渡邊渚『透明を満たす』の写真の本、詩人・金子みすずの詩集『わたしと小鳥とすずと』&マメの痛みを我慢して11km走

(27日)RUN 11 km,51分42秒,平均心拍 132

消費エネルギー 400kcal(脂肪 112kcal)    

    

WALK 4 km,45分,5800歩

消費エネルギー 200kcal(脂肪 110kcal)

   

    

鳴物入りという表現では全く足りないくらいの注目度になってる、元フジテレビ女子アナ・渡邊渚のフォトエッセイ『透明を満たす』(講談社)。

   

日付けが2025年1月29日になってすぐ、amazonで見ると、いつの間にかkindle電子書籍も追加されてて、無料サンプル配布中。

   

直ちにダウンロードして見ると、言葉は何も無しで、写真のみだった。それだけだと、単なる一般人ブログでも記事にしにくいけど、マニアックブロガーの目線は、細か過ぎて伝わらない所に向かう♪

    

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彼女が読んでる、淡い紫色の表紙の単行本。ギリギリで書名が見えないようにしてあるけど、小さいアルファベットと番号が読み取れた。ISBNコード。「4-88284-070-7」。少し古い本だから、10桁の数字になってる。ちなみに今では、13桁に変更されてるけど、それはここでは関係ない。

    

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     ☆   ☆   ☆

検索すると、直ちに有名な詩人の本だとわかった。『わたしと小鳥とすずと - 金子みすず童謡集』(JULA出版局、1984年)。

     

40年後の今でも販売中で、電子書籍まで出てるから、かなりの人気と言っていい(出版社はフレーべル館に変わってる)。

   

金子みすずは100年ほど前の女性詩人で、小さいもの、弱い物への感受性が繊細で優しい。小学校の教科書にも、何度も採用されてる。私生活には恵まれず、26歳で自殺。

    

渡辺渚の担当医は、この事の意味に気づいてるだろうか? しかも、童謡集の表題作である詩は、死後に残された遺稿らしい。

    

一般男性の目線で金子みすずの写真を見ると、可愛い顔だと思う。そんな事は芸術活動と無関係・・などとは、私は思わない。かなりビジュアル路線で売り出してる渡邊渚が、自分と同一化する対象としても、金子は分かりやすい女性詩人だと思う。

    

話を戻すと、念のため、渡邊渚の写真でも改めてチェックしてみた。ひょっとすると、電子書籍のみの写真かも知れない。電子版だけの特典が20カットあるとの事。今現在はまだ29日の深夜1時だし、紙の本は未確認。

     

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アプリで角度と明るさその他を調整すると、背表紙の書名がはっきり読み取れた。間違いない。

  

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     ☆   ☆   ☆

さて、表題作の「わたしと小鳥とすずと」という詩は、彼女の代表作として、ウィキペディアにも全文が載ってるし、ネット検索であちこちに見つかる。

  

著作権が消滅してることもあって、アマゾンの販売ページでも、本の内容として全文掲載。

  

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わたしは空を飛べないけど、小鳥は走れない。わたしはきれいな音を出せないけど、すずはたくさんのうたを知らない。

  

 「すずと、小鳥と、それからわたし、

  みんなちがって、みんないい。

   

   

     ☆   ☆   ☆

ひらがなの多い、読みやすくて分かりやすい文章で、ささやかな存在の多様性の価値と尊重をうたってる。ただし、金子の遺稿の手帳では、「鈴」は漢字だったらしい。JULA出版局の自筆ハガキセットより。

  

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なお、渡邊渚と小鳥とすずを比べて、どう思うかは、立場によってかなり違うだろう。それもまた多様性だけど、「みんなちがって、みんないい」とまで言えるかどうかは分からない。

   

あまりにも大掛かりな出来事になってしまってるし、「みんないい」という普遍的な肯定からはかけ離れた状況だから。。

    

    

     ☆   ☆   ☆

一方、わたしは小鳥ではなく、小市民アスリート。小鳥より速く走れるとは思う♪ 一昨日(月曜)は、また11km走だけど、ソックスの選択と履き方を間違えたこともあって、途中で左足の親指にマメが出来てしまった。珍しいミス。

  

途中で歩こうかな・・と思いつつ、痛みを我慢して完走。ただ、さすがに元気よく走るのは無理で、ここ最近の好調の中だとイマイチのタイムになった。まあ、頑張った方かも。トータルでは1km4分42秒ペース。気温7度、湿度68%、風速2m

   

心拍計はまたプラス4で補正。マメが痛くてペースを落としたから、心拍も普段以上に低めになった。ウォーキングも4km。これで連続150日の運動。それでは、また明日。。☆彡

   

      

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           平均心拍 最大

往路(2.4km) 12分03秒 122 131

LAP 1(2.2) 10分04秒 133 137

  2   10分02秒 135 140

  3     9分51秒 138 143

復路(2.1km) 9分43秒 137 145

計 11km 51分42秒 132(78%) 145(85%)

      

    (計 1882字)

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蜂飼耳の小説「繭の遊戯」(25共通テスト国語)全文レビュー・書評 ~ 家畜として玉繭で糸を出した蚕の幼虫、成虫で飛び立てたのか

蜂飼耳(はちかい・みみ)という名前も、「繭の遊戯」(まゆのゆうぎ)という小説のタイトルも、読みにくい漢字で、私は聞いたことも見たこともなかった(申し訳ない)。

  

ところが小説を読むと、子どもが語る形式だから、ひらがなだらけで句読点も多い、非常に読みやすい文章。また、過去の日経新聞を調べると、多数の記事がヒット。おまけに現在は、立教大学文学部の教授で、大学の図書館長にも就任したらしい。当初のイメージは激変した。

   

私の周囲に1人もいないこともあって、現代の詩人というと何となく、地味にひっそり孤独に生きてるイメージがある(個人の感想)。ところが、社会的にも見事な成功。今回は遂に、若い頃の短編小説が一気に数十万人の読者を獲得した。印税は入らないが、ベストセラー作家に出世。

    

   

     ☆   ☆   ☆

ということは、まさに、繭の中で現代詩などの遊戯をしてた幼虫が、見事な成虫として羽ばたいたということになる。

   

しかし、蚕(カイコ)というものは、幼虫と糸にのみ価値を置かれる家畜昆虫であって、成虫は野外でも生きていけないらしいし、飛び立つことも出来ないとのこと。

   

作品の中の2匹の幼虫は、繭から出て飛び立つことが出来たのか。全文を読み終えてすぐ、その点が気になった。もちろん、その種の思いは直ちに反転する。

 

読者である自分は、飛び立つことが出来たのか。そもそも、繭とか絹糸で人々の役に立てた存在なのか。私にせよ、今ここで読んでいるあなたにせよ。。

   

   

     ☆   ☆   ☆

何の役にも立たないような一般人ブロガーでも、例えばセンター試験や共通テストの国語に関しては、少しお役に立てている気がする。

    

実際、過去のレビュー(特に小説全文の記事)はかなりのアクセスを頂いてるし、熟読してくださる方もいらっしゃる。コスパ、タイパのいいネタバレ記事としてサラッと読み流している人も大勢いると思う。

     

今回、2025年の共通テストの国語では、終了直後のX(旧 twitter)の投稿を見ると、「おばあちゃん」がキレた「ヒス構文」を面白がってネタにするものが目立っていた。

     

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しかし、私が実際に小説の全文を読んでみると、おばあちゃんは単なる脇役というか、チョイ役。「おじさん」と「わたし」が主人公の物語だ。主人公と語り手の関係というより、テレビドラマでいうW主演のような形になっている。

     

初出は、角川書店(当時)雑誌『野性時代』2005年8月号、p.138~p.144。タイトルの下には、両手とオカリナのイラストが挿入されてた(立川綾子)。オカリナには糸が付いていて、蚕の幼虫が糸を出してるようにも見える。

     

20年近く前ということもあって、ほとんど図書館にも置かれていないし、ネットでも流通していない。amazonの古書でも取り扱いがなかったし、カドカワの公式サイトでも検索範囲からギリギリで外れていた。

            

下はamazonより。野「生」時代ではなく、野「性」時代なので、念のため。

   

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     ☆   ☆   ☆

2つ上の縮小画像で、小説タイトルの右側には、「8月の極上てのひらの物語」と書かれてる。当時のこの雑誌は、両手ですくい上げたような原稿用紙10枚の短編小説を連載していたようで、30人分まとめた単行本が2006年に出版されていた

    

極上掌篇小説』。この中に『繭の遊戯』も収録されているが、元の発表作品との違いは未確認。私は初出しか確認してないので念のため。加筆・修正の可能性はある。p.211~p.220に掲載。

(☆追記: 単行本を確認。初出の雑誌との違いは、漢字のふりがなだけ。新たにつけられてたり、前のが削られてたり。)

    

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当時の雑誌巻末の作者プロフィールには、「・・身の回りの情景や心ふるわす書物を、繊細で鋭敏な語感と言葉で綴ったエッセイ『孔雀の羽の目が見てる』も好評」と紹介されていた。1974年生まれ、早稲田大学大学院・修士課程終了。中原中也賞ほか、受賞歴も豊富。

   

今現在、誰も書いてなさそうな小ネタ情報を書き添えておくと、彼女は「耳」がやや大きい(or長い)ようにも見える♪ 本人がペンネームの由来(本名?)をどう説明しているのかはともかく、無意識的には自分と「耳」が深く結びついていても不思議はない。根拠というか、参考資料は、2024年7月31日の日経新聞・朝刊の写真。

   

    

   ☆   ☆   ☆

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さて、2025年1月18日(土曜)の共通テスト1日目・国語・第2問では、ギターの話から小説の引用がスタート。最後は、楽器のオカリナをおじさんが自作してバザーで売るという話が出た所で終了。上図はいつものように、河合塾の共通テスト特設ページより。

       

問題文は長いので、元の小説の全文に近いが、最初の11行と、最後の6行(物語のオチ)だけが省略されていた

  

冒頭の2行は、「いま考えると、そのころおじさんは、まだ三十にもなっていなかったのだと思う」と書かれている。「けれど、五つや六つの子どもにとっては、想像もつかないほど年上の大人」。それなのに、「他の大人たちとは、ちがう匂いがした」。

   

他の大人たちは、遊ぶ時でも「上の空」。でも、おじさん(わたしの母の弟、叔父さん)は本気で遊んでいるし、私も一緒に本気で遊んでいる。

    

ここですぐ、私の頭には、繭の中に2匹の蚕の幼虫がいる姿が浮かんだ。試しに検索してみると、本当にそのような例があって、「玉繭」(たままゆ)と呼ばれているらしい。形や大きさも多少違うとのこと。

  

ということは、この小説のタイトルは、「玉繭の遊戯」でも良かったはず。1つの玉繭に、3匹以上の幼虫が入っていることもあるらしい。「おじさん」、「わたし」、著者(蜂飼耳)、そして、読者である私たちとか、SNSに投稿して遊ぶ受験生とか。

  

   

     ☆   ☆   ☆

話を戻すと、問題文で省略された部分には、「台所やトイレはないその小屋」という一文もある。ということは、「小屋に籠っている」と言っても、すぐそばの母屋(おもや)との行き来はかなりあるのだ。

  

小説の時代設定は、おそらく1970年代くらいの昭和。その頃、30歳くらいの身内の男性が、定職も持たず、家の敷地内の小屋で遊んでいて、食事やトイレの度に母屋に来る。これは姉(「わたし」の母)にとって、かなり目障りなはず。まだ「フリーター」という言葉さえ一般的ではなかった時代らしい

   

「ちゃんと仕事しなさい」、「いつまでも親のスネかじって」。母が怒っても、スルーするおじさん(母の弟)。すると当然、「お母さん、なんとかいってよ」、「おかあさんが甘いからよ」と矛先を変えたくなる。

  

するとおばあちゃん(「わたし」の祖母、「わたし」の母の母)は逆にキレて罵る。「もうわかった、あたしが死ねばいいんでしょ、じゃあ、死ぬよ」。実際には死ぬ代わりに、「豆の殻を剥(む)いた」だけ。私が受験生なら、教室で声を上げて笑ったかも。

     

おばあちゃんは内心では、おじさん(息子)の才能も理解しているのだ。中途半端でお金にならないとはいえ、小屋を自分で作ったし、トラックの運転手もできる。ギターの技術的に難しい曲、『アルハンブラの思い出』も少しだけ弾けるし、インドに旅行する行動力もあるし、ステンドグラスも陶芸も少し作れる。

   

息子は、やれば出来る。いつかは1人で大きく羽ばたいてくれるのでは。。 昭和の母親としては、男の子にそんな儚い期待や希望も抱いているはず。実はそれが意外な形になったのが、最後の省略部分、オチの箇所なのだ。

    

    

    ☆   ☆   ☆

時間が無くなって来たので、その最後のオチに向かおう。物語的に決定的な内容のネタバレなので、ご注意あれ。

    

問題文の最後では、おじさんが、自作のオカリナをバザーで売る考えをわたしに話したという流れになっていた。

   

その後、「オカリナは予想以上に売れ」、おじさんはオカリナばかり作り続ける。

   

しかし、ブームは終了。その後、おじさんは「なにもせず、小屋のなかで眠りつづけた・・・何ヵ月も」。そして、消えてしまったのだ。

  

「突然のことだった。帰らない。どこへ行ったのか、わかりはしない」。

    

  

     ☆   ☆   ☆

たまたまなのか、そのラストの左のページには、「日本ホラー小説大賞」という文字が、黒地に白抜きの不気味なデザインで目立っていた。私はそれを見て、ちょっと背筋が寒くなったが、それはなかなか正しい反応だったと思う。

    

というのも、蚕の幼虫は、繭を出ると生きていけないらしいから。飛べないし、外は外敵だらけ。さらに、繭の中で幼虫から蛹(さなぎ)になると、糸を取るために繭ごと処理されてしまうようだから。

   

本文には書かれてないものの、実はサナギのように何も作らなくなったおじさんは、姪の「わたし」にさえ相手にされなくなったと感じていたかも。色々と作っていた時には、あの子だけは相手にしてくれた。何も作らない自分は、もう誰にも相手にされない。そう言えばあの子は、自分が作った鶴のステンドグラスを見て、「あひるみたい」と切り捨てたし。

   

ふと、冒頭の省略部分の言葉も思い出してしまう。他の大人たちは「上の空」。それは、単なる心理的な「上の空」だが、おじさんは別の意味で「上の空」になったのかも知れない。世捨て人か、世に捨てられた人かはともかく、帰らない人になったのだから。。

   

   

     ☆   ☆   ☆

このオチだけ見ると、そんな簡単で単純な終わり方なのか・・と思われるかも知れない。

  

しかし、改めて全体を見直すと、周到に「死」のイメージや伏線が散りばめられていることに気づく。「上の空」、「死ねばいいんでしょ。じゃあ、死ぬよ」、お香、仏壇、あひる(飛べない鳥)。

  

最後の直前に登場するオカリナも、語源的にはガチョウのこと。つまり、これも要するに、飛べない鳥なのだ(生物学的にはそうは呼ばないらしいが)。

    

ちなみに、格闘技好きの私としては、小説のタイトルの「遊戯」という漢字の言葉を見て、『死亡遊戯』というタイトルの映画があったなと思い出す(見たことはない)。今でも世界中で人気がある、カンフー映画のスター、ブルース・リーの死後の公開作品。リーの死が72年、『死亡遊戯』が78年だから、この小説の時代設定と合っている形になる。

     

    

     ☆   ☆   ☆

一方、語り手である「わたし」はおそらく今、昔のおじさんと近い年頃だろう。実は、この作品を発表した時の著者・蜂飼耳も、ほぼ同年代

   

「満足と孤独。しのびこんだ蛾が、押せない窓を押して暴れ、しきりに乾いた音を立てる。そのとき、わたしはなにかを、教えられていたのだ。」

    

自分の世界にこもって遊ぶと、外に出れなくなるだけでなく、狭い世界の中で他の人とぶつかり合うことにもなる。

  

「いいと思わないものを、いいとはいえない。いってはいけない。これで嫌われるのなら、それはそれでしかたない」。

    

そもそも、わたしはおじさんより遥か下の存在なのだ。「おじさんの心配をしながら、自分も晴れない霧につつまれた。オカリナどころか、なにも作れない自分は、どうすればいいんだろう」。「他の人たちから見れば意味が薄いことを、自分の熱意だけでつづける。どこへ繋がっていくのか、わかりもしないまま」。

   

   

     ☆   ☆   ☆ 

幸い、著者の文芸的な遊戯は、大学教授の身分、図書館長の地位へとつながった。詩も小説もエッセイも評価された。結果的に、他の人達から見ても意味が生じた。

  

しかし、おじさんはどうなったのか。「わたし」はどうなるのか。そして、繭の糸の代わりに、ブログの文字を書き続ける自分はどうか。SNSでつぶやきと画像とリンクを作り続ける玉繭の中の人々はどうなのか。そもそも、蚕という生物は自らをどう認識しているのか。

     

小説という狭い枠、繭を超えて、「そういう考えをひろげ」つつ、ブログの遊戯を終わるとしよう。一時的にサナギのように眠った後は、また目覚める。人生という巨大な玉繭の遊戯は、しばらく終わらないのであった。

   

そう言えば、人間とは本質的に「ホモ・ルーデンス」(遊戯する人)だという考えもあったな・・とか思い出しつつ、それでは今日はこの辺で。今週は計19370字で終了、また来週。。☆彡

   

   

      

cf. 牧田真有子『桟橋』(24共通テスト国語)、全文レビュー・書評

    ~ 漁師に拾われた魚、捻じ切れた血の橋を自分で生き始める

   

     (計 4900字)

  (追記55字 ; 合計4955字)

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バナナを壁にテープで貼った現代アート、カテラン「コメディアン」、9.6億円で購入してもさらに高額で転売可能&徒歩8km

(23日)WALK 8km,1時間30分,12000歩

消費エネルギー 360kcal(脂肪 180kcal)

    

バナナを1本、壁にテープで貼り付けただけの現代美術(コンセプチュアル・アート)が、ニューヨークのサザビーズのオークションに出品。620万ドル(約9.6億円)で落札。購入者は中国の富豪で、仮想通貨(暗号資産)の1つの創設者。

   

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この2024年11月20日の出来事を、翌日のネットのニュースで読んだ時、素直な第一感は、バカバカしいというものだった。

     

NHKの報道の下の写真は、サザビーズ提供の全体像(額縁は本来は無さそう)で、美術手帖HPより縮小して引用させて頂いた。2019年の作品、「Comedian」(コメディアン)。タイトルにも風刺が効いてる。どうぞ皆さん、笑ってくださいと。

    

作品もバカげてるし、ほとんど独創的でも技巧的でもない。無名の作者も含めて探せば、似たような作品はかなりあるはず。小学生が夏休みの宿題で作った工作とか。

   

購入者の莫大な資産が仮想通貨から生み出されたというのも、ナンセンス(死語♪)。あぶく銭だから使い道に困ってたんだろう・・といった感じのひろゆきの論評にも共感できる。

    

   

    ☆   ☆   ☆

ただし、その第一感はすぐに消えたのも事実。そんな物が高額で売れるということは、作者自身にも高い価値が認められてるということだろう。イタリアのマウリツィオ・カテラン(Maurizio Cattelan)、もともと有名な変わり者のアーティストだったらしい。

    

仮想通貨がバカバカしいというなら、金(ゴールド)の価格もかなりバカバカしいし、現在の紙幣も単なる紙切れに過ぎない。ただし、それらが価値を持ってることにはそれなりの理由や背景、歴史的事情があるし、自分ですぐに創れるものでもない。流通させて実効性を持たせるのも大変。

   

そして、一番わかりやすいポイントは、どうせそのバナナ作品はもっと高く転売できるんだろうという事。実際、今回の出品者の名前は明かされてないけど、過去の購入者(3者)の金額は数十分の一くらいになってた。個人コレクターが1300万円ほどで2つ。美術館が1600万円ほどで1つ。

      

ということは、5年間の保存期間で、個人コレクターは10億円近くを丸儲けしたことになる。もちろん、元の生のバナナをキープする必要はない。そもそも、展示会で勝手に食べてしまった強者もいるらしいから♪ バナナは食べても交換してもいいようだ。面白い世界ではある。

   

    

     ☆   ☆   ☆

この作品についてネット検索をかけると、最初に目についたのが著作権侵害の騒動。モーフォードという米国のアーティストが2000年に、「Banana & Orange」(バナナとオレンジ)という作品を発表してたらしい。

   

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上は、Googleの画像検索の結果。かなり似てるけど、カテランの方がスッキリしててインパクトがあるのは確か。

   

背景の色(緑か白か)、バナナの傾き、テープの貼り方、枠の縁取りの有無、どれを取っても、カテランの方が良いと思う。と言っても、数千万円以上と0円(価格評価が見当たらず)の違いがあるとも思えないから、モーフォードの悔しさも分かる。

    

結局、裁判の結果も、著作権侵害にはならなかったようだ。下は、英語版ウィキペディアの「Comedian (artwork)」の項目より。本格的な裁判の前の段階で終了とのこと。司法制度が異なるけど、日本なら検察が起訴を取り下げたようなものか。

  

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     ☆   ☆   ☆

一方、転売については、念のために毎度お馴染みのAI、ChatGPT4oに聞いてみた。

   

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要するに、「真正性証明書」(Certificate of Authenticity)と取り扱いの指示(書)があれば、それらを用いて転売可能らしい。バナナの交換のやり方は、指示通りに厳密にすると。実際にはほんの数行の簡単な指示かも知れないけど♪

    

まあ、似たような内容のものでも、権威や知名度があるものが提示すれば高く評価されて、そうでないものが提示すれば無視される。一般人のブログ記事も同様だろう。その意味でも、先行者のモーフォードの気持ちがよく分かるのだ。。

      

      

     ☆   ☆   ☆

一方、単なる小市民アスリートの方は、昨日は8kmウォーキングのみ。珍しくスマホをポケットに入れて、途中で止まってLINEのやり取りをやってた。歩きスマホはほとんどやらないので、念のため。ちゃんと邪魔にならない場所に立ち止まって操作。模範的なユーザー♪

    

どうせなら10km歩こうかな・・と迷ったけど、かなり脚が疲れてるから止めといた。既に連続85日の運動だから。

  

なお、今週は計15299字で終了。また来週。。☆彡

    

     (計 1945字)

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谷川俊太郎追悼、生と性と死の詩「なんでもおまんこ」(詩集『夜のミッキー・マウス』)を読んだ感想、意味の解釈

この記事タイトルに入ってる4文字はもちろん、放送禁止(自粛)用語の最たるもの。私も過去19年間以上、毎日更新してるこのブログで、一度も書いたことはない。

   

1文字か2文字はバツ印の伏字にしようかとも思ったが、日本を代表する大御所の詩人・谷川俊太郎の作品名だから、ネット上にもそのまま溢れてる。実際、私がこの詩を知ったのは朝日新聞デジタルの訃報記事で、しかも執筆者は女性記者だった。

     

pdfファイルでアップされてる学術論文でもそのまま。各種の詩集の類でもそのまま。というわけで、非営利の個人ブログであるこのサイトでも、芸術関連だからそのまま書くことにする。ただし、記事タイトルを含めて2回だけの表記に留めるので、悪しからず。

    

   

    ☆   ☆   ☆

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過激なタイトルの詩は、2003年9月25日発行(発売は23日?)の詩集『夜のミッキー・マウス』(新潮社)などに収録されてる作品。この詩集は、今では新潮文庫として流通してるけど、私は元の単行本を読んだ。文庫本との違いは不明。

   

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目次を十分縮小した画像で引用すると、問題作は7番目の配置で、そこまでどうも一般ウケを狙ったようなタイトルが並んでる。

   

ミッキー、ドナルド、プルートー、アトム、ああ、ママ、なんでも・・。その後の4つの詩のタイトルとはかなり違ってるのが分かる。ちなみに「ああ」という題名の詩も、内容的には「なんでも」に近い性的な作品。

   

ちなみに、amazonのkindle電子書籍のサンプルで文庫本の目次を確認すると、順番は同じようだが、1行空けによる区切り方が少しだけ違うのかも知れない。

   

    

     ☆   ☆   ☆

さて、私が妙なタイトルの詩を知ったのは、下の朝日の記事を読んだ時。朝日は、生前から谷川の記事をよく掲載してた。

   

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「亡くなる2週間前、谷川俊太郎さんは言った 『死ぬっていうのは・・・』」 (田中瞳子記者)

    

無料で読める部分のラストに、まるでその後の有料登録へと誘うような形で、次のように書かれてた。

    

「2023~24年にかけてロングインタビューをした。自身の詩を朗読する動画を撮りたいとお願いすると、詩の選定で一つだけNGが出た。『「なんでもおまんこ」はダメ』。いまの時代、このタイトルでは風あたりが強いだろう。そう思っていたら、続けてこう言った。『この年になると元気に読めないから』」。

   

   

     ☆   ☆   ☆

92歳の巨匠の詩人でなければ、今どき男性が女性記者にそんな話をすると、セクハラ扱いされても不思議ではない。

   

年齢、評価、芸術、この3点に加えて、記者との信頼関係が揃ってはじめて、そんな話も許される。というより、記者はむしろ谷川らしいエピソードとして面白がってるわけだが。

  

とにかく、その「元気」な詩をネットで調べると、詩の全文どころか、本人の過去の朗読動画まで無料公開されてた。著作権に緩い作家ではなさそうだから、特別扱いの作品ということか。それほど元気に読んでるとも感じなかったけど、死の直前だと遥かに元気が衰えてたわけか。

  

21年前のインタビュー記事を読むと、自作朗読をお願いされて元気な詩を読む前に、こう語ってた。「これは一人で読むとなんとなく読みにくいですけれど(笑)、気に入っているんで読みます」。

   

ちょうど、単行本を出した時期だったことは割り引くとしても、やはり数ある作品の中でも本人お気に入りの一つだったのは確かだろう。

   

   

     ☆   ☆   ☆

では、詩の内容について。例の詩の前に、詩集の表題作である巻頭の詩、「夜のミッキー・マウス」について先に触れとこう。詩集のp.10~p.12。初出は『新潮』2003年5月号。

  

冒頭は、「夜のミッキー・マウスは 昼間より難解だ」。簡単に言うと、「陽気なほほえみから逃れて 真実の鼠に戻る」時が「夜」。

  

「地下の水路」を歩き回って、「子孫をふりまきながら歩いて行き ついには不死のイメージを獲得する」。

    

ここにも、生殖としての性行為と種族保存本能のような話があるから、ひょっとして・・と思って、同期の巨匠・大岡信との対話(往復書簡)『詩と世界の間で』(思潮社)をチェックすると、やはり精神分析家フロイトの名前が出てた。年代的にも分野的にも、ユングも含めて、深層心理学の影響は受けてるはず。

    

    

     ☆   ☆   ☆

で、夜の人間、夜の男・谷川俊太郎としての姿をあらわにしてるように見えるのが、例の元気な詩「なんでも・・」

   

詩集のp.30~p.33。初出は『小説新潮』1995年11月号、p.68~p.73。「性の大特集 ポルノか文学か」に含まれた作品の一つ。当時のこの雑誌は、性の特集が多かったようだ。

        

なんでもおま×こなんだよ あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ やれたらやりてえんだよ

   

この場合の「丘」とは、少し離れた乳房というふくらみと、本物の地形の丘とを重ね合わせた表現だと思う。直後の「空に背がとどくほどでっかくなれねえかな」という表現も、無限の空間へと視界を広げつつ、自らの男性性器の巨大化幻想も含ませてる。

   

単なるフィクションとは思えないから、ウィキペディアその他で調べると、どうも3回結婚して、3回とも離婚してるらしい。NHKテレビの訃報だと、子どもに勧めたい芸術みたいな扱いになってたが、実際に読むと、大人の性(特に男の性)があからさまに描かれてる。絵本や漫画(スヌーピーの翻訳)なら、子どもでも安全ということか。

   

   

     ☆   ☆   ☆

空を抱き、花に入る。「あれだけ入れるんじゃねえよお ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお」。

   

つまり、女性に包まれる形での一体化。これも、精神分析的、深層心理学的な発想で、自らの存在全体で「あれ」の代わりに母(または女性)の欲望を満たす、という意味。

  

それと共に、生まれる前か直後あたりの母子未分状態へと退行するという意味もある。過去の満ち足りた幻想的な状態。その後に訪れるのが、母からの独立に伴う「分離不安」とか。

    

さらに風にも触られた後、いよいよ詩の最後となる。それこそ、死。なぜか日本語だと、詩と死の発音は同じく、「し」になってる。ただし、詩人は「しじん」、死人は「しにん」。僅かに死と距離を保つ限界の生こそ、詩人という稀有の存在だろうか。

   

おれ地面掘るよ」。土をかけてもらって、「草も葉っぱも虫もいっしょくた」。そして、「笑っちゃうよ おれ死にてえのかなあ」で終了。

   

   

     ☆   ☆   ☆

この死にたさは、別に即身仏の修行とか、自殺というような能動的なものではない。生=性の原点である母子未分へと遡ると、結局は自分の生命が無い辺りまで行き着くことになる。無意識のうちに、生の限界を超えてしまう。

   

逆に、これは死ではなく、新たな生のあり方だという見方も可能。いわゆるアニミズム的思考で、万物に命が宿ってると考えるなら、万物と溶け合う形も生命のあり方の一つなのだ。普通の人間の生命とは違う形で。

  

逆にアニミズム的な考えを基本にすれば、普通の生や性の見方こそ、フェティシズム(呪物崇拝)なのだ。小さな部分だけを特別視する態度。

      

   

     ☆   ☆   ☆

なお、この詩と同時に95年の雑誌で発表された「ああ」では、女性の性のようなものも描かれて、「ママ」では母親の性(せい=さが)のようなものも描かれてる。合わせて、性と生の三部作とでも言うべきか。

  

ただ、「ああ」や「ママ」で描かれてるのも、あくまで男性・谷川俊太郎にとっての女性、母親のように感じられる。私も男性なので、読んでると恥ずかしさで赤面してしまうような部分もあった。

  

要するに、女性には喜んで欲しい、母親にはいつまでも自分(子ども)を愛して欲しい、という思い。無意識のうちに男児が持ち続ける根源的欲望。父親が(まだ)登場してないということは、精神分析的には「前エディプス期」的な発達段階。

     

60歳を超えた時点でなお幼児期から続く思いを、あえて直接的な言葉で芸術へと昇華させたのが、三部作ということだろう。時間が無くなったので、今日はそろそろこの辺で。

    

どうか安らかに。新たな無限の生の充実を祈りつつ、合掌。。☆彡

   

     (計 3282字)

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四角形や丸の「真ん中」に正三角形を配置するデザイン(YouTubeほか)、長さ、重心、三角形分割錯視を考慮した視覚調整

ブログの書き過ぎが2週間続いてるので、今週は制限字数15000字を厳守しよう。残り1155字しかないけど、ちょっと興味深い内容だと思うし、数学的に正確な記述はネット上にほとんど見当たらない。

    

キッカケは、最近ハマってる画像紹介アプリ・ピンタレストのお勧めの1つ。ピンタレストは、インスタと違って、あらゆる所から様々な画像を借用・表示して来るから、ハズレも非常に多いし、著作権も気になるけど、意外な面白い画像の提示もある。

   

無料で広告も少ないから、100枚中、1枚でも当たれば十分。個人を特定できる情報は何も入力してないから実害もない。注意すべきは、たまにある怪しげな外部リンクだけ。

   

   

     ☆   ☆   ☆

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先日お勧めして来たのは、YouTubeのロゴのデザインに関する解説サイト。私がちょっと前、形が似てる錯視立体の画像をクリックしたからだろう。筆者は Balraj Chana 氏。

   

「optical illusion」、視覚的な錯覚。英単語のopticalは、光学的という意味もあるけど、ここでは視覚的と訳すのが内容的に正しい。11個の内の最初がこれだった。

   

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上図は本物のロゴで、「視覚的な中心」を考えたデザイン。実は、大きな長方形に対する正三角形の位置は、図形の横幅の長さから計算した「真ん中」から少し右にズレてるけど、人間の目には真ん中にあるように見える。

    

   

     ☆   ☆   ☆

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それに対して、上図は、横幅の長さから計算した真ん中。大きな長方形の真ん中に、正三角形の真ん中を合わせたもので、人間の目には三角形が左にズレてるように見える。

   

対話型AIのChatGPT-4oにたずねると、正確に話を理解。三角形の右端の先端に目が行くから、そこと四角形の真ん中が近づいてるように見えるのかも・・とかいう説明だった。

  

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続いて上図は、大きな長方形の真ん中に、三角形の重心を合わせた図。別のデザイン系HPはこの重心の利用を勧めてたけど、三角形が右にズレてるように見えてしまう。

   

だから、実際のYouTube(ユーチューブ)のロゴでは、左にも右にもズレて見えないような微妙な配置にしてあるのだというお話。「三角形分割錯視」を考慮した「視覚調整」。

   

   

     ☆   ☆   ☆

私が、画像のピクセル数を画面上でカウントして長さを調べると、確かにそうなってる。ただ、元のサイトの表示とは僅かに比率が違ってた。

   

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なお、同じGoogleのPlayストアの丸いロゴでも、デザイン的に同じ配慮が確認できた。三角形の横幅的な真ん中と、重心との間の微妙な位置が、大きな円の中心に置かれてる。

   

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ちなみに上下方向だと、目には上側が広く感じられるから調整するらしい。今週は計15000字で終了。また来週 ☆彡

   

     (計 1155字)

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お箸で作れる「レオナルド・ダ・ヴィンチの橋」、出典の文献は『アトランティコ手稿』のスケッチ2枚か(『Believe』第2話)

テレビ朝日の連続ドラマ『Believe』第2話の冒頭で、狩山(キムタク=木村拓哉)が作った割り箸の橋。

   

釘、ボルト、接着剤とか使わず,お箸10本ほど(下図では8本)の組み合わせだけで作った建築模型で、刑務所で同室の仲間3人に、2つの事を示した

  

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まず、自分は特殊な知識・技術を持ってるプロの設計士だという事。そして、割り箸みたいな存在の自分たちでも、みんなで力を合わせれば意外な結果を実現できるということ。

  

ただし、出来る事と出来ない事があるし、出来る場合と出来ない場合の違いもある。まあ、井上由美子の脚本のドラマとしては、脱獄に失敗したと見せかけて、成功するパターンか。失敗してまた刑務所に戻ると、物語が先に進まないし♪

      

        

              ☆   ☆   ☆

さて、今回、一般男性のマニアック・ブロガーの目に留まったのはもちろん、「箸の橋」というダジャレの親父ギャグ・・じゃなくて、あのダビンチの橋の構造。

   

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ところが、そんな情報は以前から、日本も含めて世界中に溢れ返ってた。丸くてツルツルした箸だと作りにくいけど、細くて角ばってるか、平べったい棒状の物なら作りやすい。

    

摩擦力が働くことが一つのポイント。全体を持ち上げて次の1本を差し込む時には、崩れないように指で支える方が良さそう。

   

    

     ☆   ☆   ☆

あと、ダビンチ本人の直筆らしきセピア色のスケッチ(描画)も、一部で地味に拡散してる。メジャーなのは下図で、15本くらいの棒の組み合わせで、アーチ型の構造の橋を作ってる。

  

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それに対して、世界中を探し回っても(ほとんど)見当たらないのが、その橋や図面とレオナルド・ダ・ヴィンチの歴史的な詳細。考案・執筆の年代も、500年前とか大まかな事が根拠なしに書かれてるだけ。

   

私が英語で調べまくっても良い情報が全く出て来なかったし、有料サブスクAIのChatGPT4に聞いても、有益で信頼できそうな情報が全く出なかった。珍しくちょっと時間をかけて調べても(と言っても、十秒レベル)、何も発見できなくて、仕方ないからあまり関係ない情報を示してたほど。

   

ここで私も諦めかけたけど、スケッチの画像検索をかけると、ようやく学問的な情報がヒットした。AI超え♪ まだ今のAIは、画像の認識力・解析力が低いから,人間でも対抗できる。

    

   

     ☆   ☆   ☆

日本語で『アトランティコ手稿』とか訳されてる、メモ付きのスケッチ集、『Codex Atlanticus』の中に、あの橋のスケッチが2枚、入ってるのだ。

    

上で引用した画像は、1495年の物とされてる(おそらく推定の年代)。

   

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その後、1508年にも、作りかけみたいな感じのスケッチを残してた。

   

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    ☆   ☆   ☆

この手稿はあちこちで無料公開されてるけど、芸術的で凝ったページ作りだから、見て探すのは面倒。私も、一度は見れたのに、今は見れなくなってる。

   

(追記:キーボードを使うと、また見れた。タブレット単体だと操作しにくいのかも)。

  

ただ、出典となる文献と年代を特定したから、もう十分ということにしとこう。発掘するだけでも大変だった。ホントは2枚目の画像のメモを解読したいのに・・とか思いつつ、今日はそろそろこの辺で。。☆彡

    

     (計 1350字)

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「美人局」(つつもたせ)の語源・出典、中国・宋代『武林旧事』第6巻、AIによる翻訳と解釈(ChatGPT4、Google)

前にも書いたけど、私が田舎から都会に出て来て、すぐに学んだ事の1つは、知らない女性との接近には注意すべきということだった。出て来たばかりの少年のことなど、ほとんど誰も知らないはずなのに、1人の女性が誘いかけて来た。

   

世間知らずの少年でも、流石にこれはお金目当てだろうと思ったけど、私自身はお金を持ってないから取られようがないし、当時は武闘派で、足も今より遥かに速かった。3人くらいなら相手になるし、多ければ走って逃げるつもりで、待ち合わせ場所に到着。

 

すると、口の達者な美人のお姉さまが登場。本題はなかなか口にしなかったけど、要するに、数十万円の英語教材の営業だった。ローンを組めば、月々の支払いは数千円だから大丈夫だと。私の名前と連絡先をどうやって知ったのかは不明。こっそり闇の業者から特殊な名簿を買ったということか。

   

しばらく巧みなセールス・トークと強烈な目力を味わった後、何とか断って帰宅。今、思い返すと、最初にいい社会勉強をしたと思う。世の中、そうそう上手い話はない。

   

女性と金儲け話には要注意☆ 男の人生の基本だろう。現代社会のあれこれを見ても、あらためてそう実感する。女性にとっては、男性と金儲け話と美容・ダイエット関連には要注意といった感じか。厳しい減量から摂食障害になって、万引きで逮捕された有名女性マラソンランナーの話も有名だ。。

    

   

     ☆   ☆   ☆

さて、昨日(2024年3月7日)報道された、男子中学生と女子中学生の逮捕(他に少年1人、児童相談所に通告)。事件は、2月12日に発生したらしい。

  

SNSで少女と知り合った男子大学生(3年、22歳)が大阪で待ち合わせしたところ、男子中学生2人から現金を奪われそうになって、逃げ回ってる内に、4階建てビルの屋上から転落死したとのこと。下の現場映像はMBSより。

   

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なまじ、6階から隣のビルの屋上への飛び降りは成功したから、さらに続けて地上へ飛び降りてしまったのかも。写真からも分かるように、2回の飛び降りは、難度(高さ)がかなり違ってる。

   

同じ男として、何とも残念な事件だ。「もし容疑がほぼ事実なら」、凶悪な中学生3人が論外なのは当然。ただ、大学生にも、少なくとも写真のビルの6階という場所が怪しすぎておかしいと気づいて欲しかった。22歳だと、「美人局」(つつもたせ)という犯罪行為を知らなかったのかも。ともあれ、合掌。。

    

  

     ☆   ☆   ☆

さて、美人局については、今まで何度か触れてるけど、語源というか、出典とされる文献を調べたことはなかった。たまには、中国の古典的な文献を見ておこう。今では、AIの能力も格段に上がってるから、手助けしてもらえるはず。

   

小学館『日本国語大辞典』その他によると、出典は中国・宋代の『武林旧事』。検索すると、前にも何度か使ってる、原文公開サイトがヒットした。「中国哲学書電子化計画」。美人局で検索すると、第六巻の下の箇所だけがヒットした。この検索という機能を使えるのが素晴らしいのだ。紙の本だと、言葉を見つけ出すのは大変。

   

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私が自分でこれを読むと、「世の中にはいろんな人がいる。例えば美人局は少年を誘惑する」といった感じになる。もちろん、細かい事は分からないし、自信も実力もない。

   

結果的にその読解はそこそこ当たってたけど、どこまでが美人局の説明なのかはハッキリしなかった。上の引用の後もしばらく文章が続くから。

    

  

    ☆   ☆   ☆

そこでまず、Google翻訳を使用。コピペで入力すると、次のような日本語訳が出力された。

   

「広大な地域には、多くの人々、多くの怠け者や狡猾な人々、多くの本物の弟子たちがいます。 売春婦を妾として使用して若者を誘惑しトラブルに陥れる、いわゆる美人局があり、内閣賭博局は賭博やギャングを通じて金を騙し取るために利用され、水利局は役職、昇進、便宜、異動を求めるために利用される。 、訴訟、取引等、名誉を目的とした行為、売名行為、財産の漏洩等。 また・・・」

   

まずまずだけど、今一つかなと私は感じた。最初の文の末尾は「います」なのに、次の文の末尾は「される。、」。文体が統一されてないし、「。、」という記号の使い方は日本語に無い。内容的にも、「多くの本物の弟子たちがいます」という部分はおそらく誤訳に近いと思われる。

   

    

     ☆   ☆   ☆

そこで次に、毎度お馴染み、ChatGPT(有料model4)を使用。流石に、こちらの方がこなれた日本語になってる。グーグル翻訳は辞書的な直訳に近い感じに見えるけど、チャットGPTは文脈を考慮した滑らかな日本語にしてるのだ。

   

広大で人々が溢れる地区では、怠け者や悪党が群れを成し、真に多くの弟子たちがいます。いわゆる美人局では、娼婦を側室に見立てて少年を誘惑し、賭博場ではカードゲームや団体行動で金を騙し取ります。また、・・・

    

ただ、依然として3つの疑問が残ってるから、質問してみた。まず、1つ目。「真に多くの弟子たち」。実は先に、英訳させた時には、「who have gathered in large numbers」となってた。これだと要するに、「多くの人々」という意味。

   

この点を尋ねると、やはり「本当に多くの人々がいる」といった意味らしい。それなら、後の文脈とも合ってるし、理解しやすい。例えば、美人局を行う悪人たちもいるし、他にもいろんな人がいると。

   

   

     ☆   ☆   ☆

続いて、「美人局」の説明はどこまでなのか? これは予想通り。「娼婦を側室に見立てて少年を誘惑し」の部分で終わり。その次からは、別のいろんな人々の話に変わってる。

   

では最後に、「娼婦を側室に見立てて少年を誘惑し」とは、どうゆう意味なのか? こちらも、私の解釈で合ってた。誰か、他の犯罪者が、娼婦を使って、あたかも少年の妾にするかのように誘い込み・・ということ。

  

従って、この「武林旧事」での美人局の説明は、現代日本の美人局の意味とぴったり合ってることがわかった。もちろん、AIが正しいとは限らないけど、この件に関しては正確だと思う。語学やプログラミングは得意なのだ。

     

   

    ☆   ☆   ☆

なお、「」という言葉はおそらく、役割とか女官という意味だと思う(漢字ぺディアの説明)。日本語で使う場合、「局部」という意味も込めてるような印象もあるけど、少なくとも中国語の出典にそんな意味は入ってない。

   

とにかく、注意が必要なのだ。誘われる側だけでなく、誘う側も要注意! たかが数万円~数十万円程度のお金を奪い取ろうとして、人生を棒にふることになる。自分自身だけでなく、家族の人生まで。

  

それでは今日はこの辺で。。☆彡

    

     (計 2709字)

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牧田真有子『桟橋』(24共通テスト国語)、全文レビュー・書評 ~ 漁師に拾われた魚、捻じ切れた血の橋を自分で生き始める

最初に書いておきたいのは、この記事は続編だということ。2024年の共通テスト・国語が終了した半日後に、問題文だけを見た軽い解説をアップ。この1週間でかなりのアクセスを頂いた上に、紹介リンクもいくつか付けて頂いたようだ。

   

 船ではなく、枠のない海の波を係留する桟橋を夢見る少女〜牧田真有子の小説『桟橋』(24年・共通テスト・国語)

   

その後、私は小説の全文を読んだので、これから書くこの記事は「小説全文」レビュー、全体の書評・感想になる。

   

   

    ☆   ☆   ☆

ただし、設問の参考資料とされていた太田省吾「自然と工作」は、まだ読んでない。これについても、近日中に読むことが出来れば、この記事にコメントを追記する予定。

  

個人的にはむしろ、カフカの短編小説との関連の方が興味深い。難解で奇妙、幻想的で多義的な作品の数々で知られる世界的な男性文学者・カフカ。牧田の意識には無かったとしても、無意識的に過去の読書体験が反映されているような気がする。

    

牧田の『桟橋』は、カフカの『橋』を題材にして加筆した女性的小説だろう。カフカの『掟の門』へのオマージュ(敬意を込めた模倣)もまじえて、ややポジティブな方向性を持たせた改作。

  

なお、以下の内容は当然、ネタバレ的なものになる。おそらく、まだ全文を読んでない読者の方が大半だろうから、先に自分で全文を読んでみることをお勧めする。図書館、古本、メルカリ、国立国会図書館の遠隔複写サービス・・・etc.。いろんな手段で読むことが可能。おそらく、私の読みとはかなり違った体験ができるはず。

  

     

     ☆   ☆   ☆

て、『桟橋』の初出雑誌『文藝』2017年・秋季号(第56巻・3号、河出書房新社)では、p.152-p.165までの全14ページ(上下2段組)が掲載箇所。そのうち、共通テストの問題文の位置は下図のようになってる。文芸誌なので、文章は縦書きで右から左に進む。

   

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上図だけ見ると、問題文は全体の7分の1強に見える。しかし、1ページ目の右半分は、大きな活字の題名と著者名。12ページ目の左端は広告。最後の14ページ目では、下段の多くが空白になっている。だから実質的には、問題文は全体の6分の1くらいになる。

   

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問題文の箇所では、16歳の高校生・イチナ(全文を読むと女子高生だと分かる)が、幼い頃から、8歳上の風来坊の「おば」(問題説明ではカッコ付き)に好意と興味を抱いてることが描かれていた。

   

それは、受験生的には(?)「百合」という言葉で表される女性同性愛的な関係にも見えたらしい。それに対して私は、前の記事で、こう書いておいた。以下、自分で引用しておく。

  

私ならむしろ、女の子のマザー・コンプレックス(母親への複雑な思い)の変化形と呼びたくなる。あるいは、おばの父親的な要素・側面も加味するなら、エディプス・コンプレックス(両親への複雑な思い)のバリエーション

     

実際、問題文の冒頭には、『イチナが幼少期に祖父母の家で親しく接していたおば』と書かれてる。3歳と11歳なら、11歳は母親的な存在だろう。問題の前半では圧倒的に巨大な存在とされてるし、後半でも、おばさんはイチナの母と重なるような形で描かれてるのだ。」 (引用、終わり)

   

   

     ☆   ☆   ☆

女性同士の愛というより、親子の物語。さらに言うと、少なくとも表面的には、母親と娘の関係が中心。

   

この私の読みが基本的に合っていたことは、全文の冒頭を読むといきなり分かった。小説は次のように、重いイメージで始まる。

  

ばさばさした透明のビニール暖簾に一箇所、赤い指紋がついていた。血の跡だった。それが魚の血なのか漁師の血なのか、桟橋から望遠鏡で漁港の作業場を見ているイチナにはわからなかった。ただそれは強くイチナの心をとらえた。授業中に前ぶれもなく指名され、答えを要求されるときのように、十六歳の彼女ははりつめる。」(p.152)

    

私はたまたま、瀬戸内海の小さな漁港とゆらゆら揺れる「浮桟橋」のすぐそばで生まれ育ったので、この光景そのものはよく分かる。実際には、臭いと音・声が加わるし、いろんな液体が流れているので足元にも注意が必要なのだが、ここでのイチナは望遠鏡で見てるので、臭いや音、足の感触まではわからない。ハッキリ見えるのはただ1つ、赤い血なのだ。

   

しかし、漁港の血を見て、漁師の血だと考えたことはないはず。魚の血に決まっている。また、漁港を「望遠鏡」で見たこともない。

       

と言うより、もし見るとしても「双眼鏡」だろう。オペラグラスという言葉は流行ってないとしても、望遠鏡は不自然すぎる。それに対して双眼鏡なら、女子高生がライブ会場(ここでは演劇)に持参しても不思議はないのだ。実際、「ライブ 望遠鏡」で画像検索すると、安くて小さくて可愛い双眼鏡がズラっと並ぶ。あるいは、イチナが持っている「携帯」のズームとか。

     

    

     ☆   ☆   ☆

この謎解きの答は、小説自体には明示されていないが、「望遠鏡」という漢字をよく見れば分かる。

  

 望遠鏡 = 遠くを望む鏡

   

つまり、遠くにある自分の姿を見る手段・道具、装置なのだ。時間的にも内容的にも遠い自分を探す手掛かり。

   

それなら、まだ16歳の女子高生イチナは、魚だろう。では、漁師は? 魚=イチナの血と深く関わる人物、とりあえずは両親しかない(実はおばのイメージも加わる)。ここでは漢字ではなく、音韻的なつながりが出来てる。

    

 漁師 = りょうし ≒ リョウシン = 両親

    

望遠鏡で魚か漁師の血を見たイチナが、急に答えを求められた問題。それは、おそらく幼い頃から何となく微かに感じていた違和感のもと、両親との血筋の問題、血縁関係なのだ。前・言語的な不安、問いかけ。

  

「今の両親」と私は、血が繋がっているのだろうか? もし繋がっていないのなら、私と血が繋がっている「本当の両親」はどこでどうしているんだろうか?。。

   

    

     ☆   ☆   ☆

そう。イチナは実は、今の両親と血がつながっていないのだ。今の両親(りょうしん)は、良心(りょうしん)的に育ててくれているだけ。しかも、それを知らないのは、周囲でイチナただ1人だけ。

    

 漁師 = 両親 = 良心

  

ということは、家族・親族の全体が、素人だらけの劇団ということになる。才能を持つおばを除いて、おそらく大半の劇団員は、あまり演技が上手くないだろう。それで16年間(実は17年近く)もの間、血のつながった家族を演じ切れるだろうか? 誰も一度も致命的なミスをせずに。

     

それが簡単でないことは、現実社会を考えても想像がつくし、小説内でのおばに関する記述でも分かるような気がするのだ。

   

    

    ☆   ☆   ☆

おばの両親は、実は、イチナの祖父母ではない。おばの実の母親は、まだ17歳だった、イチナの「今の母親(を演じる女性)」。だからこそ、おばと母親、「二人の声質はそっくり」なのだ。おばの実の父親は、どこにいるのか分からない「風来坊」の男性。

  

おばはなぜか、幼い頃から「本当のこと」しか表現できなかった。当然、周囲と上手く折り合えない場面が生じて来る。最近なら、つい発達障害とかいう言葉を思い浮かべてしまうような問題児の日々。

   

やがてある時(小学校高学年~中学くらいか?)、最も「本当のこと」を偶然知ってしまう。自分のことだけでなく、イチナの出生・起源の秘密まで。

   

イチナの実の父親は、自分(おば)と同じ風来坊の男性。イチナの実の母親は不明。したがって、「おば」とイチナの本当の関係は、姉と妹なのだ。腹違いの異母姉妹。だからこそ、イチナがおばを「『おねえさん』にすり替えようとする度おじいちゃんから威嚇され」ていた。もうしばらく隠しておきたい秘密の真実だから。

   

本当の家系図は、こうなっている。

    

240123e

 

その話をたまたま聞いてしまったおばは、衝撃を受けた数時間後から、何も知らない自分という役柄を演じ始める。「本当のこと」ではないものを表現し始める。やがて、実の母がおばを産んだ年齢である17歳になって、周囲から全てを伝えられた時にも、まるで初めて知った衝撃の事実のように演じ切れた。その後、劇団まで立ち上げることになる。

   

   

     ☆   ☆   ☆

こうして、「風来坊」という妙な言葉の意味の全体が姿を現して来る。風来坊とは、風と共にどこからともなくやって来る子ども。それは、おば、おばとイチナの実の父親だけでなく、誰よりもイチナのことだったのだ。

    

風来坊の男が、ほとんど説明もなしに、勝手に昔の恋人(イチナの今の母親、おばの実の母親)のもとに置いて行った幼子。あえて、今では避けられる昔のきつい言葉を使うなら、イチナは捨て子。

  

2007年に九州・慈恵病院で運営を開始した「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)でさえ、多くの論争を呼び起こした。まして、イチナの実の父親は、2人の子どもを放棄して、1人目を産んだ女性に無理やり預けている。

   

もし、こんな事実をイチナが知ってしまったら、昔の自分以上に傷ついてしまうはず。だから、おばは、自分の演劇をイチナに見せようとはしない。その演劇の演目の一つは、のっぺらぼうの仮面をつけて、赤い装束で動き回る、恐ろしい踊りだから。何者でもないまま、「自分以内の」血と全身で戦う舞踏=武闘だから。

   

   

    ☆   ☆   ☆

なぜ身内が来ることを禁じるのか? 劇団員の問いに対して、おばは答える。

  

 本当に禁じたいのは姪ただ1人。「橋が捩じ切れるから」、「桟橋になるから」。

    

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上の写真は、佐渡UIターンサポートセンターより縮小引用させて頂いた、「あやめの桟橋」。前の記事に書いた「浮桟橋」ではなく、しっかり作られた桟橋らしい。お世辞抜きで、美しい観光スポットだと思う。

   

桟橋というのは、船の係留に使う施設だが、観光や遊びにも使える。ただ、普通の橋と違って、途中で切れた形をしてる。しかも、広くて深い海の真っ只中で。

  

桟橋の果てで、さらに奥に向かおうとした人は、海に落ちてしまう。それに対して、普通の橋なら、奥に進めば向こう岸に渡れる。イチナにとって、向こう岸とは何か? それは、血の川を挟んでつながっている両親。本当のものと、本当でないもの(偽物)がある。

  

だからこそ、小説の後半、物語の核心に迫る辺りでは、川と「多数の橋」が登場する。劇団の公演の前日、2人で旅行している時に突然いなくなったおばを、イチナが探し回る箇所を引用してみよう。

    

河口には長いがそっけない造りの橋が架かっている。渡る途中、イチナは川の上流へ望遠鏡を向けた。一つ向こうの橋の上を軽トラックが通り過ぎ、その向こうの鉄橋を一両編成の電車が走り抜けていく。さらに先のくすんだ橋梁は両方の袂が鬱蒼と繁った雑木林に埋もれており、その辺りで大きく湾曲する川を、森と岩壁が隠し始める。イチナがいるのはこの川の、最後の橋だ」 (p.160) 

  

今いる橋はなぜ、「長いがそっけない」のか。それは、血が繋がってない両親との疑似的な家族関係だから。一番向こうの橋はなぜ、あまり見えなくなっているのか? 実の両親はほとんど全て不明だから。ここでも「望遠鏡」、遠くにある自分の姿を見る手段が使われているのは、もはや説明不要のはず。

  

この辺り、簡単な精神分析的解釈も可能な表現になっているが、ここでは省略しておこう。

   

        

     ☆   ☆   ☆

その後、イチナは1人で桟橋に向かう。実はもうすぐ、イチナは17歳の誕生日を迎えて、本当のことを知らされる予定なのだ。何となく薄々、感じ取っていた「橋」のそっけなさは、残酷なまでに明確に理解されることになる。

    

そして橋は、向こう岸のない桟橋になる。しかし、血縁の絆が全て消えたわけではない。だからこそ、桟橋で望遠鏡を使って漁師と魚の血を見るイチナの後ろから、行方不明だったおばがやって来るのだ。同じ父親を持つ異母姉妹の姉が。

 

その後の大きなエピソードについては、あえて書かないことにしよう。才能あふれる若い女性にありがちな、血の事件が発生。イチナは1人で、自分の血を生きていく決心をする。その直後に17歳を迎えて、真相を知らされる。

  

さて、彼女の場合は、どんな選択をするだろうか。必ずしもハッピーエンドは約束されてない。「魚」の周りをうろつく「猫」、桟橋の板の裏側からぶつかる「暗い海水」も、小説に描かれていた。現実の厳しさは尚更か。実の母親と久しぶりに会って、予想外のきつい言葉に傷つけられたADHDの男性の話も最近読んだばかりだ(朝日新聞・23年11月6日・夕刊)。

   

   

    ☆   ☆   ☆

最後に一言、カフカの短編小説にも触れとこう。「橋が捩じ切れる」というおばの奇妙な言葉からは、カフカの寓話的短編『橋』を思い出す。画像はTumblrより(Isidre Mones作)。

         

「私は橋だった。・・・彼はやって来た・・・誰だろう?・・・私は知りたかった。そこでいそいで寝返りを打った ━━ なんと、橋が寝返りを打つ? とたんに落下した。私は一瞬のうちにバラバラになり、いつもは渓流の中からのどかに角を突き出している岩の尖りに刺しぬかれた。(完)」 (『カフカ短編集』岩波文庫)

    

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橋が捩じ切れたり、寝返りを打って落下するのはなぜか? それは、表と裏、真逆の2つの面を使おうとすると、無理が生じるからなのだ。イチナの場合、表面的に今の「両親」と仲良く暮らしつつ、裏で実の両親を追い求めると、心にも身体にも過大な負荷が加わることになる。

    

カフカの場合、橋が落ちて死んでしまう。牧田の場合、つながっていた橋が、途切れた桟橋として生き残る。橋は別に、向こう岸とつながっている必要はないのだ。

   

   

    ☆   ☆   ☆

一方、おばの演目は、イチナと自分のために作られたような内容なのに、イチナだけは来てはいけないとされている。この矛盾的な設定は、カフカの『掟の門』に類似している。

   

「掟の門前に門番が立っていた。そこへ田舎から一人の男がやって来て、入れてくれ、と言った。今はだめだ、と門番は言った。・・・何年も待ちつづけた・・・死のまぎわに、これまでのあらゆることが凝結して一つの問いとなった。

  

・・・『この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?』・・・門番がどなった。『ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門はおまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ(完)」 (同上)

   

カフカの場合、男は門の中に入れないまま、おそらく全く納得できずに死んでしまう。カフカ自身も、別に唯一の謎解きの答を用意しているわけではない(長編『審判』第9章参照)。

    

牧田の場合、イチナは劇場には入れなかったけど、内容を知ることは出来たし、自分とおばの特別な関係を何となく感じ取ることも出来た。そして、そこから新たにポジティブな一歩も踏み出せたのだ。

   

    

    ☆   ☆   ☆

実の両親が、愛情豊かに子どもを育てて、明るく温かい家族を築く。平和で古典的な家庭像が、多様性の名や生殖技術、戦争、自然災害などと共にひび割れている現在、牧田真有子の小説『桟橋』は、本当の社会的問題を踏まえた上での、巧みなフィクション、テクニカルな虚構として完結していた。

     

イチナはともかく、「おば」さんにとってはおそらく、それなりに幸せな結末だと思う。風来坊の役者という生き方自体が、風と共に去りぬ。それでは今日はこの辺で。。☆彡

    

   

   

P.S. 2025年1月30日の朝日新聞・朝刊に、共通テストに関する著書・牧田のインタビュー記事が

掲載された。

     

      (計 6167字)

   (追記54字 ; 合計6221字)

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船ではなく、枠のない海の波を係留する桟橋を夢見る少女〜牧田真有子の小説『桟橋』(2024年・共通テスト・国語)

(☆24年1月23日追記: 全文の書評新たにアップ。

 牧田真有子『桟橋』、全文レビュー・書評 ~ 漁師に拾われた魚、捻じ切れた血の橋を自分で生き始める )

   

  

     ☆   ☆   ☆

小説というものは最近、センター試験や共通テストの国語のブログ記事を書く時しか読まなくなってる。基本的には好きだし、コスパやタイパ(タイム・パフォーマンス)が悪いとも思わないが、他の事より後回しになってるのだ。「つかみ所がない」からだろうか。まるで今回の小説の若い「おばさん」みたいに。

       

社会的にも、小説は、芥川賞とか本屋さん大賞とかの目立つ話題しか扱われてないような感もある。まあ、それを言うなら、似たような事が他にも色々と言えてしまうが。例えば、物理学が大きな話題になるのは、ノーベル物理学賞の時だけとか。

     

大学入試の試験問題として小説を読むと、ほとんどの場合、とりあえずは一部分のみを読むことになる。このブログの場合、後で全文を読んで別記事も書いてるが、全文を読むと印象が変わることが多い。というより、印象が良くなることが多いのだ。こんなに出来の良い、面白い小説だったのか、といった感じで。

      

  

     ☆   ☆   ☆

さて、2024年の共通テスト・国語の第2問(小説)は、牧田真有子(まゆこ)の短編小説『桟橋』。雑誌『文藝』2017年・秋季号(河出書房新社)で発表されてる

    

表紙には書かれてないが、56巻・3号。国立国会図書館の目次情報によると、p.152-165。14ページの短編らしいから、問題文はその4分の1くらいだろうか。(☆追記: 全文を確認すると、約6分の1だった。)

   

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おそらく、これが初出でいいのだと思うが、先にどこかの同人誌とかウェブで発表してたのかも(未確認)。翌年には、日本文藝家協会『文学 2018』(講談社)にも収録されてる。2017年のベスト短編小説アンソロジー(選集)。amazonより。

      

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しかし、検索しても情報は僅かで、43歳(または44歳)の現在まで、単独の著作は出してないようだ。私も、名前さえ知らなかったけど、この小説は全文を読んでも面白そうな気がする。好感触。

   

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上の写真は、16年前の2008年、『文学界』(文芸春秋)新人賞の辻原登奨励賞を受賞した時のもの。母校の『同志社大学通信』154号より縮小コピペさせて頂いた。大学院まで行ってるらしい。何気に、洋服もオシャレでユニークに見える。ボーイッシュな顔と髪型に見えるのは、偶然なのか必然なのか、あるいは単なる気のせい、先入観か。。

   

   

     ☆   ☆   ☆

私がGoogle検索すると、最初に目に飛び込んで来た単語は、「百合」。X(旧 twitter)で、受験生たちが(?)そう投稿してるらしい。主人公の16歳の高校生・イチナと、8歳上の若いおばさんの関係が、女性同性愛に見えると。

  

問題文だけ読んで「百合」は言い過ぎだろうと私は思ったが、そんな言葉に触れる機会はほとんど無いので、試しに調べてみた。

   

するとどうも、「百合」という言葉が指す範囲は非常に広くなってるらしい。女性と女性が少し好意的に触れ合うだけでも、百合。つい先日、スマホにインストールしたばかりのアプリ「LINEマンガ」で「百合」を検索すると、ズラッと作品が並んだ。サブカルチャーの世界ではごく一般的な言葉になってるわけか。

    

私ならむしろ、女の子のマザー・コンプレックス(母親への複雑な思い)の変化形と呼びたくなる。あるいは、おばの父親的な要素・側面も加味するなら、エディプス・コンプレックス(両親への複雑な思い)のバリエーション

     

実際、問題文の冒頭には、「イチナが幼少期に祖父母の家で親しく接していたおば」と書かれてる。3歳と11歳なら、11歳は母親的な存在だろう。問題の前半では圧倒的に巨大な存在とされてるし、後半でも、おばさんはイチナの母と重なるような形で描かれてるのだ。

     

ちなみに、問題文だけ読むと、イチナが女性だと確実に断定できる要素はない。ただ、名前と言葉遣い・行動から、おそらく女の子だろうとは思う。生物学的な女性かどうかはさておき。男女の固定的な二分法、二元論が通じにくくなってる、多様性の時代なのだ。

    

    

      ☆   ☆   ☆

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問題文は、いつものように河合塾HPより頂いた。リンク先(保存場所)は産経news。去年は公開が遅かったが、今年は私が21時半にアクセスすると既に問題が掲載されてた。

      

文学だなと感じるのは、後半に出て来る、年上の友人との電話。昔、おばを中心にして、一緒に演劇的なままごとで遊んでた仲間。

  

問題の選択肢には書かれてなかったが、明らかにあれはマウント合戦になってる。自分の方がおばさんと親しい仲だというアピールの闘い。イチナがまず、うちには今、おばが居候してると話すと、「すばやい沈黙」が訪れる。

  

何なら電話代わろうか、とイチナが言うと、友人は、実は自分の所にも居候してたと切り返す。すると「絨毯の糸屑を拾っていたイチナの動きがとまる」。それに続く箇所は、設問に使われてた。

  

言ってしまうと友人は、もう気安い声を出した。『私まで「おばさん」呼ばわりは悪いと思いつつ、イチナのがうつっちゃって』」。

   

「もう気安い声を出した」という文は、傍線部Bだが、その理由を選ばせる時の選択肢5つには、イチナとの競争心やライバル関係が反映されてない。当たり障りのない理由ばかりを選択肢に挙げてるから、選びようがなかった受験生も少なくないはず。

    

これは、幼い姉妹が母親の取り合いをしてるのだ。おそらく友人も女の子だろうから、女同士のプチ・バトル。「気安い」という言葉がしばしば、ネガティブな文脈で使われるもの。ここでのイチナの気持ち的には、「気安く『おばさん』なんて呼ばないで!」とか。

     

   

     ☆   ☆   ☆

今週は制限字数を大幅に超えてるし、時間も無いから、最後に「桟橋」という題名、タイトルについて触れとこう。

  

問題文を読む限り、「桟橋」の具体的な意味はハッキリとは分からない。ただ、Googleで画像検索すると、その意味が分かりやすい気がする。

  

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桟橋とは、海に突き出して、船を係留しやすくするための橋状の構造物。おそらく、「どこからどこまでがおばなのかよくわからない様子があった」のだから、おばは船というより、大きくて形のない海だろう。さらに言うなら、寄せては返す波。今はうちに居候してても、どうせすぐどこかに行ってしまう。ずっと係留して欲しいのに。

   

一方、桟橋としてのイチナ自身も、しっかりした柱に支えられたものではない。桟橋そのものも、波のように揺れ動く不確かな存在。海に浮かんだ桟橋を、浮桟橋と呼ぶらしい。

   

実は私の生まれ故郷では、浮桟橋がすぐそばにあって、子ども達の遊び場になってた。ずっと上にいると、上下左右の揺れで船酔いみたいになるほど不安定な場所で、小さい船とゴツンゴツンとぶつかって波しぶきを上げてた。

    

   

     ☆   ☆   ☆

牧田の情報を探すと、「人が抱く寄る辺なさと、世界が孕む不確かさを、丁寧にすくいあげ描きとる」と書かれてる。早稲田文学編集室より

  

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彼女自身も浮桟橋で、寄せては返す海の波のような世界と触れ合ってるのかも。その僅かな係留こそ、小説というものだろう。

   

設問の「資料」に使われてた演出家・太田省吾の「自然と工作 ── 現在的断章」の言葉を借りるなら、人も世界も、「己れの枠を持たずに生活している」のだ。ただし、人の側だけは、普通は枠への欲望を持ってる。おばさんだけは例外として。

    

なお、今週は計17716字で終了。全文レビューについては、また近いうちに。ではまた来週。。☆彡  

  

   

   

P.S. 2025年1月30日の朝日新聞・朝刊に、共通テストに関する著書・牧田のインタビュー記事が

掲載された。

    

cf. 梅崎春生『飢えの季節』、全文レビュー~戦後の日常・欲望・幻想をユーモラスに描くエッセイ私小説

 誰が、何に、どれほど飢えているのか?~梅崎春生『飢えの季節』(初出『文壇』2巻1号、23年共通テスト国語

 黒井千次『庭の男』全文レビュー~居場所も力も失った高齢男性(家の男)の不安と性的倒錯(窃視症)

 看板の視線への対人恐怖、軽い社交不安障害+限局性恐怖症か~黒井千次『庭の男』(22年・共通テスト・国語

 フィクションとしての妖怪娯楽と、フーコー的アルケオロジー(考古学)~香川雅信『江戸の妖怪革命』(21年・共テ・国語)

 妻、隣人、そして自分・・戦争をはさむ死の影のレール~原民喜の小説『翳』(2020年センター試験・国語

 妻と再会できた夜、月見草の花畑~上林暁『花の精』(2019センター試験・国語)

 自転車というキュウリに乗って、馬よりゆったりと♪~井上荒野『キュウリいろいろ』(18センター国語)

 「春」の純粋さと郷愁が誘う涙、野上弥生子『秋の一日』~17センター国語

 キャラ化されない戦後の人々、佐多稲子『三等車』~16センター国語

 啓蒙やツイッターと異なる関係性、小池昌代『石を愛でる人』~15センター

 昭和初期の女性ランニング小説、岡本かの子『快走』~14センター

 幻想的な私小説、牧野信一『地球儀』~13センター

 鷲田清一の住宅&身体論「身ぶりの消失」~11センター

    

       (計 3582字)

   (追記154字 ; 合計3736字)

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名古屋短大の女子大生が編んだオタク用語の辞書『大限界』(三省堂)、面白すぎて発売前から炎上?♪&13km走、好調

(26日)RUN 13km,1時間03分30秒,平均心拍147

消費エネルギー 580kcal(脂肪 116 kcal)

   

Yahoo!のプチ炎上(?)ニュースを見て、すぐ思い出したのは、しばらく前の朝日新聞の記事。検索すると、1年近く前の記事がヒットした。秋の大学祭の関連ネタだったのか。

  

ここではデジタル版の記事にリンクを付けとこう。2022年11月27日、浦島千佳記者。

   

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     ☆   ☆   ☆

記事タイトルは、「『BTSのグクが好き? 同ペンだ』の意味は? 学生がオタク用語辞典」。

  

BTSと同じく、グクも固有名詞だけど、オタク用語だと誤解する人もいるはず(笑)。他人事か! 「同ペン」とは、同じ人のファンという意味らしい。ペンは、韓国語でファンという意味とのこと。別の象徴的意味も無意識的に含まれてると思うけど、違うの?♪

    

他に、「尊い」=「推し」への最上級の賛辞。あっ、最上級なの? 比較級くらいだと思ってた♪ 「リアコ」=「リアルに恋してる」、「リアルな恋人」。これだと、わりと普通の説明だね。出版までの1年で、ウケを狙って手を加えたわけか。

       

女子大生が作った辞書を、女性記者が記事にしてるから、ちょっと内容的に偏ってる感はある。大学祭で500円で販売したら、初版70部が即日完売したとのこと。129ページ、821語だから、わりと安いかも。

    

    

     ☆   ☆   ☆

一方、今回、私が新たにYahoo!経由で見た炎上ニュース系の記事は、例えばJ-CAST。「特定の方々を侮辱する意図ない」「刊行までにできるだけ改善」。

  

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発売は来月(23年11月21日予定)だけど、早くもSNSでプチ炎上気味らしくて、三省堂が対処に追われてるらしい。ゼミ担当で編者の小出祥子・准教授も大変だろう。ちなみに、元になってる本物の有名辞書『大言海』は、大槻文彦著、冨山房。

   

amazonで見ると当然、『大限界』の方が注目を浴びてて、予約の段階でベストセラー1位になってる。しかも、カテゴリーは単なる「本」だから、全体の1位? 凄い注目度だね。まあ、図書館に入るのを待ってたら、もう流行遅れだろうし♪ 288ページで税込1540円はかなり安い。

     

なお、J-CASTの掲載写真を見た感じだと、例えば「軽率」とか「けしからん」の説明というか、用例が笑えた♪ 「推しのこんな姿観たら、軽率に恋に落ちてしまう・・・」。わざと堅い言葉を使って面白みを出すと。

   

「けしからん! いいぞもっとやれ!」。けしからんは、男が萌え系画像や動画に対して使ってるのをたまに見るけど、女子も使うのか。「ヤバイ」と同様、反語的なポジティブ用法。かなり前からあった気もする。

    

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    ☆   ☆   ☆

一方、単なる小市民アスリートは、昨日も13km走って来た。前日の11km走でかなりスピードを出したから、脚がちょっと疲れてたけど、高校時代の後輩の跳ねるような走りを思い出して、ストライド(歩幅)を拡張。前日に続いて、なまけがちな左脚に力をこめることを意識したら、ハッキリとペースが上がった。

  

トータルでは1km4分53秒ペース。往路のウォーミングアップを除くと、1km4分40秒に接近。いいね♪ 気温16度、湿度81%、風速1m。新・心拍計はまた高めにブレてたから補正。まあ、心拍はホントに高かったと思う。

   

なか、注目の将棋・竜王戦・第3局は、藤井聡太・八冠が予想通り、3連勝! 同学年の対戦相手、伊藤匠・七段がちょっと気の毒になってしまった。それほど一方的な対局内容でもないんだけど、実力で勝負する世界は厳しいね。

   

ブログやネットの世界の競争も厳しいのであった (^^ゞ あと32年の辛抱か・・(笑)とか溜息をつきつつ、ではまた。。☆彡

   

   

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往路(2.4km) 13分05秒 129 144

LAP 1(2.2) 10分24秒 142 154

 2    10分13秒 147 154

 3    10分08秒 153 161

 4    10分04秒 157 163

復路(1.9)  9分36秒 154 162 

計 13km 1時間03分30秒 147(86%) 163(96%) 

    

      (計 1671字)

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