緑内障という病名の由来・起源の一つ、古代ギリシャのヒポクラテス全集「視覚について」は本人の著作でない(NHK『トリセツショー』)
このブログでは過去20年間、多数の有名な引用句について調べて来たが、全体的に「偽物」が多い。その本人(偉人・有名人など)が書いてないこと、語ってないことが、出典不明のままネット上の拡散してることが非常に多いのだ。
今回も、あえて名前もリンクも付けないが、医療系の公式サイトで微妙な情報が拡散してた。「ヒポクラテスが・・・と記述」といった感じで、どこに書かれてるのかも明示せずに。
そうした情報と比べると、たまたま見たNHK『トリセツショー』(2025年2月20日)の説明は良心的で学問的。レベルが数段上のものではある。
ただ、テレビ画面の右下に小さく『ヒポクラテス全集』とだけテロップを出したのは微妙な所。間違いではないが、これだけだと、世間一般の「ヒポクラテスが・・・と記述」という認識とそれほど違いがない。
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先に、正解らしき事を単刀直入に書いておこう。
「緑内障」という病名の由来・起源の一つとされる文章(・・海のような色・・)は確かに、一部の「ヒポクラテス全集」の一節に書かれている。
しかし、その一節は、学問的には少なくとも数十年前から、ヒポクラテスが書いたものではない偽物(贋作)とされている。
だから、その一節を掲載していない全集も少なくない。
では、まず番組の該当箇所の表現や情報を正確に確認してみよう。
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関西弁の女性(濱田マリ)のナレーションを正確に書き起こすと、以下の通り。
「名前に緑と付く理由は諸説あってな」
「その一つは、古代ギリシャの書物に
『瞳が海の色になると次第に目が悪くなる』
と書かれてることやねん。」
「その海の色が地中海の緑色を指すのでは?ちゅうわけ。
でも、今回取材した日本のお医者さん達は、
目が緑色になる症状は見たことないって言うとったで。」
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目が緑色になる症状については最後に少しだけ補足するとして、このブログ記事のこだわりは古代ギリシャの書物の話。
番組最後の1カットだけのエンドロールを見ると、監修の専門家の名前は出てなかった。
ということは、書物の部分の信頼性に関しては、3つ上の画面の右下が一番重要になる。一瞬、隅に小文字で映すだけの、NHKによくあるテロップ。ほとんどの視聴者の目には留まらないだろう。せいぜい、「ヒポクラテス」という、知る人ぞ知る人名に目が行く程度か。
出典: ヒポクラテス全集
取材協力: 熊本大学名誉教授 谷原秀信
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この谷原教授の名前と緑内障を組み合わせてネット検索すると直ちに、関連する2016年の論文がヒットした。しかも、これほど番組と合ってる論文は他に見当たらないから、おそらくNHKのスタッフも同じように検索して見つけたんだろうと想像。
谷原秀信、安部郁子 「『緑内障』という病名の起源について」
日本眼科学会雑誌 第120巻 第5号
普通この辺りまで調べるのが限界だろうが、マニアック・ブログは本当に学術論文を読む。該当箇所(p.369-p.370
)を引用してみよう。論文冒頭の「I はじめに」の最初。
「緑内障は、現代の日本において、第1位の失明原因であり、重要な眼病として認識されている。緑内障についての最古の文献的記載は、ヒポクラテスの死後100年ほど経過した頃(おそらくは紀元前3世紀頃)にヒポクラテス学派によって編纂された『ヒポクラテス全集』において、
『瞳孔が通常の外観を失つて、自然に青くなることがある。而も不意に斯くなることがある。若し左様になつてしまへば最早自然には治らない。海水色を取る瞳孔は長い時日の間に漸次、通常の外観を全く失ふて了ふ。そして一眼が斯くある時は屡々長い時日の後に他眼も亦普通の外観を失ふ』(今裕(訳)、『ヒポクラテス全集』第45編「視覺に就て」)と記述されたものであるといわれている。」
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これは非常に古い翻訳(1931年、岩波書店)なので、著作権が消滅して、国会図書館デジタルライブラリーで一般公開されてる。
そして、この一節のギリシャ語原文も、かなり苦労した末にネット上で発見した。日本語はもちろん、英語で検索してもなかなか辿り着けなかったから、フランス語で調べたらようやく出て来た。あえてリンクは付けないので、興味のある方はご自分でお試しあれ。
上の赤枠で囲んだ部分が、NHK『トリセツショー』の画面に出た文。そして赤枠の左端の単語(タラッソエイディス)が、直訳すると、海のような色という意味。
では、このギリシャ語のタラッソエイディスを、緑色と解釈するのは妥当なのか。ChatGPT4o(有料サブスク)に尋ねると、「自然で妥当な解釈」だと回答して来た。
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しかし、上の100年前の日本語訳でも、私が見つけたフランス語の文献(ギリシャ語原文+フランス語訳)でも、緑とは訳してない。あくまで、海の色と訳してるだけなのだ。
そもそも、番組のテロップでも「地中海の色=緑色?」と疑問形になってたし、その際の資料映像も、よく見ると緑色なのは右側だけで、左半分は青色になってる。
たぶん、天気が良い時の浅瀬が緑色に見えるということだと思う。私も個人的に、沖縄の海で体験したし、故郷の瀬戸内海でもたまに見た記憶がある。
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「海の色」と「緑色」の関係よりも気になるのが、ヒポクラテス全集の一節「視覚について」。
これ、英語の検索に慣れてる私でも、なかなか見つけ出せなかったが、当たり前なのだ。短い断片的文章に過ぎない上に、ヒポクラテス本人が書いた文章ではないとされてるから。
まず、英語版ウィキペディアの「Hippocratic Corpus」(ヒポクラテス全集)の項目を見ると、「On Vision」(視覚について)は、「dubious works」(疑わしい作品)とされてる。
日本の比較的新しい翻訳である『新訂 ヒポクラテス全集 第二巻』(1997年、エンタプライズ株式会社)でも、「視覚について」の訳者である酒井明夫が冒頭でこう書いてた。
「本篇はガレノスやエロティアヌスの手になるヒポクラテスの著作目録のなかに含まれておらず、また文体や論証法からみても、ヒポクラテス自身の著作ではないとする見解が一般的である」。
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というわけで、このブログ記事の最初の辺りに書いておいた要約を再掲しとこう。
「緑内障」という病名の由来・起源の一つとされる文章(・・海のような色・・)は確かに、一部の「ヒポクラテス全集」の一節に書かれている。
しかし、その一節は、学問的には少なくとも数十年前から、ヒポクラテスが書いたものではない偽物(贋作)とされている。
だから、その一節を掲載していない全集も少なくない。
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なお、目が本当に緑色になるかどうかについては、そもそも色の感覚や「錯視」(とされる見え方)、呼び名の個人差が大きいので、ハッキリした事は言えない。対象に当てられてる光の影響もあるし、見る角度の影響もある。
例えば、10年ほど前、世界的な話題・論争になった下の女性のドレス写真。いくら説明されても、私には白と金にしか見えないが、それは「錯視」に過ぎず、「正解」の色は青と黒ということになってる。日経HPより縮小引用。ある写真に関する個人の見え方と、実物の別の写真とは、それほど関係ない・・とだけは反論しとこう。
ただ、ネットを広く見渡すと、緑色にはならないというNHKの説明は、それほどメジャー(多数派)にも見えない。緑色になるといった感じの記述もあるし、「緑っぽい色」に(私には)見える写真もいくつもあるのだ。
とはいえ、写真の投稿だと、画像の加工の影響もあるし、カラーコンタクトや検査薬の一時的影響(女性タレント・井上咲楽の昨日のインスタグラム投稿)も考えられるから、ここでは保留しとこう。そもそもこの記事の本題は、緑内障とヒポクラテス、ヒポクラテス全集の関係なのだ。
かなり長く複雑な話になって来たので、今日はそろそろこの辺で。。☆彡
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