谷川俊太郎追悼、生と性と死の詩「なんでもおまんこ」(詩集『夜のミッキー・マウス』)を読んだ感想、意味の解釈
この記事タイトルに入ってる4文字はもちろん、放送禁止(自粛)用語の最たるもの。私も過去19年間以上、毎日更新してるこのブログで、一度も書いたことはない。
1文字か2文字はバツ印の伏字にしようかとも思ったが、日本を代表する大御所の詩人・谷川俊太郎の作品名だから、ネット上にもそのまま溢れてる。実際、私がこの詩を知ったのは朝日新聞デジタルの訃報記事で、しかも執筆者は女性記者だった。
pdfファイルでアップされてる学術論文でもそのまま。各種の詩集の類でもそのまま。というわけで、非営利の個人ブログであるこのサイトでも、芸術関連だからそのまま書くことにする。ただし、記事タイトルを含めて2回だけの表記に留めるので、悪しからず。
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過激なタイトルの詩は、2003年9月25日発行(発売は23日?)の詩集『夜のミッキー・マウス』(新潮社)などに収録されてる作品。この詩集は、今では新潮文庫として流通してるけど、私は元の単行本を読んだ。文庫本との違いは不明。
目次を十分縮小した画像で引用すると、問題作は7番目の配置で、そこまでどうも一般ウケを狙ったようなタイトルが並んでる。
ミッキー、ドナルド、プルートー、アトム、ああ、ママ、なんでも・・。その後の4つの詩のタイトルとはかなり違ってるのが分かる。ちなみに「ああ」という題名の詩も、内容的には「なんでも」に近い性的な作品。
ちなみに、amazonのkindle電子書籍のサンプルで文庫本の目次を確認すると、順番は同じようだが、1行空けによる区切り方が少しだけ違うのかも知れない。
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さて、私が妙なタイトルの詩を知ったのは、下の朝日の記事を読んだ時。朝日は、生前から谷川の記事をよく掲載してた。
「亡くなる2週間前、谷川俊太郎さんは言った 『死ぬっていうのは・・・』」 (田中瞳子記者)
無料で読める部分のラストに、まるでその後の有料登録へと誘うような形で、次のように書かれてた。
「2023~24年にかけてロングインタビューをした。自身の詩を朗読する動画を撮りたいとお願いすると、詩の選定で一つだけNGが出た。『「なんでもおまんこ」はダメ』。いまの時代、このタイトルでは風あたりが強いだろう。そう思っていたら、続けてこう言った。『この年になると元気に読めないから』」。
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92歳の巨匠の詩人でなければ、今どき男性が女性記者にそんな話をすると、セクハラ扱いされても不思議ではない。
年齢、評価、芸術、この3点に加えて、記者との信頼関係が揃ってはじめて、そんな話も許される。というより、記者はむしろ谷川らしいエピソードとして面白がってるわけだが。
とにかく、その「元気」な詩をネットで調べると、詩の全文どころか、本人の過去の朗読動画まで無料公開されてた。著作権に緩い作家ではなさそうだから、特別扱いの作品ということか。それほど元気に読んでるとも感じなかったけど、死の直前だと遥かに元気が衰えてたわけか。
21年前のインタビュー記事を読むと、自作朗読をお願いされて元気な詩を読む前に、こう語ってた。「これは一人で読むとなんとなく読みにくいですけれど(笑)、気に入っているんで読みます」。
ちょうど、単行本を出した時期だったことは割り引くとしても、やはり数ある作品の中でも本人お気に入りの一つだったのは確かだろう。
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では、詩の内容について。例の詩の前に、詩集の表題作である巻頭の詩、「夜のミッキー・マウス」について先に触れとこう。詩集のp.10~p.12。初出は『新潮』2003年5月号。
冒頭は、「夜のミッキー・マウスは 昼間より難解だ」。簡単に言うと、「陽気なほほえみから逃れて 真実の鼠に戻る」時が「夜」。
「地下の水路」を歩き回って、「子孫をふりまきながら歩いて行き ついには不死のイメージを獲得する」。
ここにも、生殖としての性行為と種族保存本能のような話があるから、ひょっとして・・と思って、同期の巨匠・大岡信との対話(往復書簡)『詩と世界の間で』(思潮社)をチェックすると、やはり精神分析家フロイトの名前が出てた。年代的にも分野的にも、ユングも含めて、深層心理学の影響は受けてるはず。
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で、夜の人間、夜の男・谷川俊太郎としての姿をあらわにしてるように見えるのが、例の元気な詩「なんでも・・」。
詩集のp.30~p.33。初出は『小説新潮』1995年11月号、p.68~p.73。「性の大特集 ポルノか文学か」に含まれた作品の一つ。当時のこの雑誌は、性の特集が多かったようだ。
「なんでもおま×こなんだよ あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ やれたらやりてえんだよ」
この場合の「丘」とは、少し離れた乳房というふくらみと、本物の地形の丘とを重ね合わせた表現だと思う。直後の「空に背がとどくほどでっかくなれねえかな」という表現も、無限の空間へと視界を広げつつ、自らの男性性器の巨大化幻想も含ませてる。
単なるフィクションとは思えないから、ウィキペディアその他で調べると、どうも3回結婚して、3回とも離婚してるらしい。NHKテレビの訃報だと、子どもに勧めたい芸術みたいな扱いになってたが、実際に読むと、大人の性(特に男の性)があからさまに描かれてる。絵本や漫画(スヌーピーの翻訳)なら、子どもでも安全ということか。
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空を抱き、花に入る。「あれだけ入れるんじゃねえよお ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお」。
つまり、女性に包まれる形での一体化。これも、精神分析的、深層心理学的な発想で、自らの存在全体で「あれ」の代わりに母(または女性)の欲望を満たす、という意味。
それと共に、生まれる前か直後あたりの母子未分状態へと退行するという意味もある。過去の満ち足りた幻想的な状態。その後に訪れるのが、母からの独立に伴う「分離不安」とか。
さらに風にも触られた後、いよいよ詩の最後となる。それこそ、死。なぜか日本語だと、詩と死の発音は同じく、「し」になってる。ただし、詩人は「しじん」、死人は「しにん」。僅かに死と距離を保つ限界の生こそ、詩人という稀有の存在だろうか。
「おれ地面掘るよ」。土をかけてもらって、「草も葉っぱも虫もいっしょくた」。そして、「笑っちゃうよ おれ死にてえのかなあ」で終了。
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この死にたさは、別に即身仏の修行とか、自殺というような能動的なものではない。生=性の原点である母子未分へと遡ると、結局は自分の生命が無い辺りまで行き着くことになる。無意識のうちに、生の限界を超えてしまう。
逆に、これは死ではなく、新たな生のあり方だという見方も可能。いわゆるアニミズム的思考で、万物に命が宿ってると考えるなら、万物と溶け合う形も生命のあり方の一つなのだ。普通の人間の生命とは違う形で。
逆にアニミズム的な考えを基本にすれば、普通の生や性の見方こそ、フェティシズム(呪物崇拝)なのだ。小さな部分だけを特別視する態度。
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なお、この詩と同時に95年の雑誌で発表された「ああ」では、女性の性のようなものも描かれて、「ママ」では母親の性(せい=さが)のようなものも描かれてる。合わせて、性と生の三部作とでも言うべきか。
ただ、「ああ」や「ママ」で描かれてるのも、あくまで男性・谷川俊太郎にとっての女性、母親のように感じられる。私も男性なので、読んでると恥ずかしさで赤面してしまうような部分もあった。
要するに、女性には喜んで欲しい、母親にはいつまでも自分(子ども)を愛して欲しい、という思い。無意識のうちに男児が持ち続ける根源的欲望。父親が(まだ)登場してないということは、精神分析的には「前エディプス期」的な発達段階。
60歳を超えた時点でなお幼児期から続く思いを、あえて直接的な言葉で芸術へと昇華させたのが、三部作ということだろう。時間が無くなったので、今日はそろそろこの辺で。
どうか安らかに。新たな無限の生の充実を祈りつつ、合掌。。☆彡
(計 3282字)
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