黒井千次『庭の男』全文レビュー~居場所も力も失った高齢男性(家の男)の不安と性的倒錯(窃視症)

2022年(令和4年)の大学入学共通テスト・国語・第2問に出題された、黒井千次の小説『庭の男』。出題された範囲だけ読むと正直、変な人の変な話という印象が強かったが、おそらく元の小説全体は遥かに優れたものだろうとは思ってた。

    

実際に読んでみると、予想以上に精密な構成の小説で、物語的な導入もオチも十分に付いてる。特に、ラストの綺麗な結末を読んだ時には、思わずニヤリと笑ってしまった。

   

間違いなく、小説の主人公の男性も苦笑したはずだが、単なるフィクションとはいえ、彼のその後をつい心配してしまう。あと20年ほどの余生、やがて嘱託の僅かな仕事も無くなるのに、平穏に過ごせるだろうか。差し当たり、会話が減った妻との熟年離婚は大丈夫だろうか。

   

極端な話、先日の大阪の放火殺人を思い出してしまうのだ。犯人と断定してもよさそうな容疑者は、61歳。ちょうど小説の男性と同じ年ごろで、妻や子供とは絶縁関係になってたとされる。未練を残したまま。。

   

   

     ☆     ☆     ☆

さて、当サイトでは共通テストの直後、直ちにこの小説の記事をアップしてある。

      

 看板の視線への対人恐怖、軽い社交不安障害+限局性恐怖症(DSM5)か~黒井千次『庭の男』(2022年・共通テスト・国語)

  

その時点で(ほぼ)どこにも情報が見当たらなかった出典(初出)についても、探り出して明記しておいた。文芸雑誌『群像』1991年1月号が初出だろう。約30年前の作品だが、現代にもかなり通じる一般的設定となってる。定年かどうかはともかく、退職した年齢を計算すると60歳くらいになるから、現代とあまり変わらない。

    

ただ、隣の家の庭に、夜中に1人で侵入するという行動だけは、現在だとかなり異常だろう。直ちに警察に通報、逮捕されても不思議はないし、そもそも侵入と同時に、監視カメラや警報システムが作動する可能性もある。家の敷地をハッキリ分ける壁も、30年前と比べると今の方が高いと思う。高齢男性だと、壁を乗り越えるのが難しいかも知れない。

   

   

     ☆     ☆     ☆

共通テストに出題された箇所は、全体の4分の1弱。もし小説を4分割するなら、前から3番目くらいの部分になる。ということは、出題箇所より前に小説の半分が書かれてるわけで、それを読むと、主人公の男性の気持ちに共感しやすくなった。

  

隣の家の庭にある看板の男(=「庭の男」)が気になるからといって、単なる「おかしい」人(小説内の表現)とは言い切れない。というのも、その男が見える場所(ダイニングキッチンの窓)は、「洞窟のように薄暗」い家の中でほとんど唯一の明るい場所だったから。洞窟の狭い入り口=出口で、変な看板の男がいつもジロジロと凝視していれば、男性(=家の男)が気になっても不思議はない。

     

ただし、妻はほとんど気にならないようだ。妻の外出は週3日、男は週2日。家にジッといる日数だけ考えると、あまり変わらないとも言える。

   

しかし、妻はおそらく元々そんな生活を送ってたのに対して、男はわりと最近まで週5日か6日は会社勤めをこなしてた。男の方が看板を気にするのは、そうした分かりやすい事情もあるだろう。もちろん、それだけではなくて、深く隠された事情もあるのだが。男の事情も、隣の家の事情も。。

   

   

     ☆     ☆     ☆

ここで、ごく簡単に物語全体のあらすじをまとめてみよう。いわゆるネタバレになってしまうので、ご注意あれ。といっても、実際にはこの種の記事に検索アクセスする読者の半数くらいは、あらすじやまとめのような簡単な情報を求めてると思われる。

  

男が長年勤めた会社を退職して、家にいることが多くなる。家の南側は明るいが、既に独立してる子供たちの部屋なので自由に使えないし、そこを男が使おうとすると妻が嫌がる。妻はいずれ、子どもが戻ってきて同居してくれることを期待してるようだ。

  

そのため、男は北側の端のダイニングキッチンか、その内側の暗い居間にいることが多い。ほとんど唯一明るい場所である、キッチンの窓からは、隣の家の庭の看板が見える。その看板には大きな男が描かれていて、こちらを凝視しているようで気になる。看板はプレハブ小屋に立てかけられたもので、その小屋には中学生くらいの息子が住んでるようだ。

  

(ここから共通テストの出題箇所が開始)

妻に相談してみると、意外なことに自分の側に立ってくれて、裏(=隣)の家の息子に頼んでみたらと示唆してくれた。しかし、話の切り出し方が難しい。ある日、たまたま道でその息子と出会ったので、看板をどかしてくれるよう頼んでみたら、途中で無視されただけでなく、「ジジイ」とまで叫ばれてしまった。そんな不快なことは、妻には言えない。

  

その夜、懐中電灯を持って隣に忍び込んでみると、看板の「庭の男」は単なる板に見えたので、「案山子にとまった雀はこんな気分がするだろうか、と動悸を抑えつつも苦笑した」。しかし、板はプラスチックに似た物で、意外としっかりした作りになってる。

  

それを動かそうとすると、針金とボルトで固定されてた。「あ奴はあ奴でかなりの覚悟でことに臨んでいるのだ、と認めてやりたいような気分がよぎった」。

(以上でテストの出題箇所は終了)

   

その時、小屋から女の子のかすかな笑い声が聞こえた。驚いて耳を澄ませたが、声が消えた後には音楽が聞こえるだけ。気になりつつ、男は自宅にこっそり引き返す。その後は、「庭の男」との関係も変化。お互いに、相手をのぞき見男(ピーピングトム)扱いする形で、にらみ合うようになった。単なる看板と、本物の人間とで。

   

その夏の終わりの夜中に突然、隣の家で激しい親子喧嘩が発生。女の子の泣き声も聞こえた。翌日、男が週2日の仕事に出かけてる間に、看板もプレハブ小屋も無くなってしまった。妻は片付けの様子を見てたらしい。

  

「『貴方のお友達の看板ね、あれもトラックに積んで運んで行きましたよ・・・寂しくなったでしょう。』 突然妻はけたたましく笑い出した。 『何がおかしい。』 『だって、寂しそうだからよ。』 笑い声は狂ったように高くダイニングキチンに響いた・・・」。

   

   

     ☆     ☆     ☆

この簡単なあらすじだけでも、共通テストが何を避けてるのかは明白だろう。「性」を回避してるのだ。隠蔽とまで言えるかどうかは微妙だが、見事に「性」の話を直前で避けてる。若い男女の性、それをのぞき見(盗み聞き)しようとしてしまう高齢男性の軽い性的倒錯。

      

実はテストの引用箇所の前側で既に、性の問題はほのめかされてたのだ。看板の左隅には、「女だけ半裸の抱擁シーン」が描かれていたのに、妻は気付いてない。だからこそ妻は、看板について、「ヌードなんかよりはましですよ」と話してる。

    

妻のその言葉と、夫婦の会話がますます少なくなってるという説明、さらに年齢を合わせると、おそらく男と妻の性的関係は完全に消えてる。

   

行き場と能力を失った高齢男性(「ジジイ」)の性的欲望は、哀しいことに、隣の庭の看板の片隅に描かれた僅かな性的表現に向かおうとしてしまう。そのあまりに些細な欲望の動きをさえぎる検閲者こそ、看板の男の目線、凝視なのだ。

   

   

     ☆     ☆     ☆

これが考え過ぎとか過剰な深読みでないことは、看板の男の背後のプレハブ小屋で男女の関係が生じてたこと、さらにそれが物語の劇的な結末に直結したことからも明らかだろう。

  

実は、看板の男の胸の前には、「初老の男性の、より小さな姿」まであった。ということは、その看板には4人が描かれてる。半裸で抱き合う男女と、初老の男性と、その後ろにそびえる「庭の男」。初老の男が「ピーピングトム」(のぞき魔)的なことを行うのを、庭の男が阻止する形だ。看板の情景は、現実の情景の表象となってる。

     

そして、なぜ少年が針金とボルトでその看板を固定していたのか。少年の側の意図もハッキリ分かるのだ。それは一方では、「のぞくな」という警告になってる。しかし他方では、「のぞくな」という警告によって、自分たちが小屋でのぞかれるような事をしてると伝えてるのだ。あるいは、誇示してると言うべきか。

   

少年は、看板を持ってくるより先に、「立入禁止」という立札を用意してた。「立入」を警戒されてるのは誰か? 壁を隔てた隣の家のジジイではないはず。自分の家の親、特に父親だろう。

   

もちろん、これもまた(無意識的に)、「露出魔」のような効果ももたらしてるわけだ。立入禁止にしたくなるような事を自分がしてるのだと、暗示する形だから。オレは可愛い女の子を手に入れたぞ。恥ずかしがりつつ、つい周囲に自慢したくなるのが中学生ということか。

  

   

      ☆     ☆     ☆

最後に、男の「寂しそう」な姿について。これは、「庭の男」の別の側面から来たものだろう。

    

つまり、庭の男は、家の男ののぞき見を阻止すると同時に、自分が小屋の中をのぞき見するような位置に立ってる。そして、自分自身ものぞき見を禁じられてるのだ。針金とボルトによる金縛りの固定で、視線の向きを変えることができないから。

   

だから庭の男は、家の男にとって、敵であると共に友人でもある。寂しく哀しい、のぞき仲間。先日の共通テスト記事では、精神医学の標準的な診断統計マニュアル『DSM5』に言及したが、作品全体を読むと、パラフィリア障害群の窃視障害(Voyeuristic Disorder)こそが隠された主題だろう。テスト出題者の意識にとっても、隠されたままだったかも知れない。

     

既に時間も字数も尽きたので、さらなる精神医学的・精神分析的な解釈は差し控える。妻の本音や実態を想像すると、全く異なる解釈も可能だろう。

   

妻の外出は本当に、革細工か俳句か日本料理の教室だけだったのか。妻は本当に看板の隅に気づいてなかったのか。そして最後、なぜ「狂ったように高く」笑い声を響かせたのか。

            

とにかく非常に興味深い、巧みな構成の小説だった。なお、今週は計15768字で終了。ではまた来週。。☆彡

    

       (計 4025字)

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看板の視線への対人恐怖、軽い社交不安障害+限局性恐怖症(DSM5)か~黒井千次『庭の男』(2022年・共通テスト・国語)

☆追記: 小説全体についての別記事新たにアップ

 黒井千次『庭の男』全文レビュー~居場所も力も失った高齢男性(家の男)の不安と性的倒錯(窃視症))

   

   

     ☆     ☆     ☆

毎年、ネットで注目を浴びてる共通テスト(旧・センター試験)の国語の問題。今年はツイッター検索を見る限り、第1問の評論の方が話題になってる感じだが、あえてまた第2問の文学(小説)で記事を書くことにしよう。最近はこんな時くらいしか、小説を読む機会が無くなってる。

   

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今年(2022年、令和4年)の作品は、黒井千次(せんじ)『庭の男』、1991年。講談社文芸文庫『黒井千次自選短編集 石の話』に収録。自選ということは、作者本人の自信作か、お気に入りということだろう。

   

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出題される前の情報はなかなか見当たらないが、国立国会図書館HPで調べると、どうも雑誌『群像』91年1月号が出典(初出)らしい。p.158-173だから、単純計算すると17ページの著作で、問題で引用された部分は全体の5分の1前後だろう。

       

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      ☆     ☆     ☆

黒井千次について検索をかけると、内向の世代、サラリーマン、日本文芸家協会理事長、日本芸術院長、文化功労者といった言葉が並ぶ(コトバンク、ウィキペディア他)。東大・経済学部卒。本名、長部舜二郎。日本大百科全書は「舜治郎」と書いてるが、おそらく誤字で間違い。現在89歳の大御所だが、さすがに近年は作品の発表が減ってるようだ。

   

『庭の話』は58歳の時の作品だから、ひょっとすると本人の体験をリアルタイムで描いた私小説かと思ったら、全く違ってた。本人は早めに会社を辞めて、作家に専念。ただ、同世代の労働者たちが定年退職などで会社を辞めた後、どうするのか、どうなるのか、気になるのは自然なこと。

    

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問題は毎度おなじみ、河合塾HPからダウンロードさせて頂いた。問題の分析を読むと、「第2問は、かなり解きにくい問題もあるが、全体としては昨年の第1日程とさほど変わっていないと思われる」とのこと。一昨年以前のセンター試験時代との比較はしないということか。本文の分量はやや少なめだが、後で変則的な問いが入ってる。

  

  

      ☆     ☆     ☆

出題された範囲だけだと、あらすじは次の通り。ネタバレなので注意。ちなみに小説の全文は、いずれ近い内にチェックしたいと思ってる。

      

会社勤めを終えて自宅で過ごすことが多くなった男性(私)は、隣の家の庭の立て看板に書かれた男が気になりだす。自分はまるで案山子をどけてくれと頼む雀のようだ、とも感じてる。隣家の息子(まだ少年)のためのプレハブ小屋に立てかけられた、単なる看板。

  

それでも何とかどけて欲しいと思ってた時、道でたまたま少年と出会ったので、看板を移動するか裏返しにして欲しいと頼むが、無視されて「ジジイ」と叫ばれてしまう。その日の夜になっても看板はそのままだったので、「私」は隣家の庭に侵入。看板は予想外にしっかりした作りで、針金で固定されてて、動かすことも出来ない。

  

あ奴はあ奴でかなりの覚悟でことに臨んでいるのだ、と認めてやりたいような気分がよぎった」。ここで問題の本文は終了。

   

   

      ☆     ☆     ☆

引用された箇所だけ読むと、まるで一件落着のようにも感じられるが、おそらく小説の全体はそうなってないと想像する。少年を少し見直すことと、看板の男への不安・恐怖とは、別次元の話のはず。

  

一読した後、いつもの事ながら作家は変な話を考えるなと思ったが、よく考えてみると、私も似たような体験をいくつもしてた。すぐには思い出せなかったということは、不快なものとして、私の心の奥、無意識へと抑圧されてたのかも。

     

最初に思い出したのは、小学生の頃、実家のリビングルームに貼ってあったポスターかカレンダー。女性が多かったと思うが、その目線がなぜか気になり始めたのだ。

  

そこで、自分の位置を横にずらしてみたけど、写真や絵の視線は私を追って来る。下にズレても逃げられない。どうも、被写体がカメラや画家に目線を向けてた場合、作品を見る側にそうした心理的な効果が発生するようだ。怖いというほどでもなかったが、子供心に、変なことがあるものだな、とは思った。

     

次に思い出したのは、田舎から首都圏に出て来た後、部屋の窓から道を挟んだ位置にあった、よその家の窓。そこに人影を見たことは確か一度もないが、私はその窓がかなり気になってた。距離は20mくらいか。そこからライフル銃で撃たれるような不安を感じたのだ。ひょっとすると、その窓にぶら下がってた風鈴の音が大きく響いてたことも関係してるかも知れない。

  

さらに、そう言えば人形や古い絵も怖かったなと思い出した。それは視線とはあまり関係ないが、要するに、人間に似た、人間ではない存在だろうか。

     

ちなみに、ロボット開発の世界では「不気味の谷」という用語があるらしい。人間にある程度似たロボットやアンドロイドは不気味だが、もっと似て人間そっくりになると、不気味さが消えるとか。

   

  

      ☆     ☆     ☆

小説の引用箇所の場合、序盤に、看板は「裏返されればそれまでだぞ」とか、「一方的に見詰められるのみ」といった表現があるので、その男性=「私」が気になって仕方ないのは主に、「庭の男」の視線だろう。本物の人間ではないが、他者の目線、まなざしの力、圧迫感。

  

そこで、関連する語句(フレーズ)で画像検索を行ってみたが、意外とピッタリ来る画像が見当たらない。目立つのは、完全なホラーか、あるいは女性の日本人形とか。単なる男の絵か写真で、なるほど怖いなと思えるものがないのだ。

  

あえて、著作権フリーのものから引用するなら、こんな感じだろうか。ただ、不審者イラストはちょっと目線が怖すぎるし、逆に案山子は目線がない。案山子は、十字架に磔(はりつけ)になった罪人や犠牲者の姿にも見える。

      

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上のどちらも真っ黒になってる辺り、黒人が文化的・社会的な「黒」の扱いに異議を唱えるのも無理ないこと。ただ、申し訳ないが事実として、少なくとも日本人には、真っ黒の人物のイラストは恐ろしく感じられるのだ。先天的な反応か、後天的な学習効果なのかはさておき。

      

お化け屋敷の中は暗黒だし、怪談には深夜が付き物。今回の小説で、主人公が「庭の男」と対面したのも、懐中電灯が必要な夜中だった。

     

   

     ☆     ☆     ☆

続いて、視線の不安について検索すると、すぐヒットしたのがNHKの昨年秋の健康記事。"「人が怖い」「視線が気になる」と感じる社交不安症の症状、チェック法、治療"。

  

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社交不安症は、人と関わるさまざまな状況で強い不安を感じ、日常生活に支障を来すようになる病気です。かつては『対人恐怖症』と呼ばれてました」。治療は、薬(SSRI=選択的セロトニン再取り込み阻害薬)や認知行動療法を用いると。

   

かつては、というより、今でも「対人恐怖」という用語の方が遥かに分かりやすい。それが専門家によって「社会不安障害」と呼ばれるようになったのは、米国精神医学会の精神疾患マニュアル『DSM』の影響だろう。social anxiety disorder の直訳。

   

ところがこの訳語がさらに、「社交」不安障害とか「社交」不安症という馴染みのない訳語になってしまってる。socialの訳が「社会」から「社交」へと変更されたのは、2008年らしい。社交などという言葉は、社交ダンスくらいしか使わないので、誤訳に近いと言いたくなるし、実際、批判もある。

   

しかし、それなりの事情もあるようだ。英語の social を「対人」と訳すのは難しい。一方、社会というより、人との「交わり」に関する障害、症状だから、社「交」の方が誤解が少ない、といった感じか。

  

さらに、「disorder」を「障害」と訳すのも偏見や誤解をもたらす恐れがあるから、単に「症」と訳すことも認めると。結局、「社交不安症」という奇妙な用語になってしまったから、あまり普及してない。

    

   

      ☆     ☆     ☆

最後に、精神医学の世界的バイブルであるDSM5(第5版)の解説書を調べると、小説の主人公の場合、社交不安障害というより、「限局性恐怖症」に近いかも知れない。

   

そもそも、本物の人間と看板の人との「社交」不安というのも、不自然な発想だし、主人公の場合はほとんど知らない少年にわりと強気で自分から近づいて話しかけてる。怖いのは、単なる看板に描かれた「庭の男」のみだから、かなり限定された恐怖だ。

          

限局性恐怖症というのも変な専門用語で、一般にはほとんど使われてないが、元の英語は specific phobia 。何か特有のものに対する恐怖症。

  

診断基準は、「特定の対象または状況(例:飛行すること、高所、動物、注射されること、血を見ること)への顕著な恐れと不安」など。もちろん、看板の男という例は挙げられてないが、わざわざ不法侵入までするくらいだから、特定の対象への顕著な不安だろう。1対1で立ち向かったのだから、恐怖とまでは言えず、むしろ不安と言うべき。

   

   

      ☆     ☆     ☆

なお、試しに英語版ウィキペディアで、scopophobia(視線恐怖症)の項目を確認すると、「社交不安障害+限局性恐怖症」という私の個人的な見方はかなり正しいようだ。

   

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視線恐怖症は、数ある恐怖症の中でもユニークなものである。見られることへの恐れは、社交恐怖症と限局性恐怖症の両方だと考えられる」。

  

いずれにせよ、男性=「私」が、隣の庭の看板の男や視線を気にするのは、退職して家に引きこもりがちになった生活と深く関わってると思う。妻を除いて、他者との関係が珍しくなると共に、どこか自分の現在の状況を恥ずかしく思ってる。外部から、暇な隠居生活だね、と嘲笑されてるように感じてしまう。何となく罪悪感もある。

   

だからこそ、「ジジイ」という言葉が余計に胸に響いたわけだ。家にいるだけで社会的には役立たずの高齢者になってしまったという、自分の淋しい実感を増幅されてしまったから。まだ未来に大きな可能性を持ってる若い少年によって。

  

  

     ☆     ☆     ☆

ただ生きてるだけでいい。そう言ってくれる人、そう認めてくれる人が周囲にいるかどうか。そう、自分で思えるかどうか。超高齢化社会の日本にとっては重い現実的問題だろう。もちろん、その一方では、高齢者の生活を支える労働や生産を担う人達も必要なのだ。医療、介護だけでなく、生活全般において。

   

共通テストの初日の朝、東京大学で高齢者を含む3人の刺傷事件を起こした高校2年生の少年も、東大医学部など行かなくても十分生きていけると思えれば、こんな事にはならなかったはず。医学部など、他にいくらでもあるし、医者以外の職業もいくらでもある。理由、原因、背景はどうだったのか。今後の続報に注目しよう。

       

れでは今日はこの辺で。。☆彡

  

 

     

cf. フィクションとしての妖怪娯楽と、フーコー的アルケオロジー(考古学)~香川雅信『江戸の妖怪革命』(21年・共通テスト・国語)

 妻、隣人、そして自分・・戦争をはさむ死の影のレール~原民喜の小説『翳』(2020年センター試験・国語

 妻と再会できた夜、月見草の花畑~上林暁『花の精』(2019センター試験・国語)

 自転車というキュウリに乗って、馬よりゆったりと♪~井上荒野『キュウリいろいろ』(18センター国語)

 「春」の純粋さと郷愁が誘う涙、野上弥生子『秋の一日』~17センター国語

 キャラ化されない戦後の人々、佐多稲子『三等車』~16センター国語

 啓蒙やツイッターと異なる関係性、小池昌代『石を愛でる人』~15センター

 昭和初期の女性ランニング小説、岡本かの子『快走』~14センター

 幻想的な私小説、牧野信一『地球儀』~13センター

 鷲田清一の住宅&身体論「身ぶりの消失」~11センター

    

       (計 4678字)

  (追記76字 ; 合計4754字)

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コロナ禍で見る側だけ増加、動画(ビデオ)人口の推移(鑑賞、制作)~『レジャー白書2021』(日本生産性本部)

☆入力操作ミスによる訂正: ゴルフ人口の推移~『レジャー白書2020』はこちらに移動。)

   

   

      ☆     ☆     ☆

調査方法も公開もネット全盛の今、コロナにも負けず、今年も例年通りに出版された大型本、『レジャー白書』2021~余暇の現状と産業・市場の動向。まず、日本生産性本部と全国の図書館・公的機関などに感謝しよう

    

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140ページほどの白黒の統計本を7700円(消費税込)で買う個人というのは、ほとんどいないと思う。図書館以外の購買層は、マーケティング関連の企業・組織くらいか。

  

年々、ページ数が減って、調査もネット利用へと変更(省力化)。正直、コロナの間接的な影響を受けて、そろそろ終了かと心配してたが、去年(128ページ)とほぼ同じ内容量で出版。時期も、遅れることなく例年通り。調査対象となる年(今回だと2020年)の翌年の秋。

   

ということは、まだ2021年の調査は無い。それでも、コロナ禍で大揺れとなった2020年のデータは貴重なものだ。巻頭の「調査仕様」にはこう書かれてる。

  

調査対象 全国15~79歳男女 ; 有効回答数 3246 ; 調査方法 インターネット調査 ; 調査実施期間 2021年1~2月

   

対象は調査会社のモニターだから、新聞社やテレビ局が行う世論調査みたいなランダム(無作為)調査ではない。その点は、統計的に注意が必要。本来の母集団である日本国民の全体とサンプル集団との違いは、やや大きめだと思われる。

   

   

     ☆     ☆     ☆

今回、見るのは、動画の参加人口の推移。2018年までは、動画ではなくビデオとされてたが、それまでに配信を含めていたかどうかは未確認。2019年に数値が急増していることを考えると、2018年までは配信が含まれていなかったのかも。

  

とにかく、とりあえず過去10年間の推移を見てみよう。なるべく早い内に、それ以前のデータも追加する予定。

      

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上は、動画鑑賞人口の推移。つまり、見る側のデータ。2019年の急増は単なる集計方法の変化によるものかも知れないが、2020年は1割ちょっと増えてる。コロナ禍と動画配信普及の影響だろう。

   

ただ、過去10年間の全体を見ると、ほぼ一定ということになる。ビデオテープが激減した分を、動画配信がカバーしたということか。なお、各年の数値は下の通り。単位は万人。

  

  11      12      13    14     15     16     17    18    19   20

3970   3420 3120  3590  2860 2610 2660  2710  3510 3900 

   

   

     ☆     ☆     ☆

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意外なことに、動画「制作」の人口の増えてない。むしろ、大きく見ると右下がりの減少。やはり、動画を作ったり編集したりするのは、ごく一部の人ということか。

    

実際、自分でやってみると、写真撮影や編集より遥かに面倒なのだ。しかも、見るのも大変だし、見せるのも敷居が高いことだから、増えないのは当然か。YouTuber人気というものも、あくまで一部の人の動画を大勢が見るだけ。おそらく、飛ばし見やチラ見の人が大半だと思う。

     

ただ、手軽で短い若者向けのTikTokなどがもっと上の世代まで普及すると、増加する可能性はある。10年間で半減。数値は下の通り。これも後ほどデータを追加する予定。

   

  11     12     13    14     15     16    17     18     19  20

1130 890 720 890 640 580 580 720 780 780

   

    

    ☆     ☆     ☆

ちなみに、実は「写真の制作」人口はもっと大きく減少してるが、おそらく携帯・スマホによる写メ的な撮影は除いてるはず。そこまで入れれば、写真の制作人口はおそらく5000万人を突破すると思う。

   

それを言うなら、動画制作というのも、携帯・スマホによる撮影はおそらく除いてると思う。そこまで含めれば、動画制作人口は少なくとも1000万人を突破してるはずだ。

    

いずれにせよ、もっと詳細な点まで調べる必要がある。ともあれ、今日のところはこの辺で。。☆彡

    

       (計 1603字)

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瀬戸内寂聴、追悼~朝日新聞・毎月連載『寂聴 残された日々』、最終回のエッセイ「卵焼きの思い出」(21年10月14日)

作家・僧侶としてお馴染み、瀬戸内寂聴(じゃくちょう)の訃報が伝わったのは昨日、2021年(令和3年)11月11日の昼頃らしい。この日の朝日新聞・夕刊(4版)は、1面トップで伝えてるが、見出しと2行のリードのみ。記事はギリギリで間に合わなかったようだ。

  

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私は、本になった著作は1冊も読んでないが、彼女の文章はあちこちで見かけて、たまに読んでた。最近だと、すぐ思い出すのは、朝日新聞の月1回の連載、「寂聴 残された日々」。

   

原則として、毎月、第2木曜日に掲載だから、実は昨日が11月分のエッセイ(またはコラム)の掲載日。ところが、文化面のトップは別の記事で、短いおことわりが付いてた。

  

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「今月の『寂聴 残された日々』は瀬戸内寂聴さん静養のため、休みます」。ということは、遅くとも1週間か2週間くらい前には、かなり体調が悪化していたということか。原稿を早めに書き溜めておく余裕もなかったと。

  

そう思ってニュース検索すると、京都新聞の報道がヒット。先月(10月)、肺炎で入院した後、一度退院して、また入院していたらしい。彼女なら100歳は行くだろうと思ってたが、99歳と半年で永眠。ただ、流石に最後までしっかりした文章を遺してた。

   

   

     ☆     ☆     ☆

ここでは、「寂聴 残された日々」の最後の(?)エッセイを軽く振り返っておこう。いつも心に沁みる話だったが、やはり直近の10月14日(第76回)の何気ない文章には、強く印象に残るものがある。「76 卵焼きの思い出」、「姉と焼いたあつあつ 母の涙」。

   

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冒頭は、「わたしの子供の頃、秋は、いつもいい天気だった」。これだけで、同じ「瀬戸内海」出身の私は深く共感できる。

   

そう。秋に限らず、瀬戸内海の辺りは晴れが多いのだ。雨が少なすぎて、たまに断水になるほど。彼女は徳島市の出身だから、瀬戸内海の右端あたりが故郷になる。「瀬戸内」という名字も、元をたどればおそらく瀬戸内海とつながるのだろうと想像する。

   

   

     ☆     ☆     ☆

十一月の運動会もいつも晴れ。おそらく意図的に、ひらがなを多用して、こう書いてる。少女時代の瀬戸内晴美の作文か絵日記みたいに。

     

「うちでも、かならずおかあさんが、おいしいおべんとうをいっぱいつくって、果物やおかしなんかも、ふろしきにつつみこんでやってきた。この日の卵焼きの厚くておいしかったこと」。

  

私も時々、田舎の小学校の運動会を思い出す。小学生の運動会とは別に、校庭を借りて、地域の運動会も別にあった気がする。娯楽が少ない田舎街にとって、運動会は貴重なイベント。的屋(テキヤ)と共に、母親が朝早くから作ったお弁当が楽しみで、テントの下で一緒に食べるとホントに美味しかった。

   

母親が病気で寝ついた時、寂聴は姉と2人で卵焼きを焼いて、あつあつを母の枕元に運ぶ。すると母が涙を流したので、寂聴はビックリした。嬉しい時、幸せな時にも人は涙を流すのだと、初めて知ったらしい。

   

そんな感じで、いかにもいいエピソードを書いてるのだが、エッセイの最後は胸を打つ展開で締めくくってる。その最愛のやさしい母は、防空壕で焼死。最後の言葉は、「お父さん、孫たちを頼みます。私はもういい」。

   

この孫たちというのは、当時、北京にいた寂聴とその娘・理子(みちこ)のことのようだ。

   

   

      ☆     ☆     ☆

自分の死が近づく中、寂聴は、母の死ぬ間際の姿を思い出してる。ひょっとすると、あの世について明るく語る僧侶の寂聴も、亡き母だけでなく、自分がこの世に残していく特別大切な人たちに思いをはせていたのかも知れない。

   

それと共に、反戦活動への思いも非常に強かったのだろう。だからこそ、この「卵焼きの思い出」と題するエッセイは、母の卵焼きで始まって、その母の防空壕での焼死で終わってるのだろう。

  

つまり、寂聴の最後のエッセイのタイトルは、「母が戦争で焼死した思い出」という意味なのだ。ともあれ、彼女の安らかな眠りを祈りつつ、合掌。。

   

      (計 1640字)

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原作小説や現実との比較、なぜ日本や関東の沈没を信じるのか、理由とプロセス~新ドラマ『日本沈没』第2話

最近、テレビドラマをほとんど見なくなってる私が、TBSの『日本沈没』を見るようになったキッカケの1つに、朝日新聞・夕刊の記事があった(21年9月22日)。

   

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「生まれては消え 100年の島」、「小笠原の海底火山『福徳岡ノ場』」。その後、10月17日の朝刊にも写真が掲載されたけど、世間的にはほとんど話題になってないというか、全く注目されてない話だろう。だからこそ興味深いのだ。

  

人も社会も、知らない小さな無人島が1つ沈んだくらいでは、何とも思わない。やっぱり、騒がれるためには、人が住んでて、わりと知られてる島が沈む必要があるのだ。そして、「大」騒動になるためには、人がかなり住んでる島がいくつか続けて沈む必要があるだろう。前の沈没が忘れられない内に。

   

    

     ☆     ☆     ☆

そうした観点から考えると、今回の作品の脚本(橋本裕志)はドラマに徹してる。あるいは、娯楽ドラマの代表としての日曜劇場に徹したと言うべきか。要するに、誰にでも分かりやすい極端な展開にしてるのだ。『華麗なる一族』とは違って、あまり必要性のないナレーション(ホラン千秋)もそう。

      

誰も知らないような日之島(日本列島の象徴、伊豆沖)が沈んだだけでも、東山首相(仲村トオル)の記者会見がテレビ中継されてる。首相官邸で、手話までついて、マイクも数本。ライトを浴びながら。

     

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ちなみに、今日(10月20日)たまたま、誰でも知ってて人もいた阿蘇山がかなり激しく噴火。私も観光旅行で火口まで行ってる。迫力あるライブ映像も流れたが、首相の記者会見はまだ無い(選挙で多忙)。官房長官と気象庁の会見があっただけだ。朝日新聞デジタルより

  

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     ☆     ☆     ☆

一方、潜水艇による伊豆沖の海底調査のデータ。直接的には、国土交通省の安藤(高橋努)が改ざんしたようで、折れ線グラフが平坦なまま横に伸びてた。

   

疑問に思った天海(小栗旬)は、複雑な人脈を利用して、海上保安庁がバックアップしてた元のデータを入手。日本未来推進会議の場で、改ざん・偽装の事実を訴えて、本物の折れ線グラフを提示した。途中で沈んでる場所が、スロー・スリップを示すもので、関東沈没につながる証拠らしい。

   

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まだ安藤が自白してない時点で、会議の(悪役みたいな)メンバー達は大げさに驚いてた。ほとんどコメディかバラエティのコントみたいな反応になってる。目を背けたままでうつ向いてる安藤を除けば。効果音や音楽(菅野祐悟)も「ドラマチック」になってた。

   

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     ☆     ☆     ☆

上の反応の時点で、まだ安藤は自白してないから、謹慎処分を受けた天海が1人で独自の説を示しただけ。それで重要な会議の全体がこの反応になるのは、あり得ない。演技派と言われる松山ケンイチも同様で、抑制のきいた演技は悪役・世良教授(國村隼)のみ。演出は平野俊一。

      

そもそも、現実の日本で専門家が正式に唱えてる日本沈没の説でさえ、ほとんど相手にされてないのだ。静岡大学の新妻信明が日本地質学会で2015年に講演。要旨もネットで公開されてる

   

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もちろん、世帯視聴率を見ると、初回が15.8%、第2話が15.7%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)だから、商業的にはここまで成功してる。NETFLIXでの動画配信も成功するのかも知れない。

  

ただ、私はむしろ、小松左京の原作小説(1973年)だとどうなってるのかが気になった。小松は本格派のSF作家だから、ドラマみたいな話にはなってないはず。そう思って、amazonのキンドル読み放題でチェックすると、やはり全然違ってた。

   

   

     ☆     ☆     ☆

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上が、文春『日本沈没 決定版』(電子書籍)の表紙。おそろしく分かりやすいイラストは、この2017年の決定版に合わせて息子の小松実盛が選んだらしい。ただ、小松左京本人も、生頼範義の絵はお気に入りだったようだ。

   

しかし、小説の中身は、ドラマともこの表紙とも全く違ってて、遥かに硬派。専門用語や難しい表現、深い考えが散りばめられてて、ベストセラー&ロングセラーになってるのが不思議なほど。

    

私もまだ少ししか読んでないけど、電子版だと書籍内で検索ができて、スピードも速い。味気ないのは確かだけど、調べる際には非常に便利だ。

   

   

     ☆     ☆     ☆

結果的に分かったのは、そもそも小説だと、日本沈没とか関東沈没のような言葉がしばらく出ないこと。全体の2割くらい進んだ箇所(第二章)でようやく「日本が沈む」という表現が出るものの、田所博士もまだそれほど確信できてないのだ。

   

それが徐々に確信に変わったのは、続けざまに地震関連の出来事が発生したから。大きなものだけ箇条書きにしてみよう。

 

 197X年7月中旬か下旬 小笠原諸島の近くの無人島が沈没

      7月27日   伊豆あたりで大規模な地震と噴火(天城山・三原山など)

      7月28日   浅間山が噴火(長野県・群馬県の境界)

      8月中旬    京都大地震、死者4200人、重軽傷者13000人

   

たった1ヶ月の間にこれだけの事が連続して、おまけに他にも多数の地震(有感)が発生。だから、田所やその周囲は確信を持ち始めて、日本全体もザワついて来たのだ。ちなみにこの辺りが、第二章の最後で、全体は六章+エピローグという構成。

   

   

      ☆     ☆     ☆

さて、あらためて現実の首都圏や日本を見ると、単発のものなら巨大な東日本大震災があったけど、これほどの全国的な連続にはならなかった。阪神大震災と東日本大震災の間も16年ある。

   

というわけで、好調なドラマを受けても、現実の日本には全く動揺がないのだ。先日の「首都直下」の地震はかなり大きかったけど、もうみんな忘れてるだろう。我が家で崩れた荷物は、まだ一部がそのままだったりするけど♪

   

首都圏ではかなり前から、首都直下地震の話があって、数十年以内に数十%で起きるとか言われ続けてる。ところが、首都圏の人口の推移を見ると、ほとんど減ってない。ドラマの「1割」とかいう確率だけなら、ほとんど相手にされないだろう。

   

下の赤い折れ線が東京圏で、コロナに揺れた2020年まで見てもほぼ同様。国土交通省のデータだけど、改ざんはされてないと信じよう♪

  

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      ☆     ☆     ☆

なお、1973年版の映画も、アマゾンのprime videoで無料だったから、前半だけ見た。これもドラマとは全く違うし、小説ともかなり違ってる。全部見た後、映画のレビューも書くかも。

   

ドラマレビューとしてはやや短めだけど、時間はかなりかかってる。今日はそろそろ、この辺で。。☆彡

    

       (計 2629字)

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菊池寛100年前の短編小説『マスク』~スペイン風邪の不安と、マスクをつけた他人への不快感、葛藤・矛盾の心理描写

朝日新聞・朝刊(21年9月22日)のコラム、天声人語は、終盤で一言、作家・菊池寛(きくち・かん)の短編小説『マスク』に触れてた。一般的には、本人の小説よりも、芥川賞・直木賞の創設の発案で有名だろう。

  

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「スペイン風邪の時代を生きた作家、菊池寛に『マスク』という短編がある。感染が収まって多くの人がマスクを卒業しても、心臓に持病がある主人公はマスクを手放さない。

  

『伝染の危険を絶対に避ける。臆病でなく文明人としての勇気だと思ふよ』。外したい気持ちを抑え、自分に言い聞かせる場面が印象深い」。

   

   

     ☆     ☆     ☆

コラム全体の中心的主張は、最後から2行目の「いましばらくマスクをつけ続けよう」。そのため、菊池寛の小説もそうした安全重視の姿勢としてとらえてる。

   

しかし当時の作家が、そんな普通の立派な主張だけを書くはずはない♪ そう思って早速、国立国会図書館デジタルコレクションで『菊池寛全集 第四巻』(春陽堂、大正11年、1922年、p.325-p.335)を閲覧。死後73年が経過、著作権は消滅。

       

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実際に自分で読むと、想像通りというか、想像以上に屈折してた。そもそも最後、自分はマスクを外した状態で、マスクを付けてる他人を不快に思ってるのだ。これこそ、昔の「私小説」(わたくししょうせつ、ししょうせつ)らしい告白だろう。

  

  

    ☆     ☆     ☆ 

読み終えた後、日経新聞の紹介記事を発見。菊池寛記念館HPで去年から『マスク』を一般公開してるとのこと。

   

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早速、記念館のウェブサイトに飛ぶと、どこで公開してるのか分かりにくいから、Googleで検索。直ちに見つかった

  

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読みやすさなら、こちらの方が遥か上。pdfファイルのダウンロードも可能。国会図書館の全集とは別の、『菊池寛全集 第二巻』(高松市発行)が出典で、少しだけ中身が違ってるようだ。

   

一応、2つの全集を比較しながら、核心部分を引用、簡単に解説してみよう。ネタバレになるので、念のため。  

 

   

     ☆     ☆     ☆

『マスク』の初出は、1920年(大正9年)7月、文芸誌『改造』。1918年~1919年に猛威をふるったスペイン風邪(インフルエンザA型、H1N1亜型)がちょうど収まった頃に書かれてる。

   

全世界の死者は推定2500万人。今の新型コロナは500万人弱だから、5倍の死者数で、しかもすぐ死亡したようだ。

   

日本の死者数は39万人で、当時の人口は5000万人程度。現在の日本の人口は2.5倍になってるから、今の感覚だと、死者100万人弱になる。ちなみに、新型コロナの日本の死者数は17000人だから、スペイン風邪の60分の1にすぎない。

   

   

     ☆     ☆     ☆

当時は情報も医療体制も恵まれてなかったはずだから、新型コロナより遥かに悲惨だったのだ。小説の主人公(菊池寛自身)がおびえるのは当然だろう。

   

そもそも、朝日は字数の制限もあって「心臓に持病がある」とだけ書いてたが、小説を読むと、悪い所だらけだったらしい。「見かけ丈(だけ)は肥(ふと)つて居るので、他人からは非常に頑健に思はれながら、その癖内臓といふ内臓が人並以下に脆弱」。

   

ところが、さすがは文学者。いきなり屈折した微笑ましい心理も描写してる。「『丈夫さうに見える。』と云ふ事から来る、間違った健康上の自信でもあつた時の方がまだ頼もしかつた」。

   

しかし、手加減なしの医者に厳しい注意を受けた上に、流行性感冒(スペイン風邪)が猛烈に流行り始めたから、現在の普通の日本人みたいな対策をとることになる。

   

他人から、臆病と嗤はれやうが、罹つて死んでは堪らないと思った。自分は、極力外出しないやうにした。妻も女中も、成るべく外出させないやうにした。そして朝夕には過酸化水素水で、含漱(うがひ)をした。

  

止むを得ない用事で、外出するときには、ガーゼを沢山詰めたマスクを掛けた。そして、出る時と帰つた時に、叮嚀(ていねい)に含漱をした。・・・咳をして居る人の、訪問を受けたときなどは、自分の心持が暗くなつた」。

   

   

     ☆     ☆     ☆

その後、朝日が少し言葉を変えて引用した立派な台詞「臆病でなくして、文明人としての勇気だと思ふよ」が登場する。

  

しかし、文脈が全く違うのだ。小説では、これは自分の臆病な行動を「友達に弁解した」言葉として登場。しかも、「幾分かはさう信じて居た」だから、自分ではあまり信じてないのだ。そんな弁解は、友達も信じてないはず。

   

既に2020年の3月。「マスクを掛けて居る人は殆どなかつた」。その中で、まだ外出せず、マスクはしてたから、「妻までが、自分の臆病を笑つた」。

   

ところが、4月、5月になると、暑さも加わって、主人公もマスクを外す。「日中は、初夏の太陽が、一杯にポカポカと照して居る。どんな口実があるにしろ、マスクを付けられる義理ではなかつた」。

   

   

     ☆     ☆     ☆

そんな頃、市俄古(シカゴ)の野球団が来たから、帝大との試合を見に行く。快晴の日で、おそらく当時の早稲田大学・戸塚球場(後の安部球場で、既に閉鎖)。

  

ふと、自分を追ひ越した二十三四ばかりの青年があつた。自分は、ふとその男の横顔を見た。見るとその男は思ひがけなくも、黒いマスクを掛けて居るのであつた。

    

自分はそれを見たときに、ある不愉快な激動(ショック)を受けずには居られなかつた。それと同時に、その男に明かな憎悪を感じた」。

     

1人でマスクしてる青年に対して、不愉快、憎悪。「感冒の脅威を想起させられた」よりも、「強者に対する弱者の反感ではなかつたか」。

  

ちなみに春陽堂の全集では、「強者に」ではなく「強弱に」と書いてた。初出の雑誌までは確認してないが、「強者に」が正しいと思う。

   

   

     ☆     ☆     ☆

朝日的な読み方では、これは青年の勇敢さを称える文章だということになるのかも知れない。解釈は自由だが、普通に考えてそれは誤読だろう。というのも、青年に対する描写にはネガティブ(否定的)な言葉が並んでるからだ。末尾の一文でも、それは確認可能。

   

此の男を不快に感じたのは、此の男のさうした勇気に、圧迫された心持ではないかと自分は思つた」。

    

これで最後になるのが、当時の私小説的な筋書き。不快、勇気、圧迫という並び方は、要するに不快の方が強いことを示してる。

  

とはいえ、今の中学・高校の国語の授業なら、「主人公は、自分を反省して、青年の勇気を見習おうと考えている」と解釈するのが正解になってしまうのかも。

   

人間はそんなに立派に出来てないし、社会もそれほど綺麗に出来てない。少なくとも来年までは、日本も世界も混乱したまま、試行錯誤&論争することになるだろう。海外では既に、マスクの争いで銃撃のニュースまで出てるほど。

     

ちなみに私は、夏の暑い時には、人がいない場所で少しだけマスクを外して深呼吸。他はずっとマスクで、外出は仕事その他、必要なものだけに留めた。イベントや夜の街は、私にとっては不要不急だから行かないが、必要で急ぎだという人を否定するつもりもない。

  

なお、小説にワクチンの話は全く出てなかった。当時も一応、ワクチンは開発されてたが、(あまり)効かなかったようだ。それでは今日はこの辺で。。☆彡

    

       (計 2909字)

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日本で名言とされるナイチンゲールの言葉「看護は犠牲行為であってはなりません」、欧米では注目されてない

ナイチンゲールというと、小学校の頃に偉人伝みたいなもので読んだだけで、名前は覚えてるけど知識はなかった。

   

ところが先日、2021年5月11日の朝日新聞・朝刊コラム「天声人語」で、興味深い名言が引用されてたのだ。「看護は犠牲的行為であってはならない」。SNS(主にツイッター)で拡散したらしい。

  

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ちなみに翌日、5月12日がナイチンゲールの誕生日で、国際ナース(看護師)デー。日本の名前だと、看護の日。そのタイミングと、東京五輪批判を組み合わせた主張のようだ。

   

   

     ☆     ☆     ☆

かなり朝日的・リベラル的な主張だが、私は別に、「看護は政治的行為と関連してはならない」とは言わない。むしろ、多少は関連すべきだろう。政治性の質や量には配慮して。

         

日本看護「協会」は、直接的には政治活動できないとかいう話だが、深く結びついてる日本看護「連盟」は政治団体で、今まで自民党の議員を輩出して来た。

     

当然、母体である日本看護「協会」も、自民党政権が進める東京五輪に対する態度は微妙になる。それに不満な看護師たちが立ち上がって、左派メディアがサポートしたという構図だろう。看護に限らず、大規模の組織でよくあることだろう。

  

例えば、下の東洋経済の記事など、キレイにその構図に当てはまる実状を伝えてた。東京五輪の派遣問題は、あくまで抗議のキッカケに過ぎないのだ。

  

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ただ、医師の世界はちょっと特別で、日本医師会だけでなく、全体的に保守的なイメージが強い(だから逆に一部の医師が目立つ)。医師には、育ちも現在も富裕層の人間が圧倒的に多いことと無関係ではないはず。

   

社会的地位も高いので、大きく見るなら、今のままで十分な生活なのだ。例えば介護の世界と比較しても、格差は際立つだろう。

   

    

     ☆     ☆     ☆

さて、前置きが長くなったが、私は別に政治の話をしたかったわけではない。単に、最近よく書いてる名言の記事を1本、追加しようと思っただけなのだ。ナイチンゲールの言葉は、素直に「いいね」と思った。日本人の私としては。

   

ところが、その後の展開は今までとかなり違ってた。ありがちなパターンは、名言の出典がなかなか分からないことだ。名言を書いてるサイトは多くても、もともと何に書いてあって、正確にはどんな文章なのか、正確に調べて書くサイトはごく僅かしかない。

     

それに対して、ナイチンゲールの言葉の出典は直ちに正確に判明した(と思う)。ナイチンゲール看護研究所HPより引用させて頂こう。「概要」を見ると、研究所というより、研究者グループみたいな組織だと想像する。

     

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 看護は犠牲行為であってはなりません。人生の最高の喜びのひとつであるべきです。

 (ナイチンゲール著作集・第3巻、p.431、現代社、1977)

 Nursing should not be a sacrifice, but one of the highest delights of life.

   

  

ちなみに、分かりやすさを重視した古い翻訳なのか、よく似てるけど微妙に違う言葉も引用されてた。外国語の原文は無い。

   

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看護の仕事は、快活な、幸福な、希望に満ちた精神の仕事です。

 犠牲を払っているなどとは決して考えない、熱心な、明るい、活発な女性こそ、本当の看護師といえるのです

   (浜田泰三訳、ナイチンゲール書簡集、山崎書店、1964年)

   

     

     ☆     ☆     ☆

最初の引用の出典は詳細だし、正しいのだろうと思う。ただ、「The Collected Works of Florence Nightingale. Vol 12, p.870」などの検索語句を入力して調べても、元の文章の前後などはヒットしないし、英語でも見当たらなかった。非常に珍しい。

     

細かい話をするなら、実は色々とヒットしたけど、妙な通販サイトばかりなのだ。単にアクセスを稼ぐためだけに、名言の類を無意味にページに忍び込ませてるのだと思う。時々ある事で、リスクだけ高くて無益だから、なるべくアクセスは避けてる。

      

Amazonでの中身検索も失敗する中、惜しかったのは、Google booksの書籍内検索。どうもこの本のP.870に似た文章はありそうだけど、著作権の関係なのかギリギリで表示されない。原文は百数十年も前の著作なのに非常に厳しい管理だ。

   

少し違う見方をするなら、要するに、英語原文が非常にマイナーということだと思う。ナイチンゲールの著作や情報なら、世界中に溢れてる。ところが、「看護は犠牲行為であってはなりません」という手紙の(?)英文は、引用さえ発見できない。

  

というより、看護と犠牲の関係について語るナイチンゲール言葉がほとんど無いのだ。もちろん、ネット公開されてる英語の著作内の検索もかけたし、フランス語とドイツ語でも検索してみたけど、実質的にほとんど発見できてない。

   

  

      ☆     ☆     ☆

そんな中、僅かに見つかった英語の名言は、以下の2つの文。英語版ウィキクォートより。出典も明記してあった。

  

 The martyr sacrifices herself (himself in a few instances) entirely in vain.

 殉教者は、彼女自身(少数の例では彼自身)をまったく無駄に犠牲にする。

   

これは文脈が無いので分かりにくいが、やはり手紙の文のようで、宗教的な主張に近く見える。ナイチンゲールは看護婦の指導者だけでなく、多様な側面を持つアクティブな知識人・思想家らしい。ところが日本では、ひたすら看護の女神のような扱いが目立つのだ。

   

  

  It is true that sometimes we must sacrifice not only health of body, but health of mind (or, peace) in the interest of God; that is, we must sacrifice Heaven.

   

 時々、私たちが、神の利益のため、身体の健康だけでなく、心の健康(または平穏)も犠牲にしなければならないのは本当のことだ。つまり、私たちは天国(ヘヴン:穏やかで満ち足りた心身の状態)を犠牲にしなければならない。

   

  

これは、ナイチンゲール自身の言葉ではなく、彼女が翻訳出版を目指してた中世の著作からの引用かも知れない。いずれにせよ、犠牲というものの存在がはっきり肯定されてるのだ。看護の話かどうかはさておき。

  

  

     ☆     ☆     ☆

今回はこのくらいで終わりにしよう。「看護は犠牲的行為であってはならない」というツイートはもちろん、元のナイチンゲールの言葉を重視する態度も、実は非常に日本的なものであるのは確かだと思う。

   

では、なぜ日本人だけがこの言葉に注目するのか? 男女格差が大きいことに加えて、おそらく、戦争・敗戦の「犠牲」経験と反省から、戦中・戦後あたりに注目されて受け継がれて来たのだと想像する。

   

歴史を調べる必要があるが、残念ながら、図書館を検索しても古い文献はなかなか見つからない。看護系の学校とかなら置いてるのかも。

       

実は、似た言葉の「犠牲なき献身こそ真の奉仕」も、日本のあちこちで引用されてるが、出典は見当たらないし、対応する英文も発見できない

  

医学書院・医学界新聞の専門家の対談でも、医療ガバナンス学会のメールマガジンでも同様。出典不明なままナイチンゲールの有名な言葉として拡散してるだけだと思う。

        

例えば、日本語のウィキペディアも、(いつものように)出典なしに「有名な言葉」として挙げてた。もちろん、英語版ウィキにも仏語版ウィキにも独語版ウィキにも書かれてない。

  

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     ☆     ☆     ☆

以上、色々と書いたが、私自身は「看護も医療も介護も、『可能な限り』、犠牲であってはならない」と思ってるので、念のため。ただ、何事にも犠牲の側面はあるし、犠牲は必ずしも悪いものでもない

   

さらに言うなら、「看護は犠牲行為であってはならない」という言葉のSNS的な軽い拡散自体が、様々な物事を犠牲にしていること。この自覚こそ、本当に重要で必要なことなのだ。

    

それでは今日はこの辺で。。☆彡

    

       (計 3237字)

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「唐ちゃんの綴る言葉が私は好きだよ」、写真も♪~唐田えりかエッセイ「mirror」5(最終回)・海の幸(『日本カメラ』21年5月)

幸か不幸か、これまであまり話題になってなかった唐田えりかの写真エッセイが、ここ半月だけ、わりと話題になってた。掲載誌『日本カメラ』がいきなり休刊、会社も今月で解散。当ブログの一連のレビュー記事にも、かなりアクセスが集まってる。

   

 フィルムカメラで自分の心と向き合う~唐田えりか「mirror」第1回・夕焼け(雑誌『日本カメラ』連載

 唐田えりか写真エッセイ「mirror」第2回・猫~『日本カメラ』21年2月号

 「mirror」第3回・東京行き~『日本カメラ』3月号

 木片や枝葉を一つずつ見つめ、細い山道を孤独に~「mirror」4・共生(『日本カメラ』4月

   

70年以上の歴史を誇る専門誌でさえ・・というより、だからこそ、時代の流れに押しつぶされてしまったわけか。休刊の記事でも書いたように、実は相次いで休刊に追い込まれたカメラ雑誌3冊はどれも古くて、他のカメラ雑誌はまだ色々と残ってるのだ。

   

   

     ☆     ☆     ☆

それにしても、本当に唐田は恵まれなくて、気の毒だ。せっかく話題になった今回も、記事のほとんどが、仕事を失った話と東出昌大の話ばかり。

    

肝心の写真とエッセイのレビューは、この1週間、ほとんど(あるいは全く)見てない。そもそも唐田の写真エッセイを見ずに、ネット情報だけで書いてるらしき記事さえあった。

    

そんな中で、ほとんど唯一、中身のあるマトモな記事を書いてたのが『女性自身』。最終回となった今回の写真エッセイで話題にしてる人とは、3月一杯で退社した担当の女性マネージャーAさんだろうという内容

   

それが本当かどうかは今現在、確かめようがないが、少なくとも写真を見てエッセイを読めば、ごく身近で親しい年上の女性へのお別れの挨拶なのは明らかなこと。おそらくこの女性が、何らかの意味で「海」と関連してるんだろう。あるいは「幸」(さち)とも関連してるとか。

    

東出と全く関係ないとまでは言わないし、そのような事を見出しと本文に書くとアクセス数が伸びるのだろう。しかし、まずは写真とエッセイをじっくり見るべきなのだ。

   

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     ☆     ☆     ☆

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上はもちろん、雑誌掲載の写真ではないが、画像検索で誤解される恐れもあるから、わざわざ「☆唐田えりかの写真自体ではない」と書き添えてる。

   

もっと似た写真はいくつかネット上で発見してるが、著作権をハッキリ主張してるものばかりだったから断念。少し似た雰囲気のあるウィキメディアの動画キャプチャーを加工してみた。オオミズナギドリ。

      

唐田自身の作品は、白黒の浜辺(波打ち際)らしき写真。全体的には海の写真で、水面に近い辺りを、1羽の小さな海鳥が羽ばたいて飛んでる。上に掲載した私の写真の海鳥を、縦横ともに5分の1に縮小したような構成だ。

     

私はもうあなたなしでも

 あなたがくれた沢山の大切なものたちと、

 羽ばたくことができる。

   

といっても、写真というmirror(鏡)に写った「私」の羽ばたきはまだ孤独だし、明るく爽やかな海の光景として描き出すこともできない。あくまで暗くてレトロな白黒写真。

  

豊富な「海の幸」(記事タイトル)を得た様子だろうが、見方によっては、今にも海に落下しそうにも見えてしまう。まだ大海原の沖まで飛ぶことは出来ず、浜辺の近くで飛ぶのが精一杯にも見える。

   

ドラマ『インハンド』にも出た『かもめのジョナサン』の表紙を暗めにしたような写真・・というのは一部読者へのご挨拶だ♪ アマゾンより。あえて白黒加工はしない。

  

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     ☆     ☆     ☆

ところで、最後の3行でクローズアップされた「あなた」。ネット的には「匂わせ」とネガティブに呼ばれてるが、ごく普通の「婉曲表現」にすぎない。

     

芸能関係とはいえ、一般の社員の話を書くのなら、遠回しに書くのが当然のこと。「匂わせ」と呼ぶことで昔のSNS炎上と結びつけてしまう多数の記事には、溜息しか出ない。本当に可哀想な唐田えりか。。

      

匂わせどころか、最初の1行から最後の1行まで、すべてがストレートに、ごく身近で親しい年上の女性の話になってる。そもそも最初の1文がいきなり、「唐ちゃんの綴る言葉が私は好きだよ」なのだ。

   

その後も、彼女の支えによって、心の奥底を言葉に出来るようになったこと、言葉の表現力もついたことを書いてるのであって、恋愛の話などカケラも無い。

   

フィルムカメラでの写真撮影を勧められたことも書いてる。その話は3年前の絶頂期に、週刊女性のインタビューでも語ってたことなのだ。「上京してから、担当になってくれたマネージャーさんがふだんフィルムカメラを使っているので、私も“これを機に”と始めました」。

   

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     ☆     ☆     ☆

退社した担当マネージャーと「海の幸」との関わりは、想像するしかないが、案外、『サザエさん』みたいに海関係の名前なのかも。磯野幸子とか♪

  

あるいは、2人でプライベートで海に行った思い出があるとか、実はこの海鳥の写真を撮った時にそばにマネージャーがいたとか。

  

もちろん「海の幸」とは、別に食べ物のこととは限らない。珍しく、あまりポエム的でないエッセイの文章を普通に読むなら、言葉の扱い方、言葉による心の探り方、写真の撮り方、フィルムカメラの扱い、そしてもちろん、芸能活動の心得や作法など。

   

当然、肝心の芸能活動で大失敗したからこそ、マネージャーにも大きな責任がのしかかったはず。最低限の責任を1年半ではたして、けじめをつけたのかも。

   

   

     ☆     ☆     ☆

最後に、マネージャー以外に「あなた」「大切なひとが意味するものとしては、何といっても『日本カメラ』だろう。雑誌も、担当者も、会社も。

   

彼女がこの「第5回」を書いた時点で、まだ休刊は知らなかっただろうと思うが、結果的には、3年以上前からずっと支えてくれた雑誌への別れの挨拶にもなってる。

  

そのまた次くらいに少し入ってるかも知れないのが恋愛の話だが、順番を間違えてはいけない。写真エッセイの内容は、女性と言葉とフィルムカメラと写真の話。写真はフィルム撮影。

   

カメラは、初回でも使ったレトロな名機、Olympus PEN EE-2フィルムロモグラフィ・LADY GREY B&W(ブラック&ホワイト=白黒)400。現在、品切れ。そんなマニアックな情報まで書いてるのは、カメラ雑誌の連載だから。

     

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まず女性。次に雑誌。2つの大切なものへの別れと感謝を書く文章に、少し含みをもたせたのが最後。とにかく、唐田えりかには今後も撮影と執筆をつづけて欲しいし、撮られる側にも復帰して欲しい。

  

「唐ちゃんの映る作品が私は好きだ」と言ってくれる人は大勢いるはずだから。とりあえず、連載お疲れさま♪ ではまた。。☆彡

    

        (計 2720字)

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哲学者ニーチェ名言「深淵を覗(のぞ)く時、深淵もこちらを覗いている」、ドイツ語原著『善悪の彼岸』と原文~『レッドアイズ』最終回

日テレのドラマ『レッドアイズ』については、第2話で暗号記事を書いた後、名言の原文記事を5本書いて来た。

 

 ソルジェニーツィン「善と悪の境界線はすべての人の心の中に」、意味とロシア語原文(第6話)

 『レッドアイズ』第7話のバルザック引用「孤独はすばらしいが・・」は、半ば間違い(フランス語出典付)

 詩人ロバート・W・サーヴィス「死ぬのはとても簡単で・・・」、英語出典と原文~第8話

 第9話のチャーチル名言「地獄の真っ只中にいるのなら、そのまま突き進め」、ほぼ間違い

 チャーチル名言「これは終わりではない。終わりの始まりですらない」、英語出典と原文~最終回

   

ロシア語、フランス語、英語、英語、英語。 最後を締めくくるのは、偶然なのか必然なのか、ドイツ語。亀梨和也&山下智久主演の名作『野ブタ。をプロデュース』の第1話と同じ、ドイツの哲学者ニーチェを扱うことになった。チャーチルの名言の少し前に出たテロップ。

  

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 深淵を覗(のぞ)くとき、深淵もまたこちらを覗いている

           ニーチェ

  

  

     ☆     ☆     ☆ 

野ブタについては、去年の再放送の直後、本格的なレビューを新たに書いてる。

  

 哲学者ニーチェ「神は死んだ。人間は仲間と創造のゲームで遊べ」~『野ブタ。』第1話(再放送)

  

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写真は英語版ウィキペディアより。ニーチェは、普通の考えや価値観を徹底的に批判・否定した過激な思想家で、野ブタの場合は彰(山P)が「神は死んだ」という超有名な言葉を引用した後、仲間が集まってゲームで楽しく遊ぶ方向に進む。

   

土9のドラマだから、明るくポジティブな方向に持って行ったわけだけど、実は白岩玄の原作小説はネガティブな方向に進む暗い内容だった。

  

普通のものを否定すると、型破りで目立つことは出来るけど、社会で生きるのが大変になる。周囲はフツーの人達、フツーの社会だし、自分の中にもフツーの部分があるからだ。もちろん、内なる怪物(モンスター)と共存・共生する形で。

   

   

     ☆     ☆     ☆

『レッドアイズ』最終話の場合、心理カウンセラー・鳥羽和樹(高嶋政伸)は、自分の心の奥底、無意識から湧き出る巨大な破壊衝動や快楽への欲望に正直に生きて、現実の社会で抑えつけられた。

  

ただ、彼が刑務所に入っても、死刑を執行されない限り、人格的には変わらないはず。実は、伏見(亀梨)らも、凄まじい怒りや攻撃性を密かに持ち続けることになる。理性的な振舞いは、あくまで表面的なものに過ぎない。

   

・・・というような考えを20世紀に一気に広めたのが、同じドイツ語圏(オーストリア)の精神分析家フロイトで、その深層心理学のもとにニーチェ哲学があるのは有名な話だ。ここでは簡単な指摘に留めとこう。

  

  

     ☆     ☆     ☆

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上が、Friedrich Nietzsche(フリードリッヒ・ニーチェ)の1886年の原著、『Jenseits von Gut und Böse』。副題は「Vorspiel einer Philosophie der Zukunft」(未来の哲学への前奏曲)。インターネット・アーカイブで公開中

    

日本語では普通、『善悪の彼岸』と訳されるけど、直訳するなら「善と悪の向こう側に」となる。

  

もちろん、ここでの善と悪とは、フツーの善と悪。困ってる人を助けるのが善とか、人を殺すのが悪とか。そうした平凡な価値観やキリスト教的な考えを過激に攻撃して、「向こう側」の考えや生き方を目指したのがニーチェだった。

  

しかし、別にニーチェとか持ち出さなくても、そうしたフツーの倫理に限界があるのはすぐ分かる。覚醒剤が切れて困ってる人に手渡すのは善ではなさそうだし、死刑囚を国家が殺すことは日本では認められて、国民もそれほど反対してない。

   

   

     ☆     ☆     ☆

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上の下半分、第4篇に位置する第146節の後半が、「深淵」の引用句の部分だ。前半も含めて、ドイツ語を直訳してみよう。

  

 Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird.

 怪物と闘う人は、気を付けて欲しい、そこで自分が怪物にならないように。

   

 Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.

 そして君が長く深淵を覗く時、深淵もまた君の内側まで覗くのだ。

     

   

     ☆     ☆     ☆

ここで、「深淵」が擬人化されてる。ドラマなら、分かりやすいのは、鳥羽とか、同種の危険思想の持主のこと。フツーの考えでは、悪の確信犯。

  

一方、深淵を「危ない考え」とすると、「危ない考えもまた君の内側をのぞく」という意味になる。のぞくと、君の心の奥にも巨大な危ない考えがうごめいてるじゃないか、ということになる。ほら、それを解放してみなさい。途方もない快楽が得られるから。。

   

そうした危ない考えを理論と実践の両面で世界的に普及させたのがフロイトで、内なるモンスターとは、例えば「エス」(それ、英語に直訳するとIt)と呼ばれてる。この言葉、概念は、ニーチェの『善悪の彼岸』でそのまま出て来てるのだ。

  

「私が考える」(われ思う)、という見方は間違い。「エスが考える」と言い直してもまだ不十分。要するに、私とか、何か主体的で中心的なものが動作を行うのではなくて、単に考えがある、衝動が生じて膨らんでいる。それだけのことなのだ。

    

あまり長く書いてると、私もズブズブと深みにハマりそうだから、そろそろ終わりにしとこう♪ それでは今日はこの辺で。。☆彡

    

      (計 2266字)

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チャーチル名言「これは終わりではない。終わりの始まりですらない」、英語出典と原文、意味の解説~『レッドアイズ』最終回

前回・第9話で間違ったチャーチルの格言もどきを引用して、「最終回のラスト」でもチャーチルの名言♪ これでまた間違ってたら、さすがにヤバイなと思ったら、今度は正しい引用だった。チャーチルは、第二次世界大戦の頃の英国首相で、作家としても有名。

   

繰り返すけど、前回のチャーチル名言もどきは(ほぼ)間違い。偽物だ。敵のワナに引っかかったような失敗。第7話のバルザック名言は、言葉自体は間違いではないけど、人違いなのだ♪

  

いまだに訂正が出ない辺り、全体のチェック体制が気になる。スタッフか関係者の方、ブルーレイ作る前に修正することをお勧めしとこう。単なるテロップだから、簡単に直せるはず。ウチの記事では、英語とフランス語の証拠・根拠をハッキリ示しておいた。

    

 『レッドアイズ』第9話のチャーチル名言「地獄の真っ只中にいるのなら、そのまま突き進め」、ほぼ間違い

 『レッドアイズ』第7話のバルザック引用「孤独はすばらしいが・・」は、半ば間違い(フランス語出典付)

   

  

     ☆     ☆     ☆

で、最終話の正しい名言は、長いからなのか、画面の左右両端に表示された。脚本・酒井雅秋、演出・水野格。

  

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 「これは終わりではない。終わりの始まりですらない

  だがおそらく、始まりの終わりなのだ

          W・チャーチル

    

前回の間違った名言もどきはほとんど話題になってなかったのに、これは大勢ツイートしてた。最終回のラストだし、ちょっと謎めいた言い回しだし、読み方によっては、続編の予告とも解釈できるからだろう。

   

  

     ☆     ☆     ☆

意味が分からないと正直に告白してる twitter もいくつかあったから、明確な図で説明すると、下のように書ける。

  

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歴史や物語が、上から下に流れてると考えると、

 「一番下の濃い青色ではないし、下から二番目の水色でもない。たぶん、わりと上のピンク色あたりだろう

と言ってるのだ。

  

普通に考えると、「悪との闘いはまだ序章が終わっただけ。これからも延々と続く」という意味。既に、はるか(高橋ひかる)も監視のターゲットになってるよ、と。あるいは、そこでテレビや動画を見てるあなたも危ないよ、とか。

    

中学校の3年間にたとえると、

 「中学3年の3月(卒業)ではないし、3年の4月でもない。たぶん、中学1年の3月だろう

ということ♪

  

仮に、このドラマが3シーズン続くとしたら、

 「第3シーズンの最終回ではないし、第3シーズンの初回でもない。単なる第1シーズンの最終回だから、今後の続編をお楽しみに♪

ということになる。その前にブルーレイ買うか、有料のサブスク動画でおさらいしてね、とか(笑)

  

  

     ☆     ☆     ☆

英語の原文は、英語版ウィキクォート(引用句のウィキ)より。Winston Churchill(ウィンストン・チャーチル)。

   

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 Now this is not the end. It is not even the beginning of the end.

 But it is, perhaps, the end of the beginning.

   

1942年11月10日、ロンドン市長公邸における市長との昼食会において。アフリカでの戦闘における英国の勝利に言及して、とのこと。まだまだこれから大変だし、ロンドンも危ないから、市長さんも気を引き締めてね、と。

   

     

     ☆     ☆     ☆

個人的には、はるかが持ってたブランド品のバッグに書かれてた、英語ロゴと矢印アクセサリーが興味深かった。

  

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 Everything

 HAPPENS FOR A REASON  

 すべての物事は 何か理由があって起きる

  

ドラマ『ガリレオ』の湯川なら、「現象には必ず理由がある」と言う所♪ 要するに、このバッグに例の矢印マークが付いてることにも、ちゃんと理由がある。彼女はまだ狙われてるんだよ、とか、実は彼女も敵の側のスパイなんだよ、とか。

  

ちなみにバッグは、SAMANTHA THAVASA(サマンサタバサ)の PETIT CHOICE(可愛い選択)というブランドの物。これは実在するものであって、ドラマの虚構(フィクション)ではない。このトートバッグかな。税込9900円。

  

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というわけで、『レッドアイズ』も終了(始まりの終わりかも♪)。ウチは今週、計14115字で終了だけど、途中の終わりでしかない。ニーチェの「深淵」をめぐる名言については別記事にする予定。ではまた来週。。☆彡

  

  

  

cf. 詩人ロバート・W・サーヴィス「死ぬのはとても簡単で・・・」、英語出典と原文~第8話

 ソルジェニーツィン「善と悪の境界線はすべての人の心の中に」、意味とロシア語原文(第6話)

 『レッドアイズ』第2話の暗号解読方法と英文~アルファベットを13文字ズラした「rot13」

      

      (計 1916字)

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