「恋愛」という言葉の語釈(辞書的意味)と恋・愛・異性、大渡海、広辞苑、大辞林、大辞泉~『舟を編む』第2話

個人的に今、レース直前だから、ドラマ見たりレビューしたりしてる場合じゃないんだけど、この辞書作りの作品は面白いから、またちょっとだけマニアックな感想を書いとこう。

  

ちなみに前回の感想は次の通り。今のところ検索アクセスに無視されてるけど、私自身はかなり気に入ってる♪ 独自の妙なこだわりを「愛」してるかも(笑)。自己愛か。

   

 「右」という言葉の説明、「(東の)朝日を見ながら泣いた時、

 (南の)風に吹かれて先に涙が乾く側のほっぺた」~『舟を編む』第1話

   

   

     ☆   ☆   ☆

さて、NHK『舟を編む』第2話は、「恋愛」(言葉、行為・状態)中心にしたエピソードだった。脚本・蛭田直美、演出・塚本連平。

    

すぐ思い出したのは、このブログで10年前に書いた「恋」の記事。

     

 「恋」という言葉、辞書的意味の比較~新明解・三省堂・岩波・明鏡国語辞典など

   

ポイントの部分だけ、自分で引用しとこう。

  

「やっぱり、恋と愛は違うし、恋と恋愛もちょっと異なる。本質的に不安定、不完全だからこそ、恋は心ときめくものなのだ。恋とは、軽い欲望を明るく示す言葉。そして欲望とは、存在しないものを求める思いのことだ。」

    

不安定、不完全、存在しないものを求める。これらは全て、今回のドラマの核心にもなってた。

   

   

     ☆   ☆   ☆

番組のラスト近く。岸辺みどり(池田エライザ)が、自分で考えた「恋愛」の語釈(辞書的な意味)をホワイトボードに書く。毎回、このパターンで一つの単語を中心にするのかな。新しい中辞典『大渡海』の編集作業として。

     

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恋愛  特定の二人の互いへの思いが、恋になったり愛になったり、時に入り交じったりと、非常に不安定な状態

    

辞書編集者として、「感情論ではない根拠」を元にした、「異性を外しても成り立つ語釈」を目指してる。

   

とはいえ、自分の元カレとの思いを、「あきらめて あきらめて あきらめて」考え出した語釈。「明らかにして 断念して 心を明るくして」、その直後の語釈。「非常に不安定」という言葉とか、ちょっと個人的すぎるから、推敲(すいこう)作業で洗練されるはず。

    

   

    ☆   ☆   ☆

ところで、このドラマの同名の原作小説(三浦しをん)は、2009年から2011年にかけての連載(光文社のファッション誌『CLASSY.』)で、ドラマの現在の年代設定は2017年。

    

この2017年というのはちょうど、日本の辞書の「恋愛」の説明が変わり始めた時期らしくて、代表的な中辞典『広辞苑』(第7版)の発売の前年になる。

    

ドラマの中での広辞苑の説明には、「恋愛」の冒頭にいきなり「異性」という言葉が書かれてた。現在の第7版を調べても、まだその点は改訂されてない。「(love の訳語)男女が互いに相手をこいしたうこと。また、その感情。こい。」。

    

ただ、「恋」の説明なら、少し変更されてた。「特に、男女間の思慕の情」とされてたのが、「(特に男女間の)思慕の情」に変わってる。男女という要素を丸カッコに入れてるのだ。

    

つまり、男女とか異性という要素を薄めてるわけで、次の広辞苑の改訂(第8版)だと、「恋愛」の項目でも男女がカッコに入れられるかも。

  

   

     ☆   ☆   ☆

そうした話は以前、朝日新聞の夕刊記事(2021年4月7日)で読んで、覚えてた。「[女]とは [男]とは 辞書も省みる」。恋や愛に限らない、もう少し広い視野の内容。

   

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小ぶりの記事だけど、4人の記者の連名だから力が入ってる。才本淳子、田中章博、杢田光、田中ゑれ奈。女性2人、男性2人という、細かい配慮。

   

やっぱり、独自路線で人気の三省堂『新明解国語辞典』が、多様性や少数派への配慮の時代に素早く対応してるようだ。

    

   

     ☆   ☆   ☆

三省堂の中辞典『大辞林』でも、2019年の第4版を見ると、既に「恋愛」の説明や用例から、「男女」や「異性」が消えてた。「互いに恋い慕うこと。また、その感情。ラブ」。

   

小学館の中辞典のネット版、『デジタル大辞泉』でも、「恋愛」の説明・用例に男女や異性は入ってない。「特定の人に特別の愛情を感じて恋い慕うこと。また、互いにそのような感情を持つこと」。

    

まあでも、同性愛に対して「恋愛」という言葉を使うケースはまだかなり少ないと思う。それは、ドラマでも言われてたけど、「同性愛」という特別な言葉が別にあるからかも。

   

   

     ☆   ☆   ☆

本当は、恋愛と恋、愛の細かい関係についても書きたかったけど、もう時間が無くなったから、あっさり終わりにしよう。

   

準備が無駄になってしまうけど、「あきらめる」しかない。自転車のヒルクライム(山登り)レースでしか会えない、キツイ「激坂」に、「恋」して「愛」してるから。慕うというのはちょっと違うけど♪

  

それでは今日はこの辺で。。☆彡

    

     (計 1930字)

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名言「人は判断力の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し」の出典、アンドレ・ルサン『Amour fou』(狂った愛)か&ジョグ

(21日)JOG 11km,1時間00分06秒,平均心拍 121

消費エネルギー 406kcal(脂肪 142kcal)

 

BIKE (本物の自転車の試走) 7 km,23分    

WALK 3.5km,39分,5200歩

   

   

    ☆   ☆   ☆

一昨日(2025年6月21日)の深夜、ネット記事を見てると、明石家さんまがサッカー・堂安律の結婚式に出席した話が複数あった。

   

さんまが自身のラジオで語った話(とされるネット情報)を引用すると、「こないだも堂安律の結婚式で言うたんですよ。有名なフランスの戯曲家の言葉なんですけど、『結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如』って」。

   

正しいかどうかはともかく、面白くて笑えるなと思って調べてみると、さんまの昔の人気番組『恋のから騒ぎ』冒頭で名言として紹介されたらしい。何年何月何日の回かは分からないけど、YouTube動画ではこうなってた

   

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人は判断力の欠如によって結婚し

 忍耐力の欠如によって離婚し

 記憶力の欠如によって再婚する

        アルマン・サラクレー

   

「人はセックスの回数の欠如によって合コンする」

           明石家さんま

   

   

     ☆   ☆   ☆

この言葉、結婚と離婚の経験をネタにし続けてるさんまのお気に入りらしくて、何度か結婚式で引用してるらしい。サラク「レ」ーは小さい間違いで、正しくは、サラク「ル」ーと書くところ。

   

ただ、当サイトで今まで度々示して来たように、この種の名言・格言の出典は間違ってることが非常に多いし、本当に調べて書いてるサイトは海外でもごく僅かしかない。

   

この『から騒ぎ』とさんまの影響が強いのか、日本では作者がフランスのアルマン・サラクルー(Armand Salacrou)と書いてるサイトが大部分だけど、サラクルーの何から取ったのか、具体的な出典を挙げてるサイトは見当たらない。

  

このパターンは、名言・格言だと、間違いの拡散の典型。ネットの日本語情報のあちこちに書いてあるから正しいんだろうと思った人が、次々と拡散して行って、怪しい情報が膨れ上がる。テレビの情報も、真偽不明のネット情報をそのまま間に受けてる場合が多い。スタッフが本気で調べてないのだ。

   

そこで私が、英語とフランス語で色々と検索してみた。結論を先に書くと、おそらく日本で拡散してる情報は間違いだと思う。

    

    

     ☆   ☆   ☆

英語でも信頼できそうな情報は見当たらなくて、フランス語だと、原文を示してるサイトが複数あった。ただし作者は、アンドレ・ルサン(または、ルッサン)。Andre Roussin。名前のeには、本当はアクセント記号が付いてるけど、文字化けの可能性があるのでここでは付けてない。

   

On se marie par manque de jugement,

 on divorce par manque de patience

 et on se remarie par manque de memoir.

   

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複数の仏語引用サイトの1つは、出典である著作名まで書いてた。「L' Amour fou」(狂った愛)。出版は1955年か56年(表記が2つある)。恋愛物語で、登場人物たちが別れと和解を繰り返すらしい。

    

このフランス語のタイトルを、このブログの記事タイトルにiMacで入力すると、「L」の次のアポストロフィが文字化けしてしまう。だから、記事タイトルでは「L'」を省略した。まあ、ここは単なる冠詞の省略形だから、不自然だけど実害はない。

    

   

     ☆   ☆   ☆

著作(戯曲)の正式名は、「L' Amour fou ou la premiere surprise」(狂った愛、あるいは、最初の驚き)。

   

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もっと有名なアンドレ・ブルトンの作品にも、「狂った愛」というタイトルがあるので、混同しないように注意が必要。実際、ネットでルサンの作品を検索すると、ブルトンの作品が何度も表示されてしまった。検索サイト自体でも、混同が生じてる。

    

ルサンの作品に関する情報は、日本国内では全くと言っていいほど見当たらない。国立国会図書館とかでも原書が無いし、翻訳はそもそも無いらしい。それどころか、英訳さえ無いようだ。要するに、昔のフランスに限って、多少の人気があったということか。

     

   

     ☆   ☆   ☆

そうなると今現在、中身の確認には、フランス語の原書を自分で買うしかない。

    

それは流石にダルイから、AI(ChatGPT4o)にたずねると、たぶんルサンのその作品で合ってるだろうというような回答だった。演劇の初演は、出版より前の1952年。格言の内容と、ルサンの作品の特徴が合ってるらしいし、サラクルーの作品だという根拠は見当たらないとのこと。

   

というわけで、試しにこの記事をアップしてみる。もちろん日本にも、原書を持ってる人は数人くらい(?)いるだろうから、調べたけど載ってなかったというような指摘は大歓迎♪

  

あと、映画化はされてるようだから、映画の台詞にあったとか無かったというような情報も大歓迎。正しい情報なら、ご遠慮なくコメントを書き込んで頂きたい。もちろん、映画と元の戯曲とでは、台詞が変わってる可能性もあるけど。。

   

    

     ☆   ☆   ☆

一方、単なる小市民アスリートの方は、一昨日の土曜(21日)も、ジョギング11km本物の自転車の試走

  

ジョグは最初、脚が激重だったけど、徐々に調子が出て来てトータルでは1km5分29秒ペース。遅いけど、気温25.5度、湿度80%、風速3.5mの条件だし、今だとこんなもんか (^^ゞ 心拍計は正常に作動してるけど、プラス2で補正。

   

本物の自転車の試走は、ちょっと距離を伸ばして7km(笑)。ビンディング・シューズを履いて、近所でゆっくり周回。ウォーキングも3.5km。これで連続295日の運動。

    

気になる週末の天気予報は、相変わらず微妙で、まあ山登りのコースだと曇時々雨って感じか。雨や寒さの対策は必須。それでは今日はこの辺で。。☆彡

   

  

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            平均心拍 最大

往路(2.4km) 15分01秒 108 121

LAP 1(2.1) 12分18秒 117 124

  2   11分25秒 122 134

  3   10分25秒 134 144

復路(2.2km) 11分02秒 134 146

計 11km 1時間00分06秒 123(72%) 146(86%)

    

     (計 2534字)

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「右」という言葉の説明、「(東の)朝日を見ながら泣いた時、(南の)風に吹かれて先に涙が乾く側のほっぺた」~『舟を編む』第1話

テレビドラマを見ること自体が久々だけど、NHKプラスがお勧めして来た人気ドラマを見てみたら、面白くて感動した。最後の見せ場は、ちょっと鳥肌ものだったかも♪ レビューする時間はないから、誰も書かないような感想だけ軽く書いとこう。

  

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三浦しをんのベストセラー小説『舟を編む』の連続ドラマ化。舟とは、言葉の海を渡るための辞書のこと。BSで2024年に放送して、2025年6月17日からNHK総合テレビで放送開始。これは再放送とは呼ばないらしい。脚本は蛭田直美。ギャラクシー賞ほか、多数の受賞歴があるらしい。

  

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で、第1話。ヒロインの岸辺みどり(池田エライザ)は、人気読者モデルとして活躍してた時に何か暗い経験があったらしい。でも、おかげで出版社に就職。ファッション誌を担当してた。

   

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ところが、雑誌は廃刊で、いきなり何の興味もなかった辞書の編集部に回された上に、歓迎会で「右」という言葉の説明を求められる。

   

   

     ☆   ☆   ☆

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この時、みどりは言葉じゃなくて、矢印の記号を書いて示した。しかもちゃんと、相手から見て右向きになるように書いてる。

   

このカットだけでも、私はオーッ・・と思った♪ 言葉じゃなくて記号1つ。意表を突くシャープな返答で、確かに才能を感じる。

   

でも、番組最後の回答、同棲してた彼氏がいなくなって、失恋の涙を流した後の回答は、遥かに素晴らしかった。

   

   

     ☆   ☆   ☆

「朝日を見ながら泣いた時、あったかい風に吹かれて先に涙が乾く側のほっぺた。それが右です」。

  

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この直前には、確かに海岸(「岸辺」)で右のほっぺたに触れてる。無意識のうちに、「右」についての問いかけを考え続けてたと。

   

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さて、ここで感動しただけで終わらないのが、半ば理数系のマニアック・ブロガー。これは自然現象として正しいのかもと思って、試しにAI(ChatGPT4o)にたずねると、正しいらしいのだ♪

    

    

     ☆   ☆   ☆

泣いた日付けは7月5日で、日本では初夏。東の朝日を見てると、南風が吹きつけるのは自然現象として「自然」らしい(太平洋高気圧の影響)。すると、右側のほっぺたの涙が先に乾く

   

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なるほど。このAIの回答で、ますます感動♪ さらに、番組でも映ってた『大辞泉』のデジタル版で、「右(みぎ)」の語釈を見ると、1番目の意味の最初はこう書かれてた。

   

東に向いたとき南にあたる方」。

   

これを詩的に、しかも自然現象的に正しく脚色したのが、ドラマだったのか。実に素晴らしい! 分かりやすいように、私の手描きイラストも挿入しとこう。

   

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     ☆   ☆   ☆

なお、その素晴らしい説明から僅かに間(ま)をおいて、みどりが「なんて」と恥ずかしそうにつぶやいたのも良かった。「なんて」というネガティブな言葉は、みどりが多用して、元カレも傷ついてたようだけど、この最後の用例は可愛い効果をもたらす「なんて」になってたのだ。

   

とにかく、感動したから、私も朝日を見ながら泣いてみようか・・・なんて♪ 可愛くない? あっ、そう♪ それでは今日はあっさり、この辺で。。☆彡

   

     (計 1274字)

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70年・大阪万博、太陽の塔「消えた第4の顔・地底の太陽(いのり)」、現在は神戸で産業廃棄物に?~NHK追跡特番

2025年5月4日の夜、NHKで放送されたミステリードキュメント『太陽の塔 消えた顔を追え』。私は全く知らなかったけど、昔から話題になってた謎のようで、今回の特番で新発見や新しい推測も発表されてた。

    

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意外なほど面白い番組だったけど、その反面、歴史的事実とそうでない部分の違いがちょっと分かりにくい作りになってる。例えば、番組公式サイトや番組内で使われた上の画像。これはおそらく、7年前に復元されて一般公開された展示物だろうと思う。

   

知ってる人にとっては当たり前の事かも知れないけど、番組内では昔の写真も映されてたから、どれが昔でどれが現在なのか分かりにくい。例えば、顔の向かって左側に制服コンパニオンの女性が立ってる映像は、昔の記録写真なのかも。

   

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ちなみに、太陽の塔公式サイトで飾られてる第4の顔も、おそらく復元後の地底の太陽だと思う。天井には、世界各地の仮面とかが飾られてる。

  

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    ☆   ☆   ☆

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さて、太陽の塔は一応知ってるつもりになってたけど、3つか4つの顔の区別は知らなかった。モヤモヤしたまま、脳内イメージの中で顔が混ざってたのだ。70mの塔のトップで一番目立つのは、未来の象徴、黄金の顔。

   

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そのかなり下、お腹の辺りで、ひねくれた顔でにらんでるように見えるのは、現在の象徴、太陽の顔。

    

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その裏側、不気味な悪の姿に見えるのが、過去の象徴、黒い太陽。

   

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そして、現物は行方不明になってる第4の顔、地底の太陽。これも復元後の映像だと思う。顔は直径3m、左右のフレア(炎)を入れると全長11mの巨大芸術オブジェ。

   

    

     ☆   ☆   ☆

2025大阪万博のプロデューサーの1人、福岡伸一が密かに追跡を始めてて、2021年のコロナ期、自分からNHKに企画を売り込んだらしい♪ おかげで、国営放送ならではの手間ヒマかかった番組が出来上がってた。テレビに映らなかった部分の地味な努力を想像すると、素直に賞賛に価する。

    

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まず、王子動物園に移されてたという話は、ウィキペディアによると、しばらく前から分かってたことらしい。顔だけでフェンスにあったとか、箱入りで野ざらしになってたとか。

    

その後の展開に移る前に、追跡とは直接の関係はないけど、新発見が紹介された。今まで存在しないとされてた元の図面を、スタッフが探し出したようだ。素晴らしい☆

    

3枚発見したらしいけど、画面に映ったのは2枚に見えた。その右下には、「図面名称」として、「こころ<いのり>」と書かれてる。設計者は、現代芸術研究所の代表取締役、岡本太郎。

   

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私が朝日新聞のデータベースで調べてみると、2018年3月の復元公開の記事には、図面が見つかってないことが書かれてた。図面が無いのに展示を再現するのも凄いことだけど、膨大な資料の中から図面を探し出したのも凄い。これは運良く成功したけど、失敗に終わった作業も今まで多数あったはず。

   

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ちなみに、元の地下の展示は、「いのち」「ひと」「いのり」の3つの空間から成ってたらしい。祈りというものは、今回の番組内では、作者・岡本太郎の縄文時代への思いと結び付けてた。

    

    

    ☆   ☆   ☆

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その図面とは関係ないけど、第4の顔の追跡は、現在の2025万博会場である夢洲に向かう。ただ、時期的に合わないようで、夢洲に埋められてるという仮説は結局、否定。

  

そして、神戸市の布施畑環境センターに辿り着いた。日本最大級の産業廃棄物処理場があるらしい。周囲には、縄文以来の(?)原生林や洞窟があって、ゴルフ場らしき開発も目立ってる。Google Earthの航空画像より。

    

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ここに持ち込む際には、30cm角以下の大きさにしないといけないから、もし本当に持ち込まれたとしたら、小さく分解されてることになる。粉々かどうかはともかく、発掘は非常に困難。でも一応、将来の科学技術の進歩で発掘できる可能性は残されてる。

    

福岡伸一は、作品にふさわしくない場所だと嘆いてたけど、私は逆に、最高にふさわしい場所だと思った。

   

現代文明の発達や人類の進歩を否定・批判して、古代への熱い思いや祈りをアピールする時、産業廃棄物処理場ほどふさわしい場所もなかなか無い。

  

美術館や記念館、研究所とかよりは、遥かにメッセージ性があるし、岡本太郎らしい反骨精神も感じ取れる。そもそも太陽の塔には、代表的建築家・丹下健三による大屋根をぶち抜くという思いが込められてたらしい。

   

    

     ☆   ☆   ☆

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結局、上図の赤丸からの矢印にそって、地底の太陽は移動したのかも知れない。と言っても、まだ未確認の仮説の段階だから、いずれ誰かがこっそり秘蔵してたものが出て来るかも。そもそも図面も、捨てられたと思われてたのに、キレイに存在してたのだ。上図の青丸が、現在の万博会場、夢洲。

    

というわけで、今日はここまで。今週も少なめ、計13793字で終了。ではまた来週。。☆彡

    

     (計 2088字)

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開館して半世紀、雑誌の図書館「大宅壮一文庫」(有料、閉架式、東京)、初めて利用した個人的感想

ちょっと前(2025年の初め)の話だけど、雑誌の図書館・大宅壮一文庫に初めて行ってみたので、その感想を簡単に書き記しとこう。

   

評論家・大宅(おおや)壮一(1900~1970)が集めた膨大な雑誌をもとにして、1971年に開館。下の写真は、入り口の右脇の看板とのぼり。「雑誌文化」を後世に。雑誌とか、雑多なもの、一般人が好きな人だったようで、本人も雑草のようにたくましい人生を歩んでる。

    

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有名な・・というか、知る人ぞ知る施設で、特にメディア関係者や人文社会研究者にとっては超メジャーな場所のはず。

   

ただ、普通にいろんな本を手に取って見ることができない「閉架式」だし、有料だから、一般市民に取ってはちょっと敷居が高い場所でもある。本人が生きてたら、ちょっと微妙に思うところかも。

  

そもそも雑誌というのは普通、新しい雑多な情報を見るメディアだから、古くて珍しい雑誌を調べたい人はかなり限られることになる。普通の公共図書館と比べると、あまり雑多な人々が集まる場所ではない。

   

   

    ☆   ☆   ☆

私は、昔から名前や情報は聞いてたけど、今まで行く機会が無かった。最大の理由は、個人的にウチから行きにくい場所にあるということ。

    

京王線の八幡山という駅から歩くのが、東京本館への基本的なアクセス方法だけど、私はあまり京王線を使わない。あえて使って大宅壮一文庫に行こうとすると、大回りするか、変則的な行き方を選ぶことになる。凄く遠いわけでもないけど、気分的には微妙になる。

   

行く機会が無かった二番目の理由は、大宅壮一文庫に行かないと手に入らないような雑誌を見たいと思ったことがなかったこと。

   

普通の雑誌なら、あちこちの図書館にあるし、大昔のものなら、国立国会図書館のデジタルライブラリー(電子書籍)ですぐ読めることもある。最近のものとか、別の電子書籍(アマゾンkindleその他)で読めることもある。

   

   

     ☆   ☆   ☆

ただ、初めて、珍しい雑誌を読みたくなったから、最初に思いついたのが大宅壮一文庫だった。

   

実は、ここと国立国会図書館のどちらがいいのか、比較の問題があるけど、その話はまたいずれ書くことにしよう。まあ、無難にまとめるなら、一長一短か。

  

私の場合、単純に前から一度、大宅壮一文庫という施設に行ってみたかったという思いもあった。少し前には、深刻な経営難も伝えられてたから。今現在は、有志による厚い支援で温かく運営されてる感じだ。

   

   

     ☆   ☆   ☆

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駅から徒歩8分ということだけど、私がスタスタ早足で赤堤通りを歩いたら6分くらいだった。キョロキョロしてると、目の前の白い壁に「大宅壮一文庫」という看板が掲げられてて、その手前には「大宅壮一文庫利用者専用駐車場」まであった。

   

東京・世田谷のこの場所に、利用者用のしっかりした駐車場(7台、無料)を持つ図書館というだけでも、只者ではない。普通に考えれば採算が取れないというか、他にいくらでも有益な土地の利用方法があるはずだから。

   

ちなみに私が経営スタッフの1人なら、駐車場を小さくして、余った土地を売るか貸すか返却して、運営費に余裕をもたせる。もちろん、こんな平凡なアイデアは大昔から出てるだろうけど。

       

  

     ☆   ☆   ☆

他に誰も書きそうにない感想をもう一つ。入り口の左脇の自動販売機が、なぜか非常にしっかりした屋根で守られてるのが気になった♪

       

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こんな自販機、今まで見たことはない。普通は雨ざらしの物だから、特別な歴史的価値があるということかも。売ってるドリンクは普通に見えた。

  

ちなみに上の写真にギリギリ写ってない左下あたりには、赤いポストが立ってて、その点でも分かりやすい施設。車で初めて行く人でも見つけやすいと思う。駐車場も入りやすい。私が行ったのは夕方というか、晩近くに慌てて行って、歩道の人通りも車の通行も少なかった。

   

    

     ☆   ☆   ☆

さて、肝心の文庫の中身。実は、中の施設も一応、撮影可能だったけど、とりあえずここでは掲載を控えとこう。もちろん、雑誌の撮影は禁止。

  

というか、雑誌を撮影したければ有料で、しかも高額になる。スチール(静止画)1枚、3600円。一般人なら、古本屋やフリーマーケットの類(メルカリ、ヤフオク)で探した方が遥かに安いと思う。あれば、の話だけど。

   

私はまず、入り口の正面奥にあるカウンターの女性に話しかけて、使い方を確認した。もちろん、公式サイトの利用案内は繰り返し読んでたけど、ちょっと言葉のやり取りをしてみたかったのだ。

    

女性スタッフは丁寧で、必要な情報を手短に説明してくれた。まあ、普通の図書館の司書みたいな人たちも、ほとんどは非常に丁寧だ。

   

   

     ☆   ☆   ☆

まず、書類に書き込んで、一般の利用料金(入館料)500円を払って、すぐ右脇の狭い階段で2階へ。すると、図書館の閲覧室みたいな感じになってて、一般客が2、3人。

  

手続きを待ってるのか、受け取った本を読んでるのかは不明。さすがに、勉強してる学生、仕事してる社会人の姿は無し。スマホをいじって遊ぶ場所でもない。カフェ、ファーストフード、喫茶店とかの雰囲気とは全く異質。

      

カウンターにはスタッフが数名。その奥には事務室みたいなものも見える。館内、全体的に、スタッフが不思議なほど多いと思った。ボランティアが混ざってるのかも知れないけど、人件費が心配になるほど。

   

とにかく、私があらかじめ調べてあった雑誌名と記事、ページ数を書類で伝えると、10分くらいでコピーを頂けたと思う。コピーは自分でとるのではなく、スタッフに頼むのだ。

   

白黒1枚で100円というコピー料金もなかなか凄い。学生料金でも70円。今どき、安いコピー機なら1枚5円だから、やはり特別な図書館ということ。マスメディアが費用会社持ちでコピーするとか、学者・教授・研究者らが国からの研究費の一部でコピーするとか。

     

ちなみに、同じくスタッフに依頼する国会図書館だと、1枚27.5円(税込)とか。その話はまたいずれ後ほど。

   

   

     ☆   ☆   ☆

閉館まで時間が無かったし、そもそも急いでたから、必要なコピーを受け取って、パンフレットを一通り頂いて、すぐに退館。コピー料金は私の場合、自費で支払い。後で領収書を経理に出すとかでもない。

  

金銭的リターンは無い少額投資だけど、個人的にどうしても欲しかったから仕方ない。大宅壮一文庫と同様、私も別に、お金のために雑誌に触れるわけじゃないのだ。

   

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上は2022年7月の大宅壮一文庫ニュース。Google検索の先駆けとも言われる「大宅式索引」の特集として、「雑誌を飾った顔・事件」が紹介されてた。

   

上の画像に写ってる3つ、オウム真理教、小沢一郎、松田聖子は、やっぱり雑誌の歴史でトップクラスの項目らしい。まあ、たまたま多数の雑誌がメジャーだった時期と重なってるという側面もある。1980年~1990年代に目立ってた人・団体ということ。デジタル・ネット時代の直前と言ってもいい。

    

   

     ☆   ☆   ☆

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帰りの八幡山駅のホームで撮った風景写真は、ちょっとオシャレで気に入ってる。さて、次に行くのはいつ、どんな雑誌と記事が目当てになるのか。

  

とにかく、貴重な初体験となったひとときだった。それでは今日はこの辺で。。☆彡

   

     (計 2917字)

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渡邊渚『透明を満たす』の写真の本、詩人・金子みすずの詩集『わたしと小鳥とすずと』&マメの痛みを我慢して11km走

(27日)RUN 11 km,51分42秒,平均心拍 132

消費エネルギー 400kcal(脂肪 112kcal)    

    

WALK 4 km,45分,5800歩

消費エネルギー 200kcal(脂肪 110kcal)

   

    

鳴物入りという表現では全く足りないくらいの注目度になってる、元フジテレビ女子アナ・渡邊渚のフォトエッセイ『透明を満たす』(講談社)。

   

日付けが2025年1月29日になってすぐ、amazonで見ると、いつの間にかkindle電子書籍も追加されてて、無料サンプル配布中。

   

直ちにダウンロードして見ると、言葉は何も無しで、写真のみだった。それだけだと、単なる一般人ブログでも記事にしにくいけど、マニアックブロガーの目線は、細か過ぎて伝わらない所に向かう♪

    

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彼女が読んでる、淡い紫色の表紙の単行本。ギリギリで書名が見えないようにしてあるけど、小さいアルファベットと番号が読み取れた。ISBNコード。「4-88284-070-7」。少し古い本だから、10桁の数字になってる。ちなみに今では、13桁に変更されてるけど、それはここでは関係ない。

    

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     ☆   ☆   ☆

検索すると、直ちに有名な詩人の本だとわかった。『わたしと小鳥とすずと - 金子みすず童謡集』(JULA出版局、1984年)。

     

40年後の今でも販売中で、電子書籍まで出てるから、かなりの人気と言っていい(出版社はフレーべル館に変わってる)。

   

金子みすずは100年ほど前の女性詩人で、小さいもの、弱い物への感受性が繊細で優しい。小学校の教科書にも、何度も採用されてる。私生活には恵まれず、26歳で自殺。

    

渡辺渚の担当医は、この事の意味に気づいてるだろうか? しかも、童謡集の表題作である詩は、死後に残された遺稿らしい。

    

一般男性の目線で金子みすずの写真を見ると、可愛い顔だと思う。そんな事は芸術活動と無関係・・などとは、私は思わない。かなりビジュアル路線で売り出してる渡邊渚が、自分と同一化する対象としても、金子は分かりやすい女性詩人だと思う。

    

話を戻すと、念のため、渡邊渚の写真でも改めてチェックしてみた。ひょっとすると、電子書籍のみの写真かも知れない。電子版だけの特典が20カットあるとの事。今現在はまだ29日の深夜1時だし、紙の本は未確認。

     

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アプリで角度と明るさその他を調整すると、背表紙の書名がはっきり読み取れた。間違いない。

  

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     ☆   ☆   ☆

さて、表題作の「わたしと小鳥とすずと」という詩は、彼女の代表作として、ウィキペディアにも全文が載ってるし、ネット検索であちこちに見つかる。

  

著作権が消滅してることもあって、アマゾンの販売ページでも、本の内容として全文掲載。

  

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わたしは空を飛べないけど、小鳥は走れない。わたしはきれいな音を出せないけど、すずはたくさんのうたを知らない。

  

 「すずと、小鳥と、それからわたし、

  みんなちがって、みんないい。

   

   

     ☆   ☆   ☆

ひらがなの多い、読みやすくて分かりやすい文章で、ささやかな存在の多様性の価値と尊重をうたってる。ただし、金子の遺稿の手帳では、「鈴」は漢字だったらしい。JULA出版局の自筆ハガキセットより。

  

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なお、渡邊渚と小鳥とすずを比べて、どう思うかは、立場によってかなり違うだろう。それもまた多様性だけど、「みんなちがって、みんないい」とまで言えるかどうかは分からない。

   

あまりにも大掛かりな出来事になってしまってるし、「みんないい」という普遍的な肯定からはかけ離れた状況だから。。

    

    

     ☆   ☆   ☆

一方、わたしは小鳥ではなく、小市民アスリート。小鳥より速く走れるとは思う♪ 一昨日(月曜)は、また11km走だけど、ソックスの選択と履き方を間違えたこともあって、途中で左足の親指にマメが出来てしまった。珍しいミス。

  

途中で歩こうかな・・と思いつつ、痛みを我慢して完走。ただ、さすがに元気よく走るのは無理で、ここ最近の好調の中だとイマイチのタイムになった。まあ、頑張った方かも。トータルでは1km4分42秒ペース。気温7度、湿度68%、風速2m

   

心拍計はまたプラス4で補正。マメが痛くてペースを落としたから、心拍も普段以上に低めになった。ウォーキングも4km。これで連続150日の運動。それでは、また明日。。☆彡

   

      

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           平均心拍 最大

往路(2.4km) 12分03秒 122 131

LAP 1(2.2) 10分04秒 133 137

  2   10分02秒 135 140

  3     9分51秒 138 143

復路(2.1km) 9分43秒 137 145

計 11km 51分42秒 132(78%) 145(85%)

      

    (計 1882字)

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蜂飼耳の小説「繭の遊戯」(25共通テスト国語)全文レビュー・書評 ~ 家畜として玉繭で糸を出した蚕の幼虫、成虫で飛び立てたのか

蜂飼耳(はちかい・みみ)という名前も、「繭の遊戯」(まゆのゆうぎ)という小説のタイトルも、読みにくい漢字で、私は聞いたことも見たこともなかった(申し訳ない)。

  

ところが小説を読むと、子どもが語る形式だから、ひらがなだらけで句読点も多い、非常に読みやすい文章。また、過去の日経新聞を調べると、多数の記事がヒット。おまけに現在は、立教大学文学部の教授で、大学の図書館長にも就任したらしい。当初のイメージは激変した。

   

私の周囲に1人もいないこともあって、現代の詩人というと何となく、地味にひっそり孤独に生きてるイメージがある(個人の感想)。ところが、社会的にも見事な成功。今回は遂に、若い頃の短編小説が一気に数十万人の読者を獲得した。印税は入らないが、ベストセラー作家に出世。

    

   

     ☆   ☆   ☆

ということは、まさに、繭の中で現代詩などの遊戯をしてた幼虫が、見事な成虫として羽ばたいたということになる。

   

しかし、蚕(カイコ)というものは、幼虫と糸にのみ価値を置かれる家畜昆虫であって、成虫は野外でも生きていけないらしいし、飛び立つことも出来ないとのこと。

   

作品の中の2匹の幼虫は、繭から出て飛び立つことが出来たのか。全文を読み終えてすぐ、その点が気になった。もちろん、その種の思いは直ちに反転する。

 

読者である自分は、飛び立つことが出来たのか。そもそも、繭とか絹糸で人々の役に立てた存在なのか。私にせよ、今ここで読んでいるあなたにせよ。。

   

   

     ☆   ☆   ☆

何の役にも立たないような一般人ブロガーでも、例えばセンター試験や共通テストの国語に関しては、少しお役に立てている気がする。

    

実際、過去のレビュー(特に小説全文の記事)はかなりのアクセスを頂いてるし、熟読してくださる方もいらっしゃる。コスパ、タイパのいいネタバレ記事としてサラッと読み流している人も大勢いると思う。

     

今回、2025年の共通テストの国語では、終了直後のX(旧 twitter)の投稿を見ると、「おばあちゃん」がキレた「ヒス構文」を面白がってネタにするものが目立っていた。

     

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しかし、私が実際に小説の全文を読んでみると、おばあちゃんは単なる脇役というか、チョイ役。「おじさん」と「わたし」が主人公の物語だ。主人公と語り手の関係というより、テレビドラマでいうW主演のような形になっている。

     

初出は、角川書店(当時)雑誌『野性時代』2005年8月号、p.138~p.144。タイトルの下には、両手とオカリナのイラストが挿入されてた(立川綾子)。オカリナには糸が付いていて、蚕の幼虫が糸を出してるようにも見える。

     

20年近く前ということもあって、ほとんど図書館にも置かれていないし、ネットでも流通していない。amazonの古書でも取り扱いがなかったし、カドカワの公式サイトでも検索範囲からギリギリで外れていた。

            

下はamazonより。野「生」時代ではなく、野「性」時代なので、念のため。

   

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     ☆   ☆   ☆

2つ上の縮小画像で、小説タイトルの右側には、「8月の極上てのひらの物語」と書かれてる。当時のこの雑誌は、両手ですくい上げたような原稿用紙10枚の短編小説を連載していたようで、30人分まとめた単行本が2006年に出版されていた

    

極上掌篇小説』。この中に『繭の遊戯』も収録されているが、元の発表作品との違いは未確認。私は初出しか確認してないので念のため。加筆・修正の可能性はある。p.211~p.220に掲載。

(☆追記: 単行本を確認。初出の雑誌との違いは、漢字のふりがなだけ。新たにつけられてたり、前のが削られてたり。)

    

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当時の雑誌巻末の作者プロフィールには、「・・身の回りの情景や心ふるわす書物を、繊細で鋭敏な語感と言葉で綴ったエッセイ『孔雀の羽の目が見てる』も好評」と紹介されていた。1974年生まれ、早稲田大学大学院・修士課程終了。中原中也賞ほか、受賞歴も豊富。

   

今現在、誰も書いてなさそうな小ネタ情報を書き添えておくと、彼女は「耳」がやや大きい(or長い)ようにも見える♪ 本人がペンネームの由来(本名?)をどう説明しているのかはともかく、無意識的には自分と「耳」が深く結びついていても不思議はない。根拠というか、参考資料は、2024年7月31日の日経新聞・朝刊の写真。

   

    

   ☆   ☆   ☆

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さて、2025年1月18日(土曜)の共通テスト1日目・国語・第2問では、ギターの話から小説の引用がスタート。最後は、楽器のオカリナをおじさんが自作してバザーで売るという話が出た所で終了。上図はいつものように、河合塾の共通テスト特設ページより。

       

問題文は長いので、元の小説の全文に近いが、最初の11行と、最後の6行(物語のオチ)だけが省略されていた

  

冒頭の2行は、「いま考えると、そのころおじさんは、まだ三十にもなっていなかったのだと思う」と書かれている。「けれど、五つや六つの子どもにとっては、想像もつかないほど年上の大人」。それなのに、「他の大人たちとは、ちがう匂いがした」。

   

他の大人たちは、遊ぶ時でも「上の空」。でも、おじさん(わたしの母の弟、叔父さん)は本気で遊んでいるし、私も一緒に本気で遊んでいる。

    

ここですぐ、私の頭には、繭の中に2匹の蚕の幼虫がいる姿が浮かんだ。試しに検索してみると、本当にそのような例があって、「玉繭」(たままゆ)と呼ばれているらしい。形や大きさも多少違うとのこと。

  

ということは、この小説のタイトルは、「玉繭の遊戯」でも良かったはず。1つの玉繭に、3匹以上の幼虫が入っていることもあるらしい。「おじさん」、「わたし」、著者(蜂飼耳)、そして、読者である私たちとか、SNSに投稿して遊ぶ受験生とか。

  

   

     ☆   ☆   ☆

話を戻すと、問題文で省略された部分には、「台所やトイレはないその小屋」という一文もある。ということは、「小屋に籠っている」と言っても、すぐそばの母屋(おもや)との行き来はかなりあるのだ。

  

小説の時代設定は、おそらく1970年代くらいの昭和。その頃、30歳くらいの身内の男性が、定職も持たず、家の敷地内の小屋で遊んでいて、食事やトイレの度に母屋に来る。これは姉(「わたし」の母)にとって、かなり目障りなはず。まだ「フリーター」という言葉さえ一般的ではなかった時代らしい

   

「ちゃんと仕事しなさい」、「いつまでも親のスネかじって」。母が怒っても、スルーするおじさん(母の弟)。すると当然、「お母さん、なんとかいってよ」、「おかあさんが甘いからよ」と矛先を変えたくなる。

  

するとおばあちゃん(「わたし」の祖母、「わたし」の母の母)は逆にキレて罵る。「もうわかった、あたしが死ねばいいんでしょ、じゃあ、死ぬよ」。実際には死ぬ代わりに、「豆の殻を剥(む)いた」だけ。私が受験生なら、教室で声を上げて笑ったかも。

     

おばあちゃんは内心では、おじさん(息子)の才能も理解しているのだ。中途半端でお金にならないとはいえ、小屋を自分で作ったし、トラックの運転手もできる。ギターの技術的に難しい曲、『アルハンブラの思い出』も少しだけ弾けるし、インドに旅行する行動力もあるし、ステンドグラスも陶芸も少し作れる。

   

息子は、やれば出来る。いつかは1人で大きく羽ばたいてくれるのでは。。 昭和の母親としては、男の子にそんな儚い期待や希望も抱いているはず。実はそれが意外な形になったのが、最後の省略部分、オチの箇所なのだ。

    

    

    ☆   ☆   ☆

時間が無くなって来たので、その最後のオチに向かおう。物語的に決定的な内容のネタバレなので、ご注意あれ。

    

問題文の最後では、おじさんが、自作のオカリナをバザーで売る考えをわたしに話したという流れになっていた。

   

その後、「オカリナは予想以上に売れ」、おじさんはオカリナばかり作り続ける。

   

しかし、ブームは終了。その後、おじさんは「なにもせず、小屋のなかで眠りつづけた・・・何ヵ月も」。そして、消えてしまったのだ。

  

「突然のことだった。帰らない。どこへ行ったのか、わかりはしない」。

    

  

     ☆   ☆   ☆

たまたまなのか、そのラストの左のページには、「日本ホラー小説大賞」という文字が、黒地に白抜きの不気味なデザインで目立っていた。私はそれを見て、ちょっと背筋が寒くなったが、それはなかなか正しい反応だったと思う。

    

というのも、蚕の幼虫は、繭を出ると生きていけないらしいから。飛べないし、外は外敵だらけ。さらに、繭の中で幼虫から蛹(さなぎ)になると、糸を取るために繭ごと処理されてしまうようだから。

   

本文には書かれてないものの、実はサナギのように何も作らなくなったおじさんは、姪の「わたし」にさえ相手にされなくなったと感じていたかも。色々と作っていた時には、あの子だけは相手にしてくれた。何も作らない自分は、もう誰にも相手にされない。そう言えばあの子は、自分が作った鶴のステンドグラスを見て、「あひるみたい」と切り捨てたし。

   

ふと、冒頭の省略部分の言葉も思い出してしまう。他の大人たちは「上の空」。それは、単なる心理的な「上の空」だが、おじさんは別の意味で「上の空」になったのかも知れない。世捨て人か、世に捨てられた人かはともかく、帰らない人になったのだから。。

   

   

     ☆   ☆   ☆

このオチだけ見ると、そんな簡単で単純な終わり方なのか・・と思われるかも知れない。

  

しかし、改めて全体を見直すと、周到に「死」のイメージや伏線が散りばめられていることに気づく。「上の空」、「死ねばいいんでしょ。じゃあ、死ぬよ」、お香、仏壇、あひる(飛べない鳥)。

  

最後の直前に登場するオカリナも、語源的にはガチョウのこと。つまり、これも要するに、飛べない鳥なのだ(生物学的にはそうは呼ばないらしいが)。

    

ちなみに、格闘技好きの私としては、小説のタイトルの「遊戯」という漢字の言葉を見て、『死亡遊戯』というタイトルの映画があったなと思い出す(見たことはない)。今でも世界中で人気がある、カンフー映画のスター、ブルース・リーの死後の公開作品。リーの死が72年、『死亡遊戯』が78年だから、この小説の時代設定と合っている形になる。

     

    

     ☆   ☆   ☆

一方、語り手である「わたし」はおそらく今、昔のおじさんと近い年頃だろう。実は、この作品を発表した時の著者・蜂飼耳も、ほぼ同年代

   

「満足と孤独。しのびこんだ蛾が、押せない窓を押して暴れ、しきりに乾いた音を立てる。そのとき、わたしはなにかを、教えられていたのだ。」

    

自分の世界にこもって遊ぶと、外に出れなくなるだけでなく、狭い世界の中で他の人とぶつかり合うことにもなる。

  

「いいと思わないものを、いいとはいえない。いってはいけない。これで嫌われるのなら、それはそれでしかたない」。

    

そもそも、わたしはおじさんより遥か下の存在なのだ。「おじさんの心配をしながら、自分も晴れない霧につつまれた。オカリナどころか、なにも作れない自分は、どうすればいいんだろう」。「他の人たちから見れば意味が薄いことを、自分の熱意だけでつづける。どこへ繋がっていくのか、わかりもしないまま」。

   

   

     ☆   ☆   ☆ 

幸い、著者の文芸的な遊戯は、大学教授の身分、図書館長の地位へとつながった。詩も小説もエッセイも評価された。結果的に、他の人達から見ても意味が生じた。

  

しかし、おじさんはどうなったのか。「わたし」はどうなるのか。そして、繭の糸の代わりに、ブログの文字を書き続ける自分はどうか。SNSでつぶやきと画像とリンクを作り続ける玉繭の中の人々はどうなのか。そもそも、蚕という生物は自らをどう認識しているのか。

     

小説という狭い枠、繭を超えて、「そういう考えをひろげ」つつ、ブログの遊戯を終わるとしよう。一時的にサナギのように眠った後は、また目覚める。人生という巨大な玉繭の遊戯は、しばらく終わらないのであった。

   

そう言えば、人間とは本質的に「ホモ・ルーデンス」(遊戯する人)だという考えもあったな・・とか思い出しつつ、それでは今日はこの辺で。今週は計19370字で終了、また来週。。☆彡

   

   

      

cf. 牧田真有子『桟橋』(24共通テスト国語)、全文レビュー・書評

    ~ 漁師に拾われた魚、捻じ切れた血の橋を自分で生き始める

   

     (計 4900字)

  (追記55字 ; 合計4955字)

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バナナを壁にテープで貼った現代アート、カテラン「コメディアン」、9.6億円で購入してもさらに高額で転売可能&徒歩8km

(23日)WALK 8km,1時間30分,12000歩

消費エネルギー 360kcal(脂肪 180kcal)

    

バナナを1本、壁にテープで貼り付けただけの現代美術(コンセプチュアル・アート)が、ニューヨークのサザビーズのオークションに出品。620万ドル(約9.6億円)で落札。購入者は中国の富豪で、仮想通貨(暗号資産)の1つの創設者。

   

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この2024年11月20日の出来事を、翌日のネットのニュースで読んだ時、素直な第一感は、バカバカしいというものだった。

     

NHKの報道の下の写真は、サザビーズ提供の全体像(額縁は本来は無さそう)で、美術手帖HPより縮小して引用させて頂いた。2019年の作品、「Comedian」(コメディアン)。タイトルにも風刺が効いてる。どうぞ皆さん、笑ってくださいと。

    

作品もバカげてるし、ほとんど独創的でも技巧的でもない。無名の作者も含めて探せば、似たような作品はかなりあるはず。小学生が夏休みの宿題で作った工作とか。

   

購入者の莫大な資産が仮想通貨から生み出されたというのも、ナンセンス(死語♪)。あぶく銭だから使い道に困ってたんだろう・・といった感じのひろゆきの論評にも共感できる。

    

   

    ☆   ☆   ☆

ただし、その第一感はすぐに消えたのも事実。そんな物が高額で売れるということは、作者自身にも高い価値が認められてるということだろう。イタリアのマウリツィオ・カテラン(Maurizio Cattelan)、もともと有名な変わり者のアーティストだったらしい。

    

仮想通貨がバカバカしいというなら、金(ゴールド)の価格もかなりバカバカしいし、現在の紙幣も単なる紙切れに過ぎない。ただし、それらが価値を持ってることにはそれなりの理由や背景、歴史的事情があるし、自分ですぐに創れるものでもない。流通させて実効性を持たせるのも大変。

   

そして、一番わかりやすいポイントは、どうせそのバナナ作品はもっと高く転売できるんだろうという事。実際、今回の出品者の名前は明かされてないけど、過去の購入者(3者)の金額は数十分の一くらいになってた。個人コレクターが1300万円ほどで2つ。美術館が1600万円ほどで1つ。

      

ということは、5年間の保存期間で、個人コレクターは10億円近くを丸儲けしたことになる。もちろん、元の生のバナナをキープする必要はない。そもそも、展示会で勝手に食べてしまった強者もいるらしいから♪ バナナは食べても交換してもいいようだ。面白い世界ではある。

   

    

     ☆   ☆   ☆

この作品についてネット検索をかけると、最初に目についたのが著作権侵害の騒動。モーフォードという米国のアーティストが2000年に、「Banana & Orange」(バナナとオレンジ)という作品を発表してたらしい。

   

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上は、Googleの画像検索の結果。かなり似てるけど、カテランの方がスッキリしててインパクトがあるのは確か。

   

背景の色(緑か白か)、バナナの傾き、テープの貼り方、枠の縁取りの有無、どれを取っても、カテランの方が良いと思う。と言っても、数千万円以上と0円(価格評価が見当たらず)の違いがあるとも思えないから、モーフォードの悔しさも分かる。

    

結局、裁判の結果も、著作権侵害にはならなかったようだ。下は、英語版ウィキペディアの「Comedian (artwork)」の項目より。本格的な裁判の前の段階で終了とのこと。司法制度が異なるけど、日本なら検察が起訴を取り下げたようなものか。

  

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     ☆   ☆   ☆

一方、転売については、念のために毎度お馴染みのAI、ChatGPT4oに聞いてみた。

   

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要するに、「真正性証明書」(Certificate of Authenticity)と取り扱いの指示(書)があれば、それらを用いて転売可能らしい。バナナの交換のやり方は、指示通りに厳密にすると。実際にはほんの数行の簡単な指示かも知れないけど♪

    

まあ、似たような内容のものでも、権威や知名度があるものが提示すれば高く評価されて、そうでないものが提示すれば無視される。一般人のブログ記事も同様だろう。その意味でも、先行者のモーフォードの気持ちがよく分かるのだ。。

      

      

     ☆   ☆   ☆

一方、単なる小市民アスリートの方は、昨日は8kmウォーキングのみ。珍しくスマホをポケットに入れて、途中で止まってLINEのやり取りをやってた。歩きスマホはほとんどやらないので、念のため。ちゃんと邪魔にならない場所に立ち止まって操作。模範的なユーザー♪

    

どうせなら10km歩こうかな・・と迷ったけど、かなり脚が疲れてるから止めといた。既に連続85日の運動だから。

  

なお、今週は計15299字で終了。また来週。。☆彡

    

     (計 1945字)

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谷川俊太郎追悼、生と性と死の詩「なんでもおまんこ」(詩集『夜のミッキー・マウス』)を読んだ感想、意味の解釈

この記事タイトルに入ってる4文字はもちろん、放送禁止(自粛)用語の最たるもの。私も過去19年間以上、毎日更新してるこのブログで、一度も書いたことはない。

   

1文字か2文字はバツ印の伏字にしようかとも思ったが、日本を代表する大御所の詩人・谷川俊太郎の作品名だから、ネット上にもそのまま溢れてる。実際、私がこの詩を知ったのは朝日新聞デジタルの訃報記事で、しかも執筆者は女性記者だった。

     

pdfファイルでアップされてる学術論文でもそのまま。各種の詩集の類でもそのまま。というわけで、非営利の個人ブログであるこのサイトでも、芸術関連だからそのまま書くことにする。ただし、記事タイトルを含めて2回だけの表記に留めるので、悪しからず。

    

   

    ☆   ☆   ☆

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過激なタイトルの詩は、2003年9月25日発行(発売は23日?)の詩集『夜のミッキー・マウス』(新潮社)などに収録されてる作品。この詩集は、今では新潮文庫として流通してるけど、私は元の単行本を読んだ。文庫本との違いは不明。

   

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目次を十分縮小した画像で引用すると、問題作は7番目の配置で、そこまでどうも一般ウケを狙ったようなタイトルが並んでる。

   

ミッキー、ドナルド、プルートー、アトム、ああ、ママ、なんでも・・。その後の4つの詩のタイトルとはかなり違ってるのが分かる。ちなみに「ああ」という題名の詩も、内容的には「なんでも」に近い性的な作品。

   

ちなみに、amazonのkindle電子書籍のサンプルで文庫本の目次を確認すると、順番は同じようだが、1行空けによる区切り方が少しだけ違うのかも知れない。

   

    

     ☆   ☆   ☆

さて、私が妙なタイトルの詩を知ったのは、下の朝日の記事を読んだ時。朝日は、生前から谷川の記事をよく掲載してた。

   

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「亡くなる2週間前、谷川俊太郎さんは言った 『死ぬっていうのは・・・』」 (田中瞳子記者)

    

無料で読める部分のラストに、まるでその後の有料登録へと誘うような形で、次のように書かれてた。

    

「2023~24年にかけてロングインタビューをした。自身の詩を朗読する動画を撮りたいとお願いすると、詩の選定で一つだけNGが出た。『「なんでもおまんこ」はダメ』。いまの時代、このタイトルでは風あたりが強いだろう。そう思っていたら、続けてこう言った。『この年になると元気に読めないから』」。

   

   

     ☆   ☆   ☆

92歳の巨匠の詩人でなければ、今どき男性が女性記者にそんな話をすると、セクハラ扱いされても不思議ではない。

   

年齢、評価、芸術、この3点に加えて、記者との信頼関係が揃ってはじめて、そんな話も許される。というより、記者はむしろ谷川らしいエピソードとして面白がってるわけだが。

  

とにかく、その「元気」な詩をネットで調べると、詩の全文どころか、本人の過去の朗読動画まで無料公開されてた。著作権に緩い作家ではなさそうだから、特別扱いの作品ということか。それほど元気に読んでるとも感じなかったけど、死の直前だと遥かに元気が衰えてたわけか。

  

21年前のインタビュー記事を読むと、自作朗読をお願いされて元気な詩を読む前に、こう語ってた。「これは一人で読むとなんとなく読みにくいですけれど(笑)、気に入っているんで読みます」。

   

ちょうど、単行本を出した時期だったことは割り引くとしても、やはり数ある作品の中でも本人お気に入りの一つだったのは確かだろう。

   

   

     ☆   ☆   ☆

では、詩の内容について。例の詩の前に、詩集の表題作である巻頭の詩、「夜のミッキー・マウス」について先に触れとこう。詩集のp.10~p.12。初出は『新潮』2003年5月号。

  

冒頭は、「夜のミッキー・マウスは 昼間より難解だ」。簡単に言うと、「陽気なほほえみから逃れて 真実の鼠に戻る」時が「夜」。

  

「地下の水路」を歩き回って、「子孫をふりまきながら歩いて行き ついには不死のイメージを獲得する」。

    

ここにも、生殖としての性行為と種族保存本能のような話があるから、ひょっとして・・と思って、同期の巨匠・大岡信との対話(往復書簡)『詩と世界の間で』(思潮社)をチェックすると、やはり精神分析家フロイトの名前が出てた。年代的にも分野的にも、ユングも含めて、深層心理学の影響は受けてるはず。

    

    

     ☆   ☆   ☆

で、夜の人間、夜の男・谷川俊太郎としての姿をあらわにしてるように見えるのが、例の元気な詩「なんでも・・」

   

詩集のp.30~p.33。初出は『小説新潮』1995年11月号、p.68~p.73。「性の大特集 ポルノか文学か」に含まれた作品の一つ。当時のこの雑誌は、性の特集が多かったようだ。

        

なんでもおま×こなんだよ あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ やれたらやりてえんだよ

   

この場合の「丘」とは、少し離れた乳房というふくらみと、本物の地形の丘とを重ね合わせた表現だと思う。直後の「空に背がとどくほどでっかくなれねえかな」という表現も、無限の空間へと視界を広げつつ、自らの男性性器の巨大化幻想も含ませてる。

   

単なるフィクションとは思えないから、ウィキペディアその他で調べると、どうも3回結婚して、3回とも離婚してるらしい。NHKテレビの訃報だと、子どもに勧めたい芸術みたいな扱いになってたが、実際に読むと、大人の性(特に男の性)があからさまに描かれてる。絵本や漫画(スヌーピーの翻訳)なら、子どもでも安全ということか。

   

   

     ☆   ☆   ☆

空を抱き、花に入る。「あれだけ入れるんじゃねえよお ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお」。

   

つまり、女性に包まれる形での一体化。これも、精神分析的、深層心理学的な発想で、自らの存在全体で「あれ」の代わりに母(または女性)の欲望を満たす、という意味。

  

それと共に、生まれる前か直後あたりの母子未分状態へと退行するという意味もある。過去の満ち足りた幻想的な状態。その後に訪れるのが、母からの独立に伴う「分離不安」とか。

    

さらに風にも触られた後、いよいよ詩の最後となる。それこそ、死。なぜか日本語だと、詩と死の発音は同じく、「し」になってる。ただし、詩人は「しじん」、死人は「しにん」。僅かに死と距離を保つ限界の生こそ、詩人という稀有の存在だろうか。

   

おれ地面掘るよ」。土をかけてもらって、「草も葉っぱも虫もいっしょくた」。そして、「笑っちゃうよ おれ死にてえのかなあ」で終了。

   

   

     ☆   ☆   ☆

この死にたさは、別に即身仏の修行とか、自殺というような能動的なものではない。生=性の原点である母子未分へと遡ると、結局は自分の生命が無い辺りまで行き着くことになる。無意識のうちに、生の限界を超えてしまう。

   

逆に、これは死ではなく、新たな生のあり方だという見方も可能。いわゆるアニミズム的思考で、万物に命が宿ってると考えるなら、万物と溶け合う形も生命のあり方の一つなのだ。普通の人間の生命とは違う形で。

  

逆にアニミズム的な考えを基本にすれば、普通の生や性の見方こそ、フェティシズム(呪物崇拝)なのだ。小さな部分だけを特別視する態度。

      

   

     ☆   ☆   ☆

なお、この詩と同時に95年の雑誌で発表された「ああ」では、女性の性のようなものも描かれて、「ママ」では母親の性(せい=さが)のようなものも描かれてる。合わせて、性と生の三部作とでも言うべきか。

  

ただ、「ああ」や「ママ」で描かれてるのも、あくまで男性・谷川俊太郎にとっての女性、母親のように感じられる。私も男性なので、読んでると恥ずかしさで赤面してしまうような部分もあった。

  

要するに、女性には喜んで欲しい、母親にはいつまでも自分(子ども)を愛して欲しい、という思い。無意識のうちに男児が持ち続ける根源的欲望。父親が(まだ)登場してないということは、精神分析的には「前エディプス期」的な発達段階。

     

60歳を超えた時点でなお幼児期から続く思いを、あえて直接的な言葉で芸術へと昇華させたのが、三部作ということだろう。時間が無くなったので、今日はそろそろこの辺で。

    

どうか安らかに。新たな無限の生の充実を祈りつつ、合掌。。☆彡

   

     (計 3282字)

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四角形や丸の「真ん中」に正三角形を配置するデザイン(YouTubeほか)、長さ、重心、三角形分割錯視を考慮した視覚調整

ブログの書き過ぎが2週間続いてるので、今週は制限字数15000字を厳守しよう。残り1155字しかないけど、ちょっと興味深い内容だと思うし、数学的に正確な記述はネット上にほとんど見当たらない。

    

キッカケは、最近ハマってる画像紹介アプリ・ピンタレストのお勧めの1つ。ピンタレストは、インスタと違って、あらゆる所から様々な画像を借用・表示して来るから、ハズレも非常に多いし、著作権も気になるけど、意外な面白い画像の提示もある。

   

無料で広告も少ないから、100枚中、1枚でも当たれば十分。個人を特定できる情報は何も入力してないから実害もない。注意すべきは、たまにある怪しげな外部リンクだけ。

   

   

     ☆   ☆   ☆

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先日お勧めして来たのは、YouTubeのロゴのデザインに関する解説サイト。私がちょっと前、形が似てる錯視立体の画像をクリックしたからだろう。筆者は Balraj Chana 氏。

   

「optical illusion」、視覚的な錯覚。英単語のopticalは、光学的という意味もあるけど、ここでは視覚的と訳すのが内容的に正しい。11個の内の最初がこれだった。

   

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上図は本物のロゴで、「視覚的な中心」を考えたデザイン。実は、大きな長方形に対する正三角形の位置は、図形の横幅の長さから計算した「真ん中」から少し右にズレてるけど、人間の目には真ん中にあるように見える。

    

   

     ☆   ☆   ☆

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それに対して、上図は、横幅の長さから計算した真ん中。大きな長方形の真ん中に、正三角形の真ん中を合わせたもので、人間の目には三角形が左にズレてるように見える。

   

対話型AIのChatGPT-4oにたずねると、正確に話を理解。三角形の右端の先端に目が行くから、そこと四角形の真ん中が近づいてるように見えるのかも・・とかいう説明だった。

  

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続いて上図は、大きな長方形の真ん中に、三角形の重心を合わせた図。別のデザイン系HPはこの重心の利用を勧めてたけど、三角形が右にズレてるように見えてしまう。

   

だから、実際のYouTube(ユーチューブ)のロゴでは、左にも右にもズレて見えないような微妙な配置にしてあるのだというお話。「三角形分割錯視」を考慮した「視覚調整」。

   

   

     ☆   ☆   ☆

私が、画像のピクセル数を画面上でカウントして長さを調べると、確かにそうなってる。ただ、元のサイトの表示とは僅かに比率が違ってた。

   

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なお、同じGoogleのPlayストアの丸いロゴでも、デザイン的に同じ配慮が確認できた。三角形の横幅的な真ん中と、重心との間の微妙な位置が、大きな円の中心に置かれてる。

   

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ちなみに上下方向だと、目には上側が広く感じられるから調整するらしい。今週は計15000字で終了。また来週 ☆彡

   

     (計 1155字)

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