看板の視線への対人恐怖、軽い社交不安障害+限局性恐怖症(DSM5)か~黒井千次『庭の男』(2022年・共通テスト・国語)
(☆追記: 小説全体についての別記事を新たにアップ。
黒井千次『庭の男』全文レビュー~居場所も力も失った高齢男性(家の男)の不安と性的倒錯(窃視症))
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毎年、ネットで注目を浴びてる共通テスト(旧・センター試験)の国語の問題。今年はツイッター検索を見る限り、第1問の評論の方が話題になってる感じだが、あえてまた第2問の文学(小説)で記事を書くことにしよう。最近はこんな時くらいしか、小説を読む機会が無くなってる。
今年(2022年、令和4年)の作品は、黒井千次(せんじ)『庭の男』、1991年。講談社文芸文庫『黒井千次自選短編集 石の話』に収録。自選ということは、作者本人の自信作か、お気に入りということだろう。
出題される前の情報はなかなか見当たらないが、国立国会図書館HPで調べると、どうも雑誌『群像』91年1月号が出典(初出)らしい。p.158-173だから、単純計算すると17ページの著作で、問題で引用された部分は全体の5分の1前後だろう。
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黒井千次について検索をかけると、内向の世代、サラリーマン、日本文芸家協会理事長、日本芸術院長、文化功労者といった言葉が並ぶ(コトバンク、ウィキペディア他)。東大・経済学部卒。本名、長部舜二郎。日本大百科全書は「舜治郎」と書いてるが、おそらく誤字で間違い。現在89歳の大御所だが、さすがに近年は作品の発表が減ってるようだ。
『庭の話』は58歳の時の作品だから、ひょっとすると本人の体験をリアルタイムで描いた私小説かと思ったら、全く違ってた。本人は早めに会社を辞めて、作家に専念。ただ、同世代の労働者たちが定年退職などで会社を辞めた後、どうするのか、どうなるのか、気になるのは自然なこと。
問題は毎度おなじみ、河合塾HPからダウンロードさせて頂いた。問題の分析を読むと、「第2問は、かなり解きにくい問題もあるが、全体としては昨年の第1日程とさほど変わっていないと思われる」とのこと。一昨年以前のセンター試験時代との比較はしないということか。本文の分量はやや少なめだが、後で変則的な問いが入ってる。
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出題された範囲だけだと、あらすじは次の通り。ネタバレなので注意。ちなみに小説の全文は、いずれ近い内にチェックしたいと思ってる。
会社勤めを終えて自宅で過ごすことが多くなった男性(私)は、隣の家の庭の立て看板に書かれた男が気になりだす。自分はまるで案山子をどけてくれと頼む雀のようだ、とも感じてる。隣家の息子(まだ少年)のためのプレハブ小屋に立てかけられた、単なる看板。
それでも何とかどけて欲しいと思ってた時、道でたまたま少年と出会ったので、看板を移動するか裏返しにして欲しいと頼むが、無視されて「ジジイ」と叫ばれてしまう。その日の夜になっても看板はそのままだったので、「私」は隣家の庭に侵入。看板は予想外にしっかりした作りで、針金で固定されてて、動かすことも出来ない。
「あ奴はあ奴でかなりの覚悟でことに臨んでいるのだ、と認めてやりたいような気分がよぎった」。ここで問題の本文は終了。
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引用された箇所だけ読むと、まるで一件落着のようにも感じられるが、おそらく小説の全体はそうなってないと想像する。少年を少し見直すことと、看板の男への不安・恐怖とは、別次元の話のはず。
一読した後、いつもの事ながら作家は変な話を考えるなと思ったが、よく考えてみると、私も似たような体験をいくつもしてた。すぐには思い出せなかったということは、不快なものとして、私の心の奥、無意識へと抑圧されてたのかも。
最初に思い出したのは、小学生の頃、実家のリビングルームに貼ってあったポスターかカレンダー。女性が多かったと思うが、その目線がなぜか気になり始めたのだ。
そこで、自分の位置を横にずらしてみたけど、写真や絵の視線は私を追って来る。下にズレても逃げられない。どうも、被写体がカメラや画家に目線を向けてた場合、作品を見る側にそうした心理的な効果が発生するようだ。怖いというほどでもなかったが、子供心に、変なことがあるものだな、とは思った。
次に思い出したのは、田舎から首都圏に出て来た後、部屋の窓から道を挟んだ位置にあった、よその家の窓。そこに人影を見たことは確か一度もないが、私はその窓がかなり気になってた。距離は20mくらいか。そこからライフル銃で撃たれるような不安を感じたのだ。ひょっとすると、その窓にぶら下がってた風鈴の音が大きく響いてたことも関係してるかも知れない。
さらに、そう言えば人形や古い絵も怖かったなと思い出した。それは視線とはあまり関係ないが、要するに、人間に似た、人間ではない存在だろうか。
ちなみに、ロボット開発の世界では「不気味の谷」という用語があるらしい。人間にある程度似たロボットやアンドロイドは不気味だが、もっと似て人間そっくりになると、不気味さが消えるとか。
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小説の引用箇所の場合、序盤に、看板は「裏返されればそれまでだぞ」とか、「一方的に見詰められるのみ」といった表現があるので、その男性=「私」が気になって仕方ないのは主に、「庭の男」の視線だろう。本物の人間ではないが、他者の目線、まなざしの力、圧迫感。
そこで、関連する語句(フレーズ)で画像検索を行ってみたが、意外とピッタリ来る画像が見当たらない。目立つのは、完全なホラーか、あるいは女性の日本人形とか。単なる男の絵か写真で、なるほど怖いなと思えるものがないのだ。
あえて、著作権フリーのものから引用するなら、こんな感じだろうか。ただ、不審者イラストはちょっと目線が怖すぎるし、逆に案山子は目線がない。案山子は、十字架に磔(はりつけ)になった罪人や犠牲者の姿にも見える。
上のどちらも真っ黒になってる辺り、黒人が文化的・社会的な「黒」の扱いに異議を唱えるのも無理ないこと。ただ、申し訳ないが事実として、少なくとも日本人には、真っ黒の人物のイラストは恐ろしく感じられるのだ。先天的な反応か、後天的な学習効果なのかはさておき。
お化け屋敷の中は暗黒だし、怪談には深夜が付き物。今回の小説で、主人公が「庭の男」と対面したのも、懐中電灯が必要な夜中だった。
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続いて、視線の不安について検索すると、すぐヒットしたのがNHKの昨年秋の健康記事。"「人が怖い」「視線が気になる」と感じる社交不安症の症状、チェック法、治療"。
「社交不安症は、人と関わるさまざまな状況で強い不安を感じ、日常生活に支障を来すようになる病気です。かつては『対人恐怖症』と呼ばれてました」。治療は、薬(SSRI=選択的セロトニン再取り込み阻害薬)や認知行動療法を用いると。
かつては、というより、今でも「対人恐怖」という用語の方が遥かに分かりやすい。それが専門家によって「社会不安障害」と呼ばれるようになったのは、米国精神医学会の精神疾患マニュアル『DSM』の影響だろう。social anxiety disorder の直訳。
ところがこの訳語がさらに、「社交」不安障害とか「社交」不安症という馴染みのない訳語になってしまってる。socialの訳が「社会」から「社交」へと変更されたのは、2008年らしい。社交などという言葉は、社交ダンスくらいしか使わないので、誤訳に近いと言いたくなるし、実際、批判もある。
しかし、それなりの事情もあるようだ。英語の social を「対人」と訳すのは難しい。一方、社会というより、人との「交わり」に関する障害、症状だから、社「交」の方が誤解が少ない、といった感じか。
さらに、「disorder」を「障害」と訳すのも偏見や誤解をもたらす恐れがあるから、単に「症」と訳すことも認めると。結局、「社交不安症」という奇妙な用語になってしまったから、あまり普及してない。
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最後に、精神医学の世界的バイブルであるDSM5(第5版)の解説書を調べると、小説の主人公の場合、社交不安障害というより、「限局性恐怖症」に近いかも知れない。
そもそも、本物の人間と看板の人との「社交」不安というのも、不自然な発想だし、主人公の場合はほとんど知らない少年にわりと強気で自分から近づいて話しかけてる。怖いのは、単なる看板に描かれた「庭の男」のみだから、かなり限定された恐怖だ。
限局性恐怖症というのも変な専門用語で、一般にはほとんど使われてないが、元の英語は specific phobia 。何か特有のものに対する恐怖症。
診断基準は、「特定の対象または状況(例:飛行すること、高所、動物、注射されること、血を見ること)への顕著な恐れと不安」など。もちろん、看板の男という例は挙げられてないが、わざわざ不法侵入までするくらいだから、特定の対象への顕著な不安だろう。1対1で立ち向かったのだから、恐怖とまでは言えず、むしろ不安と言うべき。
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なお、試しに英語版ウィキペディアで、scopophobia(視線恐怖症)の項目を確認すると、「社交不安障害+限局性恐怖症」という私の個人的な見方はかなり正しいようだ。
「視線恐怖症は、数ある恐怖症の中でもユニークなものである。見られることへの恐れは、社交恐怖症と限局性恐怖症の両方だと考えられる」。
いずれにせよ、男性=「私」が、隣の庭の看板の男や視線を気にするのは、退職して家に引きこもりがちになった生活と深く関わってると思う。妻を除いて、他者との関係が珍しくなると共に、どこか自分の現在の状況を恥ずかしく思ってる。外部から、暇な隠居生活だね、と嘲笑されてるように感じてしまう。何となく罪悪感もある。
だからこそ、「ジジイ」という言葉が余計に胸に響いたわけだ。家にいるだけで社会的には役立たずの高齢者になってしまったという、自分の淋しい実感を増幅されてしまったから。まだ未来に大きな可能性を持ってる若い少年によって。
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ただ生きてるだけでいい。そう言ってくれる人、そう認めてくれる人が周囲にいるかどうか。そう、自分で思えるかどうか。超高齢化社会の日本にとっては重い現実的問題だろう。もちろん、その一方では、高齢者の生活を支える労働や生産を担う人達も必要なのだ。医療、介護だけでなく、生活全般において。
共通テストの初日の朝、東京大学で高齢者を含む3人の刺傷事件を起こした高校2年生の少年も、東大医学部など行かなくても十分生きていけると思えれば、こんな事にはならなかったはず。医学部など、他にいくらでもあるし、医者以外の職業もいくらでもある。理由、原因、背景はどうだったのか。今後の続報に注目しよう。
それでは今日はこの辺で。。☆彡
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(計 4678字)
(追記76字 ; 合計4754字)
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