牧田真有子『桟橋』(24共通テスト国語)、全文レビュー・書評 ~ 漁師に拾われた魚、捻じ切れた血の橋を自分で生き始める

最初に書いておきたいのは、この記事は続編だということ。2024年の共通テスト・国語が終了した半日後に、問題文だけを見た軽い解説をアップ。この1週間でかなりのアクセスを頂いた上に、紹介リンクもいくつか付けて頂いたようだ。

   

 船ではなく、枠のない海の波を係留する桟橋を夢見る少女〜牧田真有子の小説『桟橋』(24年・共通テスト・国語)

   

その後、私は小説の全文を読んだので、これから書くこの記事は「小説全文」レビュー、全体の書評・感想になる。

   

   

    ☆   ☆   ☆

ただし、設問の参考資料とされていた太田省吾「自然と工作」は、まだ読んでない。これについても、近日中に読むことが出来れば、この記事にコメントを追記する予定。

  

個人的にはむしろ、カフカの短編小説との関連の方が興味深い。難解で奇妙、幻想的で多義的な作品の数々で知られる世界的な男性文学者・カフカ。牧田の意識には無かったとしても、無意識的に過去の読書体験が反映されているような気がする。

    

牧田の『桟橋』は、カフカの『橋』を題材にして加筆した女性的小説だろう。カフカの『掟の門』へのオマージュ(敬意を込めた模倣)もまじえて、ややポジティブな方向性を持たせた改作。

  

なお、以下の内容は当然、ネタバレ的なものになる。おそらく、まだ全文を読んでない読者の方が大半だろうから、先に自分で全文を読んでみることをお勧めする。図書館、古本、メルカリ、国立国会図書館の遠隔複写サービス・・・etc.。いろんな手段で読むことが可能。おそらく、私の読みとはかなり違った体験ができるはず。

  

     

     ☆   ☆   ☆

て、『桟橋』の初出雑誌『文藝』2017年・秋季号(第56巻・3号、河出書房新社)では、p.152-p.165までの全14ページ(上下2段組)が掲載箇所。そのうち、共通テストの問題文の位置は下図のようになってる。文芸誌なので、文章は縦書きで右から左に進む。

   

240123a
     
  

上図だけ見ると、問題文は全体の7分の1強に見える。しかし、1ページ目の右半分は、大きな活字の題名と著者名。12ページ目の左端は広告。最後の14ページ目では、下段の多くが空白になっている。だから実質的には、問題文は全体の6分の1くらいになる。

   

240123d
    

問題文の箇所では、16歳の高校生・イチナ(全文を読むと女子高生だと分かる)が、幼い頃から、8歳上の風来坊の「おば」(問題説明ではカッコ付き)に好意と興味を抱いてることが描かれていた。

   

それは、受験生的には(?)「百合」という言葉で表される女性同性愛的な関係にも見えたらしい。それに対して私は、前の記事で、こう書いておいた。以下、自分で引用しておく。

  

私ならむしろ、女の子のマザー・コンプレックス(母親への複雑な思い)の変化形と呼びたくなる。あるいは、おばの父親的な要素・側面も加味するなら、エディプス・コンプレックス(両親への複雑な思い)のバリエーション

     

実際、問題文の冒頭には、『イチナが幼少期に祖父母の家で親しく接していたおば』と書かれてる。3歳と11歳なら、11歳は母親的な存在だろう。問題の前半では圧倒的に巨大な存在とされてるし、後半でも、おばさんはイチナの母と重なるような形で描かれてるのだ。」 (引用、終わり)

   

   

     ☆   ☆   ☆

女性同士の愛というより、親子の物語。さらに言うと、少なくとも表面的には、母親と娘の関係が中心。

   

この私の読みが基本的に合っていたことは、全文の冒頭を読むといきなり分かった。小説は次のように、重いイメージで始まる。

  

ばさばさした透明のビニール暖簾に一箇所、赤い指紋がついていた。血の跡だった。それが魚の血なのか漁師の血なのか、桟橋から望遠鏡で漁港の作業場を見ているイチナにはわからなかった。ただそれは強くイチナの心をとらえた。授業中に前ぶれもなく指名され、答えを要求されるときのように、十六歳の彼女ははりつめる。」(p.152)

    

私はたまたま、瀬戸内海の小さな漁港とゆらゆら揺れる「浮桟橋」のすぐそばで生まれ育ったので、この光景そのものはよく分かる。実際には、臭いと音・声が加わるし、いろんな液体が流れているので足元にも注意が必要なのだが、ここでのイチナは望遠鏡で見てるので、臭いや音、足の感触まではわからない。ハッキリ見えるのはただ1つ、赤い血なのだ。

   

しかし、漁港の血を見て、漁師の血だと考えたことはないはず。魚の血に決まっている。また、漁港を「望遠鏡」で見たこともない。

       

と言うより、もし見るとしても「双眼鏡」だろう。オペラグラスという言葉は流行ってないとしても、望遠鏡は不自然すぎる。それに対して双眼鏡なら、女子高生がライブ会場(ここでは演劇)に持参しても不思議はないのだ。実際、「ライブ 望遠鏡」で画像検索すると、安くて小さくて可愛い双眼鏡がズラっと並ぶ。あるいは、イチナが持っている「携帯」のズームとか。

     

    

     ☆   ☆   ☆

この謎解きの答は、小説自体には明示されていないが、「望遠鏡」という漢字をよく見れば分かる。

  

 望遠鏡 = 遠くを望む鏡

   

つまり、遠くにある自分の姿を見る手段・道具、装置なのだ。時間的にも内容的にも遠い自分を探す手掛かり。

   

それなら、まだ16歳の女子高生イチナは、魚だろう。では、漁師は? 魚=イチナの血と深く関わる人物、とりあえずは両親しかない(実はおばのイメージも加わる)。ここでは漢字ではなく、音韻的なつながりが出来てる。

    

 漁師 = りょうし ≒ リョウシン = 両親

    

望遠鏡で魚か漁師の血を見たイチナが、急に答えを求められた問題。それは、おそらく幼い頃から何となく微かに感じていた違和感のもと、両親との血筋の問題、血縁関係なのだ。前・言語的な不安、問いかけ。

  

「今の両親」と私は、血が繋がっているのだろうか? もし繋がっていないのなら、私と血が繋がっている「本当の両親」はどこでどうしているんだろうか?。。

   

    

     ☆   ☆   ☆

そう。イチナは実は、今の両親と血がつながっていないのだ。今の両親(りょうしん)は、良心(りょうしん)的に育ててくれているだけ。しかも、それを知らないのは、周囲でイチナただ1人だけ。

    

 漁師 = 両親 = 良心

  

ということは、家族・親族の全体が、素人だらけの劇団ということになる。才能を持つおばを除いて、おそらく大半の劇団員は、あまり演技が上手くないだろう。それで16年間(実は17年近く)もの間、血のつながった家族を演じ切れるだろうか? 誰も一度も致命的なミスをせずに。

     

それが簡単でないことは、現実社会を考えても想像がつくし、小説内でのおばに関する記述でも分かるような気がするのだ。

   

    

    ☆   ☆   ☆

おばの両親は、実は、イチナの祖父母ではない。おばの実の母親は、まだ17歳だった、イチナの「今の母親(を演じる女性)」。だからこそ、おばと母親、「二人の声質はそっくり」なのだ。おばの実の父親は、どこにいるのか分からない「風来坊」の男性。

  

おばはなぜか、幼い頃から「本当のこと」しか表現できなかった。当然、周囲と上手く折り合えない場面が生じて来る。最近なら、つい発達障害とかいう言葉を思い浮かべてしまうような問題児の日々。

   

やがてある時(小学校高学年~中学くらいか?)、最も「本当のこと」を偶然知ってしまう。自分のことだけでなく、イチナの出生・起源の秘密まで。

   

イチナの実の父親は、自分(おば)と同じ風来坊の男性。イチナの実の母親は不明。したがって、「おば」とイチナの本当の関係は、姉と妹なのだ。腹違いの異母姉妹。だからこそ、イチナがおばを「『おねえさん』にすり替えようとする度おじいちゃんから威嚇され」ていた。もうしばらく隠しておきたい秘密の真実だから。

   

本当の家系図は、こうなっている。

    

240123e

 

その話をたまたま聞いてしまったおばは、衝撃を受けた数時間後から、何も知らない自分という役柄を演じ始める。「本当のこと」ではないものを表現し始める。やがて、実の母がおばを産んだ年齢である17歳になって、周囲から全てを伝えられた時にも、まるで初めて知った衝撃の事実のように演じ切れた。その後、劇団まで立ち上げることになる。

   

   

     ☆   ☆   ☆

こうして、「風来坊」という妙な言葉の意味の全体が姿を現して来る。風来坊とは、風と共にどこからともなくやって来る子ども。それは、おば、おばとイチナの実の父親だけでなく、誰よりもイチナのことだったのだ。

    

風来坊の男が、ほとんど説明もなしに、勝手に昔の恋人(イチナの今の母親、おばの実の母親)のもとに置いて行った幼子。あえて、今では避けられる昔のきつい言葉を使うなら、イチナは捨て子。

  

2007年に九州・慈恵病院で運営を開始した「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)でさえ、多くの論争を呼び起こした。まして、イチナの実の父親は、2人の子どもを放棄して、1人目を産んだ女性に無理やり預けている。

   

もし、こんな事実をイチナが知ってしまったら、昔の自分以上に傷ついてしまうはず。だから、おばは、自分の演劇をイチナに見せようとはしない。その演劇の演目の一つは、のっぺらぼうの仮面をつけて、赤い装束で動き回る、恐ろしい踊りだから。何者でもないまま、「自分以内の」血と全身で戦う舞踏=武闘だから。

   

   

    ☆   ☆   ☆

なぜ身内が来ることを禁じるのか? 劇団員の問いに対して、おばは答える。

  

 本当に禁じたいのは姪ただ1人。「橋が捩じ切れるから」、「桟橋になるから」。

    

240123c

  

上の写真は、佐渡UIターンサポートセンターより縮小引用させて頂いた、「あやめの桟橋」。前の記事に書いた「浮桟橋」ではなく、しっかり作られた桟橋らしい。お世辞抜きで、美しい観光スポットだと思う。

   

桟橋というのは、船の係留に使う施設だが、観光や遊びにも使える。ただ、普通の橋と違って、途中で切れた形をしてる。しかも、広くて深い海の真っ只中で。

  

桟橋の果てで、さらに奥に向かおうとした人は、海に落ちてしまう。それに対して、普通の橋なら、奥に進めば向こう岸に渡れる。イチナにとって、向こう岸とは何か? それは、血の川を挟んでつながっている両親。本当のものと、本当でないもの(偽物)がある。

  

だからこそ、小説の後半、物語の核心に迫る辺りでは、川と「多数の橋」が登場する。劇団の公演の前日、2人で旅行している時に突然いなくなったおばを、イチナが探し回る箇所を引用してみよう。

    

河口には長いがそっけない造りの橋が架かっている。渡る途中、イチナは川の上流へ望遠鏡を向けた。一つ向こうの橋の上を軽トラックが通り過ぎ、その向こうの鉄橋を一両編成の電車が走り抜けていく。さらに先のくすんだ橋梁は両方の袂が鬱蒼と繁った雑木林に埋もれており、その辺りで大きく湾曲する川を、森と岩壁が隠し始める。イチナがいるのはこの川の、最後の橋だ」 (p.160) 

  

今いる橋はなぜ、「長いがそっけない」のか。それは、血が繋がってない両親との疑似的な家族関係だから。一番向こうの橋はなぜ、あまり見えなくなっているのか? 実の両親はほとんど全て不明だから。ここでも「望遠鏡」、遠くにある自分の姿を見る手段が使われているのは、もはや説明不要のはず。

  

この辺り、簡単な精神分析的解釈も可能な表現になっているが、ここでは省略しておこう。

   

        

     ☆   ☆   ☆

その後、イチナは1人で桟橋に向かう。実はもうすぐ、イチナは17歳の誕生日を迎えて、本当のことを知らされる予定なのだ。何となく薄々、感じ取っていた「橋」のそっけなさは、残酷なまでに明確に理解されることになる。

    

そして橋は、向こう岸のない桟橋になる。しかし、血縁の絆が全て消えたわけではない。だからこそ、桟橋で望遠鏡を使って漁師と魚の血を見るイチナの後ろから、行方不明だったおばがやって来るのだ。同じ父親を持つ異母姉妹の姉が。

 

その後の大きなエピソードについては、あえて書かないことにしよう。才能あふれる若い女性にありがちな、血の事件が発生。イチナは1人で、自分の血を生きていく決心をする。その直後に17歳を迎えて、真相を知らされる。

  

さて、彼女の場合は、どんな選択をするだろうか。必ずしもハッピーエンドは約束されてない。「魚」の周りをうろつく「猫」、桟橋の板の裏側からぶつかる「暗い海水」も、小説に描かれていた。現実の厳しさは尚更か。実の母親と久しぶりに会って、予想外のきつい言葉に傷つけられたADHDの男性の話も最近読んだばかりだ(朝日新聞・23年11月6日・夕刊)。

   

   

    ☆   ☆   ☆

最後に一言、カフカの短編小説にも触れとこう。「橋が捩じ切れる」というおばの奇妙な言葉からは、カフカの寓話的短編『橋』を思い出す。画像はTumblrより(Isidre Mones作)。

         

「私は橋だった。・・・彼はやって来た・・・誰だろう?・・・私は知りたかった。そこでいそいで寝返りを打った ━━ なんと、橋が寝返りを打つ? とたんに落下した。私は一瞬のうちにバラバラになり、いつもは渓流の中からのどかに角を突き出している岩の尖りに刺しぬかれた。(完)」 (『カフカ短編集』岩波文庫)

    

240123b

   

橋が捩じ切れたり、寝返りを打って落下するのはなぜか? それは、表と裏、真逆の2つの面を使おうとすると、無理が生じるからなのだ。イチナの場合、表面的に今の「両親」と仲良く暮らしつつ、裏で実の両親を追い求めると、心にも身体にも過大な負荷が加わることになる。

    

カフカの場合、橋が落ちて死んでしまう。牧田の場合、つながっていた橋が、途切れた桟橋として生き残る。橋は別に、向こう岸とつながっている必要はないのだ。

   

   

    ☆   ☆   ☆

一方、おばの演目は、イチナと自分のために作られたような内容なのに、イチナだけは来てはいけないとされている。この矛盾的な設定は、カフカの『掟の門』に類似している。

   

「掟の門前に門番が立っていた。そこへ田舎から一人の男がやって来て、入れてくれ、と言った。今はだめだ、と門番は言った。・・・何年も待ちつづけた・・・死のまぎわに、これまでのあらゆることが凝結して一つの問いとなった。

  

・・・『この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?』・・・門番がどなった。『ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門はおまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ(完)」 (同上)

   

カフカの場合、男は門の中に入れないまま、おそらく全く納得できずに死んでしまう。カフカ自身も、別に唯一の謎解きの答を用意しているわけではない(長編『審判』第9章参照)。

    

牧田の場合、イチナは劇場には入れなかったけど、内容を知ることは出来たし、自分とおばの特別な関係を何となく感じ取ることも出来た。そして、そこから新たにポジティブな一歩も踏み出せたのだ。

   

    

    ☆   ☆   ☆

実の両親が、愛情豊かに子どもを育てて、明るく温かい家族を築く。平和で古典的な家庭像が、多様性の名や生殖技術、戦争、自然災害などと共にひび割れている現在、牧田真有子の小説『桟橋』は、本当の社会的問題を踏まえた上での、巧みなフィクション、テクニカルな虚構として完結していた。

     

イチナはともかく、「おば」さんにとってはおそらく、それなりに幸せな結末だと思う。風来坊の役者という生き方自体が、風と共に去りぬ。それでは今日はこの辺で。。☆彡

    

      (計 6167字)

| | | コメント (0)

梅崎春生『飢えの季節』(23共通テスト)、全文レビュー~戦後の日常・欲望・幻想をユーモラスに描くエッセイ私小説

いきなり個人的な話で恐縮だが、私は市民ランナーなので、ダイエットが必要になる。しかし、ずっとストイックに我慢するのは難しい。昨日も、昼食は抜いたが、夜になって小説の全文を読みながら一気に3食分も食べてしまった。

     

・・・というのは自虐的な軽口で、私に関する事実だ。食べてるだろ!、我慢してないだろ!、とか突っ込みたくなる。2023年・共通テスト・国語・第2問で扱われた梅崎春生(うめざき・はるお)の短編小説「飢えの季節」も、基本的にはそういったトボけた内容なのだ。

     

例えば去年の共通テストの黒井千次『庭の男』みたいに、全文を読むともっと小説らしい異常で劇的なものが描かれてるのかと予想してたが、全く違ってた。最初から最後まで、微笑を誘うような軽妙なエッセイ調の文章が続く。

   

ただ、これが単なるエッセイとかコラムではないのは、長くて詳細な描写で、最低限の一貫した物語(ストーリー)があって、やや分かりにくい非日常的な文学的表現も含んでるから。ストーリーとは、新しい職場に入って辞めるまでの、飢えと食べ物を中心としたエピソードの流れ。

    

   

     ☆     ☆     ☆

それでは、全文を簡単にレビューして行こう。批評というより、文字通りのレビュー、見直すこと。ネット上に(ほとんど)見当たらない正確な書誌情報を含む、長めの個人的感想。

      

私が使ったのは、小説の初出の雑誌である『文壇』第2巻・第1号(前田出版社、1948年・昭和23年1月)と、『梅崎春生全集・第2巻』(沖積舎、1984年・昭和59年)。雑誌は、国立国会図書館デジタルコレクションのデジタル画像でネット閲覧した。

  

なお、共通テスト実施直後の1月15日に、問題文などに関する記事はアップしてある。ただし、その時点では、小説全体の終盤の5分の1しか読んでなかったことになる。

      

 誰が、何に、どれほど飢えているのか?~梅崎春生『飢えの季節』(初出『文壇』2巻1号、2023年・共通テスト・国語)

    

   

     ☆     ☆     ☆

まず、国会図書館のサイトで検索してもなかなか到達できなかった、掲載雑誌の小さなサムネイル画像をお見せしよう。なぜか、この号の画像だけ表示しにくかったが、出版社名を入れて検索し直すとようやく出て来た。

  

230121a

  

これだけ小さい画像だと全く見えないが、実はこの表紙には、鉛筆らしき書き込みがある。数字と英語で、意味不明。それだけを見ても、かなり限られた読者層を対象にした文芸雑誌だろうと想像できる。戦後の混乱期だから、紙にも不自由して、メモ代わりにしたのかも知れない。

     

雑誌の価格は2円。小説本文の記述と合わせると、現在の貨幣価値なら100倍~200倍、200円~400円くらいだろうと推測。現在の文芸雑誌より安いのは、中身が少ないからと考えれば納得しやすい。

   

最後の編集「後記」には、「創刊以来始めての創作特集」と書かれてた。細かい話だが、「初めて」ではなく「始めて」。当時の漢字の使い方だろうか。後記の最後に、「最近の出版事情の不振」とたたかうと宣言してるが、残念ながら2年間しかもたなかったようだ。2年も頑張った、と言うべきかも知れない。

     

最後の後記と出版情報までで、全体は81ページ。梅崎の小説は、60ページから80ページまで、21ページ。最初だけ、原友木(はら・ともき)によるカット(イラスト・挿画)が付いてる。可憐な花の絵で、主人公の「私」が住んでる田舎のイメージだろうか。「私」自身は、その花に似た感じはしない。画家自身は、名前で検索してもなかなか情報がヒットしなかった。

    

前の記事で指摘しておいた通り、雑誌の目次では、「飢の季節」と書かれてる。「飢え」でも「飢ゑ」でもなく、「飢」。ただ、なぜか本文の冒頭の題名は「飢ゑの季節」になってた。正確には、「飢」と「節」は旧字の漢字。作者名の「梅」も、右下が「母」になってる字体。

   

後の全集では、中盤の235ページ上段から255ページ上段まで。偶然なのか必然なのか、雑誌と同じく全21ページとなってる。ただ、ページごとの内容・区切り方は違ってたから、完全に合わせてるわけではない。内容が一字一句、一致してるのかどうかはチェックしてないが、ほとんど同じなのは間違いない。漢字の字体は違ってる。

   

   

      ☆     ☆     ☆

続いて、小説全体の内容について。共通テストの問題文冒頭では、「第二次世界大戦の終結直後、食料難の東京が舞台である」と書かれてる。間違いではないが、ややミスリーディングな(誤解を招きやすい)説明だと思う。というのも、食料自体は一応あるからだ。

      

戦争で食べ物が不足してるのは事実だが、主人公の「私」の周囲にはかなりの食べ物やお店がある。どこにも食べ物がなくて焼野原をさまよい歩くイメージとは全く違う状況なのだ。

  

では、なぜ彼は「いつも空腹」(問題文冒頭の説明)なのか。それは、食べ物を買うお金が無いからなのだ。私は前の記事のタイトルに、「誰が、何に、どれほど飢えているのか?」と書いた。主人公は、確かに食べ物に飢えてるが、その原因はお金が無いから。お金に飢えてるのだ。

    

その意味では、主人公の飢えに、戦争は直接的には関係ない。お金が無くて食べ物を買えない状況は、21世紀・令和の現代日本でも少なからずあることだ。特に去年(2022年・令和4年)からの物価高騰は、格差社会の下側の食事に深刻な影響を与えてる。

   

   

      ☆     ☆     ☆

では、なぜ主人公「私」にはお金がないのか? もちろん、戦後だから困ってる人は非常に多かったはず。仕事や職場も、無くなったり、制限させたりしただろう。

  

「復員後ただちに上京してみると、私がつとめていた会社のあたりは焼野原になっていて、焼け残ったくさむらの中で蟋蟀〔こおろぎ〕がないているだけであった。社はどこに行ったのか判らなかった。こんな具合で私はうやむやの中に失業したのであった」。

  

これが筆者・梅崎の事実なら、会社は東芝ということか。検索をかけると、確かに東芝(当時は東京芝浦電気)の主力工場が戦争末期の空襲で壊滅的な被害を受けたという情報がヒットする。

    

  

      ☆     ☆     ☆

しかし、小説を読む限り、もしその気になれば、お金の問題はそれなりに何とかなりそうな感じなのだ。まず、上京してアパートを借りるだけでもお金を持ってたことになるし、新聞も読んでて、給料をもらう前から片道2時間の電車通勤を続けてる。多めの交通費は持ってるらしいのだ。往復の交通費だけでも、1食分か2食分の食費にはなるだろう。

   

そして決定的なのは、「失業したのであった」と書いた直後に一言だけつぶやいてること。「そして二箇月ばかり売り食いしてあそんだ」。あそんだのか!、と突っ込みつつ、私はつい笑ってしまった。この辺り、明らかにウケを狙った流れを作ってる。さんざん事細かく、飢えの苦しみを書いた後、

  

「失業したのであった。そして・・・あそんだ。だから金銭的な意味では、私は貧窮の底にいたのだ」。

  

漫才のボケのような言葉のつなぎ方になってる。横の相方が、「あそぶなよ!」と突っ込む所だろう。

   

この独特のボケの流れは、肝心の食事の描写にもある。彼の表現だと、「一食」というのが僅かな量の食事で、「二食」「三食」が沢山の量らい。職場近くの食堂で1ヶ月に食べる全体量は、「登録票」で決まってるから、自分はいつも一食だけで我慢して空腹だ。そう強調しつつ、よく読むとこう書いてる。どうもやっぱり、もっと食べてるような気もするのだ。  

     

「私はこらえきれなくて、二食分を買って食べたこともしばしばあったのだ。しかしそうすれば、必ず昼か晩を抜かねば勘定があわぬ筈だった。それがどんなに辛いことであるか、私自身が一番よく知っていた。だから歯をくいしばっても一食分なのであった。このきびしい戒律を自分に課しているつもりでいても、私の登録票はいつも先の日までくいこんでいたのである」。

   

この話を現代の女の子のダイエット話に直せば、こうなるだろう。「ダイエット、きつ~い! 我慢できなくて、やっぱ食べちゃうこともあるんだ。でもそれだと体重が増えちゃうから、必死にいつも我慢してるわけ。まあ、結局、体重は増えてるんだけどね」。

     

食べてるだろ!、と突っ込みたくなる。実際、登録票の一ヶ月分を早めに食べきったとしても、どうも逃げ道が色々とあるようなのだ。まず、遥か遠くの食堂に行かなくても、家主からまとめ買いして自宅に備蓄してる芋を食べれば済むらしい。

  

15円で1貫目(3.75kg)。150倍すると2250円だから、今現在(令和)の値段とほぼ同じ。たまにはタダで芋を御馳走してもらえることもある。家主の保守的で反共産主義的な話に相槌を打つだけで。「私はひとかけらの芋のために、思想をすら売りわたしたといってもよかった」。この言葉、文脈的には全く重みがない。おそらく誇張表現で笑いを誘ってる。真面目な左翼、共産主義者でもないはず。

     

実際すぐ後で、自分(梅崎春生)の先輩にあたる作家T・Iに対する主の悪口にも話を合わせると書いてた。「やはりひとかけらの芋のために、私は芸術家のたましいも売りわたしてしまったものらしかった」。

  

これはもう明らかに、文芸仲間に向けた大げさなジョークだろう。当時の読者はみんな、T・Iが誰なのかも分かるから、余計に笑えるのだ。おそらく、稲垣足穂(いながき・たるほ)。雑誌の目次の右側に、著作『桃色のハンカチ』の広告まで載ってる(序文は江戸川乱歩)。

  

有名な先輩に対する悪口に相槌を打ちつつ、タダで呑気にイモを食べてる梅崎のとぼけた姿を思い浮かべて、読者は微笑むのだ。T・Iに対する主の悪口も過激。「もっとも役に立たぬ人間」、「あんなのが芸術家だというんかね」、「読んだことはないけんど、どうせろくな小説じゃあんめえよ」。

  

ちなみにT・Iは、「私」の前の住人で、食事付きの恵まれたアパート契約。それに対して、「私」は食事なしの貧しい契約。T・Iでさえバカにされてるということは、私はもっとバカにされてることをも意味してるのだ。この辺り、よく読むと、自虐的なユーモアに満ち溢れてる。

    

話を食べ物の調達に戻すと、芋もあるし、芋を買うお金もある。さらに本当に困ったら、家主の芋を盗むとか、近くの柿を盗むこともできて、実際たまにやってるのだ。盗みに、やり切れない感じがあると言いつつ、深刻な反省は感じられない。というのも、内心の葛藤や苦悩の何倍も、盗んだ食べ物の魅力を書き連ねてるから。

  

泥棒の話の最後も、明らかにふざけた文章になってる。柿の持ち主が、最近、柿が誰かに盗まれてるという話を「私」にするのだ。「『あんたもな、そんな奴めっけたら、遠慮なくしょょぴいて呉んろよな」(注.原文のまま) 私はだまってうなづいた。うなずくより手がないではないか。私はそのとき、お猿みたいにまっかな顔をしていたに違いないのだ。」。

  

反省というより、ヤンチャしたネタを武勇伝にして面白おかしく話してる印象だろう。

    

   

      ☆     ☆     ☆

結局、食べ物に飢えてるのは、お金がなくて、お金に飢えてるから。しかし更に、なぜお金に飢えるのかというと、小説の内部には書かれてないことが原因だろう。既に酒を飲んでカロリー摂取してる可能性もあるが、そこは時期的に確認できてないので保留しておく。

     

それより、この小説自体も含めて、小説の執筆に時間と労力をかけてるからだと思われる。準備となる長い空想も含めて。辞めるまでに会社で働いた期間は短いし、通勤時間を除けば、勤務時間も短め。日曜もヒマ。そもそも、会社に入るまでは遊んでるし、会社もすぐ辞めてる。

    

ということは、創作も含めて、空想・虚構・フィクションに飢えてると考えることも可能。実際、この小説には空想・夢想・幻想の類が最初から散りばめられてるのだ。冒頭、朝の目覚めの描写はこうなってる。起き上がる前に空腹で目覚めて、布団の中で色々と思い浮かべてるらしい。

  

「もはや眼覚めたそのときの私の想像に入ってくるものは、先ず白いご飯にあたたかい味噌汁をそえた朝食の幻想であった。・・・ごはんはつぶつぶに真珠のように光っていた。・・・豚肉の煮たものや秋刀魚の焼きたて。・・・鰻の蒲焼・・・」。

  

一連の空想が終わっても、またすぐ始まる。「乳首を唇から外した幼児のように、私はあわてて次の聯想の乳房にしゃぶりつく。また新しい知が湯気や匂いをたてながら、私の幻の食卓に置かれるというわけであった」。

   

  

     ☆     ☆     ☆

具体的な食べ物の空想を見ても、どうも彼はわりと美味しい物を選んでるような感じで、何でもいいからとにかく空腹を満たしたいという感じでもないのだ。「美味しい食べ物」に飢えてる。それは、小説執筆についても言えることだろう。美味しい小説を書きたい。だから実際、この小説も美味しい内容になってる。戦争の悲惨さや残酷さよりも、平凡な市民の食欲の欲深さ。

     

なお、上の乳首の表現の他にも、性的な表現が2ヶ所ある。「食物の幻想のオナニー」。「しょっちゅう見かける顔のひとりに二十歳位の若い女がひとりいて・・・いつも青いもんぺを穿いていたが、どういう訳かそれが少し破れていて、下着をつけていないのか裸の尻の一部分がむき出しにのぞかれた。いつまで経っても縫う気配もなかった」。

      

精神分析的に、性的欲望を中心に解釈し直すことも可能かも知れないが、さすがにこれだけでは素材が足りないだろう。美味しい性的対象に飢えてるというのも難しい。ただ、まだ若い男性の一人暮らしだから、女性に飢えてるという側面は十分あるはず。

  

少なくとも、悲惨な戦争でみんな食べ物が無くて飢えに苦しんでた・・というような悲しい歴史とは程遠い、軽い語り口の滑稽な小説だった。人によっては、あまりに悲惨だからこそユーモアでまぎらわせるしかなかったと受け取るのかも知れないが、この作品に限っては、日常のユーモラスな観察・表現の方が本質だろう。別の作品なら、戦争の生々しい話も色々と書いてるとの事。

    

   

     ☆     ☆     ☆

いつの間にか6000字も書いてしまったので、もう終わりにしよう。なお、私が一番笑ったのは、職場の先輩の女性・長山アキ子との英語論争。アキ子は「わざわざ自宅から物すごく大きな英和大辞典を・・・あの満員電車にもまれながら抱えて来」て、私を言い負かしたらしい。

   

東大卒の作家の梅崎を力づくで言い負かす、大辞典持ち運び女。これまた只者ではないし、大辞典を買うだけのお金は確保してたのだろう。弁当は「小さな芋のきれはしだけ」で我慢しつつ、争議のリーダーになって会社を解雇されるような側面も持ってた。

  

ともあれ、今日のところはこの辺で。。☆彡

    

       (計 5944字)

| | | コメント (0)

誰が、何に、どれほど飢えているのか?~梅崎春生『飢えの季節』(初出『文壇』2巻1号、2023年・共通テスト・国語)

☆追記: 小説全体を読んだ感想記事を別に新たにアップした。

 梅崎春生『飢えの季節』、全文レビュー~戦後の日常・欲望・幻想をユーモラスに描くエッセイ私小説 )

   

    

    ☆     ☆     ☆

10年ほど前から、センター試験(現在は大学入学共通テスト)の国語の記事(特に小説関連)を書き続けて来た。

   

その中でも、アクセス数や熟読者数が多い記事が2種類、4本ある。去年(2022年)の黒井千次『庭の男』の記事(試験記事全文レビュー)と、18年の井上荒野『キュウリいろいろ』の記事だ(試験記事全体レビュー)。

      

この2つの小説には共通点がある。普通に問題文だけを読むと正直、あまり面白くはない。前者は変な話で、後者は平凡にも見える。しかし、小説全体を読んだり、深く読み込んだりすると、非常に興味深いのだ。ポイントはどちらも、小説の題名に表れてる。

    

「庭の男」とは誰で、何者なのか? なぜ、庭にいるのか? 「キュウリ」とは何のメタファー(比喩)で、「いろいろ」とはどんな種類なのか? もちろん、そうした考察・分析は、大規模の受験のレベルを超えたものになる。センターや共通テストでは、当たり障りのない「普通」の答を素早く求める力が求められてるのだから。

    

そして、その「普通」とは、基本的には出題者や学校・塾・予備校の教師が決めて、それを素直に学んだ生徒が繰り返していくことになる。コピペ的な再生産。しかしそもそも、小説とか小説家というものは、普通の枠を大幅にはみ出したもののはずだ。

   

その典型が、去年の小説。問題ではカットされたり、スルーされたりしてたが、実は、特殊な性の問題が小説全体で展開されてたのだ。その刺激的な部分を取り除いたのが、試験問題と正解になってた。

  

ちなみに問題・正解・分析は、河合塾の速報ページより。どの予備校・マスメディアでも、夜遅くの22時過ぎになって、ようやく公表。

    

    

      ☆     ☆     ☆

今回の小説「飢えの季節」も正直、普通に読むと面白くはないし、目新しさもない。ロシアがウクライナへ侵攻している現在、戦争の悲惨さを具体的に語ることは教育的に重要だろうが、それだけでは小説独特の価値には届かない。

   

これは私の「個人の感想」というより、かなり多くの感想だろう。ツイッターのネット民たちも、盛り上がってないのだ。せいぜい、主人公の「私」は女性かと思ってたら、実は男性だった・・とかいう感想が目につく程度。

     

戦争または敗戦の直後、食べ物その他、極度に飢えた主人公が、入社後に「夢」を語ってしまって挫折。退職して、新たな生き方へと向かう。問題文の切り取り方や設問、正解から考えると、出題者サイドは、夢や「新たな生き方を模索しようとする気力」(問6)を強調したいようにも見えるが、おそらく元の小説全体は、その逆の内容だろうと想像する。

    

   

      ☆     ☆     ☆ 

例えば、問題文の中央の一文。「・・・ただ一食の物乞いに上衣を脱ごうとした老爺。それらのたくさんの構図にかこまれて、朝起きたときから食物のことばかり妄想し、こそ泥のように芋や柿をかすめている私自身の姿がそこにあるわけであった。こんな日常が連続してゆくことで、一体どんなおそろしい結末が待っているのか。それを考えるだけで私は身ぶるいした。」

   

唐突に現れた、不気味な感じの老爺は、去年の小説なら、庭の立て看板の男(庭の男)に似てる。それは、自分自身の暗い闇の部分を、強調して可視化させる外的存在なのだ。内部の極端な投影としての現実。共同便所の横のうすくらがりで、寒いのに外套もなく、汚れてやせ細った身体で必死に食べ物にすがりつこうとする人間。「人間というより一枚の影」。

   

金儲け主義の会社を辞めた後(問題文の最後)も、「勇気がほのぼのと胸に」と書いた直後、会社についてこう書いてた。「曇り空の下で灰色のこの焼けビルは、私の飢えの季節の象徴のようにかなしくそそり立っていたのである」。

   

そう。会社を辞めた所で、悲惨な現実は目の前に「かなしくそそり立って」いるままなのだ。自らの無力さを感じさせる、強大な負の秩序として。

   

その強大な壁みたいな限界は、自分の中にもあるかも知れない。夢見ることさえ不自由なほど。あるいは、不自由すぎて僅かな夢を見ることしかできないほど。

    

問題文にある夢は唯一、「緑地帯には柿の並木がつらなり、夕昏散歩する都民たちがそりをもいで食べてもいいような仕組」のみだった。空腹で柿を勝手に食べても捕まらない社会。この夢が「都民の共感を得ない筈は」ないと思いこんでたら、会社では散々の悪評。「ただただ私は自分の間抜けさ加減に腹を立てていた」。

    

なお、これがどの程度「私小説」的な実話を含んでるのか分からないが、作家(著者)もあまり夢や勇気に満ちたリアルライフには見えない。「58年ごろからの心身不調に加えて過度の飲酒による肝硬変のため」、50歳で死去。年齢だけ見るなら、ほぼ当時の男性の平均寿命と思われるが、死に方が気になるところだ。アルコールへの飢えは、別の欲望の歪曲だろう。

    

    

      ☆     ☆     ☆

おそらく、小説の全体を読むと、底なしの暗さがさらに確認できると思うので、今年も後ほど別記事で全文レビューを書こうと思ってる。今日は全文が手元にないし、今週は既に制限字数15000字をかなりオーバーしてしまったので、もう止めよう。

       

なお、小説の初出の信頼できる情報がほとんど見当たらないし、問題文には「一九四八年発表」と書かれてるだけだが、おそらく、雑誌『文壇』第2巻・第1号(1948年、前田出版社)だろう。

     

原題は、「飢の季節」らしい。「え」がないし、旧字を使った『飢ゑの季節』(大日本雄弁会講談社)でもない。雑誌の最後に掲載されてることもあり、元のページ数は不明だが、短編小説なのは確実。

   

230115b

 

マイナーで短命、同人誌的な文芸誌なので、極端にデータが少ない中、他の号の非常に小さいカラー写真なら国会図書館が掲載してた。古書店の一部で扱ってるらしい。

   

230115a

     

ともあれ、おそらくまた1週間か2週間後くらいに記事を書く予定。今週は計16402字で終了。ではまた来週。。☆彡

 

   

  

cf. 黒井千次『庭の男』全文レビュー~居場所も力も失った高齢男性(家の男)の不安と性的倒錯(窃視症)

 看板の視線への対人恐怖、軽い社交不安障害+限局性恐怖症か~黒井千次『庭の男』(22年・共通テスト・国語

 フィクションとしての妖怪娯楽と、フーコー的アルケオロジー(考古学)~香川雅信『江戸の妖怪革命』(21年・共テ・国語)

 妻、隣人、そして自分・・戦争をはさむ死の影のレール~原民喜の小説『翳』(2020年センター試験・国語

 妻と再会できた夜、月見草の花畑~上林暁『花の精』(2019センター試験・国語)

 自転車というキュウリに乗って、馬よりゆったりと♪~井上荒野『キュウリいろいろ』(18センター国語)

 「春」の純粋さと郷愁が誘う涙、野上弥生子『秋の一日』~17センター国語

 キャラ化されない戦後の人々、佐多稲子『三等車』~16センター国語

 啓蒙やツイッターと異なる関係性、小池昌代『石を愛でる人』~15センター

 昭和初期の女性ランニング小説、岡本かの子『快走』~14センター

 幻想的な私小説、牧野信一『地球儀』~13センター

 鷲田清一の住宅&身体論「身ぶりの消失」~11センター

    

      (計 2913字)

   (追記79字 ; 合計2992字)

| | | コメント (0)

黒井千次『庭の男』全文レビュー~居場所も力も失った高齢男性(家の男)の不安と性的倒錯(窃視症)

2022年(令和4年)の大学入学共通テスト・国語・第2問に出題された、黒井千次の小説『庭の男』。出題された範囲だけ読むと正直、変な人の変な話という印象が強かったが、おそらく元の小説全体は遥かに優れたものだろうとは思ってた。

    

実際に読んでみると、予想以上に精密な構成の小説で、物語的な導入もオチも十分に付いてる。特に、ラストの綺麗な結末を読んだ時には、思わずニヤリと笑ってしまった。

   

間違いなく、小説の主人公の男性も苦笑したはずだが、単なるフィクションとはいえ、彼のその後をつい心配してしまう。あと20年ほどの余生、やがて嘱託の僅かな仕事も無くなるのに、平穏に過ごせるだろうか。差し当たり、会話が減った妻との熟年離婚は大丈夫だろうか。

   

極端な話、先日の大阪の放火殺人を思い出してしまうのだ。犯人と断定してもよさそうな容疑者は、61歳。ちょうど小説の男性と同じ年ごろで、妻や子供とは絶縁関係になってたとされる。未練を残したまま。。

   

   

     ☆     ☆     ☆

さて、当サイトでは共通テストの直後、直ちにこの小説の記事をアップしてある。

      

 看板の視線への対人恐怖、軽い社交不安障害+限局性恐怖症(DSM5)か~黒井千次『庭の男』(2022年・共通テスト・国語)

  

その時点で(ほぼ)どこにも情報が見当たらなかった出典(初出)についても、探り出して明記しておいた。文芸雑誌『群像』1991年1月号が初出だろう。約30年前の作品だが、現代にもかなり通じる一般的設定となってる。定年かどうかはともかく、退職した年齢を計算すると60歳くらいになるから、現代とあまり変わらない。

    

ただ、隣の家の庭に、夜中に1人で侵入するという行動だけは、現在だとかなり異常だろう。直ちに警察に通報、逮捕されても不思議はないし、そもそも侵入と同時に、監視カメラや警報システムが作動する可能性もある。家の敷地をハッキリ分ける壁も、30年前と比べると今の方が高いと思う。高齢男性だと、壁を乗り越えるのが難しいかも知れない。

   

   

     ☆     ☆     ☆

共通テストに出題された箇所は、全体の4分の1弱。もし小説を4分割するなら、前から3番目くらいの部分になる。ということは、出題箇所より前に小説の半分が書かれてるわけで、それを読むと、主人公の男性の気持ちに共感しやすくなった。

  

隣の家の庭にある看板の男(=「庭の男」)が気になるからといって、単なる「おかしい」人(小説内の表現)とは言い切れない。というのも、その男が見える場所(ダイニングキッチンの窓)は、「洞窟のように薄暗」い家の中でほとんど唯一の明るい場所だったから。洞窟の狭い入り口=出口で、変な看板の男がいつもジロジロと凝視していれば、男性(=家の男)が気になっても不思議はない。

     

ただし、妻はほとんど気にならないようだ。妻の外出は週3日、男は週2日。家にジッといる日数だけ考えると、あまり変わらないとも言える。

   

しかし、妻はおそらく元々そんな生活を送ってたのに対して、男はわりと最近まで週5日か6日は会社勤めをこなしてた。男の方が看板を気にするのは、そうした分かりやすい事情もあるだろう。もちろん、それだけではなくて、深く隠された事情もあるのだが。男の事情も、隣の家の事情も。。

   

   

     ☆     ☆     ☆

ここで、ごく簡単に物語全体のあらすじをまとめてみよう。いわゆるネタバレになってしまうので、ご注意あれ。といっても、実際にはこの種の記事に検索アクセスする読者の半数くらいは、あらすじやまとめのような簡単な情報を求めてると思われる。

  

男が長年勤めた会社を退職して、家にいることが多くなる。家の南側は明るいが、既に独立してる子供たちの部屋なので自由に使えないし、そこを男が使おうとすると妻が嫌がる。妻はいずれ、子どもが戻ってきて同居してくれることを期待してるようだ。

  

そのため、男は北側の端のダイニングキッチンか、その内側の暗い居間にいることが多い。ほとんど唯一明るい場所である、キッチンの窓からは、隣の家の庭の看板が見える。その看板には大きな男が描かれていて、こちらを凝視しているようで気になる。看板はプレハブ小屋に立てかけられたもので、その小屋には中学生くらいの息子が住んでるようだ。

  

(ここから共通テストの出題箇所が開始)

妻に相談してみると、意外なことに自分の側に立ってくれて、裏(=隣)の家の息子に頼んでみたらと示唆してくれた。しかし、話の切り出し方が難しい。ある日、たまたま道でその息子と出会ったので、看板をどかしてくれるよう頼んでみたら、途中で無視されただけでなく、「ジジイ」とまで叫ばれてしまった。そんな不快なことは、妻には言えない。

  

その夜、懐中電灯を持って隣に忍び込んでみると、看板の「庭の男」は単なる板に見えたので、「案山子にとまった雀はこんな気分がするだろうか、と動悸を抑えつつも苦笑した」。しかし、板はプラスチックに似た物で、意外としっかりした作りになってる。

  

それを動かそうとすると、針金とボルトで固定されてた。「あ奴はあ奴でかなりの覚悟でことに臨んでいるのだ、と認めてやりたいような気分がよぎった」。

(以上でテストの出題箇所は終了)

   

その時、小屋から女の子のかすかな笑い声が聞こえた。驚いて耳を澄ませたが、声が消えた後には音楽が聞こえるだけ。気になりつつ、男は自宅にこっそり引き返す。その後は、「庭の男」との関係も変化。お互いに、相手をのぞき見男(ピーピングトム)扱いする形で、にらみ合うようになった。単なる看板と、本物の人間とで。

   

その夏の終わりの夜中に突然、隣の家で激しい親子喧嘩が発生。女の子の泣き声も聞こえた。翌日、男が週2日の仕事に出かけてる間に、看板もプレハブ小屋も無くなってしまった。妻は片付けの様子を見てたらしい。

  

「『貴方のお友達の看板ね、あれもトラックに積んで運んで行きましたよ・・・寂しくなったでしょう。』 突然妻はけたたましく笑い出した。 『何がおかしい。』 『だって、寂しそうだからよ。』 笑い声は狂ったように高くダイニングキチンに響いた・・・」。

   

   

     ☆     ☆     ☆

この簡単なあらすじだけでも、共通テストが何を避けてるのかは明白だろう。「性」を回避してるのだ。隠蔽とまで言えるかどうかは微妙だが、見事に「性」の話を直前で避けてる。若い男女の性、それをのぞき見(盗み聞き)しようとしてしまう高齢男性の軽い性的倒錯。

      

実はテストの引用箇所の前側で既に、性の問題はほのめかされてたのだ。看板の左隅には、「女だけ半裸の抱擁シーン」が描かれていたのに、妻は気付いてない。だからこそ妻は、看板について、「ヌードなんかよりはましですよ」と話してる。

    

妻のその言葉と、夫婦の会話がますます少なくなってるという説明、さらに年齢を合わせると、おそらく男と妻の性的関係は完全に消えてる。

   

行き場と能力を失った高齢男性(「ジジイ」)の性的欲望は、哀しいことに、隣の庭の看板の片隅に描かれた僅かな性的表現に向かおうとしてしまう。そのあまりに些細な欲望の動きをさえぎる検閲者こそ、看板の男の目線、凝視なのだ。

   

   

     ☆     ☆     ☆

これが考え過ぎとか過剰な深読みでないことは、看板の男の背後のプレハブ小屋で男女の関係が生じてたこと、さらにそれが物語の劇的な結末に直結したことからも明らかだろう。

  

実は、看板の男の胸の前には、「初老の男性の、より小さな姿」まであった。ということは、その看板には4人が描かれてる。半裸で抱き合う男女と、初老の男性と、その後ろにそびえる「庭の男」。初老の男が「ピーピングトム」(のぞき魔)的なことを行うのを、庭の男が阻止する形だ。看板の情景は、現実の情景の表象となってる。

     

そして、なぜ少年が針金とボルトでその看板を固定していたのか。少年の側の意図もハッキリ分かるのだ。それは一方では、「のぞくな」という警告になってる。しかし他方では、「のぞくな」という警告によって、自分たちが小屋でのぞかれるような事をしてると伝えてるのだ。あるいは、誇示してると言うべきか。

   

少年は、看板を持ってくるより先に、「立入禁止」という立札を用意してた。「立入」を警戒されてるのは誰か? 壁を隔てた隣の家のジジイではないはず。自分の家の親、特に父親だろう。

   

もちろん、これもまた(無意識的に)、「露出魔」のような効果ももたらしてるわけだ。立入禁止にしたくなるような事を自分がしてるのだと、暗示する形だから。オレは可愛い女の子を手に入れたぞ。恥ずかしがりつつ、つい周囲に自慢したくなるのが中学生ということか。

  

   

      ☆     ☆     ☆

最後に、男の「寂しそう」な姿について。これは、「庭の男」の別の側面から来たものだろう。

    

つまり、庭の男は、家の男ののぞき見を阻止すると同時に、自分が小屋の中をのぞき見するような位置に立ってる。そして、自分自身ものぞき見を禁じられてるのだ。針金とボルトによる金縛りの固定で、視線の向きを変えることができないから。

   

だから庭の男は、家の男にとって、敵であると共に友人でもある。寂しく哀しい、のぞき仲間。先日の共通テスト記事では、精神医学の標準的な診断統計マニュアル『DSM5』に言及したが、作品全体を読むと、パラフィリア障害群の窃視障害(Voyeuristic Disorder)こそが隠された主題だろう。テスト出題者の意識にとっても、隠されたままだったかも知れない。

     

既に時間も字数も尽きたので、さらなる精神医学的・精神分析的な解釈は差し控える。妻の本音や実態を想像すると、全く異なる解釈も可能だろう。

   

妻の外出は本当に、革細工か俳句か日本料理の教室だけだったのか。妻は本当に看板の隅に気づいてなかったのか。そして最後、なぜ「狂ったように高く」笑い声を響かせたのか。

            

とにかく非常に興味深い、巧みな構成の小説だった。なお、今週は計15768字で終了。ではまた来週。。☆彡

    

       (計 4025字)

| | | コメント (0)

テレビ未放映、『カネ恋』幻の第5話~第8話における『方丈記』の引用と意味(大島里美『シナリオブック』)

ドラマ『おカネの切れ目が恋のはじまり』のシナリオブック発売(20年11月10日、角川書店)から、2ヶ月が経過した。

   

210108a

    

既に三浦春馬ファンの方々は、本を手に入れてるか、情報を仕入れてるだろうし、そろそろ当サイトでも解禁していいと思う。そもそも、早く買わないと写真入りの帯が付かなくなるから、好きな人はすぐ買ったはず。

    

ちなみに上が、帯付きの表紙写真。表紙の下側に巻かれる帯は、何種類かに分かれてる場合もあるけど、この本は1種類だと思う。ネットに大量にアップされてる画像のすべてが同じだから。

  

帯なしだと、下の通り。アマゾンより。主演2人の写真ではなく、玲子(松岡茉優)がひっそり暮らしてた小さい部屋(方丈)の写真が印刷されてる。窓の下に置かれてるのが、鴨長明『方丈記』の本。

  

210108b

   

中身はこんな感じで、台詞だけでなく、各シーンのタイトルや説明も書かれてる。

   

210108c

    

例えば第1話の冒頭、玲子が手を合わせて拝む仕草は、シナリオには無い。これは私の予想通りで、既にレビューで指摘してたこと。おそらく、三浦を意識した監督による演出だろう。そうでなければ、松岡自身による演技か。

    

   

     ☆     ☆     ☆

それでは、書籍の販売に配慮して今まで延期してた記事をアップしよう。テレビ放送されてない第5話~第8話(本来予定されてた最終話)における、鴨長明『方丈記』の引用と意味の解説。ストーリー的なネタバレはなるべく避ける。

    

私は『方丈記』の引用が毎回楽しみで、ドラマ第4話まで毎回、解説レビューをアップ。オンエア中はかなりのアクセスを頂いて、ツイッターでもいくつもリンクを付けて頂いたし、今でも結構アクセスが入ってる。

   

 鴨長明『方丈記』と座布団、三浦春馬にたむけるラブコメディー~『カネ恋』第1話

 方丈記「かむなは小さき貝を好む」、『カネ恋』第2話に合わせた意味と現代語訳&プチジョグ

 方丈記「いかにいはむや、常に歩き」、『カネ恋』第3話に合わせた意味と現代語訳&プチジョグ

 方丈記「猿の声を聞いて 涙をこぼす」(原文「猿の聲に袖をうるほす」)、『カネ恋』最終回SPに合わせた意味と現代語訳

   

     

TBSのテレビドラマは、まさかの訃報を受けて予定を短縮、第4話で終了。しかし、テレビ未放映、第5話から第8話までのシナリオ(脚本)を書籍化して発売。

   

これを読むと、脚本家・大島里美の本来の筋書きや「本当の結末」も分かるし、ドラマ化された部分でも、「脚本」にない「演出」や「演技」がどのように行われてるのか分かるのだ。

   

   

     ☆     ☆     ☆

では、まず第5話。サブタイトルは、「その人と、未来を描けますか?」。要するに、好きな人との今後(特に結婚)を考えるお話。

    

テレビの第4話に挿入された『猿の聲に袖をうるほす』の部分が、元のシナリオではこの第5話に登場。既にウチでは第4話レビューで説明した箇所なので、ここでは省略する。

     

「故人を忍び」という引用は、もともと三浦の死とは関係なかったらしい。単に、三浦が演じた登場人物・慶太への思いを表したもの。

   

   

    ☆     ☆     ☆

続いて、第6話。「おこづかいとお誕生日」。以前と同じく、青空文庫『方丈記』で引用箇所を確認すると、真ん中を過ぎた辺りだ。

  

210108d

  

春は藤なみを見る、紫雲のごとくして西のかたに匂ふ。夏は郭公をきく、かたらふごとに死出の山路をちぎる。秋は日ぐらしの聲耳に充てり。うつせみの世をかなしむかと聞ゆ。冬は雪をあはれむ。つもりきゆるさま、罪障にたとへつべし。

   

私が現代語に訳すと、こんな感じだ。直訳だと意味不明な部分なので、補足的な説明を加えてある。鈴木春治『方丈記の解釈』を参照。国立国会図書館デジタルコレクションで公開中。

  

春は、藤の花が咲いてるのを見る。死ぬ時に迎えに来てくださる仏様が乗って来る紫の雲みたいで、しかも極楽のある西の方に匂ってる。夏はカッコウの鳴き声を聞く。それを聞くたびに、自分が死んだ後の冥途の道案内をしてくれるよう、カッコウと約束する。

  

秋は、ひぐらしの声が充(み)ちてる。はかないこの世を悲しんでるようだ。冬は雪の景色を味わう。雪が積もって消える様子は、極楽浄土への往生の際に障害となる、人の罪が積み重なったり消えたりするように見える。

   

あまりネタバレにならないように言うと、会社で犯「罪」が発覚して、すべて終わりのような雰囲気が出て来る。そうした物語の流れと重ねてるわけだ。最初に罪に気付いたのは当然、「あの人」♪

    

古書のくずし字だとこんな感じ。以前の記事と同様、鴨長明学会『鴨長明方丈記』より。これも国立国会図書館にて公開中

  

210107e 

  

  

     ☆     ☆     ☆

さらに、第7話。「経理部のプライド」。真ん中より少し前側の箇所が引用されてる。

   

210108f

  

もしおのづから身かずならずして、權門のかたはらに居るものは深く悦ぶことあれども、大にたのしぶにあたはず。なげきある時も聲をあげて泣くことなし。進退やすからず、たちゐにつけて恐れをのゝくさま、たとへば、雀の鷹の巣に近づけるがごとし。

   

もし、自分自身は大した事ないのに、たまたま権力の近くにいて助けられてる人であれば、心の奥で喜ぶことがあっても、思い切り楽しむことはできない。嘆いてる時でも、声をあげて思い切り泣くことはできない。身動きが難しく、恐れおののくように振舞う様子は、例えば、スズメがタカの巣に近づいてるようなものだ。

   

これは、遠回しに言うと、社内の「犯罪者」(悪者)がこそこそビビってる様子を表す引用。あえて、誰とは言わない♪

   

210108g

   

   

     ☆     ☆     ☆

そして最後、第8話「ほころびの行方、ふたりのはじまり」。この場合のほころびは、2人の事だけじゃなくて、会社の巨大なほころびも指してる。

   

第1話で引用された方丈記の冒頭の有名な箇所が再び登場。その少し後、「あしたに死し・・・」という箇所も引用されてるけど、既に以前の記事で触れてるから、ここでは省略。

   

それ以外に、方丈記のラスト辺りが引用されてた。

  

210108h

    

そもそも一期の月影かたぶきて餘算山のはに近し。・・・・・・月かげは 入る山の端も つらかりき たえぬひかりを みるよしもがな。

   

さて、自分の一生は、月の光が沈むような感じで、余命は終わりに近づいてる。・・・・・・「明るい月明かりは、山に沈んで消えるのが辛い。絶えない光を見たいものだ」。

   

最後の歌は、自分の命という儚い光と、仏様のありがたい光と、2つを掛け合わせてる。ドラマのシナリオ的にはさらに、会社の命運も掛け合わせてる。2人の命運は、ちょっとしか入ってない(個人の感想♪)。

  

ちなみに、なぜか最後の歌だけ、くずし字になってないのは、研究者が補った文字だからだと思う。

    

210107i

   

   

     ☆     ☆     ☆

月の光。。 個人的には、当時(2020年の夏)、三浦春馬と共演中だったJUJUが、年末の紅白歌合戦で最初から最後まで見せてた瞳の光を思い出す所か。誰もいない真っ暗な観客席に向かって熱唱する姿が印象的だった。

       

 離れていても そばにいるよ ・・・

 ぬくもりはいつも この胸の中に

 決して失くさないよ ありがとう

    (『やさしさで溢れるように』 歌詞・小倉しんこう・亀田誠治

   

それでは今日はこの辺で。あらためて、合掌。。☆彡

    

         (計 2898字)

| | | コメント (0)

恋多き天才アインシュタイン、再婚した妻エルザよりも、義理の娘イルゼを愛して結婚したかったのか?

4連休の初日、朝日新聞・朝刊(20年9月19日)読書欄をサラッと見てると、アインシュタインという名前が目に飛び込んで来た。マシュー・スタンレー『アインシュタインの戦争』、新潮社。朝日デジタルでも掲載中

  

200919b

      

反戦平和とか反核といった話と、物理学の相対性理論を混ぜた、普通の伝記かと思ったら、全然違うことも書いてた。

  

「私生活をも赤裸々に描いている・・・最初の妻であるミレヴァと離婚できないまま、後に妻となるエルザと暮らし始める。信じがたいことに彼はエルザの娘とも関係をもち、『二人で決着をつけてもらって、どちらとでもいいから結婚したい』と言ってのけたそうだ。」

  

  

     ☆     ☆     ☆

評者の東京大学教授(宇宙物理学)・須藤靖が驚いてるのだから、スクープ的なスキャンダルなのかと思って検索してみると、全然そうでもない。日本語でも一応、数年前にはもうネットに流れてる。ただ、いつものようにと言うか、いつも以上にと言うべきか、信頼できそうな記事は日本語だと(ほとんど)見当たらない。

   

おまけに、紛らわしいことに、別の義理の娘(妹の方)への愛の手紙とか言われるものが一部の個人サイトに流れてて、最初は私も混同してしまった。ちなみにそちらは、スペインで創られた偽物とか言われてるし、根拠も見当たらないし、今回の話とは別だから、ここでは深入りしない。

   

一方、朝日で書いてた義理の娘、姉のイルゼ(Ilse)については、英語で検索すると色々な情報が手に入って、読むのが大変だった。調べるだけで膨大な時間を使ってしまったから、簡単にまとめとこう。

 

  

     ☆     ☆     ☆

イルゼの写真は極端に少ないが、下はウィキメディアより。パブリック・ドメイン(公的所有)。アインシュタインから求婚された5年後くらい、1923年(26歳頃)のもので、宝塚系の華やかな美人に見える。

    

200920a

    

先に結論のようなものを書いておくと、英語圏では既に25年以上前に出てた情報で、あまり流行ってないものの、それなりの根拠もあるらしい。東大教授もそういった話まではカバーしてなかったわけか。もちろん、100年前の禁断の愛だから、真相や真偽は不明。

       

総合的に見て、個人的には今の所、たぶん本当じゃないかなと思ってる。もし後で、間違ってるという証拠を見つけたら、ここで追記することにしよう。

   

   

     ☆     ☆     ☆

200919c

  

200919d

  

上が、『アインシュタインの戦争』の訳書と、英語の原書、Matthew Stanley『Einstein's War』。こちらは、原書が2019年に出たばかりということもあってか、アマゾンでもグーグル・ブックスでも中身の情報がほとんど出て来ない。英語版ウィキペディアにも項目はないし、単なる言及さえ見当たらない。

      

義理の娘イルゼとの恋愛について、新事実を載せてる可能性は一応あるけど、それにしてはほとんど英語圏でも話題になってないのだ。

  

むしろ、情報の元をたどっていくと、米国を代表する新聞の一つ、ニューヨーク・タイムズの21年前(1999年)の記事にたどり着いた。「Einstein, Confused in love and, Sometimes, Physics」。アインシュタイン、愛に翻弄されつつ、時々、物理学。

   

200919e

   

恋愛中毒でたまに物理をするだけでノーベル賞を取れるのか・・とか、妙な驚きも感じるタイトルだが、要するにこの執筆者、デニス・オーヴァーバイ(Dennis Overbye)は、恋愛に注目したらしい。

  

ソース(情報源)は、少しずつ刊行中の『アインシュタイン著作集(または全集)』第8巻、プリンストン大学出版。Collected Papers。

   

彼は99年の春に出たと書いてたけど、出版社サイトから情報を探すと1998年11月末になってた。日付けと実際の流通にはタイムラグ(時間差)があるし、英国と米国(とドイツ語?)の差もあるから、こだわらないことにしよう。

  

200919f

     

その大著の中の手紙(90年代前半には知られてた)によると、アインシュタインは1918年の春、再婚しようとしてたエルザ(Elsa)よりも、その娘のイルゼ(20歳)と結婚したかったとのこと。彼は1879年3月の生まれだから、38歳か39歳の頃だ。まあ、現在の感覚でも何とか許容範囲か。血縁は無いし、ロリコンとか近親相姦といった話でもない。

     

200919g

   

この記事の著者がその後出版したのが、『Einstein in Love: A Scientific Romance』。私なら『恋するアインシュタイン ロマンスも科学的に』と訳すけど、翻訳本のタイトルは『アインシュタインの恋』(青土社)。原書の該当箇所はグーグル・ブックスで限定公開されてた(なぜかiPadでは見れるのにPCでは見れず)。

  

200919i

  

200919h

  

200919j

  

イルゼが、ニコライ(Nicolai)という男性に出した相談の手紙をそのまま読むと、アインシュタインの熱烈な愛と、彼女の困惑が語られてる。彼女は後に別人と結婚してるし、普通に考えるなら、アインシュタインの失恋。順当にふられたことになる

   

   

    ☆     ☆     ☆

ただ、私は元の著作集や手紙の原文も見てないし、著者オーヴァーバイが手に入れた資料も知らない。私だけでなく、そんな専門的な詳しい情報は、かなり検索しても出て来なかった。もちろん、日本語では皆無。

  

というわけで、義理の娘に対するアインシュタインの恋愛は、客観的に言うなら、25年以上前からある不確定情報。現在の個人的な推測としては、ほぼ合ってるような気がする。こんな所だろう。なお、ニコライとアインシュタインの関係はまたややこしいので、ここでは省略。

   

英語の資料を画像とリンク付きで載せただけでも満足して、今日はそろそろこの辺で。。☆彡

   

      (計 2323字)

| | | コメント (0)

奥様に人気の旦那つっこみインスタ本『#ゴミ捨てろ』♪、男が立ち読みした感想

今日は書くネタが色々あったけど、先週書き過ぎてるから、サラッと軽い記事で済ませとこう。

   

200914a

  

コロナの3密回避で、最近は本屋にもほとんど行かなくなってるんだけど、久々に立ち寄ったら、いきなり題名だけでウケた。『#ゴミ捨てろ』~うちの旦那はティッシュをゴミ箱に捨てられない♪ もう、これだけで主婦の心、鷲づかみ(笑)。完全に女性がターゲットのおしゃれな作りも、いいね。

       

男の私の心が鷲づかみされたのは、表紙の左下の写真とロゴ(テロップ)。「この量で冷蔵庫戻すな。飲め。」(≧▽≦) これ、ウチの父親が母親によく言われてた言葉にそっくり♪ 何かを飲む時、いつも最後のちょっと、残すクセがあった。

  

200914b

      

私にはあんまし遺伝(笑)してないけど、たまにコーヒー用の大きなカップの底に1cmくらい残ってることがある (^^ゞ 昨夜は、麦茶が1cm残ったペットボトルを冷蔵庫に入れそうになって、反省♪ すぐ飲んで、ボトルを洗って処分した。いいね♪ フツーだろ!

   

   

    ☆     ☆     ☆

さて、この本。私が見た時はタレント本とかと並べて置かれてたけど、ハッシュタグ付きだから、インスタグラムの書籍化だ。

     

200914f

  

ユーザー名、「gomi_stero」(ゴミステロ♪)。旦那の散らかした物をUPするアカウント。そのまんまか! しかし、こんな日常的なコネタが大人気になって商売になるとは、SNS時代、恐るべし。フォロワー80万人弱! 広告が付いてるから、旦那の収入より稼ぎが多いかも。

      

ブロガーとしては羨ましいけど、私なんてそもそもインスタの登録さえできてない (^^ゞ 多分、インスタのブロガーいじめだと思う(個人の感想♪)。いくら頑張っても途中でエラー警告になるから、いまだに他人のインスタは30秒くらいしか見れない。いつも慌ててスクロールして、クリックやタップも出来ないほど(笑)

  

ちなみにこの若奥様(死語?♪)、ブログ(ameba)も持ってるけど、あんまし更新してなかった。時間とエネルギーはインスタと子育てに注ぐと。写真に短い文を添えて、女性読者に見せるんだから、やっぱブログやツイッターよりインスタか。

   

   

     ☆     ☆     ☆

ところで、ちょっと残すクセと言えば、必ずしも悪いことじゃない。お茶ならカロリーを気にする必要がないからいいけど、食べ物だと、ちょっと残りそうなのをいちいち全部食べてたら、太るはず。

  

冷蔵庫に入れると邪魔なんだったら、むしろ思い切って捨てた方が健康にいいかも。ところがこれが、女性には決して出来ないことなのだ(一般化した断言・・笑)。冷蔵庫もゴミ箱も胃袋も嫌だから、結局、「別腹」に入れて、脇腹のお肉になると♪

  

一方、一番目立つ形で旦那批判に使われてた、ティッシュ。これはご本人が書いてけど、旦那さんの鼻のアレルギーが原因の一つで、私も高校時代に苦労したから、辛さがよく分かる。ハウスダストのアルルギーが酷くて、病院に通ってもほとんど治らなかった(学校や屋外だと楽)。

  

200914c

        

鼻をかめばかむほど、粘膜の炎症がひどくなるから、いちいちゴミ箱に捨ててる余裕もない。ティッシュが無くなったら、トイレットペーパー。ひどい時は、紙を鼻に詰めて、じっと我慢して症状が落ち着くのを待つ。家のホコリのアレルギーだから、卒業して実家を離れた途端、あっという間に完治♪ 田舎の古い家だったもんで。

  

そう言えば、今年はコロナのおかげ(?)で、普通の風邪は(ほとんど)ひいてないから、鼻なんて一度もかんでない。1年半くらい、何ともないかも。この奥様は、その恵まれた状況がズーッと続いてるらしい。

    

ま、実は仲良し夫婦みたいだし、旦那さまをいたわってあげて♪ ティッシュくらい、拾って捨てるだけだから。・・とか書いてると、「捨てるだけなら、自分でやれ!」と反論されるかも(笑)。いや、旦那さんがゴミを散らかしてくれるからこそ、人気者になれたんでしょ。

   

   

     ☆     ☆     ☆

200914d

  

男女の違いをあらためて感じるのは、上の写真の小さい文字とか。「このシミもつけやがった」(笑)。似たような会話は、日本中の男女がやってるはず。世界だとどうなのかね? 多分、ドイツの女性とか、そんなの気にしないと思うけど(個人の感想♪)。

   

200914e

  

目次を見ると、「すぐ行方不明になるくし」とか、「モビール化するハンガー」とか、あるあるネタが並んでる♪ ウチのハンガーをチェックすると、5段モビールになってた(実話・・笑)

  

まあでも、アマゾンの電子書籍キンドル無料サンプルだと、この辺りで終了。後は、リアル店舗での立ち読みでどうぞってことになる(笑)。無料サンプルも、色々ダウンロードし過ぎると邪魔なんだよな・・、「捨てろよ!」とか自分ツッコミしつつ、今日はあっさりこの辺で。。☆彡

   

        (計 1932字)

| | | コメント (0)

人間に戻りたくなった椅子、屈折したSM的欲望~江戸川乱歩『人間椅子』(NHKドラマ&原作小説)

一瞬、乱歩の原作小説を模倣して、手紙形式の記事にしようかと思ったけど、分かりにくいし面倒だから止めとこう。過去15年間、ウチのブログでそうした形を使ったのは、木村拓哉のドラマ『CHANGE』の最終回レビューだけかも。既に12年が経過。

    

さて、仕事や出張にあおられて、ここ半月ほどはほとんどテレビを見てなかったから、昨日(20年9月10日・金曜)の夜、ふと夕刊のテレビ欄をチェック。日付け変更後の11日・1時から、江戸川乱歩の『人間椅子』のドラマがあるようだから、録画の準備をして待ってた。放送時間は30分、ブログ記事のネタにもちょうどいい。

   

乱歩というと、小学校時代に探偵・明智小五郎シリーズを何冊か読んだのが最初。多分、図書館というか、図書室の本が多かったと思う。

   

その後、中学1年ぐらいで、なぜかたまたま家にあった『パノラマ島奇談』という妖しい小説を読んだ。大人向けの文庫本で、言葉も話も難しく感じたから、流し読みみたいになったけど、読みながらムラムラ、モヤモヤ、変な気分になった。内容は覚えてないけど、それ以来、乱歩という文字を見るだけで、反射的にエッチ、エロという言葉が浮かんで来る。

  

大人になってからは多分、ほとんど読んでなくて、ブログの暗号記事を書くために、青空文庫で『二銭銅貨』を読んだくらいか。後は、ラジオ英語講座で英訳を聞いたり読んだりした程度だと思う。

   

    

     ☆     ☆     ☆

さて今回、ドラマを見ながら同時に小説も読んだ、『人間椅子』。名前は小学生の頃から頭に残ってて、読んだつもりになってたけど、内容は全く知らないものだった。というか、私はどうも、他の何かと混同したイメージを持ってただけらしい。

     

ということは、小説の題名の奇妙さだけが頭に残ってたわけか。そもそも「椅子」という漢字は、小学生にはなかなか「いす」と読めない。普通に読むと、「きこ」(奇子)だろう。奇妙な女の子。

   

200912a

   

1時開始の予定が、災害情報で2分遅れになって、1時02分にスタート。このタイトルバックは、色使いも文字も私の好みに近くて、乱歩らしい。

   

「妖しい愛の物語」というのは、第2シリーズ・3本のサブタイトルみたいで、最初は2016年12月末、NHK・BSプレミアムで放送(ウィキペディアより)。第3シリーズまで、合計9本はすべて、満島ひかりが主演。この名字、「まじま」と読むのかと思ってたけど、「みつしま」だった。有名な女優だけど、個人的には今までほとんど見てない。

  

  

     ☆     ☆     ☆

このシリーズは、気鋭の映像作家を演出家として起用したもので、今回は渋江修平。名前さえ知らなかったけど、検索すると、かなり活躍してるのが分かる。1985年生まれらしいから、制作時は31歳。

   

たまたまなのか、ある意味、関連があるのか、乱歩が『人間椅子』を発表したのも、31歳になる直前。1925年(大正14年)だった。文化・芸術の世界だと、強烈に自己アピールする年代。乱歩は奇抜な筋書(プロット)で才能を誇示。渋江も独特の映像作りを見せてる。

  

200912c

   

上は渋江のtwitterより。衣装や髪型、お化粧も含めて、満島は若き美人作家として魅力的に撮影されてるし、イスの側から見た、お尻や背中の映像がユニーク。

  

お尻の下着(パンツ)映像は、連続的に多用し過ぎて、『タモリ倶楽部』になってしまってるけど、多分わざとだろう。要するに、シリアスとかホラーの路線ではなく、ほんのりコミカルな味付けなのだ。それは一番最初のシーンから、すぐ感じ取れた。

  

200912d

  

上の映像、よく見ると、ヒロイン・佳子(よしこ)と肘掛け椅子の間に、男性が隠れてる。まさに、そのまんまのリアル人間椅子。映し方によっては、「座った位置」を性的に描くものになってただろうけど、渋江はむしろ軽い笑いを取りに行く。

   

夫らしき男性が、前が見えないまま、紅茶を飲もうとするけど、それを途中で佳子が奪い取って、男性の手が残念そうに震えるのだ。私が演出家なら、ここで佳子が読んでる本をひそかに『人間椅子』とか『江戸川乱歩全集』にして、ごく一部の視聴者のツッコミを誘うところか。

   

   

     ☆     ☆     ☆

このドラマ、最初の画面の左側にわざわざ、「ほぼ原作通り映像化」というテロップが出た。役者の台詞(セリフ)は無くて、小説の一部を朗読する形にもなってたから、私はすぐにタブレット端末で青空文庫にアクセス。正直、「ほぼ原作通り」とわざわざ最初に告知するほど似てるわけでもないから、これもパロディとか自虐の類か。

      

江戸川乱歩が亡くなったのは1965年だから、既に50年経過ということで、著作権が消滅して無料で読めるのだ。あと3年ほど後だったら、例のTPP関連で、保護期間が70年に延長されてたから、無料では読めなかった。

  

ただ、国立国会図書館は、民間の業者に配慮してるのか、デジタル資料はまだ一般公開してない。小説の初出の雑誌『苦楽』はそもそも保存されてないようだった。

   

200912b

    

ドラマのスタートは、「美しい閨秀作家・・」。恥ずかしながら、「閨秀」(けいしゅう)の意味が分からなかったから直ちに検索。要するに、優秀な女流作家という意味らしい。

  

小説の冒頭では、「彼女は今、K雑誌の・・為の、長い創作にとりかかっている・・」と書かれてる。ドラマは省いてたけど、これは小説の構成的には重要な部分。

   

Kというのは『苦楽』の頭文字だから、ヒロイン佳子が今まさに、この『人間椅子』を書いてるという、複雑でテクニカルな構成なのだ。小説『人間椅子』が佳子を描いて、佳子が小説『人間椅子』を書く。エッシャーのだまし絵みたいな、無限の自己言及的構造。

   

    

     ☆     ☆     ☆

以下は、どうしてもネタバレ的な内容になるので、ご注意あれ。あらすじは次の通り。

    

名もなき見知らぬ男から突然、美人小説家のもとに、原稿みたいな「手紙」が送られる。自分は醜い家具職人で、椅子作りが専門。外国人向けのホテルの椅子を頼まれた時、その椅子に自分が入り込むことを思いつく。食べ物も中に備えてるから、二、三日、中にいても大丈夫。

      

最初は、隙を見て椅子から出て、金品を盗むのが目的だったけど、やがて薄い皮を隔てた人間との接触、特に若い女性との接触に快楽を覚えるようになった。

  

その後、椅子はホテルから、日本人の官吏のもとへと転売された。書斎で椅子を使うのは、若くて美しい肉体の夫人。自分は彼女に恋してしまったから、一目、顔を見て言葉をかわしたくなった。それこそ、奥様、あなたなのだ。。

   

   

     ☆     ☆     ☆

最後のオチは後回しとして、ここまでの話を、説得力のある映像やイメージにするのなら、ポイントは当然、椅子になる。ヒロインは女流作家としても、主役は椅子だ。

   

ところが、今回のドラマに限らず、本当にリアルな人間椅子を描いたイメージはほとんど見当たらない。Googleで画像検索をかけても、ピッタリ来るものは無いのだ。

   

ということは、おそらく、この小説の最後のオチを考慮して、人間椅子という物をあまり本気にしてないのだろう。ドラマの中だと、3つのひじ掛け椅子が映されたが、どれも成人男性がひそめるようには見えない。

  

200912f

   

本当に、二、三日いられるような椅子なら、座る面はかなり高くして、背もたれも高くして、ひじ掛けも含め、全体的に分厚い作りにする必要がある。原作小説では、その点を考慮してるからこそ、わざわざ身体の大きな外国人向けの椅子とされてたわけだ。

  

ネットを見渡すと、アダルト系は除くなら、楽天の電子書籍coboのこの画像が一番リアルな部類かも。もちろん、これは椅子ではないけど、成人男性が座った形で、上に女性が座れるようにはなってる。

  

200912e

   

   

     ☆     ☆     ☆

上の画像、作者は不明だけど、物語の本質もよくとらえてる。両手を後ろに回してるのは、表面的には肘掛け椅子だから、おかしい。ただ、本質の一つは、マゾヒスティックな拘束なのだ。自分を拷問する快楽。だから、後ろ手に縛られてるような姿勢で、首にも首枷があるように見える。男性の股間の象徴も、何かで封じ込められてる様子。

     

もちろん、椅子には「ある用途の為めに大きなゴムの袋を備えつけたり」してるから、物語的には、手で性的欲望を解放できるはず。排泄だけでなく、衝動の放出も一応、可能だろう。

  

ただ、「触覚と、聴覚と、そして僅の嗅覚のみの恋」と書かれてるから、音や臭いの伝達はある。ということは、少なくとも男が太腿や腰で女性を支えてる間、手で快楽の頂点を得ることは使えない。焦らし責めのような状態が数十分~数時間ほど続くことになる。だからこそ、手枷か手錠で男の両手が背中に縛られてるような画像が、インパクトを持つ。

   

それでいて、特殊な椅子の事情を知ってるのは男のみで、能動的・意識的に身体を使えるのも男のみ。普通の「座った位置」以上に、男性優位な性的ポジションになってるから、サディスティックでもある。

  

基本的には被虐的だけど、加虐的でもあり、リアルな透明人間を作るものでもある、夢のSM装置。それこそ、人間椅子なのだ。

    

    

     ☆     ☆     ☆

ただし、やはり人間は、椅子にはなり切れない。最後は、人間に戻りたくなってしまうのだ。椅子から出て、普通に女性と会って、お話してみたい。当時はまだ、ストーカー規制法どころか、ストーカーという言葉さえ無かった時期。

   

膨張した性的欲望は、椅子から飛び出すことになる。そして、「青い顔をして、お邸のまわりを、うろつき廻って」いるのだ。ハンカチで合図してもらえれば、「訪問者としてお邸の玄関を訪れる」ことが出来るように。

   

ところが最後、悪寒と身震いが止まらない彼女のもとに、別の封書が届く。「別封お送りしましたのは、私の拙い創作でございます。・・・如何でございましたでしょうか。・・・表題は『人間椅子』とつけたい考えでございます」。

  

200912h

    

上の画像は、衝撃で腰を抜かした佳子が、這いつくばって恐る恐る手紙に向かうシーン。シースルーのドレスから透けて見えるお尻と太腿がセクシーでエロチック。NHK的には、このくらいのサービスショットが限界か。

      

その後のドラマでは、黒いドレスに着替えた女性が夫にすがりついて、夜の山道を車で逃げ出すような心象風景が描かれてた。顔を隠した男たちが複数、ゾンビのように取り巻く姿。女性にとっては、二通目の手紙でオチを読んでも、とても単なる創作とは思えない恐怖ということになる。

     

200912g

  

     

     ☆     ☆     ☆

映画や演劇の世界では、劇の中に(別の)劇が挿入される「劇中劇」という形式がある。ここでは、「小説 中 小説」。乱歩の小説『人間椅子』の中に、男の同名小説『人間椅子』が入り込む。その様子を描くのが、女性が執筆する小説だろう。

   

乱歩の小説の中の、女性の小説の中に、男性の小説がある。「小説 中 小説 中 小説」。個人的には、ここまで複雑な構成は初めて見た気がする。あるいは単に、今まで気付かなかっただけかも。

   

とにかく、非常に興味深い小説&ドラマだった。せっかく無料公開されてることだし、乱歩の他の小説もいずれ読んでみたい。それでは今日はこの辺で。。☆彡

   

         (計 4482字)

| | | コメント (0)

ペアノの公理、自然数の加法(足し算)、結合法則の証明~論文『算術原理』(1889年)

イタリアの数学者ペアノの『算術の諸原理』(ARITHMETICES PRINCIPIA、ラテン語)と題する論文が先駆的で重要なのは、6年ほど前から分かってたが、詳しく調べたのは1年前のことで、今まで記事を書いてなかった。既に10年前から、小学校から大学レベルまで一通りの記事は揃えて来たという思いもあった。

  

ただ、以前と変わらず英語圏でも、算数や数学の基礎理論を原書に基づいて具体的にとらえ直す作業は非常に少ないようなので、久しぶりに書いてみよう。既にアップしてある12本の記事(以下、参照)との重複はなるべく避けるよう心掛ける。最も読まれてるのは、素朴な疑問から始めてる1本目の記事だ。

     

 「1+1=2」はなぜか?~ペアノの自然数論(足し算)

 「1×1=1」はなぜか?~ペアノの自然数論2(掛け算)

 自然数に関するペアノの公理~論文『数の概念について』に即して

 引き算の証明、負の数~ペアノの整数論(減算=減法)

 集合論における自然数の表記と計算

 0、1、「次の数」に関する哲学的考察~フレーゲ『算術の基礎』

 デデキントの「切断」による実数の構成~対角線論法2

 「1+1=2」はなぜか~小学1年生の算数の教科書

 引き算、足し引き連続、0(ゼロ)~小学1年生の算数2

 掛け算の導入、足し算・引き算との関係~小学校の算数3

 同じ数ずつ分ける計算、割り算(除法)~小学校の算数4

 原始リカーシヴ関数と足し算(加法)、掛け算(乗法)

   

  

    ☆     ☆     ☆

まず、「算術の諸原理」(算術原理と略記)と、当サイトで10年前に扱った論文「数の概念について」(1891年)との関係について。「数の概念について」の冒頭で、本人が次のように説明してた。小野勝次・梅沢敏郎訳、共立出版の日本語訳より引用。

  

 私の「算術原理」の中で私は正の整数、分数および無理数の理論を論理学の式によって表現した。しかし、演算(函数)の理論の大要を紹介することによって、数のある性質を他のより一般的なものに帰着させることができ、またより簡明な形で取り扱うことができることになる。

    

要するに、2年後の論文「数の概念」の方が一般的なのだ。例えば加法(足し算)を考える時にも、他の似た演算をまとめた一般論を語る形になってる。それが「より簡明」かどうかは読み手の主観の問題も大きいが、一般性を求めて前進(または変化)してるのは確かだ。

  

いわゆる「ペアノの公理」(英 Peano axioms)の書き方も違って、「算術原理」では9つの「公理」を冒頭に掲げてるが、「数の概念」では5つの「原始命題」になってる。つまり、性質が異なる4つは別扱いする形で、数にとって本質的な5つのみを残してたわけで、実際、現在の数学でもこの5つをペアノの公理とすることが多いという指摘もある(英語版ウィキペディア)。「数の概念」の訳本もその立場となってる。

  

とはいえ、「算術原理」の方が2年早いし、こちらの方が英語圏では有名なようで、題名の影響もあるのかも知れない。ともあれ、この論文の冒頭を見てみよう。ラテン語の原書は Internet Archive で公開中。副題は「NOVA METHODO EXPOSITA」(新しい方式で提示された)。

  

200129a

  

なお、英訳をネット上で2種類発見したが、片方は数人の個人による草稿で未完成(論理的誤りもある)、もう片方は著作権の扱いが不明だから、リンクは付けないことにする。

   

      

     ☆     ☆     ☆

200129b

  

論文の最初で、論理学を準備して、ここからが算術(または算数)の話。最初に「公理」が9つ並んでる。複数形 Axiomata. だから、正確に訳すと「諸公理」。公理系とまで訳してしまうと、訳し過ぎだろう。

  

書き方、表記法が独特で、慣れるまでは読みにくくて分かりにくい。いちいち「.」(ピリオド)で区切るし、その次の区切りは「:」、さらに「∴」「::」と区切っていく。点の数が1コ、2コ、3コ、4コと変化するから、ペアノ本人にとっては規則的で分かりやすいのだろう。「⊃」は「ならば」と訳すが、本来は、前から後ろが「演えきされる」という意味だ。

   

200129c

  

1. 1εN. (1は、あるNだ。 ; 1はNのある要素だ。)

 (引用者による注) 上の左側の訳がペアノ自身の説明に即したものだが、以下では分かりやすさのため「・・の要素」と略記。ただし9を除く。

2. aεN.⊃.a=a. (aがNの要素ならば、a=a。)

3. a,b,cεN.⊃:a=b.=.b=a. (a、b、cがNの要素ならば、a=bとb=aは同じことだ。)

 (注) cは関係ないので、次の4の始めと混同した入力ミス。

    

4. a,bεN.⊃ ∴ a=b.b=c:⊃.a=c. (a、bがNの要素ならば、a=bかつb=cならa=c。)

 (注) 最初にcを入れるのを忘れたミス。上の注も参照。

5. a=b.bεN:⊃.aεN. (a=b、かつbがNの要素ならば、aはNの要素。)  

6. aεN.⊃.a+1εN. (aがNの要素ならば、a+1はNの要素。)   

7. a,bεN.⊃:a=b.=.a+1=b+1. (a、bがNの要素ならば、a=bとa+1=b+1は同じことだ。)

 (注) +という演算、写像は1対1の対応だということ。

   

8. aεN.⊃.a+1 ─= 1. (aがNの要素ならば、a+1=1でない。)

 (注) 横線は否定(ノット)の意味。今なら¬などの記号を用いる。要するに、1がNの最初の要素で、1+1、(1+1)+1・・・と続くということ。

9. kεK ∴ 1εk ∴ xεN.xεk:⊃x.x+1εk::⊃.N⊃k. (kがある集合で、1はkの要素で、任意のxについてそれがNとKの要素ならx+1もkの要素であるならば、Nはkに含まれる。)

 (注) いわゆる数学的帰納法のこと。「任意の・・」を小文字の添え字で表すのは、省略されることが多いが、ここでは「⊃x」と書き添えてある。

   

   

     ☆     ☆     ☆

2年後の「数の概念について」では、上で「+1」と書いてる所は単なる「+」になる。つまり、+という記号は二項演算とか2変数関数というより、一項に対する右作用演算になり、「+」を1回行う演算が「+1」とされる。「+」を2回続けて行う演算が「+2」。

   

一方、「算術原理」におけるペアノの「+」や加法(足し算)の扱いは、普通の感覚に近い。まず、1に続く2、3、4、・・・といった自然数を、+1の足し算の形式で定義する。公理に続く「Definitiones.」(諸定義)。1行にまとめられた定義なのに複数形のタイトルを付ける辺りも、日本人にとっては細かく感じられる。

  

 10 定義 2=1+1 ; 3=2+1 ; 4=3+1 ; etc.

   

上の最後の無限に続く箇所を「etc.」(エトセトラ)で済ませていいのかどうか気になるが、必要なら、5=4+1、6=5+1と増やせばよいということか。

   

少し飛ばして、いよいよ加法の定義に向かおう。原文には「加法の」という言葉は付いてないし、「Definitio.」だから単数形。つまり、既に何度も使われてる「+1」を除く加法は、1つの定義で済ませてる。

  

 18 a,bεN.⊃.a+(b+1)=(a+b)+1 (a、bが自然数ならば、a+(b+1)は(a+b)+1で定義される。)

   

 

   

    ☆     ☆     ☆

上の足し算の定義の意味や意義は、実際に足し算の証明をしてみるとよく分かる。以下、ペアノの証明法に近いやり方で、私が証明しておく。

  

1+2=3の証明

1+2=1+(1+1) (2の定義)

   =(1+1)+1 (加法の定義)

   =2+1     (2の定義)

   =3       (3の定義) 

           (証明終)

   

2+3=5の証明

2+3=2+(2+1) (3の定義)

   =(2+2)+1 (加法の定義)

   =(2+(1+1))+1 (2の定義)

   =((2+1)+1)+1 (加法の定義)

   =(3+1)+1  (3の定義)

   =4+1  (4の定義)

   =5   (5の定義)

         (証明終)

   

  

要するに、加法の定義を1回使うごとに、右側で足す数が1ずつ小さくなるのだ。1+2=3の証明では、加法の定義を1回使って、1+1(=2)へと帰着させる。2+3=5の証明では、加法の定義を2回使って、2+1(=3)へと帰着させる。

   

ちなみに、ペアノに似せた現代的なシステムだと、普通は0も自然数と考えて、「+0」へと帰着させる。例えば、1+2=3の証明なら、加法の定義を2回用いて、1+0(=1)へと帰着させることになる。

 

   

    ☆     ☆     ☆

では最後に、加法の結合法則の証明を行う。ペアノ自身の書き方は分かりにくいし、補足的説明も必要だから、ここでは私がわりとペアノに似た形で証明する。以下、a、b、cはNの要素。cに関する数学的帰納法を用いる。

   

a+(b+c)=(a+b)+cの証明

 a+(b+1)=(a+b)+1 (加法の定義) 

 a+(b+c)=(a+b)+c と仮定すると、

 a+(b+(c+1))

=a+((b+c)+1) (加法の定義)

=(a+(b+c))+1 (加法の定義)

=((a+b)+c)+1 (仮定)

=(a+b)+(c+1) (加法の定義)

 

公理9(数学的帰納法)により、

すべての自然数cについて、

a+(b+c)=(a+b)+c

          (証明終)

   

   

   ☆     ☆     ☆

上の仮定で、普通はc=kで成り立つと仮定すると・・などと書く所だが、ペアノは元の文字cのままで書くので、それを尊重した。文脈を作る接続詞が無いのも特徴。あと、ペアノ本人は、a+b+cを(a+b)+cで定義した後、a+(b+c)=a+b+cを証明してた(定理の23番、下図)。

  

200129d

        

この後また、別の記事も追加しようと思ってる(追記:既に追加済、下のリンク)。とりあえず、今日の所はこの辺で。。☆彡

   

   

  

cf.ペアノの自然数論、減法(引き算)、乗法(掛け算)、除法(割り算)~論文『算術原理』2

   

        (計 3871字)

   (追記61字 ; 合計3932字)

| | | コメント (0)

魯迅『孤独者』が敷いた死のレール~2020年センター試験・原民喜『翳』全文を読んで

魯迅(ろじん=ルー・シュン)の文章を読んだのは、中学か高校の国語の教科書以来だろう。私は子ども時代からそれなりに、小説は好きだったが、魯迅には正直、良い印象は無かった。

   

まず作家名の漢字が読みにくくて、中国人の人名にも見えない。実際、今はじめて調べると、魯迅というのはいくつかある筆名(ペンネーム)の一つであって、本名は周樹人(チョウ・シュウレン)らしい。これなら少年時代でも、わりとしっくり来る人名だが、作家としてはむしろ違和感があるほどインパクトある名前が欲しかったということか。

      

小説か私小説か随筆(エッセイ)かはともかく、文章の内容も暗く重いもので、中国語から日本語への翻訳の問題もあるのか、堅苦しくてぎこちなく感じる。百年ほど前の文学者・思想家だから、時代背景や文化的背景もかなり分かりにくい。

    

ただ、流石に大人になった今読むと、評価が高いのは理解できる気がした。特殊な現実を多少変更して、独自の文体と視点で語る文章。左翼とか革命家、左派・リベラルなど、政治的立場は抜きにしても、孤独で「翳り」のある知識人には魅力的だろう。原民喜(はら・たみき)にとっても、彼の友人・知人たちにとっても。

   

もちろん人はみな、ある程度は知識人であり、孤独で翳りのある存在だが。。   

   

   

     ☆     ☆     ☆

2020年、最後のセンター試験の国語の第2問『翳(かげ)』を読んだ時の第一感は、全体的にいま一つだな・・というものだった。ツイッター検索をかけても、最近のセンター国語としては盛り上がりに欠けてて、面白ネタに期待するネット民も拍子抜けといった感じ。

              

ただ、読んだ後すぐ作者・原民喜の情報を調べて、鉄道自殺した作家だと知った時、問題文の見え方がかなり変化。印象が良くなった所で、すぐにこのブログでレビュー記事をアップした。当サイトにとって毎年恒例、正月明けの行事だ。

  

 妻、隣人、そして自分・・戦争をはさむ死の影のレール~原民喜の小説『翳』(2020年センター試験・国語)

   

その後、上の記事に書いた初出の情報を確認するために、『定本 原民喜全集』第一巻(青土社)をチェック。全文を読んで、短編小説『翳』の評価はさらに上がった。と言うより、全文を読まないと、この小説の価値は半減以下になってしまうと思う。もちろん、センター試験は小説の評価や鑑賞のためにあるのではなく、受験生の選別のためにあるわけだが。

    

ちなみに、初出は前の記事で推測した通りだった。雑誌『明日』第14号(日本人民文学会編、公友社、1948年・昭和23年11月号)。この3年前に広島で原爆被災、3年後の1951年に東京で自殺(または自死)。以下、いわゆる「ネタバレ」であって、受験生はもちろん、一般にほとんど知られてないと思われる情報を書くので、ご注意あれ。

   

  

    ☆     ☆     ☆

さて、原民喜『翳(かげ)』の全体は、二部構成になってる。センターの問題文は後半の「Ⅱ」(第二部)であって、全集の11ページの内、7ページ分。一番最後あたりに「魯迅」という作家名が出て、注20で簡単な説明があった。「中国の作家(一八八一 ─ 一九三六)。本文より前の部分で魯迅の作品に関する言及がある」。

      

そのⅡの前には、「Ⅰ」(第一部)が5ページ分あるのだ。画像はamazonより借用

  

200126a

      

冒頭でいきなり、魯迅と「影(かげ)」が結びつけられる。やや長くなるが、決定的に重要な箇所だから引用してみよう。引用全体は、最初の一段落を構成している。「旧字・旧仮名」と呼んでいいのかどうか知らないが、今とは違う原文のままの文章にしとこう。

  

 私が魯迅の「孤独者」を読んだのは、一九三六年の夏のことであつたが、あのなかの葬(とむら)ひの場面が不思議に心を離れなかつた。・・・とある夜明け、私は茫とした状態で蚊帳(かや)のなかで目が覚めた。茫と目が覚めてゐる私は、その時とらへどころのない、しかし、かなり烈しい自責を感じた。

   

・・・向側の蚊帳の中には、誰だか、はつきりしない人物が深い沈黙に鎖(とざ)されたまま横はつてゐる。その誰だか、はつきりしない影は、夢が覚めてから後、私の老いた母親のやうに思へたり、魯迅の姿のやうに想へたりするのだつた。この夢をみた翌日、私の郷里からハハキトクの電報が来た。それから魯迅の死を新聞で知つたのは恰度(ちょうど)亡母の四十九忌の頃であつた。 (第一段落終了、引用終了)

  

  

    ☆     ☆     ☆

母と魯迅の死を先取りする正夢、あるいは予知夢みたいな妖しい夢。そこには、満州事変の後、日中戦争(日華事変)や太平洋戦争・第二次世界大戦の前、という時代背景もあるし、現実の魯迅の小説もある。

  

200126b

   

そこで私は、久しぶりに魯迅の小説を読んでみた。国会図書館デジタルコレクションでは一般公開されてないし、青空文庫にも無いが、アマゾン電子書籍の読み放題、kindle unlimited(キンドル・アンリミテッド)に入ってたのだ。

  

魯迅『阿Q正伝』、増田渉訳、角川書店。この本自体は新しいが、底本が1961年の角川文庫だから、訳文がかなり古くて読みづらい。英語が非常に得意な人なら、むしろインターネット・アーカイブで無料公開されてる英訳の方がいいかも知れない。「The Misanthrope」というタイトルも、人間嫌い、付き合い嫌いの人という英語だから、意訳としては分かりやすい。

  

「孤独者」(孤獨者)は上の訳本の中盤に収録。冒頭の一文だけでも、内容の想像がつく。「私が魏連殳(ウエイリエンシュー)と親しくしたのは、考えてみると風変わりであった、というのが葬(とむら)いにはじまって、葬いに終わった」。

   

この訳文を活かして今の翻訳へと修正するなら、「というのも・・・からだ」といった感じだろう。「孤独」という表現が適当なのかどうかハッキリしないが、人付き合いの悪い変わり者の知識人と「私」(魯迅)が葬儀で出逢い、葬儀で別れるのだ。最初は、その彼の祖母の葬儀。最後は、彼自身の葬儀。

   

彼は、独自のこだわりを持って一人で生きていたが、やがて生活に困ったような形で仕事に就き、遊びも覚え、自嘲気味の現実的生活の中、病気で孤独に死ぬ。小説の一番最後は、この日本語訳では「かげ」という言葉で締めくくられるのだ。文章的にも内容的にも美しく文学的な終わり方なので、あえて引用しない。ちなみに前述の英訳では「かげ」に当たる英語は無い。

    

     

     ☆     ☆     ☆

さて、魯迅「孤独者」を読んだ後、原民喜「翳」と彼の人生を振り返ると、魯迅の敷いたレールの上を原が辿っているのが分かる。作者としても、一人の知識人としても。

    

もともと原がこの「孤独者」を読んだのは、文学畑の若い友人・岩井繁雄の言葉がキッカケだったようだが、この友人は文学から離れた職につき、召集されて戦地で病死する。愛人(内縁の妻)は、彼が戦地に行った後、別の愛人を作り、彼の死後は恩賜金を受け取った後、岩井の(?)老母を見捨てて立ち去ったとのこと。岩井が「孤独者」に見えて来る。

   

彼と出会った研究会の主催者、重々しく沈鬱な長広幸人も、戦地で病死。妻は資産目当てだったそうだから、これも「孤独者」の類。さらに、原に岩井を紹介した友人だけ、なぜか「S」と書かれてるが、おそらくこれも魯迅「孤独者」を意識したネーミングだろう。魯迅は冒頭の3行目くらいで、なぜかアルファベットを使って「私はS町にいた」と書いてるので。

   

結局、原民喜の周囲を取り巻く「死のレール」は、少なくとも15年間にわたって延びてたことになる。必ずしも時系列ではないが、魯迅「孤独者」のリエンシュー(実在モデルは范愛農=フアンアイノン)、原の母、魯迅、センター問題部分の魚芳、妻。そして、大勢の戦死者を挟んで、本物の鉄道レール上の自分。

   

  

     ☆     ☆     ☆

ちなみに、最近はほとんど乗ってないが、私はバイク(オートバイ)が好きだ。バイクの世界では、自分が進もうとする方向に視点をおく、視線を向けるのが操縦の基本になる。

    

特に、コーナー(曲がった道)では、意識的に内側を見る。もし外側を見てしまうと、遠心力に従って自然に外に進んでしまって、ガードレールに衝突したり転落したりしてしまうのだ。

    

人間が意識的・無意識的に持つ、心理的イメージの巨大な影響力。もちろん、誰もが死に向かう存在だし、長く生き延びることが良いこととも限らないわけだが、本人も周囲も多少は自覚的であるべきだとは思う。作品と向き合うにせよ、人と接するにせよ。

      

なお、今週は計14525字で終了。ではまた来週。。☆彡

   

      (計 3475字)

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧