きく湾曲する川を、森と岩壁が隠し始める。イチナがいるのはこの川の、最後の橋だ」 (p.160) 

  

今いる橋はなぜ、「長いがそっけない」のか。それは、血が繋がってない両親との疑似的な家族関係だから。一番向こうの橋はなぜ、あまり見えなくなっているのか? 実の両親はほとんど全て不明だから。ここでも「望遠鏡」、遠くにある自分の姿を見る手段が使われているのは、もはや説明不要のはず。

  

この辺り、簡単な精神分析的解釈も可能な表現になっているが、ここでは省略しておこう。

   

        

     ☆   ☆   ☆

その後、イチナは1人で桟橋に向かう。実はもうすぐ、イチナは17歳の誕生日を迎えて、本当のことを知らされる予定なのだ。何となく薄々、感じ取っていた「橋」のそっけなさは、残酷なまでに明確に理解されることになる。

    

そして橋は、向こう岸のない桟橋になる。しかし、血縁の絆が全て消えたわけではない。だからこそ、桟橋で望遠鏡を使って漁師と魚の血を見るイチナの後ろから、行方不明だったおばがやって来るのだ。同じ父親を持つ異母姉妹の姉が。

 

その後の大きなエピソードについては、あえて書かないことにしよう。才能あふれる若い女性にありがちな、血の事件が発生。イチナは1人で、自分の血を生きていく決心をする。その直後に17歳を迎えて、真相を知らされる。

  

さて、彼女の場合は、どんな選択をするだろうか。必ずしもハッピーエンドは約束されてない。「魚」の周りをうろつく「猫」、桟橋の板の裏側からぶつかる「暗い海水」も、小説に描かれていた。現実の厳しさは尚更か。実の母親と久しぶりに会って、予想外のきつい言葉に傷つけられたADHDの男性の話も最近読んだばかりだ(朝日新聞・23年11月6日・夕刊)。

   

   

    ☆   ☆   ☆

最後に一言、カフカの短編小説にも触れとこう。「橋が捩じ切れる」というおばの奇妙な言葉からは、カフカの寓話的短編『橋』を思い出す。画像はTumblrより(Isidre Mones作)。

         

「私は橋だった。・・・彼はやって来た・・・誰だろう?・・・私は知りたかった。そこでいそいで寝返りを打った ━━ なんと、橋が寝返りを打つ? とたんに落下した。私は一瞬のうちにバラバラになり、いつもは渓流の中からのどかに角を突き出している岩の尖りに刺しぬかれた。(完)」 (『カフカ短編集』岩波文庫)

    

240123b

   

橋が捩じ切れたり、寝返りを打って落下するのはなぜか? それは、表と裏、真逆の2つの面を使おうとすると、無理が生じるからなのだ。イチナの場合、表面的に今の「両親」と仲良く暮らしつつ、裏で実の両親を追い求めると、心にも身体にも過大な負荷が加わることになる。

    

カフカの場合、橋が落ちて死んでしまう。牧田の場合、つながっていた橋が、途切れた桟橋として生き残る。橋は別に、向こう岸とつながっている必要はないのだ。

   

   

    ☆   ☆   ☆

一方、おばの演目は、イチナと自分のために作られたような内容なのに、イチナだけは来てはいけないとされている。この矛盾的な設定は、カフカの『掟の門』に類似している。

   

「掟の門前に門番が立っていた。そこへ田舎から一人の男がやって来て、入れてくれ、と言った。今はだめだ、と門番は言った。・・・何年も待ちつづけた・・・死のまぎわに、これまでのあらゆることが凝結して一つの問いとなった。

  

・・・『この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?』・・・門番がどなった。『ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門はおまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ(完)」 (同上)

   

カフカの場合、男は門の中に入れないまま、おそらく全く納得できずに死んでしまう。カフカ自身も、別に唯一の謎解きの答を用意しているわけではない(長編『審判』第9章参照)。

    

牧田の場合、イチナは劇場には入れなかったけど、内容を知ることは出来たし、自分とおばの特別な関係を何となく感じ取ることも出来た。そして、そこから新たにポジティブな一歩も踏み出せたのだ。

   

    

    ☆   ☆   ☆

実の両親が、愛情豊かに子どもを育てて、明るく温かい家族を築く。平和で古典的な家庭像が、多様性の名や生殖技術、戦争、自然災害などと共にひび割れている現在、牧田真有子の小説『桟橋』は、本当の社会的問題を踏まえた上での、巧みなフィクション、テクニカルな虚構として完結していた。

     

イチナはともかく、「おば」さんにとってはおそらく、それなりに幸せな結末だと思う。風来坊の役者という生き方自体が、風と共に去りぬ。それでは今日はこの辺で。。☆彡

    

      (計 6167字)

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