削除された菊池真理子のマンガ『「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~』、全5話の感想

2022年7月8日、安倍晋三・元首相の銃撃殺人事件から、今日で6日目。裁判前でも「犯人」と言ってよいほど明らかな容疑者、山上徹也の動機・背景・理由に関する報道・情報が次々と公開されてる。

    

当初から、政治的信条によるものではなく、宗教団体への恨みや憎悪を安部元首相と結び付けたものだろうと言われてたが、マスメディアは宗教の名前を出してなかった。一部のネットメディアや個人が、団体名を出してただけだから、半信半疑の状態だった。

    

   

     ☆     ☆     ☆

ところが7月12日に、世界平和統一家庭連合(旧・統一教会)が記者会見。平成10年(1998年)ごろから今現在まで、容疑者の母親が信者であることを認めた。途中、10年近くは離れてたようだが、数年前からまた1ヶ月に1回ほど行事に参加してるとの事。

  

家庭の経済的破綻は把握していたそうだが、寄付との関連や金額などの詳細は語らず。今現在は、「高額な献金が要求されることはない」。

   

宗教団体と元首相の間に、直接の関係はないが、友好団体「UPF」(天宙平和連合)が主催する行事に元首相がメッセージを送ったことがあるようで、マスメディアもすぐに確認して報道。

   

さらに、容疑者は別の宗教的な(?)団体とも関連があって、そこが反安倍的な姿勢だったという報道も出てるが、その辺りについてはまだ、今後の情報を待つべきだろう。

   

   

      ☆     ☆     ☆

韓国系の統一教会という団体名がこれほど大きな話題になったのは久々だろうが、そこには名称変更の影響もあったのかも知れない。日本では2015年に、統一家庭連合へと改称。

    

その辺りをネットで調べてると、宗教と家庭の問題を扱うマンガが抗議で削除されたという情報が目に留まった。父がアルコール依存症、母が新興宗教信者だったという、菊池真理子のマンガ。『「神様」のいる家で育ちました~宗教2世な私たち~』。

    

集英社の「よみタイ」というサイトで、2021年9月から月1回の連載がスタート。ところが22年1月の第5回が公開された後、急に連載は中止。公開されてたマンガ5回分は全て削除となった。詳細については、著者も口止めされてるそうで、多くは語らない。

  

ただ、第5回の内容は明らかに、有名な教団を扱った内容だから、強い抗議が来たのだろう。それなら第5回だけ撤回すればよいと思うが、色々と複雑な大人の事情や思いがあるようだ。下は、FLASHの記事より。教団名はカットしておいた。

  

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     ☆     ☆     ☆

削除されたマンガは、ネット上のコンテンツなので、今でもいわゆる「魚拓」として、すべての情報が保存されてる。ほんの少し調べれば、直ちに無料で閲覧可能。あえてここにリンクは付けないが、怪しいサイトでもないし、登録も不要。

    

以下、私の個人的な感想を簡単に書いとこう。ネタバレになるので、ご注意あれ。

  

最初に、誤解を避けるために書いておくと、私は宗教との特別な関わりは全く持ってない。日本人によくある、単なる「葬式仏教」と関わる一般人だが、別に宗教を全体的に批判する立場でもないし、新興宗教の怪しさや問題点だけを強調したいわけでもない。

      

個人的に法事その他でお世話になってるお寺やご住職との関係も良好で、イメージは良い。お葬式を除けば、高額な献金みたいなものも無し。常識的なお布施を、お礼として定期的に渡すだけだ。

    

ただ、削除されてしまった宗教マンガを見ると、興味深い内容で絵も可愛かったので、ブロガーとして軽くまとめて感想を書くだけのこと。もちろん、そのマンガが描いた内容がどの程度、真実なのかも、注意が必要だろう。第三者的に確認できる客観的な根拠を挙げないまま、ネガティブな内容を中心としてるので。

   

  

      ☆     ☆     ☆

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21年9月22日の第1話は、「学校行事にイベント、恋愛……すべては『破滅への道』と禁じられた俺の15年間」。マンガの前に、「本作は、取材対象者ご自身の体験をもとに事実を再構成したものですが、人物名は全て仮名です」という注意書きがある。

  

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「生まれてまもない俺」が、「王国会館」で「証人たち」にのぞきこまれるシーンから始まる。これだけでもう、どの宗教かは特定されるが、あくまで名前は出してない。私も書かないことにしよう。

    

「禁止事項だらけで 娯楽ダメ 争いダメ 恋愛ダメ 輸血ダメ 誕生日も正月もクリスマスも祝っちゃダメ」。逆らうと、破滅という考えも刷り込まれてる。この宗派で有名な禁止事項は輸血で、何度もニュースになって来た。

      

母親が強固な信者だったから、幼い頃から布教活動や集会に連れ出されて、(因果関係はともかく)吃音にもなってしまったし、体罰(激しいお尻叩き)も経験。父親は信者ではなさそうだが、妻のやる事に反対はしてない。

   

中学2年でバプテスマ(洗礼)を受けたものの、15歳の時、宗教を止めると宣言。その後、独立して結婚もしたが、母親は自分の妻を勧誘して来たらしい。

  

最後に母親が妻に手渡す小冊子は、私も過去、合計5回くらいは受け取ってる。マンガだと、恐ろしい顔つきの女性として描かれてるが、実際に私が受け取った相手はどれも普通のおだやかな女性(1人か2人)で、しつこい勧誘も金銭の要求も全く無し。書かれてる内容も宗教としては普通。だから、別に擁護するわけではないが、個人的な印象は別に悪くない。

   

   

     ☆     ☆     ☆

10月28日の第2話は、「『手かざし』すれば薬は不要? 苦しみ続けた僕が選んだ生き方」。アトピー性皮膚炎や喘息で苦しんでるのに、薬を使えなくて悲惨だったという話だ。「御み霊」という言葉も出てるから、どの宗教か、ほぼ確定する。

  

これも、母親が熱心な信者で、流産が続いたのがキッカケとのこと。父親も一応、信者だが、医者なので薬の重要性はよく知ってる。迷いとストレスの蓄積が原因なのか、父はやがて「急性心不全」で突然死。自殺をほのめかすような描写になってた。

  

この教団の特徴の一つは、あまり厳しくないことで、男性が大学の「薬」学部に進むと話すとあっさり賛成♪ この辺りから、男性の疑問も広がってた。薬も使ってみると、よく効く。結局、宗教を止めると話した時も、母親はそれほど止めず、悲しい顔を見せただけ。

   

この教団については、かなり前にこのブログで遠回しに書いたはずだが、16年間も毎日書いて来たので、どこに書いたかまだ発見できてない。私のバイト先にこの教団の幹部と自称する人がいて、私も手かざしを受けてるし、その人の家に泊まったこともある。

  

手かざしは全く効果が無くて、1回か2回で終了したが、その人はちょっと淋しそうな顔をするだけ。しつこい勧誘も全くなし。もちろん、仕事は普通に真面目にやってたし、会話も通じるし、普通に感じのいい人だった。だから個人的には、この教団もあまり悪いイメージを持ってない。多少、変わってるなという程度の印象。

     

   

     ☆     ☆     ☆

続いて、11月24日の第3話は、「『お前はサタンだ!』 優しかった両親が豹変……恋愛すると家族全員が地獄に落ちると育てられた『神の子』」。

  

「真のお父様に配偶者を決めてもらい」、神の子が生まれる。芸能人の合同結婚式の話も出てるので、今話題の旧・統一教会だろう。今回は、両親ともに熱心な信者で、神の子である女性が男性とキスしたことがバレた途端、態度が豹変。

  

大学の学生相談室で「あなたはあなたの人生を生きなさい」とアドバイスされたが、一般論であって心に響かず。その後、同じ境遇で育って来て独立した弟から、似た話をされて、こちらは心に響いた。「重みと輝きは 灰とダイヤほど」。相談室のカウンセラーが気の毒になるが、その種のことはいくらでもある。同じ内容でも、話す人によって効果が激変するのだ。

   

私は統一教会そのものとは全く無縁だが、その関連団体みたいなものと1度だけ意図的に接触したことがある。若気の至りで、潜入捜査みたいな感覚だった。今回、それを多少細かく書こうかと迷ったが、とりあえず止めとこう。

     

ハッキリしてるのは、ここでも強い勧誘も金銭要求も全くなしで、宗教に関わる突っ込んだ話も「ほぼ」普通に出来たということ。文字通りの「冒険」みたいなものから生還した後は、何の関わりもない。

   

   

      ☆     ☆     ☆

12月22日の第4話は、「神様は信じてる、でも……厳格なプロテスタント一派の教えに感じた『違和感』」。普通のキリスト教の話だ。

  

女性は、バプテスマ(洗礼)も受けたけど、日曜の礼拝は大変だし、男尊女卑や同性愛否定の考えには違和感を抱く。そして、教会から遠ざかるが、今でも神様は信じてるし、また戻るかも知れない。

  

「子どもができたら神様のことはたぶん教えるだろう だけど信じなくたってかまわない 神様を信じるか どんなふうにつきあうか すべては自分が決めることだから」。

  

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これも、かなり前にこのブログで一言だけ書いた気がする。私も子どもの頃、一度か二度か、近所のキリスト教の集まりに参加したことがあるのだ。子どもたちが集まって、絵本か何かを見ながらお話を聞いて、軽食でくつろいで、おしまい。宗教的なカードみたいな物を見せられた気もするが、よく覚えてない。

    

狭くて暗めの部屋でちょっと妙な雰囲気はあったけど、怖いというほどでもないし、別に何かされたわけでもない。これまた、強い勧誘など一切なし。その後、仲間内で話題になることも無かった。

  

聖書は普通に興味深い書物だし、クリスマスは普通に好きだし、結婚式にも教会が使われる。悪い印象は持ってないというより、むしろ印象はいい。本気で信じる気はないにせよ。。

   

   

     ☆     ☆     ☆

そして最終回となってしまった、22年1月26日の第5話。「母の期待に応えたい……宗教高校一期生として過ごした女性の告白」。

  

スピリチュアル好きの母親が、例の教団の教祖の本にハマって、それが原因か(?)、両親は離婚。でも、シングルマザーの母は、仕事せずに3人の子育て。「母は美人だったんです」。当然、布教には有利で、お金も自然に入って来たらしい。

   

その後、娘は教団の高校に入学。宗教学園の栄えある一期生。閉鎖的な寮生活で、言われるままに東大を目指すものの失敗。他の大学に入ったものの、突然、不安定になって退学届。その後、教祖の長男による暴露も開始。友達はいない。

  

やがて睡眠薬か向精神薬かで自殺未遂。そこからは、周囲の人達がみんなで助けてくれて、生活保護も受給。27歳の今は母と連絡を絶ってる。

 

「なのに今も時々 全部終わりにしたくなるんですよ

 この先 いいことがあるなんて 信じられないんですよ」

  

履歴書の最終学歴その他、自分と教団との関係はどうしても周囲に分かってしまう。「ずっと変な目で見られる」。

  

これは、履歴書にウソを書く手もあるし、それが嫌なら、新たに別の高校の卒業を目指すことも出来なくはないはず。制度的には一応、可能らしい。通信制の私立とか、定時制の公立とかが狙い目か。他に、そのままで受け入れてくれる所を探すことも出来るし、中卒の履歴で通すことも不可能ではない。要するに、生きることは十分可能なのだ。

  

   

      ☆     ☆     ☆

ちなみに、あの教団については、私自身も含めて、周囲で話を聞いたことはない。たまに本の広告を見かけるとか、選挙関連で情報が目に入るとか。

    

それにしても、第5話に強く抗議が入ったらしいのは、女性本人の自殺と、教祖の長男の暴露がらみだったからだろうと思う。しかも、長男の主張は複数の裁判ともつながってるから、教団側も気になるはず。その他の第5話の内容は、それほどインパクトのある批判にはなってない。むしろ、第1話や第3話の方が強烈だった。

     

信者を一人取材しただけでは不十分という、集英社側の主張そのものは妥当だろう。それなら、もう少し取材した上で、あくまでほんの一例だという点を強調して、再び作品を世に問う手はあるはず。現役信者による反論・異論を併記するという、朝日新聞とかがよく使うやり方もある。

  

とにかく、世の中には宗教も信者も溢れてるわけだが、別にその関連での銃撃や殺人が溢れてるわけではない。その辺りは注意しつつ、適度に適切な関心は持ち続けたいと思ってる。

  

予想外に長くなってしまったので、今日はそろそろこの辺で。。☆彡

   

   

P.S. 22年8月17日、このマンガが文芸春秋から出版されるという報道が出た(ねとらぼ)。連載中の原稿に加え、未発表作・描き下ろし計45ページを収録とのこと。

        

        (計 4932字)

  (追記79字 ; 合計5011字)

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お盆の由来、餓鬼道に落ちた母を救う目連と釈迦~盂蘭盆(うらぼん)経・原文&盂蘭盆会

昨日も触れたが、朝日新聞(20年8月13日)の朝刊コラム「天声人語」は、母と子とお盆の話で、ちょっとヒネリが効いてた。

          

「7世紀には『盂蘭盆会』(うらぼんえ)という仏事が営まれた。もとは中国から伝わった説話。釈迦の弟子が、陰暦7月15日に食べ物を供え、餓鬼道に堕ちた亡母を救ったという」。

    

一見、フツーのいい話のようだが、この後にオチみたいな展開がある。朝日の筆者がこの夏、お盆に帰省しようとしたら、伝染病を持って帰るなとか言われて、親に拒否されたらしい♪

  

お盆に息子が親孝行しようとしたら、逆に、親不孝扱いされたという話だ。いわゆる「自粛警察」どころか、肝心の田舎の家族にさえ嫌がられてしまうのが、今年の夏。それにしては首都圏は静かになってるけど、みんな、どこに行ったんだろう? 家で短期の引きこもり状態なのか。。

   

  

     ☆     ☆     ☆

さて、ちょっと興味を持った私は、色々とネットで調べてみたけど、情報量がかなり多いわりに、なかなか正しい解説らしきものが見当たらない。

   

そもそも、経典というものは日本人にとっては漢字だけど、元はサンスクリット語(梵語)と言われる。ところが、サンスクリット語の経典のさらに前、あるいは別の系列のものとして、パーリ語とか俗語とか色々あるらしい。

   

元に遡るとキリがないし、現在の定説らしきものも見当たらないけど、一応の基本としてはこうなってる。統合辞典サイト「コトバンク」の各種辞典の各項目を中心に、私がまとめた。

      

インド伝来ではない偽経とも言われる、盂蘭盆経(うらぼんきょう)というお経に、仏陀の高弟・目連の話が書かれてる。彼が特殊な能力で亡き母の様子を見ると、餓鬼たちの中で飢えて苦しんでた。目連が食事を運んでも、食べる前に火で炭になってしまう。

  

嘆き悲しむ目連が釈迦に相談すると、母の罪は非常に重いようだから、7月15日に大勢の仏僧たちと共に飲食して供養すれば、母も助かるとのこと。それが盂蘭盆会で、長い歴史を経て、今のお盆につながった。

  

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上は、ウィキメディアの解説本の図より。多分、家の中で釈迦の右側に座ってるのが目連。家の外で右下に立ってる骨と皮の痩せた女性が亡き母か、それに似た境遇の現世の女性だろう。

    

ちなみに7月15日というのは陰暦(旧暦)で、僧たちが寺院や住居に留まる「安居」(あんご)の期間が終わる日。今の新暦だとかなり遅れて、例えば今年(2020年)だと、本当は9月2日の計算になるらしい。ただ、実際には慣習的に8月15日ごろに固定されたと。。

   

   

     ☆     ☆     ☆

この程度のお話なら、既にあちこちに書かれてるから、ここでは経典の原文をチェックしてみよう。浄土宗の高城山・十念寺HPより、「仏説 盂蘭盆経」の一部を引用させて頂く。ひらがなは消去した。

  

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まず、目連、母、仏の文字の確認。漢字だから、日本人なら大体の意味が分かる所が凄い。

  

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確かに日付けは7月15日と指定してある。「盆」という漢字が初めて登場するのがこの2ヶ所で、明らかに普通のお盆みたいな意味だろう。もちろん、漢字の経典として見るなら。

   

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「盂蘭盆」という妙な言葉が登場するのは、上図の箇所が初めて。これだと、「盆」と何が違うのか分からない。

  

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「盂蘭盆」と書かれてる残り2ヶ所が、上の図2枚。やはり、料理のお盆との違いは不明。この後はもう、一番最後に経典の名前として、再び「仏説 盂蘭盆経」と出て終了。

  

なお、全文でもかなり短いお経で、中国語版ウィキソースだと「仏説 報恩奉盆経」とされてた

  

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      ☆     ☆     ☆

この「うらぼん」は、サンスクリット語のullambana(ウランバナ)の音を写し取った訳だというのが、一応の定説みたいなものになってる。

  

この意味は「倒懸」(とうけん)、つまり、逆さ吊りのことで、母親が味わってた餓鬼道での過酷な苦しみを表してるとのこと。

  

でも、それだと漢字のお経の文章とほとんど対応してない。だから、「盂蘭盆」とは実は「ご飯をのせた盆だろうとか(辛嶋静志氏)、別の原語が変化したものだとか、諸説があって、正直よく分からない状況だ。

  

英語版ウィクショナリーを見ると、パーリ語の「ullumbana」とか「ullumpana」とか、僅かに違う別の言葉も、語源の候補として挙げられてた。

     

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    ☆     ☆     ☆

単なる普通の日本人の私としては、お話の流れから普通に考えて、色々ともてなしの料理をのせたお盆のことだろうと推測・想像しとこう。いずれにせよ、お盆という行事を身近に感じられるようになった。

 

来年の夏は、普通のお盆になりますように。それでは今日はこの辺で。。☆彡

   

        (計 1891字)

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盆提灯(回転灯篭、置き提灯)の名前・呼び名と、回らない時に直す方法

記事を書く直前に調べ直して良かった。実はこの記事のタイトルは、一番初めに「回り灯篭」(まわりどうろう)と書くつもりだったのだ。

  

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上図は、Googleで「回転灯篭」を画像検索した結果で、ほぼ完全に私の言いたい物が表示される。ちなみに、同じようでも「回り灯篭」で検索すると、もっとシンプルな走馬灯が多くヒットしてしまう。

   

   

     ☆     ☆     ☆

私の周囲では、お盆の仏壇の前に置く上のような飾り物を、単に「提灯」(ちょうちん)と呼んでる人が多い気がする。

     

ただ、この呼び名には「回る」という重要な言葉が入ってないし、そもそも提灯とは「提げる灯」だから、持ち運びする物を指す言葉だろう。設置型の吊り提灯にせよ、下の長い脚も上の飾りも無い、小型が本来の形のはず。ところが、「盆提灯」(ぼんぢょうちん)とか「置き提灯」という言葉にすると、ほぼ回転灯篭を表すようだ。下は「盆提灯」の画像検索

  

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というわけで、記事タイトルの最初は、一般的に使われやすい短い言葉の「盆提灯」にして、次が本来の正解らしき「回転灯篭」、3番目に「置き提灯」としてみた。

   

他には、回転行灯(あんどん)という言葉もあるけど、行灯という言葉は今の日常生活で(ほとんど)聞かないし、江戸時代とかの油と芯を使ったものを指すイメージがあるので、選外となった。他に、「霊前灯」と呼んでる例もあったけど、これはちょっと違うし、なぜ四十九日の後のお盆なのに「仏前灯」と呼ばないのか、納得できないので避けておいた。

  

単なる文字変換の問題なのかも知れないけど、「回転」を「廻転」と入力してる例もある。たかが呼び名と漢字、されど呼び名と漢字。地域差や年齢の問題、業者や宗派による違いもあるだろうし、なかなか難しいのであった。

   

   

    ☆     ☆     ☆

そんな事より、回らない回転灯篭を直す方法、コツの方が大問題。私が何とか解決できたのは、既に法事・法要が終わった後だった。

   

初めて自分で設置した時、4つの内、回らないのは1つだけ。そのくらい、いいかと思ったし、そもそも回らないといけないとも思ってなかった。

   

ところが、いざ法事が始まる直前に電源プラグを差し込むと、4つの内、3つも回らない。軽いジョークも含めて、試しにご住職に「普通は全部回ってますか?」とたずねてみたら、「回ってます」とあっさり当たり前のようにご返答♪

   

そこで、慌ててネットを検索すると、トップに役立つサイトがヒットした。関東に5店を展開してる仏事のお店「日本の心」の、青梅店のブログ記事。ただし、私の場合、それを読んだだけでは解決しなかったから、自分でやり方を試行錯誤することになった。

   

   

    ☆     ☆     ☆

上の記事の要点は、「芯が垂直になっていないと廻りません。・・・提灯自体が傾いていないか? 芯は垂直か?がポイントです」という箇所。

   

物理学的・力学的に正しいのは分かるけど、提灯自体の傾きは目で見ても分からないし、もちろん計測具なんて誰も持ってないだろう。大体、回転灯篭の傾きを土木工事みたいに計測してたら、ギャグかコントみたいなお笑いになってしまう。

   

芯の傾きはちょっと調整してみたけど、直らないから、あきらめそうになりつつ、もうひと踏ん張り。下側のはめ込み式の脚を3本ともしっかり差し込んで、脚同士をまとめる「人」の字型の部品もしっかり装着

    

さらに、電球の下側をソケットにしっかりねじ込んで絵が描かれた円筒形の部分の形を手で丸く整えて針の一番上の部分を指で軽く撫でて掃除したら、全部回るようになった♪

   

     

☆翌年の追記: エアコン冷房の風が下に直撃してると、回転しにくくなるようだ。熱い上昇気流で回すのだから当たり前か。あと、針の一番上に潤滑剤みたいなものを少し塗るのも効果があった。いずれにせよ、調整する時は、外側の大きな傘を外せるタイプだったら外した方がやりやすい。わが家の場合、半分はそのタイプ。) 

   

   

    ☆     ☆     ☆

一つ一つは当たり前のことばかりだけど、これだけ全て組み合わせて調整した経験は、他の事でもない。単純な構造とはいえ、なかなか繊細な仕組みだなと感心した。

       

なぜか1つだけ、風車の羽を深く折り込んでも回転速度が遅いけど、とりあえず気にしないことにしよう。多様性の時代、遅いのも速いのも、仲良く仏前で共生するということで。

  

最後に、意外な発見も添えとこう。ウチの4つの内、2つは脚も上側も金色に光ってるけど、これはどうも珍しい商品みたいだ。普通は黒系か、木目調。別に高級品というわけでもないけど(失礼♪)、仏具店・製造会社の品揃えのおかげか、あるいは贈ってくださった親戚の心配りのおかげと言うべきか。

   

ともあれ、季節はいよいよ真夏。全国的にお盆(旧盆)の時期だから、走馬灯のように故人の思い出を次々に浮かべるのもいい供養になると思う。というわけで、今日はそろそろこの辺で。。☆彡

   

       (計 1840字)

   (追記149字 ; 合計1989字)

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参列者の心に沁みた仏教・維摩経の法話(☆うろ覚え、未確認の日記)

これから書く法話は、私の記憶の再現だけど、メモ・録画・録音の

類はなく、うろ覚えの未確認の内容だ。大乗仏教の中の変則的な

話のようだけど、ネットで軽く調べた限りでは、多少、仏教学的に

不正確な感じもある。

 

失礼ながら、その点をやや遠回しにご住職にたずねてみると、

「ネットは間違いだらけです。長いお経の一つの挿話なので」と

いった感じの自信ありげな応答だった。解釈の違いの問題でも

ないとの事。

 

それでもう、「私が見たのは、お寺も含めて数十のサイトなんです

けど・・」とは言わず、ありがとうございましたとだけ伝えた。法話

への感謝と、素人の質問への応答に対する感謝と。

 

いずれにせよ、会葬者みんなが感動・感心したのは、学問とか

宗教的な正確さとはズレた部分だと思う。要するに大きな文脈的

には、故人の生前の生活を褒め称えてくれてるのだ。身近で

個人的な最近のエピソードを添えつつ。

 

聞いたこともない意外なタイプのお話で、分かりやすいし心が

こもってるから、ウケが良かったんだろう。俗世間で苦悩しながら

生きる普通の人々への応援歌として。。

 

 

      ☆       ☆       ☆

 私は故人とは、年に2回くらいお会いしてました。お盆と正月と。

 私がお宅にうかがうと、いつもお茶を出したりお菓子を出したり、

 もてなしてくれました。

 

 ただ、今年の1月にうかがった時はもう、しんどい、しんどいと

 言っててね。立ち上がるのも大変な状況。それでも必死に、

 あれこれ私にしてくれてたんです。1月だから、つい先日のこと

 ですよね。

 

 さて、仏教には維摩(ゆいま)経というお経があります。仏教では

 いろんな如来様がいて、如来ごとに違う世界を持ってるんですね。

 この如来ならこの世界、あの如来ならあの世界とか。

 

 香積(こうじゃく、こうしゃく)如来の世界では、大勢の菩薩さまが

 修行していました。ある時、如来さまが世界の窓みたいなものを

 開くと、小さな窓を通して別の世界が見えたのです。

 

 向こう側は穢土(えど)といって、苦しみや悩みに満ちた世界。

 大体、この世の中でも、がっかりするような事が多いですよね。

 相手に10、良い事をしても、2つか3つしか返って来ないとか。

 生きてると、辛いこと、残念なことばかりあるものです。

 

 そうした世界を窓からのぞいた菩薩たちに、如来さまがたずね

 ました。今いる美しい世界、浄土で修行したいか、それとも

 あちらの苦悩に満ちた世界、穢土で修行したいか。

 

 すると、菩薩さまはみんな、あちらに行きたいと言いました。苦悩

 に満ち溢れた世界での修行は、清らかな世界での修行の何万倍

 もの価値があるからです。

 

 つまり、故人も長い間、苦痛の中で修行を積まれて来たことに

 なります。ですから、ご年齢の何万倍もの価値のある修行を

 おさめたわけで、立派な仏様になられたのだと思います。

 本当に見事な大往生でした。。

 

 

      ☆       ☆       ☆

差し当たりは全く余裕ないけど、いずれもし間違いがハッキリ

したら、訂正したり別記事で補ったりする予定。

 

なお、今週は非常時だったので、合計10970字で終了。

まあでも、通常の3倍の修行にはなったと思う♪ 来週も再来週も

引き続き、非常時モードが継続。ではまた。。☆彡

 

          (計 1306字)

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蚊を殺さなかったというオウム・麻原彰晃が・・

生活リズムも天候も乱れてるせいか、ここ数日は妙に眠い。昨日も

仕事が終わった直後から強烈に眠くて、帰宅後はすぐに寝ようと

思ってたのに、雑用をこなしてる内に変な感じで目が覚めて来た。

 

強引に横になって寝た方がいいなとか思いつつ、サッカー・W杯を

チラ見しながら、PCとiPadでオウム真理教の情報もチェック。過去

も重要だけど、もっと重要なのは現在と未来だよなと思ってたら、

麻原彰晃の三女・アーチャリーのツイッターに流れ着いてた。三女

ほどメジャーではないようだけど、次女のツイッターともつながってる。

 

あえてこの記事にリンクは付けないけど、付ける必要もないくらい、

どちらも普通に公開されてるし、更新も頻繁。他に、海賊版みたいな

動画もあふれてた。テレビの顔出し出演もしてるわけか。形容する

言葉に迷うけど、あの子ども達がそれぞれの人生を歩んでる様子は

何となく感じ取れた。。

 

 

      ☆       ☆       ☆

オウム真理教の死刑囚たちが7人同時に執行されたのが、昨日、

2018年7月6日。平成30年。平成の内に執行したいという思いも

あったとかいう報道を読んで、あれは平成の事件なのかと、ちょっと

驚いてしまった。

 

元をたどると昭和の末期、オウム神仙の会まで遡るけど、社会的な

問題が一気に拡大したのは平成に入って。違う時間尺度で見ると、

バブル末期から崩壊直後にかけての混乱・停滞期だった。偶然では

ないと思う。外的なものと内的なもの、2つの側面における狂騒の

終焉。もちろん、同じ一つの虚構的な現象と見ることも可能。

 

その後の日本経済や社会は、格差拡大その他、色々と問題はある

けど、それなりに地味に上手く持ち直してる。国内だけ見るなら、

オウムのレベルの反社会的カルト集団が現れてるわけでもない。

 

ただ、世界的にはイスラム国(IS)その他、宗教関連の問題が続く

状況だし、国内のかなり悲惨な官僚システムがオウム化してるとか

いう指摘もある。個人的確信犯によるテロみたいな殺人事件が時々

起きてることを考えても、「オウム真理教事件が終わった」などとは

言いにくい。むしろ、形が変わったと言うべきか。今のところは。

 

ちなみに公安調査庁によると、後継団体とみなされるアレフ、ひかり

の輪など計3団体の拠点は、15都道府県に35施設。信徒1650人、

保有資産11億円とのこと。ロシアにも、いまだに数千人の信者が

いるという報道もある。。

 

 

      ☆       ☆       ☆

最近のウチの傾向だと、ロシア語でロシアの報道を直接チェック

するパターンだけど、ここでは三女・松本麗華(りか)の著書

『止まった時計』(講談社)に注目してみよう。本が出たのは耳に

してたけど、読んだことはない。

 

三女たちは、麻原の家族の中では中間的な位置のようだ。麻原・

アレフに近いのが妻、遠いのが長女と四女、その間に三女・次女

といった感じの構図。

 

最も活動的な三女の単行本は2015年、文庫本が今年2018年

に出版されてる。文庫の冒頭だけなら、キンドルの電子書籍で

すぐ無料で読めた。

 

 

      ☆       ☆       ☆ 

貧乏だけど子沢山、夫婦仲は良くもないけど悪くもない、わりと

普通の高度成長期の家庭みたいな情景が写真付きで描かれた

後、興味深い話が出て来た。80年代後半で、まだ危険な集団だと

騒がれる前の段階。第一章より引用。9行のエピソードに付いた

小見出しは、「不思議な夫婦仲」。

 

 子どもの目から見ても、母が父の宗教を信じているようには 

 見えませんでした。「蚊に刺されると痒くていやだよね。でも 

 蚊も生きているんだよ」「お釈迦様によると、わたしたちは 

 死んだあと、生まれ変わるんだよ。もしかしたら、お父さんも 

 麗華も、蚊に生まれ変わることがあるかもしれない」とわたし 

 に語る父。一方、平気で蚊を殺す母。

 

 

実は、私の父親も、家の中の蚊を殺さず逃がしてたらしい。覚えて

ないけど、母親から聞いて、なるほどと思った。心優しいという感じ

はなかったけど、確かに攻撃的な性格ではなかった。たかがテレビ

に向かって文句をつけたり、将棋の攻めが強気だったりしただけだ。

私自身も、強く叱られた覚えはない。

 

 

     ☆       ☆       ☆

個人的な思い出話はさておき、蚊を殺さない麻原が人を殺す(指令

を出す)ようになり、自分自身も殺されてしまったのはなぜなのか。

 

ちなみに三女は、麻原を悪だと認めるけど、指示したのかどうかは

本人に聞くまで分からないと思ってるらしい。だからこそ度々、拘置所

に面会に行ったものの、会話は通じなかったし、最近はそもそも門前

払いとのこと。本人が応じないとかいう説明と共に。

 

90年代に入って、麻原が蚊を殺すようになったのかどうかはまだ

分からないけど、理屈上は一応説明できなくもない。

 

つまり、蚊は僅かな血を吸って、1時間ほど痒い思いをさせるだけ。

命を奪うほどの罪はないし、仮に目の前の蚊を殺したところで、蚊の

全体は不変。

 

しかし、国家は許しがたい悪だから、中枢部にダメージを与えれば、

より良い世界に近づくだろうし、彼らの魂の生まれ変わりにとっても

良いことだろう。だからこれは、立派な「ポア」なのだ・・(地下鉄サリン

の場合)。

 

 

      ☆       ☆       ☆

ここには2つの核となる考えがある。

 

 1. 非常に悪いものは、人間でも殺してよい。

 2. 肉体が死んでも、死後の存在(魂など)がより良いものへと

   高められる可能性がある。

 

この内、2番は、宗教にあまり熱心でない日本人でさえ、何となく

思ってることも少なくないだろう。ただ、それが1番と結びついて

殺人が正当化されることはほとんどない。まして、実行に移される

ことは滅多にない。

 

ただ、1番は今の日本社会で主流の考えだし、国家レベルで合法化

されてるものだ。それこそ、死刑。世界的には避けられる方向にある

けど、日本ではまだしばらく続くだろう。

 

国内の司法制度的には、今回の7人同時執行も別に問題ないのかも

知れない。もちろん、これまで特別長い時間もかけてるし、あまりに

重大な事件でもある。

 

しかし、非常に悪い人間は殺していいという考えは、直ちに自分たち

に跳ね返ることになりかねない。ある種の人たちから見れば、自分達

こそ非常に悪い人間かも知れないから。そして、まさにそれが実行に

及んだ(側面がある)のが、オウムその他の殺人事件だから。

 

 

      ☆       ☆       ☆

オウム関連だけ考えても、今回の死刑執行は、むしろ火に油を注ぐ

やぶ蛇になる可能性があると思う。殉教した聖者を神格化して、

腐敗した社会の根本的な世直しをはかる。

 

ただ、それより遥かに大きい脅威は、そうした考えを強大なAIが

インプットしてしまうことだ。醜く愚かな人間たちは消し去るのが、

世界にとっての最適解。評価関数が高い数値を与える指し手。。

 

あらゆる分野でAI・ロボット化、ネットワーク化、効率化が進む中、

そうした考えは杞憂にすぎないとかSFマンガだと笑うのは難しく

なって来た。変化のスピードは想像を絶する域に達してる。

 

まず警戒すべきは、AI・ロボットやネットを操作する一部の人間。

しかし本当に怖いのは、AI自体がその時点での人間たちを見切る

ことだろう。単なる一時的なエラー、計算間違いも含めて。

 

多様性とか共存の大切さを叫ぶのなら、悪との共存も考える必要

がある。相手から見れば、自分こそが許しがたい悪かも知れないし、

高めてあげるべき劣る魂かも知れないのだから。

 

ではまた明日。。☆彡

 

            (計 2962字)

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土中の餓死でミイラ化した遺体、「即身仏」をたどって~朝日新聞・夕刊

2014年12月3日から、朝日の夕刊で5回連載された短期シリーズ、「即身仏

をたどって」。朝日新聞デジタルでたまたま見るまで、紙面では気付かなかっ

たが、読むと小学生の頃の思いが鮮やかに甦って来た。畏怖と妖しい好奇心。

 

ちょうどその頃、幼心に、「みんな、いずれ死ぬんだな・・・」という事を理解して、

寝る前に「みんな、いつまでも生きて行けますように・・・」とかお祈りすることも

あった。一方、どうせ死ぬなら自分で厳かに死にたいという思いもあって、その

際の極限的なモデルが即身仏(そくしんぶつ)だったのだ。キッカケは忘れたが、

故郷の書店の宗教関連コーナーで何度か立ち読みした気がする

 

「コトバンク」で『世界大百科事典』第2版の説明を読むと、即身仏とは、「即身

成仏した行者のことであるが、通常その遺体がミイラ化して現存するものをい

う。・・・」と書いてある。ところがウィキペディアには、「即身仏と即身成仏は全く

別物である」と書いてある。

 

ウィキの間違いや出典の怪しさについては、これまでも度々具体的に指摘し

て来たし、この即身成仏の項目も、『岩波仏教辞典』だけを出典とした非常に

短い説明に過ぎない。ただ、朝日の即身仏の記事でも、おそらく意図的に「即

身成仏」という言葉を避けてるので、ここでも一応、別扱いとしとこう。個人的

には、おそらく『世界大百科』の方が妥当だろうと思う。総体的かつ相対的に。

 

 

           ☆          ☆          ☆

朝日の記者・川戸和史を即身仏へと向かわせた理由は、何とも文系的で漠

然としたものだ。── 社会全体の死が、ありふれた平穏なものになっていく

中で、悲しみ方、悼み方、社会保障の考え方なども変わっていくだろう。そうし

た変化への「考えを深めるには、何か対極から照射する強い光のようなもの

が必要だ」 ──。

 

現代の死生観の圏外から光を放ってくれそうなものこそ、即身仏。山形県の

日本海沿岸、庄内地方に集中して残ってるらしい。木の実や草の根を食べる

「木食」(もくじき)の苦行で腐らない肉体を作り、最後は土の中に埋まって餓

死。1000日後とか、しばらく経ってからミイラ(広義)として掘り出されるとのこ

と。ちなみに狭義のミイラは、遺体に人工的な防腐処理を施したもので、後で

登場するお寺、大日坊のHPでは、即身仏との違いを強調してた。

 

連載第1回「『やさしい』と女、『できない』と男」では、唯一、2体が並ぶ海向寺

が舞台。忠海と円明海、江戸時代の2体を目にした様々な反応を挙げてるが、

男である私はやはり、自分には「できない」というのが第一感。ということは、

「できるだろうか」と直ちに自問してるわけだ。女性にとってはあくまで他人で

あって、自分とは別物なのだろう。

 

掲載写真では、ちょうど仏様が見えない角度になってるが、画像検索すると

大量にヒットするから、必ずしも撮影禁止ではないのだろう。まあ、カメラやネッ

ト程度で有難みが薄れるような存在ではないはず。

 

キリスト教徒らしい外国人が「これは自殺だ」と叫んだとか、外国の宗教学者

が「これは宗教じゃないね」と語ったという話は、型にはまったものだが、本音

だろう。自殺と呼ぼうが自死と呼ぼうが、要するに自分から死んでるわけで、

自分が死んで神や仏になるという発想のない人には、非常に奇妙に見えても

不思議はない。

 

ちなみにキリスト教や仏教と自殺の関係については、以前、記事を書いてる。

 

  釈尊は自殺について価値判断せず~朝日新聞「自殺と宗教・上 仏教」

  罪の改釈、教義への柔らかい挑戦~朝日「自殺と宗教・下 キリスト教」

 

 

          ☆          ☆          ☆

連載第2回「誰と対面しているのか」は、本明寺にある現存最古の即身仏、本

明海をめぐって。元は下級の武士で、最後は修行で足腰が弱って、村人たち

が境内の縦穴に入れたとか。現代なら、自殺幇助の罪に問われる恐れもある

行為だ。禁止されたのは、明治維新の後らしい。

 

即身仏は、生前も死後も、周囲の人達と密接な関わりを持ってる。そもそも死

後、即身仏として掘り出すのは必ず周囲の人。それどころか、本当は病死な

のに、手術で内臓を取り出して即身仏にした例もあるらしい(南岳寺の鉄竜

海)。他の例でも、本当に土中で自ら餓死したと実証された即身仏は無いとの

こと。結局、即身仏とはそれ自体で存在するものではなく、周囲との関係性の

中で成立するものなのだ。

 

なぜ即身仏になるのかという、本人に対する問いは、なぜ即身仏を求めるの

かという、周囲に対する問いと不可分のもの。もちろん、この場合の周囲には、

現代の我々や記者も含まれることになる。その意味で、「誰と対面しているの

か」と問われれば、「仏様とわれわれ」だと、ひとまず答えるしかない。

 

そして、その場合の「と」という並立助詞の前後は、決して切り離せないわけだ。

客体と主体のようによそよそしい二項対立ではない。。

 

 

          ☆          ☆          ☆

第3回は、「超越者は座り続ける」。月山の注連寺にある即身仏のスター、江

戸後期の鉄門海をめぐるお話。この寺での経験をもとに、森敦が小説『月山』

を執筆。翌年(1973年)に芥川賞。小説に鉄門海は登場しないものの、即身

仏をめぐる怪しげな話が登場するので、月山ブームで観光客が集まったらしい。

 

戦後、森と親交のあった太宰治を含めて、若者の自殺が増加。モーリス・パ

ンゲは『自死の日本史』で、「遅れてきた特攻」と語る。森にも自殺への思い

があったが、大義を持った自殺に対する疑問もあったので、即身仏に対する

斜に構えた態度が小説に表れたのではないか。視線は注ぐものの、真正面

から見つめることはない。

 

そう、記者は言いたいのだと想像するが、記者の文章自体が何とも曖昧な

のだ。「研ぎ澄まされた作家の感性を森は無意識の自己韜晦(とうかい)に

包み込んだように思えてならない」。こうした文自体が、記者の側の韜晦、自

分をつつみ隠すことになってる。

 

とにかく、小説や月山のブームが過ぎても、武士殺し、艶話、男根切除、片目

摘出などの派手な伝説が学問的にほぼ否定されても、鉄門海は超越者として

静かに座り続けるのであった。。

 

 

P.S. 2015年6月3日、NHK『歴史秘話ヒストリア』で、鉄門海がドラマ仕

      立てで紹介されたらしい。

 

 

           ☆          ☆          ☆

時間も字数も無くなって来たので、後は簡単に。第4回「歴史の闇はこの世の

興味」では、大日坊の即身仏、江戸の百姓だったという真如海をめぐるお話。

 

明治維新による廃仏毀釈(神仏分離)や火災などで、歴史の闇に沈んだ実態

が、観光ブームで再び勢いを取り戻す。メディア、観光客、寺に対して、記者

は冷めた態度を遠回しに示してるが、新聞記事そのものにも「この世の興味」

を超える深みがさほど感じられない。

 

その点は、最終回(第5回)、「生きる者だけの権力なのか」を読むと、より明確

になる。元々、金融・財政政策担当の論説委員だったという記者は、「即身仏

をたど」る前から、答えらしき持論を用意していたようだ。6体目、国内最後と言

われる即身仏、観音寺(庄内の南の新潟県)の仏海(~1903)をめぐって色々

書いた後、終盤に次のような話を持ち出す。

 

── 江戸も今も、大衆は愚かな支配層、権力に対して、哲学者ニーチェの言

うルサンチマン(怨恨)を抱く。そしてその思いは、即身仏をめぐる伝説に使われ

ることもある(生前の武士殺しとか)。

 

ただ、今は昔と違って、哲学者フーコーの言う「生の権力」を国民が支持する。

高齢化社会を支えるため、無理な国債発行でマネーを脹らませ、かろうじて

社会保障を保っている。しかし、国債という名の膨大な借金を背負うのは、現

在の生ではなく、未来の生。やがて、この先送りシステムは破たんし、「生」の

仮面をかぶった「死と差別の権力」が台頭するのではないか ──。

 

 

          ☆          ☆          ☆

こうした記者の考えは、平凡とはいえ、重要な議論であるのは確か。けれども、

それを即身仏とつなげる論理が、連載ラストの次の文章だけだと、あまりにイ

メージ的、人文的、あるいは詩的なつぶやきに聞こえてしまうのだ。

 

   「神仏に祈るほかない時代が残した即身仏に『メメント・モリ(死を想え)』

    といわれた気がするだけでも、人生に幾ばくかの含みが加わるように

    思える。」

 

政治・経済は、芸術ではない。テレビ朝日の『朝まで生テレビ』とかなら、田原

総一朗が強い口調で問い詰めそうだ。

 

  「頭が良過ぎて、何を言いたいのか分からない。要するに、十分な社会保

  障を諦めて、即身仏みたいにシンプルに死んで国債を減らせってこと? 

  アベノミクスの無理な金融緩和も危ないから、衆院選の投票にも気を付け

  ろってこと?」。

 

即身仏や飢饉みたいに、一人で自然の中で餓死するのは無理だけど、生と

死のシステムにかなり無理があるのも事実。だからと言って、民主主義の多

数決を基本にすると、システムを変えるのも非常に難しい。

 

多くの人は、今生きてる自分たちの生活を豊かにしたいのだし、不自由な状

況になると高度な医療や介護が欲しくなる。グローバル化社会の中、日本だ

け清貧の思想でやって行こうとすると、貧し過ぎて清らかでない状況になるリ

スクもある。実は、即身仏になれなかった失敗例も多いそうだ。。

 

 

          ☆          ☆          ☆

とりあえず、われわれが出来るのは、目の前にある食べ物を大切にいただく

こと。任された仕事を誠実にこなすこと。出来る範囲で、助け合うこと。必ず来

る死を想いつつ、生を有難く享受すること。そういった当たり前の事だろう。

 

未来の生も含めて、他の生に過度の重荷を負わせることなく、いかにして、ど

の程度まで、自らの生を豊かにするか。そして、どのように死ぬのか。いかに

して、社会が決定を行うのか。これらを真剣に考え続ける生きた存在こそ、ミ

イラ化した死体とは無関係の、身近な「即身仏」かも知れない。あるいは、現

実的な「即身成仏」の方向かも知れない。

 

なお、以上に登場した6体の上人、高僧を安置する5つの寺はいずれも、月山

のすぐそばにある湯殿山信仰を担う真言宗の寺。ウィキの「ミイラ」の項目によ

ると、他に全国で12体あるそうだ(西生寺の弘智法印を最古とするなら11体)。

 

それでは今日はこの辺で。。☆彡

 

                                    (計 4104字)

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生き仏様の千日回峰行&一般人のゴロゴロ過ごした夜

ホーッ・・・酒井雄哉(さかい・ゆうさい)師が死去か。歯肉がんとの事。。有

名な生き仏さまで、子供の頃からお名前もお顔も覚えてたし、素直に自然

に頭を下げたくなる方だった。滋賀県大津市にある、天台宗総本山・比叡

山延暦寺で、荒行の「千日回峰行」を2度も達成した「大阿闍梨」(だいあ

じゃり)。要するに「規範となる師(阿闍梨)の中でも、大いなる僧侶」のこと。

 

聖地・比叡山の千日回峰の説明は、似たようなものがあちこちに書かれ

てるから、わざと語り口を変えてみよう。情報は、天台宗HPなどより。

 

7年間にわたって合計1000日、真っ暗な山の中とかを1人で30km歩き

回るのが基本パターン。笠、白装束(しろしょうぞく)、草鞋(わらじ)履きとい

う、出で立ち。3年目まで毎年100日、4年目と5年目は100日、6年目は

100日、7年目は200日。

 

   (100×3)+(200×2)+100+200 = 1000(日)

 

ウィキペディアその他には、実際は975日で残り25日はその後の人生の

分、といった感じの話が書いてるけど、どうして25日という日数なのか、あ

と、25日分を何年目から差し引くのか、その情報は見当たらない。多分、

7年目が175日(=200-25)なんだろう。

 

 

         ☆          ☆          ☆

6年目は京都への往復が加わって1日約60km、7年目の前半の100日

は京都の巡礼が加わって1日約84km。

 

これ、ランニングでもウォーキングでもなく、あくまで仏教の修行だから、重

くて動きにくい衣服を身につけて礼拝しながらゆっくり進むわけで、平均時

速4kmキープでも21時間もかかってしまう(84÷4=21)。睡眠時間は

僅か2時間しかないというお話。それを100日間。。

 

睡眠と言えば、凄いのが5年目完了後の「堂入り」。足かけ9日間(時間的

には7日半)、断食・断水・不眠・不臥、ひたすら座って真言(=呪文、サンス

クリット語だとマントラ)をとなえ続ける、究極の荒行だ。半日でも大変な事を、

9日。。医学、生物学的にも、生きてるのが不思議なほど。歩いてる時には、

好きな阪神タイガースのことを考えたりすることもあったそうだけど、この時

ばかりはそんな余裕は無いだろう。4日目くらいからは、死斑や死臭が出た

と語ってる(朝日新聞デジタル)。

 

千日回峰をやり遂げた満行者は、延暦寺の記録によると僅か47人。2回

達成した人は、記録の残る1571年の焼き打ち以降、3人しかいないそう

で、その内の1人が昨日亡くなった酒井師なのだ(他の2人の名前は不明)。

生き仏様から、本物の仏様になられたということで、信者でない私としても、

自然に合掌。。

 

なお、千日回峰は比叡山以外でもあるようで、福岡県・求菩提山では、山

田龍真が「1000日連続」で達成したと、龍王院HPに書いてあった。1986

年、満行とのこと。吉野・金峯山寺でも、柳澤眞悟師が達成。143日連続×

8年(足かけ)、1日48kmの山道。。修験道の世界、畏(おそ)るべし。。      

 

 

 

          ☆          ☆          ☆  

一方、単なる凡人の私は昨日、休日出勤と睡眠不足で疲れ果てて、仕事を

終えた後しばらくボーッと過ごしてしまった (^^ゞ 些細な買い物に1時間くら

い歩き回ったり(「1時間回街行」♪)、超久々に携帯シューティング・ゲーム

のGLADIUS(グラディウス)をやったり。今頃ようやく、やり方が少し分かっ

て来た。200円くらい(?)でダウンロードしたから、元を取らなきゃ!(笑)。 

 

で、フラフラした状態で21時半に帰宅して、テレビをつけると、美青年が畳

の上でゴロゴロしてたのだ(爆)。可愛いね♪ 元々、「天然」がちょっと入っ

てる「天然・智くん」なんだから、そこをもっと強調してドラマを作った方がい

いかも。

 

『金田一耕介vs.明智小五郎』は、ほとんど見る気はなかったけど、朝日新

聞の朝刊のコラム「試写室」は読んでて、ちょっとオチが気になってたのだ。

「金田一ばかりが目立つなぁと思っていたら、とんでもないところで明智現

る」(おそらく女性の記者・江戸川夏樹)。ロクに見てないどころか、音声さ

え聞き流してたけど、「とんでもないところで」明智が現れるシーンはたま

たま見た。まさか、金田一の下から出て来るとは。。かぶりものかよ♪

 

あの後、さらにもう1回か2回、そのパターンが続くんじゃないかと思って

待ちかまえてたのに、あれで終わりだったね。一番最後に、美青年のお

風呂のシーンくらいサービスしても良かったかも・・・と思ってる、そこの貴

女(あなた)! それは自分の想像力を鍛えて補うのだ♪

 

1000日間、ひたすら想像の修行を続ければ、別次元の世界に到達でき

るだろう。ま、元の世界に帰って来れなくなりそうだけど(笑)。ちなみに私

の「ブログ回峰行」は、もう少しで3000日になる。達成しても、ほとんど感

心してもらえないだろうけどネ (^^ゞ

 

あっ、そうそう。昨夜は、同期の桜ブロガーに祝辞&激励メールを送ったん

だった♪ 「病克服行」を既に3年続けたことになる。あと数年頑張れば、め

でたく満行だろう。それでは、今朝は手短にこの辺で。。☆彡

 

 

P.S. 2015年10月21日、延暦寺一山・善住院住職、釜堀浩元さんが

     最大の難関「堂入り」の行を終えたとのこと。戦後13人目で、この

     時点で「当行満阿闍梨」の称号が与えられる。残りは2年。。

 

                                   (計 2176文字)

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