遠藤周作の小説「影に対して」(26共通テスト国語)全文レビュー・書評 ~ 母と父、私の2つの影とエディプス・コンプレックス

毎年、このブログで恒例となってる、共通テスト(旧センター試験)の記事。特に、小説の全文レビューの需要が非常に多いので、今年もまず、小説の全体の書評を書くことにしよう。

    

国語の試験が14時半に終わると、SNS(特にX:旧 twitter)には受験生のつぶやきが溢れる。昔はその中に、問題文の画像が少しだけ混ざってたけど、今年はあらかじめ注意が徹底されてたこともあって、何が引用されたのかもなかなか分からなかった。

   

やっと評論と小説のタイトルを書いた投稿を発見したのは、約30分後の15時ごろ。待ち構えてた私は、直ちに元の小説を読みながら、ニヤニヤと笑ってしまった。

  

普通に考えると、笑う内容ではなく、重くて暗い内容。ただ、各年代における主人公の気持ちがどれも分かるし、父と母の気持ちや言い分もよく分かる。私がいっぱい登場してるよな・・と思って笑ってたのだ。

   

ということは、登場人物たちは、私の「影」でもある。つまり、私と「密接に結びついてる似姿、暗くて黒い分身」。

   

   

     ☆   ☆   ☆ 

さて、遠藤周作の未発表作『影に対して』。わずか5年ほど前、2020年に発見されたこの作品は、まず『三田文学』2020年夏季号に掲載。解説も2つ付いてた。

   

☆追記: 執筆は1965年~1969年と推定されてる。完成はおそらく1966年3月以降。)

     

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続いて同年、新潮社の単行本『影に対して 母をめぐる物語』が出版。「影に対して」という表題作以外に6本の小説がまとめられてるから、題名に「母をめぐる物語」と添えられてる。

   

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未発表作そのものには、このような副題は付いてないので、念のため。さらに2023年には、新潮文庫にも収録。ただし、「母なるもの」という作品だけは別の文庫本の表題作になってる。

   

   

     ☆   ☆   ☆  

単行本の中で、表題作「影に対して」は、実質的にp.9からp.81までの73ページ。その内、共通テストの国語・第2問で引用されたのは、p.40~p.46の7ページ分だから、全文の10分の1にすぎない。

    

ただ、普通に読解するだけなら、決して難しい物語ではないから、読みやすいと感じた受験生も多いと思う。要するに、父と母と子の関係という普遍的なものを描くストーリーだから、理解も感情移入もしやすいはず。

  

ちなみに、その小説は、かなり作者本人の自伝に近い私小説的な作品と考えられてるようで、NHKのETV特集でも2021年にミステリアスなドキュメンタリー的特別番組が放送されてた。「遠藤周作 封印された原稿」。現在はオンデマンドで視聴可能。

     

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     ☆   ☆   ☆

さて、「影に対して」というタイトルは、冒頭のまえがきで書いたように、主人公(かつ筆者)である私・勝呂(すぐろ)有造の「暗くて黒い分身に対して」という意味だろう。もう1人の闇の私、ダーク・エゴ。闇とは、「病み」でもある。広い意味で。

       

その影とは、表面的にはまず、母を表すように見える。実際、だからこそ単行本や文庫本では、「母をめぐる物語」として扱われてる。

   

共通テストの問題冒頭、引用直前の説明でも、「彼は母のことを思い出しては現在の自分の生き方について考えるようになる」とだけ書かれていて、父という言葉は使われてない

  

   

     ☆   ☆   ☆

以下、いわゆるネタバレになるので、ご注意あれ。すぐ手に入る新しい本だから、自分で先に全体を読むのは簡単。電子書籍にもなってるから、ネット購入すれば今すぐ読める。

    

母の勝呂(すぐろ)節子は、ヴァイオリンを極めようとして、結婚して子供が生まれた後も練習に打ち込んでた。それが、夫(主人公の父)や伯母に強く批判されて、結局は普通の専業主婦のような暮らしを始める。

    

でも、本当は一つの音を追求したい性格・生き方だから、内心では強い不満を隠し持ってる。母のそうした葛藤、つまり主人公の影の陰(または翳)は、やがて病院行きにもつながってしまう(おそらく服薬による自殺未遂)。

   

結局、父親に捨てられるような形で離婚して、満州から日本に帰国。息子とはほとんど会えないようになった後、ヴァイオリンでも上手く行かず、孤独死してしまうのだ。

   

   

    ☆   ☆   ☆

一方、母を愛する息子=主人公も、本当は小説家を目指してる。でも上手く行かないし、家族(妻と息子)を養う必要もあるから、仕方なく翻訳家で生計を立ててる。

   

でも、それは母を捨てた父のような、平凡で安全な生き方。母も、自分ならではの独自の生き方をして欲しいと、息子に強く話してた。歩きやすいアスファルトの道ではなく、歩きにくくても自分の足跡が残る砂浜のような道を歩いて欲しいと。

   

しかし現実として、母は1人さみしく死んでしまって、アパートの管理人に発見されることになった。砂浜に足跡を残したとしても、ほとんど注目されないまま消えてしまって、自分の記憶に残ってるだけ。

  

それどころか、どうも周囲の大部分の人に冷たい視線で見られてたらしい。母の従兄にも、成功したヴァイオリン仲間にも、学校の教え子たちにも。

      

それでは自分は、今後どう生きるべきなのか。愛する母を追うのか。それとも母から自立するのか。母子未分、一体化された幼児的状態から、分離不安を断ち切って、独立した存在になれるのか。。

  

   

     ☆   ☆   ☆

今年の共通テストが問題にしてたのは、そうした部分、側面にほぼ限られてる。

    

基本的には、文字通りの意味での「マザー・コンプレックス」。劣等感とか、通俗的な意味でのマザコンいうより、母に対する複雑な思い。母という「影に対して」強く持ってる、様々な感情や考え。同じく自伝的な遠藤の小説「母なるもの」には、「母に対するコンプレックス」で嘘をついてたという記述もある。

   

しかし小説の全体を読んで考えると、本質的にはむしろ、父の方を強く表してるのではないか。つまり「ファザー・コンプレックス」、父という「影に対して」強く持ってる、複雑な思い。

    

私がそう思い直すキッカケになったのは、ネットでも(ほとんど)全く注目されてない、父の不思議な趣味だった。主人公である息子も、その中身については考えてない。読者の大部分も、おそらく分からないまま素通りになると思う。私がある独自解釈に気づいたのも、半ば以上に偶然だった。

   

☆追記: この小説の仮題は「男」だったらしい。やはり、父親を中心に書かれた小説なのだ。専門家・山根道公の論文「遠藤周作『影に対して』より。『三田文学』2020年・秋季号。)

   

   

     ☆   ☆   ☆

小説の序盤(単行本p.13~)、は、翻訳家になってる息子に対して、原稿用紙300枚もの長い文章を書いたから有名出版社を紹介して欲しいと頼む。李商隠の伝記。電子書籍の無料サンプルでも確認可能。この妙なエピソードは、小説の結末の直前にも再登場する。

   

昔の中国の詩人で、知る人ぞ知る存在だけど、普通の日本人なら知らない存在、気に留めない人名だろう。私が知ったのは去年、三浦しをんのベストセラーをドラマ化した『舟を編む』をNHKで見て、レビュー記事を書いたから。

    

原作小説で引用されてるのが、李商隠の有名な漢詩の一部。

    

 嫦娥応悔偸霊薬

 碧海青天夜夜心

   

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上図は、ウィキペディアの項目「嫦娥奔月」より。詳しい説明は、以前のドラマレビューに書いたので、ここでは省略する。要するに、私と専門家の1人は、こんな感じで解釈してるのだ。チャッピー(最新AI、ChatGPT5.2)も賛成してくれた。

    

 彼女はどうして、遥かな月の世界へと旅立ってしまったのか。

 今ごろ後悔して、こちらの世界を見てるんじゃないか。

 そう思いたいほど、彼女に対する私の思いは今でも強い。。

    

   

     ☆   ☆   ☆

これこそ、「影に対して」における、父の思いではないか。

  

 妻はどうしてヴァイオリンの世界へと旅立ってしまったのか。

 今ごろ後悔して、昔の家族生活を思い出してるんじゃないか。

 そう思いたいほど、別れた妻に対する私の思いは今でも強い。

  

父のそうした思いは、共通テストの引用箇所の直前にもハッキリ表されてる。離婚する前、母が演奏会を開いた時、父は廊下の椅子に座ったまま、壁と向き合って座ってたのだ。

  

父のうしろ姿には、だれからも相手にされない、寂しそうな翳があった」。

  

その姿を見る息子も、演奏会を抜け出して1人でトイレに向かう途中。他の誰かが見ればまさに、「息子のうしろ姿には、だれからも相手にされない、寂しそうな翳があった」ということになるはず。

  

ちなみに、男児がトイレ(便所)に行くということは、普通なら性器を触ることになる。母という愛する女性に相手にされなくて、自分の手で男性器を触る。非常に性的、自愛的な象徴表現。

    

そこで、ポイントになる言葉の「影」(かげ)が、「翳」という感じで書かれてる点も見落とせない。影=かげ=翳=父。「影に対して」という題名が、母だけでなく父に向けられてることが明示されてる部分の一つ。

   

   

   ☆   ☆   ☆

最後に、ウィキペディアの「遠藤周作」の項目にもある、エディプス・コンプレックスという概念と結びつけてみよう。

  

単行本の後半に収録された「母なるもの」という小説に、「精神分析学など詳しくはない私」といった表現が含まれてる。ということは、一応知ってるし、意識してるということの裏返しだろう。そこでは、母に似た人物が登場する夢を見る話が書かれてた。

      

フロイトが1900年ごろに創始した精神分析学の中心概念の一つで、神話のエディプスみたいな複雑な思いという意味。ごく簡単にまとめると、男の子の場合、父への憎しみと、母への愛ということになる。父殺しと近親相姦。

     

ちなみに、古代のエディプス神話では、息子のエディプスが知らないうちに(無意識の内に)父を殺して、知らないうちに母と結婚。その後、自分で気づいて、罪悪感に苦しむというような物語が展開されてる。

    

  

    ☆   ☆   ☆

ただ、ごく簡単にそうまとめてしまうと、その後はどうなるのかが抜け落ちてしまう。最も重要なことは、男の子は父を殺す代わりに、父と「同一化」するという点なのだ。そうすれば、母は父の妻だから、自分の妻ということになって、危ない葛藤は解消される。特に、無意識の領域では。

       

例えば、フロイトの「エディプス・コンプレクスの消滅」という論文では、次のように書かれてた。

  

「子供の自我は、エディプス・コンプレクスから目をそらしてしまうのである。・・・リビドーの対象充当が放棄され、同一化がこれに代わるのである。父親または両親の権威が自我の中に取り入れられ、そこで超自我の中核となる」(人文書院『フロイト著作集』第6巻)。

  

☆追記: 先ほどの追記のように、この小説の仮題が「男」だったとすると、遠藤周作自身が、父と自分を男として同一視してることになる。つまり、同一化を認識してるのだ。)

   

   

    ☆   ☆   ☆

小説の最初と最後が、実は、父との同一化について暗示してるのだ。冒頭は、主人公が、父との写真を見てるシーンになってる。

   

「・・・父と一緒である。どの写真のなかでも、今の彼と同じ年頃の父は愛想笑いを浮かべていた。(彼は自分も写真をとられる時、この父と同じように、気の弱そうな微笑を頬に浮かべることをふと考えた)

   

父と「一」緒、父と「同じ」。小説の最初から、これほど分かりやすい同一化の描写があるのは珍しいはず。

    

   

    ☆   ☆   ☆

ところが小説の最後。息子である主人公は、あれほど反発してた父にお金を借りに行くハメになる。自分の息子である稔(父の孫)の病院代。そして、妻にこう言われてしまうのだ。

    

あなたなんか、お父さまぐらいにも、なれないんじゃありませんか

   

父との同格の同一化に失敗する可能性。取り込まれてしまう恐れ。愛する母は、既に淋しく死亡。母の代わりになるはずの妻にも冷たく扱われてる。妻の言葉に激怒した息子は、妻を撲ろうとしたけど、父よりも気弱だから出来ない。

   

行き場を失った絶望的な場面で小説は終わる。最後に彼が思い浮かべたのは、「母の死顔」、「まだ苦しそうな翳」だった。

   

   

     ☆   ☆   ☆

他にも、母の演奏会の時、父と息子は同じく廊下で孤独な思いをする。現実の遠藤周作がどうだったのかは、また別の機会に考えてみたい。とりあえず私も、ブログにこだわり過ぎて孤独死するリスクは避けるとしよう♪

  

今週は計19380字で終了。それでは、今日の所はこの辺で。。☆彡

   

  

    

cf. 蜂飼耳の小説「繭の遊戯」(25共通テスト国語)全文レビュー・書評

  ~ 家畜として玉繭で糸を出した蚕の幼虫、成虫で飛び立てたのか

   

 牧田真有子『桟橋』(24共通テスト国語)、全文レビュー・書評

   ~ 漁師に拾われた魚、捻じ切れた血の橋を自分で生き始める

   

     (計 4883字)

(追記212字 ; 合計5095字)

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松岡昌宏、国分太一への熱い友情、「何も説明しない日テレさんはコンプライアンス違反」(週刊新潮)&リハビリジョグ2

(4日)スロー JOG 14km,1時間28分02秒

平均心拍 111,最大 122

WALK 1km,13分,1700歩

   

   

    ☆   ☆   ☆

先週、週刊文春の国分太一の記事を扱ったから、今週は週刊新潮の松岡昌宏の記事に一言だけ触れてみよう。

   

要するに、サブスク契約してるamazonのキンドル読み放題で、主な記事が読めるからということ。と言っても、あまりに大量の電子書籍が読めてしまうから、週刊誌を読むヒマはほとんど無いんだけど、2025年という象徴的な年の暮れにはふさわしい内容だと思う。

    

一連の騒動のおかげで、クリスマス恒例のフジ『明石家サンタ』まで中止になってしまった。明石家さんまは以前、ブラックジョークで、明石家サンタは不幸話を笑う番組だからフジの社員ばっかになってしまうとか言ってた(多分)。

   

これは単なるジョークじゃなくて、事の本質をとらえてる。要するに、コンプライアンスを重視するという建前で、不幸が拡大し過ぎてるのだ。

    

何のためにコンプライアンス(法令遵守)があるのか、根本的におかしな本末転倒になってしまってる。そもそもコンプライアンス違反など、細かく調べれば無数にどこにでもある話だから、現実的なバランス感覚が必須なのだ。

   

数人の女性へのセクハラ騒動疑惑で一体、何千人(何百万人?)が巻き込まれてしまってるのか。何百億円のお金が吹き飛んだのか。殺人事件でもなければ、連続爆破事件でもない。そもそも刑事事件にさえなってないことで。。

    

   

    ☆   ☆   ☆

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さて、週刊新潮2025年12月11日号(12月4日発売)の後ろの方に2ページ掲載されてる、TOKIO・松岡昌宏の記事。見出しだけでも、思い切ったものになってる。

  

 「日テレからは何の説明もありません」

 松岡昌宏が初めて語った、「国分太一」「TOKIOの今後」

 

まず感心するのは、松岡が堂々と週刊誌に応答してること。株式会社TOKIOの幹部・広報担当としての責任を果たすということらしいけど、なかなか超有名芸能人には出来ないことだと思う。しかも、松岡はまだ日テレとの仕事関係がつながってる。

   

   

     ☆   ☆   ☆  

いきなり熱いものを感じるのが、冒頭の言葉。国分とはリモートで連絡を取ってるけど、わざわざ自宅に呼んで、手料理をふるまいながら話し込んだらしい。わざわざそこまで話すくらいだから、手間ひまも気持ちも入った料理だったはず。

    

インタビューのポイントは、既に見出しの1行目に書かれてる。松岡にも城島にも、日テレからは何の説明もないままらしい。それでいて、仕事は続いて来たし、今後も日テレとしてはそのつもりでいる(12月1日の社長会見)。

   

被害者(とされる複数の女性)のこともあって、国分と日テレの関係は修復不可能だとあきらめてるけど、せめて残った自分たち2人への説明くらいしてくれないのか。説明なしの扱いは、コンプライアンス違反ではないのか。

    

さらに、『鉄腕DASH』ではケガとか病院行きの件もあったと言う。それはコンプライアンス違反じゃないのか。ここまで言うのは、かなり思い切ったこと。たとえ一番大切な仕事を失うとしても、これだけは言っておきたいという覚悟。

   

熱い男だと素直に思う。だから、まさかの松岡自身のスキャンダルとか出ないことを祈りたい。そして、しばらく謹慎の時間をおいた後、また3人で活躍して欲しい。何なら、4人でも5人でも。STARTO社との契約は年内で終了にしたらしいから、一段と独立した自由なポジションで。。

    

   

     ☆   ☆   ☆

一方、単なる小市民アスリートの方は、何のスキャンダルも話題性も無い中、1人で地道に右脚太腿の故障と闘ってる所。

  

痙攣の翌日だった一昨日は、ほとんど歩くような走りしか出来ず。ただ、昨日はちょっとマシな状態で、しかも走り出す前にお風呂で下半身を温めたから、最初から一応ジョギングの形になってた。

   

元々の患部じゃなくて、その少し横や上側が腫れてて、手で軽く触るだけでも違和感があるけど、かばいながら14km。もう、右脚をかばってる左脚の負担も限界に近い。

   

  

     ☆   ☆   ☆

1km7分15秒くらいのペースでスタートして、周回の終盤は1km5分45秒くらいまで上げて、1km6分半でゴール。トータルでは、1km6分17秒ペース。想定内のやや悪い方だけど、慎重なリハビリだから仕方ない。ちょっとだけ余裕は残してた。

   

気温7.5度、湿度30%、風速2m。お風呂で温まった直後だから、上に2枚だけ着て走ったら、後半はかなり寒かった (^^ゞ 初めての試みだから、走ってる間に湯冷めするとは思わなかった♪ スピードが遅過ぎると。

   

心拍は恐ろしく低くて、夏の本気のウォーキングくらいか。測定できなかったけど、おそらく前日はもっと低い心拍だったはず。ウォーキングは、クールダウンの1kmだけ、ゆっくりと。

   

それにしても寒いから、流石にもうエアコン暖房を解禁しようかな・・とか思いつつ、ではまた。。☆彡

   

   

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           平均心拍 最大

往路(2.4km) 16分44秒 104 118

LAP 1(2.1) 13分40秒 110 114

  2   13分13秒 112 117

  3   12分32秒 115 118

  4   12分34秒 116 122

復路(3.0) 19分19秒 129 137

計 14km 1時間28分02秒 111(67%) 122(74%)

     

     (計 2177字)

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女性AI研究者・新井紀子の『シン読解力』とRST(リーディング・スキル・テスト)、問題例の批判的解説

新井紀子という名前は、ここ10年くらい、AIや数学・論理・教育の話でよく見聞きする。理系の専門家として売れてる女性の1人。このブログでも既に扱ってるつもりになってたけど、ブログ内検索をかけてみると、一度も扱ってないらしい。

    

そこで今日は、時間がない中、今年(2025年)の3月に出版された著書『シン読解力』の最初の方に出て来る問題を見てみよう。「シン」はサブカルチャーから借りた言葉で、新・真・深という意味だと思う。表紙には、「学力と人生を決める もうひとつの読み方」と書かれてる。

   

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その基礎的な読解力(リーディング・スキル)は、本を読むだけでは不十分だけど、技術としてトレーニングすれば、才能の有無に関わらず身につけることができる、とされてるようだ。企業にも浸透しつつあるらしい。さて、その中身、実体はどうだろうか。

    

  

    ☆   ☆   ☆

では、彼女たちが作り出したRST(リーディング・スキル・テスト)の問題例を一つずつ、見て行こう。

  

まず、問題02、係り受け解析。ネットでも何度か話題になってた有名問題、「アミラーゼ構文」

   

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そもそも私なら、元の文章は次のように一工夫して書く。改行は別に無くてもよいし、色分けも不要だけど、学校その他の授業なら、その程度のことはしてもいい。

   

 アミラーゼという酵素は、グルコースがつながってできたデンプンを分解する。

 しかし、同じグルコースからできていても、形が違うセルロースは分解できない。

    

2つの文に分けて、1つ目の文の主語・主部の節「アミラーゼという酵素は」の直後に読点「、」を入れる。すると、似たような文が2つ並んでいて、どちらも同じ主語だということが分かりやすいはず。

  

デンプンとセルロースが対応してるのも、一目瞭然。どちらも、同じ主語アミラーゼを「係り受け」てる。よって正解は、①デンプン。

   

   

     ☆   ☆   ☆

続いて、問題04、推論。つまり、学校教育でも実社会でもしばしば重視される、論理的思考

    

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私なら、「本当は『判断できない』けど、出題者や採点者は『まちがっている』を答だと思ってるんだろう」と推論して、仕方なく「まちがっている」と答える。これこそ、シン推論力。あるいは、シン適応力♪

       

要するに、素直に表面的に読むだけなら、森林が減って今では31%しかないけど、昔はもっと森林が多かったということ。だから、森林ではない部分は69%より少なかったことになる。だから、「70%以上が森林ではない部分だった」というのは、まちがっていると。

   

しかし、「失われた」というのが、1990年から2010年にかけて新たにプラスされた森林も加味した総体的な表現なのか、それともマイナスの部分だけ取り上げた表現なのか、曖昧で不確定。

   

その意味で、「シン正解」は、「これだけからは『判断できない』。ただし、『失われた』という情報が、新たに出来た森林も既に考えに入れたものなら、『まちがっている』」。

  

言い換えると、「・・・ただし、回答に際して、新たに出来た森林は気にしなくてよいという条件なら、『まちがっている』」。  

    

     

     ☆   ☆   ☆

さらに、問題05、イメージ同定。文章に適合するイメージ(図、円グラフ)を選び出す。

      

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これも、問題文や円グラフが良くない。1つの文の中で、違う意味のパーセントを2つ書いてるから、読者が迷うのは自然なこと。

  

円グラフも、①③④は論外として、正解とされてる②も不親切で不自然。

「0.28×0.35=0.098=9.8%」

という計算と単位変換を暗算ですぐ出来る人は、非常に少ないし、出来る必要もない。

    

私なら、2つの円グラフ(選手全体と、外国出身選手の全体)を書くか、元の文を例えば次のように書き換える。

   

 メジャーリーグの選手のうち28%は、アメリカ合衆国以外の出身の選手である。

 そうした選手の出身国(アメリカ以外)の中では、およそ35%のドミニカ共和国が最も多い。

     

もし円グラフに、②のように「ドミニカ共和国 3.8%」と書きたいのなら、元の文にその数字を入れるべきなのだ。「シン文章グラフ対応付け力」。

  

 そうした選手の中では、ドミニカ共和国の出身者が最多で、メジャーリーグの選手のうち、およそ9.8%である。

   

 

    ☆   ☆   ☆

最後は、問題07、具体例同定。与えられた説明に対して、その具体例を選び出す。

     

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これまた、問題が良くない。少なくとも、不親切。「直接金融を利用している主体(人や会社)として当てはまるもの」を選ぶのに、正解の④の貸し手は大学になってる。

   

これを正解としたいのなら、「直接金融を利用している主体(人や組織)」などと書くべきなのだ。あるいは単に、「直接金融を利用している主体」とだけ書くとか。そうしないと、カッコ内に書かれてない大学だけが仲間はずれで浮いてしまう。

    

新井は、どういうわけか②を選ぶ人が多いと書いて、不思議がってるが、それは明解に説明できる自然な選択。

     

①と③は銀行だから、間接金融でダメ。④は大学だから、主体とできるのか不明で選びにくい。よって、消去法で②になる。しかも②は、人と人だから、主体としてふさわしいのだ。

   

お年玉は返す必要がないと言っても、長い期間で広く考えれば、返してると考えられる場合も少なくない。そもそも、最初の説明文に、貸し借りした後の返済の話までは書かれてない。

  

    

    ☆   ☆   ☆

シン読解力も重要だろうが、シン出題力、シン作文力、シン問題作成力も大切。いずれにせよ、実用的な国語力を問題形式でトレーニングする発想自体には賛成する。

    

本来なら、そうした能力はもっと自然に養われるべきものかも知れないけど、SNS時代にそれは難しすぎる要求だろう。案外、より国語力をアップできる、シンSNSが要求されてるのかも。

   

それでは今日はこの辺で。。☆彡

    

    (計 2405字)

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小説『舟を編む』文庫本、馬締が香具矢に書いたラブレター(恋文)全文に引用された漢詩の意味(夏目漱石、李商隠の作)

先日、NHKで放送されたドラマ『舟を編む』最終話(最終回)。馬締が書いたラブレターが一瞬だけ映し出された。

     

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謹啓

 吹く風に冬将軍の訪れ間近なるを感じる今日このごろですが、ますますご清栄のことと存じます。

 貴方に打ち明けたいことがあり、この書状をしたためております。・・・・・・

   

    

     ☆   ☆   ☆

このラブレターというより恋文は、ものすごく長いようで、三浦しをんの小説の文庫本(光文社)の最後に「馬締の恋文 全文公開」と書いてるのに、その途中で「中略」と書かれてる(笑)

    

文庫本のページの下段(欄外)には、西岡と岸辺の会話の形で注が付いてて、こんなやり取りがあった。

    

 西岡  おい、「(中略)」ってなんだよ! 「恋文全文公開」じゃなかったのか。

 岸辺  だって、ものすごく長いんですもん。・・・・・・読みたいですか?

 西岡  「(中略)」でいいや。

    

   

    ☆   ☆   ☆

その省略された恋文でさえ、文庫本で10ページ(最初のサブタイトルも含めるとp.338~348の11ページ)もあって、普通の文だけでも読みにくい上に、難しい漢詩がいくつも引用されてる。

    

香具矢も軽く読み流しただけのはず(断言・・笑)。それでも、馬締がマジメなことだけは分かる。ちょっとアブナイくらい♪

    

私が一番興味を持ったのは、分かりにくい漢詩だけど、その前に、分かりやすい歌を引用しとこう。柿本人麻呂の歌は(そう書かれてるけど、本人の作かどうか不明、正確には「柿本人麻呂歌集の歌」)、知識が無くてもイメージ的に分かるし、それで十分だと思う。

     

  

     ☆   ☆   ☆

 天の海に 雲の波立ち 月の船

 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ

 (注. 文庫本だと1マス空けは、船と星の間だけ

   

馬締は引用した直後、「貴方(あなた)のために詠まれた歌のようだと思いませんか?」と書いてる。いつも、月のように美しい香具矢を仰ぎ見てると。警察に通報されても不思議はないかも♪

   

この歌では、「月の船」という言葉が、二重の意味で中心になってる。意味・内容的にも、言葉の配列でも。小説の題名『舟を編む』は、この歌と繋がってるのかも。どっちが先かは分からないけど。

    

   

     ☆   ☆   ☆

一方、分かりにくい漢詩。まず、本文2ページ目と3ページ目に引用されてるのは、夏目漱石が作った漢詩

   

2行+2行、合わせて4行(計20字)だけ引用されてるけど、もとの漱石の漢詩は10行らしい。明治三十二年、1899年の作。

 

 眼識東西字 心抱古今憂

  ・・・

 人間固無事 白雲自悠悠

    

漱石の思いとしては、こんな感じの超訳でいいと思う(個人の感想♪)。

   

私は古今東西について学んで来たけど、心はあまり落ち着かなかった。でも、30歳になって、やっと少し落ち着いて来た。世の中は穏やかで、白い雲が悠悠と流れる。そんな感じで、自然に生きていきたい。。

     

   

     ☆   ☆   ☆

上の漱石の漢詩を引用した後、馬締はこう書いてる。

  

この境地に至れるか否かは、今後の私の努力および、貴方の返答によって決まるでしょう」。

   

要するに、あなたへの恋心で私は落ち着かないから、どうかお返事で落ち着かせてください、という意味。OKにせよ、ごめんなさいにせよ♪

    

これに対して、欄外の注で、西岡がツッコミを入れてた♪ 「まじめのやつ、さりげなく脅迫してないか?」(笑)。そう。平成・令和の時代だと、脅迫する文書として警察沙汰になってもおかしくない。言葉のプロの馬締でも、恋愛や現実社会に対してはアマチュアなのだ。

   

   

     ☆   ☆   ☆

一方、遥かに難しいのは、李商隠の漢詩。p.345で2行だけ引用されて、p.346まで説明が続いてる。元の漢詩は、「七言絶句」(漢字7文字×4行の形式)らしくて、その後半の2行だけの引用。端末の環境によっては文字化けしてしまうかも。

   

 嫦娥応悔偸霊薬

 碧海青天夜夜心

   

馬締の説明は、こう続いてる。

   

「嫦娥とは、霊薬を飲んで月世界へ飛んでいった、かぐや姫のような女性のことです。この漢詩の作者は、自分を捨てて去っていった女性を嫦娥になぞらえ、恨みと思慕を詠んだ、という説があります。私も同感です。この詩は、私の心情そのものだと思えるのです。

禁断の霊薬さえ飲まなければ、ただ一人の人の顔を、夜ごとなつかしく心に思い浮かべずに住んだのに・・・・・・」

 

  

欄外の注に書かれてる岸辺の解釈は、次の通り。「嫦娥は霊薬を盗み飲んだのを後悔しているだろう。ひとりぼっちの月世界から、夜ごと、寒々とした紺碧の海を見下ろしながら」。

   

   

     ☆   ☆   ☆

岸辺の解釈はともかく、馬締の文章を普通に読むとかぐや姫=馬締という比喩になる。香具矢に対する恋愛に陥ることさえなければ、私はこれほど辛い思いをせずに済んだのに。

    

その場合、(特別な女性)=(普通の男性)ということになるけど、私は、かぐや姫=香具矢と考える方が自然だと思う。どちらも特別な女性で、名前の音も一致してるのだから。

    

ただし、かぐや姫=香具矢という解釈だと、「馬締による漢詩の引用」の意味は複雑になる。例えば、こんな感じの解釈。

  

あなたに対する私の思いはあまりにも強い。だから、あなたもきっと、私から遠ざかってることを残念に思ってるはずだ、と私は思いたいのです。私の勝手な想像で、あなたに申し訳ないし、お恥ずかしいのですが」。

    

  

☆追記: 河合康三選訳『李商隠詩選』(岩波書店、p.212)をチェックしても、残された男の思いが強調されてた。「眠れぬ朝を迎えるのは、一人のこされた男。去っていった女は今や月の世界。彼女もまた限りない孤独を覚えているだろうと思いを馳せる」。)

   

   

     ☆   ☆   ☆

要するに、あなたも私のことが好きでたまらないと、私は思ってしまいます♪ ゴメンナサイ (^^ゞ・・ということ。小説内の漢詩の解釈としてどうかはともかく、そうゆう恥ずかしい思いを持ったことがある人は多いはず。私も含めて♪

   

なお、今週は計13777字で終了。それでは、また来週。。☆彡

    

     (計 2270字)

   (追記136字 ; 合計2406字)

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開館して半世紀、雑誌の図書館「大宅壮一文庫」(有料、閉架式、東京)、初めて利用した個人的感想

ちょっと前(2025年の初め)の話だけど、雑誌の図書館・大宅壮一文庫に初めて行ってみたので、その感想を簡単に書き記しとこう。

   

評論家・大宅(おおや)壮一(1900~1970)が集めた膨大な雑誌をもとにして、1971年に開館。下の写真は、入り口の右脇の看板とのぼり。「雑誌文化」を後世に。雑誌とか、雑多なもの、一般人が好きな人だったようで、本人も雑草のようにたくましい人生を歩んでる。

    

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有名な・・というか、知る人ぞ知る施設で、特にメディア関係者や人文社会研究者にとっては超メジャーな場所のはず。

   

ただ、普通にいろんな本を手に取って見ることができない「閉架式」だし、有料だから、一般市民に取ってはちょっと敷居が高い場所でもある。本人が生きてたら、ちょっと微妙に思うところかも。

  

そもそも雑誌というのは普通、新しい雑多な情報を見るメディアだから、古くて珍しい雑誌を調べたい人はかなり限られることになる。普通の公共図書館と比べると、あまり雑多な人々が集まる場所ではない。

   

   

    ☆   ☆   ☆

私は、昔から名前や情報は聞いてたけど、今まで行く機会が無かった。最大の理由は、個人的にウチから行きにくい場所にあるということ。

    

京王線の八幡山という駅から歩くのが、東京本館への基本的なアクセス方法だけど、私はあまり京王線を使わない。あえて使って大宅壮一文庫に行こうとすると、大回りするか、変則的な行き方を選ぶことになる。凄く遠いわけでもないけど、気分的には微妙になる。

   

行く機会が無かった二番目の理由は、大宅壮一文庫に行かないと手に入らないような雑誌を見たいと思ったことがなかったこと。

   

普通の雑誌なら、あちこちの図書館にあるし、大昔のものなら、国立国会図書館のデジタルライブラリー(電子書籍)ですぐ読めることもある。最近のものとか、別の電子書籍(アマゾンkindleその他)で読めることもある。

   

   

     ☆   ☆   ☆

ただ、初めて、珍しい雑誌を読みたくなったから、最初に思いついたのが大宅壮一文庫だった。

   

実は、ここと国立国会図書館のどちらがいいのか、比較の問題があるけど、その話はまたいずれ書くことにしよう。まあ、無難にまとめるなら、一長一短か。

  

私の場合、単純に前から一度、大宅壮一文庫という施設に行ってみたかったという思いもあった。少し前には、深刻な経営難も伝えられてたから。今現在は、有志による厚い支援で温かく運営されてる感じだ。

   

   

     ☆   ☆   ☆

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駅から徒歩8分ということだけど、私がスタスタ早足で赤堤通りを歩いたら6分くらいだった。キョロキョロしてると、目の前の白い壁に「大宅壮一文庫」という看板が掲げられてて、その手前には「大宅壮一文庫利用者専用駐車場」まであった。

   

東京・世田谷のこの場所に、利用者用のしっかりした駐車場(7台、無料)を持つ図書館というだけでも、只者ではない。普通に考えれば採算が取れないというか、他にいくらでも有益な土地の利用方法があるはずだから。

   

ちなみに私が経営スタッフの1人なら、駐車場を小さくして、余った土地を売るか貸すか返却して、運営費に余裕をもたせる。もちろん、こんな平凡なアイデアは大昔から出てるだろうけど。

       

  

     ☆   ☆   ☆

他に誰も書きそうにない感想をもう一つ。入り口の左脇の自動販売機が、なぜか非常にしっかりした屋根で守られてるのが気になった♪

       

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こんな自販機、今まで見たことはない。普通は雨ざらしの物だから、特別な歴史的価値があるということかも。売ってるドリンクは普通に見えた。

  

ちなみに上の写真にギリギリ写ってない左下あたりには、赤いポストが立ってて、その点でも分かりやすい施設。車で初めて行く人でも見つけやすいと思う。駐車場も入りやすい。私が行ったのは夕方というか、晩近くに慌てて行って、歩道の人通りも車の通行も少なかった。

   

    

     ☆   ☆   ☆

さて、肝心の文庫の中身。実は、中の施設も一応、撮影可能だったけど、とりあえずここでは掲載を控えとこう。もちろん、雑誌の撮影は禁止。

  

というか、雑誌を撮影したければ有料で、しかも高額になる。スチール(静止画)1枚、3600円。一般人なら、古本屋やフリーマーケットの類(メルカリ、ヤフオク)で探した方が遥かに安いと思う。あれば、の話だけど。

   

私はまず、入り口の正面奥にあるカウンターの女性に話しかけて、使い方を確認した。もちろん、公式サイトの利用案内は繰り返し読んでたけど、ちょっと言葉のやり取りをしてみたかったのだ。

    

女性スタッフは丁寧で、必要な情報を手短に説明してくれた。まあ、普通の図書館の司書みたいな人たちも、ほとんどは非常に丁寧だ。

   

   

     ☆   ☆   ☆

まず、書類に書き込んで、一般の利用料金(入館料)500円を払って、すぐ右脇の狭い階段で2階へ。すると、図書館の閲覧室みたいな感じになってて、一般客が2、3人。

  

手続きを待ってるのか、受け取った本を読んでるのかは不明。さすがに、勉強してる学生、仕事してる社会人の姿は無し。スマホをいじって遊ぶ場所でもない。カフェ、ファーストフード、喫茶店とかの雰囲気とは全く異質。

      

カウンターにはスタッフが数名。その奥には事務室みたいなものも見える。館内、全体的に、スタッフが不思議なほど多いと思った。ボランティアが混ざってるのかも知れないけど、人件費が心配になるほど。

   

とにかく、私があらかじめ調べてあった雑誌名と記事、ページ数を書類で伝えると、10分くらいでコピーを頂けたと思う。コピーは自分でとるのではなく、スタッフに頼むのだ。

   

白黒1枚で100円というコピー料金もなかなか凄い。学生料金でも70円。今どき、安いコピー機なら1枚5円だから、やはり特別な図書館ということ。マスメディアが費用会社持ちでコピーするとか、学者・教授・研究者らが国からの研究費の一部でコピーするとか。

     

ちなみに、同じくスタッフに依頼する国会図書館だと、1枚27.5円(税込)とか。その話はまたいずれ後ほど。

   

   

     ☆   ☆   ☆

閉館まで時間が無かったし、そもそも急いでたから、必要なコピーを受け取って、パンフレットを一通り頂いて、すぐに退館。コピー料金は私の場合、自費で支払い。後で領収書を経理に出すとかでもない。

  

金銭的リターンは無い少額投資だけど、個人的にどうしても欲しかったから仕方ない。大宅壮一文庫と同様、私も別に、お金のために雑誌に触れるわけじゃないのだ。

   

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上は2022年7月の大宅壮一文庫ニュース。Google検索の先駆けとも言われる「大宅式索引」の特集として、「雑誌を飾った顔・事件」が紹介されてた。

   

上の画像に写ってる3つ、オウム真理教、小沢一郎、松田聖子は、やっぱり雑誌の歴史でトップクラスの項目らしい。まあ、たまたま多数の雑誌がメジャーだった時期と重なってるという側面もある。1980年~1990年代に目立ってた人・団体ということ。デジタル・ネット時代の直前と言ってもいい。

    

   

     ☆   ☆   ☆

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帰りの八幡山駅のホームで撮った風景写真は、ちょっとオシャレで気に入ってる。さて、次に行くのはいつ、どんな雑誌と記事が目当てになるのか。

  

とにかく、貴重な初体験となったひとときだった。それでは今日はこの辺で。。☆彡

   

     (計 2917字)

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蜂飼耳の小説「繭の遊戯」(25共通テスト国語)全文レビュー・書評 ~ 家畜として玉繭で糸を出した蚕の幼虫、成虫で飛び立てたのか

(☆2026年1月の追記: 遠藤周作「影に対して」の全文レビュー新たにアップした。)

   

  

蜂飼耳(はちかい・みみ)という名前も、「繭の遊戯」(まゆのゆうぎ)という小説のタイトルも、読みにくい漢字で、私は聞いたことも見たこともなかった(申し訳ない)。

  

ところが小説を読むと、子どもが語る形式だから、ひらがなだらけで句読点も多い、非常に読みやすい文章。また、過去の日経新聞を調べると、多数の記事がヒット。おまけに現在は、立教大学文学部の教授で、大学の図書館長にも就任したらしい。当初のイメージは激変した。

   

私の周囲に1人もいないこともあって、現代の詩人というと何となく、地味にひっそり孤独に生きてるイメージがある(個人の感想)。ところが、社会的にも見事な成功。今回は遂に、若い頃の短編小説が一気に数十万人の読者を獲得した。印税は入らないが、ベストセラー作家に出世。

    

   

     ☆   ☆   ☆

ということは、まさに、繭の中で現代詩などの遊戯をしてた幼虫が、見事な成虫として羽ばたいたということになる。

   

しかし、蚕(カイコ)というものは、幼虫と糸にのみ価値を置かれる家畜昆虫であって、成虫は野外でも生きていけないらしいし、飛び立つことも出来ないとのこと。

   

作品の中の2匹の幼虫は、繭から出て飛び立つことが出来たのか。全文を読み終えてすぐ、その点が気になった。もちろん、その種の思いは直ちに反転する。

 

読者である自分は、飛び立つことが出来たのか。そもそも、繭とか絹糸で人々の役に立てた存在なのか。私にせよ、今ここで読んでいるあなたにせよ。。

   

   

     ☆   ☆   ☆

何の役にも立たないような一般人ブロガーでも、例えばセンター試験や共通テストの国語に関しては、少しお役に立てている気がする。

    

実際、過去のレビュー(特に小説全文の記事)はかなりのアクセスを頂いてるし、熟読してくださる方もいらっしゃる。コスパ、タイパのいいネタバレ記事としてサラッと読み流している人も大勢いると思う。

     

今回、2025年の共通テストの国語では、終了直後のX(旧 twitter)の投稿を見ると、「おばあちゃん」がキレた「ヒス構文」を面白がってネタにするものが目立っていた。

     

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しかし、私が実際に小説の全文を読んでみると、おばあちゃんは単なる脇役というか、チョイ役。「おじさん」と「わたし」が主人公の物語だ。主人公と語り手の関係というより、テレビドラマでいうW主演のような形になっている。

     

初出は、角川書店(当時)雑誌『野性時代』2005年8月号、p.138~p.144。タイトルの下には、両手とオカリナのイラストが挿入されてた(立川綾子)。オカリナには糸が付いていて、蚕の幼虫が糸を出してるようにも見える。

     

20年近く前ということもあって、ほとんど図書館にも置かれていないし、ネットでも流通していない。amazonの古書でも取り扱いがなかったし、カドカワの公式サイトでも検索範囲からギリギリで外れていた。

            

下はamazonより。野「生」時代ではなく、野「性」時代なので、念のため。

   

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     ☆   ☆   ☆

2つ上の縮小画像で、小説タイトルの右側には、「8月の極上てのひらの物語」と書かれてる。当時のこの雑誌は、両手ですくい上げたような原稿用紙10枚の短編小説を連載していたようで、30人分まとめた単行本が2006年に出版されていた

    

極上掌篇小説』。この中に『繭の遊戯』も収録されているが、元の発表作品との違いは未確認。私は初出しか確認してないので念のため。加筆・修正の可能性はある。p.211~p.220に掲載。

(☆追記: 単行本を確認。初出の雑誌との違いは、漢字のふりがなだけ。新たにつけられてたり、前のが削られてたり。)

    

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当時の雑誌巻末の作者プロフィールには、「・・身の回りの情景や心ふるわす書物を、繊細で鋭敏な語感と言葉で綴ったエッセイ『孔雀の羽の目が見てる』も好評」と紹介されていた。1974年生まれ、早稲田大学大学院・修士課程終了。中原中也賞ほか、受賞歴も豊富。

   

今現在、誰も書いてなさそうな小ネタ情報を書き添えておくと、彼女は「耳」がやや大きい(or長い)ようにも見える♪ 本人がペンネームの由来(本名?)をどう説明しているのかはともかく、無意識的には自分と「耳」が深く結びついていても不思議はない。根拠というか、参考資料は、2024年7月31日の日経新聞・朝刊の写真。

   

    

   ☆   ☆   ☆

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さて、2025年1月18日(土曜)の共通テスト1日目・国語・第2問では、ギターの話から小説の引用がスタート。最後は、楽器のオカリナをおじさんが自作してバザーで売るという話が出た所で終了。上図はいつものように、河合塾の共通テスト特設ページより。

       

問題文は長いので、元の小説の全文に近いが、最初の11行と、最後の6行(物語のオチ)だけが省略されていた

  

冒頭の2行は、「いま考えると、そのころおじさんは、まだ三十にもなっていなかったのだと思う」と書かれている。「けれど、五つや六つの子どもにとっては、想像もつかないほど年上の大人」。それなのに、「他の大人たちとは、ちがう匂いがした」。

   

他の大人たちは、遊ぶ時でも「上の空」。でも、おじさん(わたしの母の弟、叔父さん)は本気で遊んでいるし、私も一緒に本気で遊んでいる。

    

ここですぐ、私の頭には、繭の中に2匹の蚕の幼虫がいる姿が浮かんだ。試しに検索してみると、本当にそのような例があって、「玉繭」(たままゆ)と呼ばれているらしい。形や大きさも多少違うとのこと。

  

ということは、この小説のタイトルは、「玉繭の遊戯」でも良かったはず。1つの玉繭に、3匹以上の幼虫が入っていることもあるらしい。「おじさん」、「わたし」、著者(蜂飼耳)、そして、読者である私たちとか、SNSに投稿して遊ぶ受験生とか。

  

   

     ☆   ☆   ☆

話を戻すと、問題文で省略された部分には、「台所やトイレはないその小屋」という一文もある。ということは、「小屋に籠っている」と言っても、すぐそばの母屋(おもや)との行き来はかなりあるのだ。

  

小説の時代設定は、おそらく1970年代くらいの昭和。その頃、30歳くらいの身内の男性が、定職も持たず、家の敷地内の小屋で遊んでいて、食事やトイレの度に母屋に来る。これは姉(「わたし」の母)にとって、かなり目障りなはず。まだ「フリーター」という言葉さえ一般的ではなかった時代らしい

   

「ちゃんと仕事しなさい」、「いつまでも親のスネかじって」。母が怒っても、スルーするおじさん(母の弟)。すると当然、「お母さん、なんとかいってよ」、「おかあさんが甘いからよ」と矛先を変えたくなる。

  

するとおばあちゃん(「わたし」の祖母、「わたし」の母の母)は逆にキレて罵る。「もうわかった、あたしが死ねばいいんでしょ、じゃあ、死ぬよ」。実際には死ぬ代わりに、「豆の殻を剥(む)いた」だけ。私が受験生なら、教室で声を上げて笑ったかも。

     

おばあちゃんは内心では、おじさん(息子)の才能も理解しているのだ。中途半端でお金にならないとはいえ、小屋を自分で作ったし、トラックの運転手もできる。ギターの技術的に難しい曲、『アルハンブラの思い出』も少しだけ弾けるし、インドに旅行する行動力もあるし、ステンドグラスも陶芸も少し作れる。

   

息子は、やれば出来る。いつかは1人で大きく羽ばたいてくれるのでは。。 昭和の母親としては、男の子にそんな儚い期待や希望も抱いているはず。実はそれが意外な形になったのが、最後の省略部分、オチの箇所なのだ。

    

    

    ☆   ☆   ☆

時間が無くなって来たので、その最後のオチに向かおう。物語的に決定的な内容のネタバレなので、ご注意あれ。

    

問題文の最後では、おじさんが、自作のオカリナをバザーで売る考えをわたしに話したという流れになっていた。

   

その後、「オカリナは予想以上に売れ」、おじさんはオカリナばかり作り続ける。

   

しかし、ブームは終了。その後、おじさんは「なにもせず、小屋のなかで眠りつづけた・・・何ヵ月も」。そして、消えてしまったのだ。

  

「突然のことだった。帰らない。どこへ行ったのか、わかりはしない」。

    

  

     ☆   ☆   ☆

たまたまなのか、そのラストの左のページには、「日本ホラー小説大賞」という文字が、黒地に白抜きの不気味なデザインで目立っていた。私はそれを見て、ちょっと背筋が寒くなったが、それはなかなか正しい反応だったと思う。

    

というのも、蚕の幼虫は、繭を出ると生きていけないらしいから。飛べないし、外は外敵だらけ。さらに、繭の中で幼虫から蛹(さなぎ)になると、糸を取るために繭ごと処理されてしまうようだから。

   

本文には書かれてないものの、実はサナギのように何も作らなくなったおじさんは、姪の「わたし」にさえ相手にされなくなったと感じていたかも。色々と作っていた時には、あの子だけは相手にしてくれた。何も作らない自分は、もう誰にも相手にされない。そう言えばあの子は、自分が作った鶴のステンドグラスを見て、「あひるみたい」と切り捨てたし。

   

ふと、冒頭の省略部分の言葉も思い出してしまう。他の大人たちは「上の空」。それは、単なる心理的な「上の空」だが、おじさんは別の意味で「上の空」になったのかも知れない。世捨て人か、世に捨てられた人かはともかく、帰らない人になったのだから。。

   

   

     ☆   ☆   ☆

このオチだけ見ると、そんな簡単で単純な終わり方なのか・・と思われるかも知れない。

  

しかし、改めて全体を見直すと、周到に「死」のイメージや伏線が散りばめられていることに気づく。「上の空」、「死ねばいいんでしょ。じゃあ、死ぬよ」、お香、仏壇、あひる(飛べない鳥)。

  

最後の直前に登場するオカリナも、語源的にはガチョウのこと。つまり、これも要するに、飛べない鳥なのだ(生物学的にはそうは呼ばないらしいが)。

    

ちなみに、格闘技好きの私としては、小説のタイトルの「遊戯」という漢字の言葉を見て、『死亡遊戯』というタイトルの映画があったなと思い出す(見たことはない)。今でも世界中で人気がある、カンフー映画のスター、ブルース・リーの死後の公開作品。リーの死が72年、『死亡遊戯』が78年だから、この小説の時代設定と合っている形になる。

     

    

     ☆   ☆   ☆

一方、語り手である「わたし」はおそらく今、昔のおじさんと近い年頃だろう。実は、この作品を発表した時の著者・蜂飼耳も、ほぼ同年代

   

「満足と孤独。しのびこんだ蛾が、押せない窓を押して暴れ、しきりに乾いた音を立てる。そのとき、わたしはなにかを、教えられていたのだ。」

    

自分の世界にこもって遊ぶと、外に出れなくなるだけでなく、狭い世界の中で他の人とぶつかり合うことにもなる。

  

「いいと思わないものを、いいとはいえない。いってはいけない。これで嫌われるのなら、それはそれでしかたない」。

    

そもそも、わたしはおじさんより遥か下の存在なのだ。「おじさんの心配をしながら、自分も晴れない霧につつまれた。オカリナどころか、なにも作れない自分は、どうすればいいんだろう」。「他の人たちから見れば意味が薄いことを、自分の熱意だけでつづける。どこへ繋がっていくのか、わかりもしないまま」。

   

   

     ☆   ☆   ☆ 

幸い、著者の文芸的な遊戯は、大学教授の身分、図書館長の地位へとつながった。詩も小説もエッセイも評価された。結果的に、他の人達から見ても意味が生じた。

  

しかし、おじさんはどうなったのか。「わたし」はどうなるのか。そして、繭の糸の代わりに、ブログの文字を書き続ける自分はどうか。SNSでつぶやきと画像とリンクを作り続ける玉繭の中の人々はどうなのか。そもそも、蚕という生物は自らをどう認識しているのか。

     

小説という狭い枠、繭を超えて、「そういう考えをひろげ」つつ、ブログの遊戯を終わるとしよう。一時的にサナギのように眠った後は、また目覚める。人生という巨大な玉繭の遊戯は、しばらく終わらないのであった。

   

そう言えば、人間とは本質的に「ホモ・ルーデンス」(遊戯する人)だという考えもあったな・・とか思い出しつつ、それでは今日はこの辺で。今週は計19370字で終了、また来週。。☆彡

   

   

      

cf. 牧田真有子『桟橋』(24共通テスト国語)、全文レビュー・書評

    ~ 漁師に拾われた魚、捻じ切れた血の橋を自分で生き始める

   

     (計 4900字)

  (追記97字 ; 合計4997字)

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谷川俊太郎追悼、生と性と死の詩「なんでもおまんこ」(詩集『夜のミッキー・マウス』)を読んだ感想、意味の解釈

この記事タイトルに入ってる4文字はもちろん、放送禁止(自粛)用語の最たるもの。私も過去19年間以上、毎日更新してるこのブログで、一度も書いたことはない。

   

1文字か2文字はバツ印の伏字にしようかとも思ったが、日本を代表する大御所の詩人・谷川俊太郎の作品名だから、ネット上にもそのまま溢れてる。実際、私がこの詩を知ったのは朝日新聞デジタルの訃報記事で、しかも執筆者は女性記者だった。

     

pdfファイルでアップされてる学術論文でもそのまま。各種の詩集の類でもそのまま。というわけで、非営利の個人ブログであるこのサイトでも、芸術関連だからそのまま書くことにする。ただし、記事タイトルを含めて2回だけの表記に留めるので、悪しからず。

    

   

    ☆   ☆   ☆

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過激なタイトルの詩は、2003年9月25日発行(発売は23日?)の詩集『夜のミッキー・マウス』(新潮社)などに収録されてる作品。この詩集は、今では新潮文庫として流通してるけど、私は元の単行本を読んだ。文庫本との違いは不明。

   

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目次を十分縮小した画像で引用すると、問題作は7番目の配置で、そこまでどうも一般ウケを狙ったようなタイトルが並んでる。

   

ミッキー、ドナルド、プルートー、アトム、ああ、ママ、なんでも・・。その後の4つの詩のタイトルとはかなり違ってるのが分かる。ちなみに「ああ」という題名の詩も、内容的には「なんでも」に近い性的な作品。

   

ちなみに、amazonのkindle電子書籍のサンプルで文庫本の目次を確認すると、順番は同じようだが、1行空けによる区切り方が少しだけ違うのかも知れない。

   

    

     ☆   ☆   ☆

さて、私が妙なタイトルの詩を知ったのは、下の朝日の記事を読んだ時。朝日は、生前から谷川の記事をよく掲載してた。

   

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「亡くなる2週間前、谷川俊太郎さんは言った 『死ぬっていうのは・・・』」 (田中瞳子記者)

    

無料で読める部分のラストに、まるでその後の有料登録へと誘うような形で、次のように書かれてた。

    

「2023~24年にかけてロングインタビューをした。自身の詩を朗読する動画を撮りたいとお願いすると、詩の選定で一つだけNGが出た。『「なんでもおまんこ」はダメ』。いまの時代、このタイトルでは風あたりが強いだろう。そう思っていたら、続けてこう言った。『この年になると元気に読めないから』」。

   

   

     ☆   ☆   ☆

92歳の巨匠の詩人でなければ、今どき男性が女性記者にそんな話をすると、セクハラ扱いされても不思議ではない。

   

年齢、評価、芸術、この3点に加えて、記者との信頼関係が揃ってはじめて、そんな話も許される。というより、記者はむしろ谷川らしいエピソードとして面白がってるわけだが。

  

とにかく、その「元気」な詩をネットで調べると、詩の全文どころか、本人の過去の朗読動画まで無料公開されてた。著作権に緩い作家ではなさそうだから、特別扱いの作品ということか。それほど元気に読んでるとも感じなかったけど、死の直前だと遥かに元気が衰えてたわけか。

  

21年前のインタビュー記事を読むと、自作朗読をお願いされて元気な詩を読む前に、こう語ってた。「これは一人で読むとなんとなく読みにくいですけれど(笑)、気に入っているんで読みます」。

   

ちょうど、単行本を出した時期だったことは割り引くとしても、やはり数ある作品の中でも本人お気に入りの一つだったのは確かだろう。

   

   

     ☆   ☆   ☆

では、詩の内容について。例の詩の前に、詩集の表題作である巻頭の詩、「夜のミッキー・マウス」について先に触れとこう。詩集のp.10~p.12。初出は『新潮』2003年5月号。

  

冒頭は、「夜のミッキー・マウスは 昼間より難解だ」。簡単に言うと、「陽気なほほえみから逃れて 真実の鼠に戻る」時が「夜」。

  

「地下の水路」を歩き回って、「子孫をふりまきながら歩いて行き ついには不死のイメージを獲得する」。

    

ここにも、生殖としての性行為と種族保存本能のような話があるから、ひょっとして・・と思って、同期の巨匠・大岡信との対話(往復書簡)『詩と世界の間で』(思潮社)をチェックすると、やはり精神分析家フロイトの名前が出てた。年代的にも分野的にも、ユングも含めて、深層心理学の影響は受けてるはず。

    

    

     ☆   ☆   ☆

で、夜の人間、夜の男・谷川俊太郎としての姿をあらわにしてるように見えるのが、例の元気な詩「なんでも・・」

   

詩集のp.30~p.33。初出は『小説新潮』1995年11月号、p.68~p.73。「性の大特集 ポルノか文学か」に含まれた作品の一つ。当時のこの雑誌は、性の特集が多かったようだ。

        

なんでもおま×こなんだよ あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ やれたらやりてえんだよ

   

この場合の「丘」とは、少し離れた乳房というふくらみと、本物の地形の丘とを重ね合わせた表現だと思う。直後の「空に背がとどくほどでっかくなれねえかな」という表現も、無限の空間へと視界を広げつつ、自らの男性性器の巨大化幻想も含ませてる。

   

単なるフィクションとは思えないから、ウィキペディアその他で調べると、どうも3回結婚して、3回とも離婚してるらしい。NHKテレビの訃報だと、子どもに勧めたい芸術みたいな扱いになってたが、実際に読むと、大人の性(特に男の性)があからさまに描かれてる。絵本や漫画(スヌーピーの翻訳)なら、子どもでも安全ということか。

   

   

     ☆   ☆   ☆

空を抱き、花に入る。「あれだけ入れるんじゃねえよお ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお」。

   

つまり、女性に包まれる形での一体化。これも、精神分析的、深層心理学的な発想で、自らの存在全体で「あれ」の代わりに母(または女性)の欲望を満たす、という意味。

  

それと共に、生まれる前か直後あたりの母子未分状態へと退行するという意味もある。過去の満ち足りた幻想的な状態。その後に訪れるのが、母からの独立に伴う「分離不安」とか。

    

さらに風にも触られた後、いよいよ詩の最後となる。それこそ、死。なぜか日本語だと、詩と死の発音は同じく、「し」になってる。ただし、詩人は「しじん」、死人は「しにん」。僅かに死と距離を保つ限界の生こそ、詩人という稀有の存在だろうか。

   

おれ地面掘るよ」。土をかけてもらって、「草も葉っぱも虫もいっしょくた」。そして、「笑っちゃうよ おれ死にてえのかなあ」で終了。

   

   

     ☆   ☆   ☆

この死にたさは、別に即身仏の修行とか、自殺というような能動的なものではない。生=性の原点である母子未分へと遡ると、結局は自分の生命が無い辺りまで行き着くことになる。無意識のうちに、生の限界を超えてしまう。

   

逆に、これは死ではなく、新たな生のあり方だという見方も可能。いわゆるアニミズム的思考で、万物に命が宿ってると考えるなら、万物と溶け合う形も生命のあり方の一つなのだ。普通の人間の生命とは違う形で。

  

逆にアニミズム的な考えを基本にすれば、普通の生や性の見方こそ、フェティシズム(呪物崇拝)なのだ。小さな部分だけを特別視する態度。

      

   

     ☆   ☆   ☆

なお、この詩と同時に95年の雑誌で発表された「ああ」では、女性の性のようなものも描かれて、「ママ」では母親の性(せい=さが)のようなものも描かれてる。合わせて、性と生の三部作とでも言うべきか。

  

ただ、「ああ」や「ママ」で描かれてるのも、あくまで男性・谷川俊太郎にとっての女性、母親のように感じられる。私も男性なので、読んでると恥ずかしさで赤面してしまうような部分もあった。

  

要するに、女性には喜んで欲しい、母親にはいつまでも自分(子ども)を愛して欲しい、という思い。無意識のうちに男児が持ち続ける根源的欲望。父親が(まだ)登場してないということは、精神分析的には「前エディプス期」的な発達段階。

     

60歳を超えた時点でなお幼児期から続く思いを、あえて直接的な言葉で芸術へと昇華させたのが、三部作ということだろう。時間が無くなったので、今日はそろそろこの辺で。

    

どうか安らかに。新たな無限の生の充実を祈りつつ、合掌。。☆彡

   

     (計 3282字)

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牧田真有子『桟橋』(24共通テスト国語)、全文レビュー・書評 ~ 漁師に拾われた魚、捻じ切れた血の橋を自分で生き始める

最初に書いておきたいのは、この記事は続編だということ。2024年の共通テスト・国語が終了した半日後に、問題文だけを見た軽い解説をアップ。この1週間でかなりのアクセスを頂いた上に、紹介リンクもいくつか付けて頂いたようだ。

   

 船ではなく、枠のない海の波を係留する桟橋を夢見る少女〜牧田真有子の小説『桟橋』(24年・共通テスト・国語)

   

その後、私は小説の全文を読んだので、これから書くこの記事は「小説全文」レビュー、全体の書評・感想になる。

   

   

    ☆   ☆   ☆

ただし、設問の参考資料とされていた太田省吾「自然と工作」は、まだ読んでない。これについても、近日中に読むことが出来れば、この記事にコメントを追記する予定。

  

個人的にはむしろ、カフカの短編小説との関連の方が興味深い。難解で奇妙、幻想的で多義的な作品の数々で知られる世界的な男性文学者・カフカ。牧田の意識には無かったとしても、無意識的に過去の読書体験が反映されているような気がする。

    

牧田の『桟橋』は、カフカの『橋』を題材にして加筆した女性的小説だろう。カフカの『掟の門』へのオマージュ(敬意を込めた模倣)もまじえて、ややポジティブな方向性を持たせた改作。

  

なお、以下の内容は当然、ネタバレ的なものになる。おそらく、まだ全文を読んでない読者の方が大半だろうから、先に自分で全文を読んでみることをお勧めする。図書館、古本、メルカリ、国立国会図書館の遠隔複写サービス・・・etc.。いろんな手段で読むことが可能。おそらく、私の読みとはかなり違った体験ができるはず。

  

     

     ☆   ☆   ☆

て、『桟橋』の初出雑誌『文藝』2017年・秋季号(第56巻・3号、河出書房新社)では、p.152-p.165までの全14ページ(上下2段組)が掲載箇所。そのうち、共通テストの問題文の位置は下図のようになってる。文芸誌なので、文章は縦書きで右から左に進む。

   

240123a
     
  

上図だけ見ると、問題文は全体の7分の1強に見える。しかし、1ページ目の右半分は、大きな活字の題名と著者名。12ページ目の左端は広告。最後の14ページ目では、下段の多くが空白になっている。だから実質的には、問題文は全体の6分の1くらいになる。

   

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問題文の箇所では、16歳の高校生・イチナ(全文を読むと女子高生だと分かる)が、幼い頃から、8歳上の風来坊の「おば」(問題説明ではカッコ付き)に好意と興味を抱いてることが描かれていた。

   

それは、受験生的には(?)「百合」という言葉で表される女性同性愛的な関係にも見えたらしい。それに対して私は、前の記事で、こう書いておいた。以下、自分で引用しておく。

  

私ならむしろ、女の子のマザー・コンプレックス(母親への複雑な思い)の変化形と呼びたくなる。あるいは、おばの父親的な要素・側面も加味するなら、エディプス・コンプレックス(両親への複雑な思い)のバリエーション

     

実際、問題文の冒頭には、『イチナが幼少期に祖父母の家で親しく接していたおば』と書かれてる。3歳と11歳なら、11歳は母親的な存在だろう。問題の前半では圧倒的に巨大な存在とされてるし、後半でも、おばさんはイチナの母と重なるような形で描かれてるのだ。」 (引用、終わり)

   

   

     ☆   ☆   ☆

女性同士の愛というより、親子の物語。さらに言うと、少なくとも表面的には、母親と娘の関係が中心。

   

この私の読みが基本的に合っていたことは、全文の冒頭を読むといきなり分かった。小説は次のように、重いイメージで始まる。

  

ばさばさした透明のビニール暖簾に一箇所、赤い指紋がついていた。血の跡だった。それが魚の血なのか漁師の血なのか、桟橋から望遠鏡で漁港の作業場を見ているイチナにはわからなかった。ただそれは強くイチナの心をとらえた。授業中に前ぶれもなく指名され、答えを要求されるときのように、十六歳の彼女ははりつめる。」(p.152)

    

私はたまたま、瀬戸内海の小さな漁港とゆらゆら揺れる「浮桟橋」のすぐそばで生まれ育ったので、この光景そのものはよく分かる。実際には、臭いと音・声が加わるし、いろんな液体が流れているので足元にも注意が必要なのだが、ここでのイチナは望遠鏡で見てるので、臭いや音、足の感触まではわからない。ハッキリ見えるのはただ1つ、赤い血なのだ。

   

しかし、漁港の血を見て、漁師の血だと考えたことはないはず。魚の血に決まっている。また、漁港を「望遠鏡」で見たこともない。

       

と言うより、もし見るとしても「双眼鏡」だろう。オペラグラスという言葉は流行ってないとしても、望遠鏡は不自然すぎる。それに対して双眼鏡なら、女子高生がライブ会場(ここでは演劇)に持参しても不思議はないのだ。実際、「ライブ 望遠鏡」で画像検索すると、安くて小さくて可愛い双眼鏡がズラっと並ぶ。あるいは、イチナが持っている「携帯」のズームとか。

     

    

     ☆   ☆   ☆

この謎解きの答は、小説自体には明示されていないが、「望遠鏡」という漢字をよく見れば分かる。

  

 望遠鏡 = 遠くを望む鏡

   

つまり、遠くにある自分の姿を見る手段・道具、装置なのだ。時間的にも内容的にも遠い自分を探す手掛かり。

   

それなら、まだ16歳の女子高生イチナは、魚だろう。では、漁師は? 魚=イチナの血と深く関わる人物、とりあえずは両親しかない(実はおばのイメージも加わる)。ここでは漢字ではなく、音韻的なつながりが出来てる。

    

 漁師 = りょうし ≒ リョウシン = 両親

    

望遠鏡で魚か漁師の血を見たイチナが、急に答えを求められた問題。それは、おそらく幼い頃から何となく微かに感じていた違和感のもと、両親との血筋の問題、血縁関係なのだ。前・言語的な不安、問いかけ。

  

「今の両親」と私は、血が繋がっているのだろうか? もし繋がっていないのなら、私と血が繋がっている「本当の両親」はどこでどうしているんだろうか?。。

   

    

     ☆   ☆   ☆

そう。イチナは実は、今の両親と血がつながっていないのだ。今の両親(りょうしん)は、良心(りょうしん)的に育ててくれているだけ。しかも、それを知らないのは、周囲でイチナただ1人だけ。

    

 漁師 = 両親 = 良心

  

ということは、家族・親族の全体が、素人だらけの劇団ということになる。才能を持つおばを除いて、おそらく大半の劇団員は、あまり演技が上手くないだろう。それで16年間(実は17年近く)もの間、血のつながった家族を演じ切れるだろうか? 誰も一度も致命的なミスをせずに。

     

それが簡単でないことは、現実社会を考えても想像がつくし、小説内でのおばに関する記述でも分かるような気がするのだ。

   

    

    ☆   ☆   ☆

おばの両親は、実は、イチナの祖父母ではない。おばの実の母親は、まだ17歳だった、イチナの「今の母親(を演じる女性)」。だからこそ、おばと母親、「二人の声質はそっくり」なのだ。おばの実の父親は、どこにいるのか分からない「風来坊」の男性。

  

おばはなぜか、幼い頃から「本当のこと」しか表現できなかった。当然、周囲と上手く折り合えない場面が生じて来る。最近なら、つい発達障害とかいう言葉を思い浮かべてしまうような問題児の日々。

   

やがてある時(小学校高学年~中学くらいか?)、最も「本当のこと」を偶然知ってしまう。自分のことだけでなく、イチナの出生・起源の秘密まで。

   

イチナの実の父親は、自分(おば)と同じ風来坊の男性。イチナの実の母親は不明。したがって、「おば」とイチナの本当の関係は、姉と妹なのだ。腹違いの異母姉妹。だからこそ、イチナがおばを「『おねえさん』にすり替えようとする度おじいちゃんから威嚇され」ていた。もうしばらく隠しておきたい秘密の真実だから。

   

本当の家系図は、こうなっている。

    

240123e

 

その話をたまたま聞いてしまったおばは、衝撃を受けた数時間後から、何も知らない自分という役柄を演じ始める。「本当のこと」ではないものを表現し始める。やがて、実の母がおばを産んだ年齢である17歳になって、周囲から全てを伝えられた時にも、まるで初めて知った衝撃の事実のように演じ切れた。その後、劇団まで立ち上げることになる。

   

   

     ☆   ☆   ☆

こうして、「風来坊」という妙な言葉の意味の全体が姿を現して来る。風来坊とは、風と共にどこからともなくやって来る子ども。それは、おば、おばとイチナの実の父親だけでなく、誰よりもイチナのことだったのだ。

    

風来坊の男が、ほとんど説明もなしに、勝手に昔の恋人(イチナの今の母親、おばの実の母親)のもとに置いて行った幼子。あえて、今では避けられる昔のきつい言葉を使うなら、イチナは捨て子。

  

2007年に九州・慈恵病院で運営を開始した「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)でさえ、多くの論争を呼び起こした。まして、イチナの実の父親は、2人の子どもを放棄して、1人目を産んだ女性に無理やり預けている。

   

もし、こんな事実をイチナが知ってしまったら、昔の自分以上に傷ついてしまうはず。だから、おばは、自分の演劇をイチナに見せようとはしない。その演劇の演目の一つは、のっぺらぼうの仮面をつけて、赤い装束で動き回る、恐ろしい踊りだから。何者でもないまま、「自分以内の」血と全身で戦う舞踏=武闘だから。

   

   

    ☆   ☆   ☆

なぜ身内が来ることを禁じるのか? 劇団員の問いに対して、おばは答える。

  

 本当に禁じたいのは姪ただ1人。「橋が捩じ切れるから」、「桟橋になるから」。

    

240123c

  

上の写真は、佐渡UIターンサポートセンターより縮小引用させて頂いた、「あやめの桟橋」。前の記事に書いた「浮桟橋」ではなく、しっかり作られた桟橋らしい。お世辞抜きで、美しい観光スポットだと思う。

   

桟橋というのは、船の係留に使う施設だが、観光や遊びにも使える。ただ、普通の橋と違って、途中で切れた形をしてる。しかも、広くて深い海の真っ只中で。

  

桟橋の果てで、さらに奥に向かおうとした人は、海に落ちてしまう。それに対して、普通の橋なら、奥に進めば向こう岸に渡れる。イチナにとって、向こう岸とは何か? それは、血の川を挟んでつながっている両親。本当のものと、本当でないもの(偽物)がある。

  

だからこそ、小説の後半、物語の核心に迫る辺りでは、川と「多数の橋」が登場する。劇団の公演の前日、2人で旅行している時に突然いなくなったおばを、イチナが探し回る箇所を引用してみよう。

    

河口には長いがそっけない造りの橋が架かっている。渡る途中、イチナは川の上流へ望遠鏡を向けた。一つ向こうの橋の上を軽トラックが通り過ぎ、その向こうの鉄橋を一両編成の電車が走り抜けていく。さらに先のくすんだ橋梁は両方の袂が鬱蒼と繁った雑木林に埋もれており、その辺りで大きく湾曲する川を、森と岩壁が隠し始める。イチナがいるのはこの川の、最後の橋だ」 (p.160) 

  

今いる橋はなぜ、「長いがそっけない」のか。それは、血が繋がってない両親との疑似的な家族関係だから。一番向こうの橋はなぜ、あまり見えなくなっているのか? 実の両親はほとんど全て不明だから。ここでも「望遠鏡」、遠くにある自分の姿を見る手段が使われているのは、もはや説明不要のはず。

  

この辺り、簡単な精神分析的解釈も可能な表現になっているが、ここでは省略しておこう。

   

        

     ☆   ☆   ☆

その後、イチナは1人で桟橋に向かう。実はもうすぐ、イチナは17歳の誕生日を迎えて、本当のことを知らされる予定なのだ。何となく薄々、感じ取っていた「橋」のそっけなさは、残酷なまでに明確に理解されることになる。

    

そして橋は、向こう岸のない桟橋になる。しかし、血縁の絆が全て消えたわけではない。だからこそ、桟橋で望遠鏡を使って漁師と魚の血を見るイチナの後ろから、行方不明だったおばがやって来るのだ。同じ父親を持つ異母姉妹の姉が。

 

その後の大きなエピソードについては、あえて書かないことにしよう。才能あふれる若い女性にありがちな、血の事件が発生。イチナは1人で、自分の血を生きていく決心をする。その直後に17歳を迎えて、真相を知らされる。

  

さて、彼女の場合は、どんな選択をするだろうか。必ずしもハッピーエンドは約束されてない。「魚」の周りをうろつく「猫」、桟橋の板の裏側からぶつかる「暗い海水」も、小説に描かれていた。現実の厳しさは尚更か。実の母親と久しぶりに会って、予想外のきつい言葉に傷つけられたADHDの男性の話も最近読んだばかりだ(朝日新聞・23年11月6日・夕刊)。

   

   

    ☆   ☆   ☆

最後に一言、カフカの短編小説にも触れとこう。「橋が捩じ切れる」というおばの奇妙な言葉からは、カフカの寓話的短編『橋』を思い出す。画像はTumblrより(Isidre Mones作)。

         

「私は橋だった。・・・彼はやって来た・・・誰だろう?・・・私は知りたかった。そこでいそいで寝返りを打った ━━ なんと、橋が寝返りを打つ? とたんに落下した。私は一瞬のうちにバラバラになり、いつもは渓流の中からのどかに角を突き出している岩の尖りに刺しぬかれた。(完)」 (『カフカ短編集』岩波文庫)

    

240123b

   

橋が捩じ切れたり、寝返りを打って落下するのはなぜか? それは、表と裏、真逆の2つの面を使おうとすると、無理が生じるからなのだ。イチナの場合、表面的に今の「両親」と仲良く暮らしつつ、裏で実の両親を追い求めると、心にも身体にも過大な負荷が加わることになる。

    

カフカの場合、橋が落ちて死んでしまう。牧田の場合、つながっていた橋が、途切れた桟橋として生き残る。橋は別に、向こう岸とつながっている必要はないのだ。

   

   

    ☆   ☆   ☆

一方、おばの演目は、イチナと自分のために作られたような内容なのに、イチナだけは来てはいけないとされている。この矛盾的な設定は、カフカの『掟の門』に類似している。

   

「掟の門前に門番が立っていた。そこへ田舎から一人の男がやって来て、入れてくれ、と言った。今はだめだ、と門番は言った。・・・何年も待ちつづけた・・・死のまぎわに、これまでのあらゆることが凝結して一つの問いとなった。

  

・・・『この永い年月のあいだ、どうして私以外の誰ひとり、中に入れてくれといって来なかったのです?』・・・門番がどなった。『ほかの誰ひとり、ここには入れない。この門はおまえひとりのためのものだった。さあ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ(完)」 (同上)

   

カフカの場合、男は門の中に入れないまま、おそらく全く納得できずに死んでしまう。カフカ自身も、別に唯一の謎解きの答を用意しているわけではない(長編『審判』第9章参照)。

    

牧田の場合、イチナは劇場には入れなかったけど、内容を知ることは出来たし、自分とおばの特別な関係を何となく感じ取ることも出来た。そして、そこから新たにポジティブな一歩も踏み出せたのだ。

   

    

    ☆   ☆   ☆

実の両親が、愛情豊かに子どもを育てて、明るく温かい家族を築く。平和で古典的な家庭像が、多様性の名や生殖技術、戦争、自然災害などと共にひび割れている現在、牧田真有子の小説『桟橋』は、本当の社会的問題を踏まえた上での、巧みなフィクション、テクニカルな虚構として完結していた。

     

イチナはともかく、「おば」さんにとってはおそらく、それなりに幸せな結末だと思う。風来坊の役者という生き方自体が、風と共に去りぬ。それでは今日はこの辺で。。☆彡

    

   

   

P.S. 2025年1月30日の朝日新聞・朝刊に、共通テストに関する著書・牧田のインタビュー記事が

掲載された。

     

      (計 6167字)

   (追記54字 ; 合計6221字)

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梅崎春生『飢えの季節』(23共通テスト)、全文レビュー~戦後の日常・欲望・幻想をユーモラスに描くエッセイ私小説

いきなり個人的な話で恐縮だが、私は市民ランナーなので、ダイエットが必要になる。しかし、ずっとストイックに我慢するのは難しい。昨日も、昼食は抜いたが、夜になって小説の全文を読みながら一気に3食分も食べてしまった。

     

・・・というのは自虐的な軽口で、私に関する事実だ。食べてるだろ!、我慢してないだろ!、とか突っ込みたくなる。2023年・共通テスト・国語・第2問で扱われた梅崎春生(うめざき・はるお)の短編小説「飢えの季節」も、基本的にはそういったトボけた内容なのだ。

     

例えば去年の共通テストの黒井千次『庭の男』みたいに、全文を読むともっと小説らしい異常で劇的なものが描かれてるのかと予想してたが、全く違ってた。最初から最後まで、微笑を誘うような軽妙なエッセイ調の文章が続く。

   

ただ、これが単なるエッセイとかコラムではないのは、長くて詳細な描写で、最低限の一貫した物語(ストーリー)があって、やや分かりにくい非日常的な文学的表現も含んでるから。ストーリーとは、新しい職場に入って辞めるまでの、飢えと食べ物を中心としたエピソードの流れ。

    

   

     ☆     ☆     ☆

それでは、全文を簡単にレビューして行こう。批評というより、文字通りのレビュー、見直すこと。ネット上に(ほとんど)見当たらない正確な書誌情報を含む、長めの個人的感想。

      

私が使ったのは、小説の初出の雑誌である『文壇』第2巻・第1号(前田出版社、1948年・昭和23年1月)と、『梅崎春生全集・第2巻』(沖積舎、1984年・昭和59年)。雑誌は、国立国会図書館デジタルコレクションのデジタル画像でネット閲覧した。

  

なお、共通テスト実施直後の1月15日に、問題文などに関する記事はアップしてある。ただし、その時点では、小説全体の終盤の5分の1しか読んでなかったことになる。

      

 誰が、何に、どれほど飢えているのか?~梅崎春生『飢えの季節』(初出『文壇』2巻1号、2023年・共通テスト・国語)

    

   

     ☆     ☆     ☆

まず、国会図書館のサイトで検索してもなかなか到達できなかった、掲載雑誌の小さなサムネイル画像をお見せしよう。なぜか、この号の画像だけ表示しにくかったが、出版社名を入れて検索し直すとようやく出て来た。

  

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これだけ小さい画像だと全く見えないが、実はこの表紙には、鉛筆らしき書き込みがある。数字と英語で、意味不明。それだけを見ても、かなり限られた読者層を対象にした文芸雑誌だろうと想像できる。戦後の混乱期だから、紙にも不自由して、メモ代わりにしたのかも知れない。

     

雑誌の価格は2円。小説本文の記述と合わせると、現在の貨幣価値なら100倍~200倍、200円~400円くらいだろうと推測。現在の文芸雑誌より安いのは、中身が少ないからと考えれば納得しやすい。

   

最後の編集「後記」には、「創刊以来始めての創作特集」と書かれてた。細かい話だが、「初めて」ではなく「始めて」。当時の漢字の使い方だろうか。後記の最後に、「最近の出版事情の不振」とたたかうと宣言してるが、残念ながら2年間しかもたなかったようだ。2年も頑張った、と言うべきかも知れない。

     

最後の後記と出版情報までで、全体は81ページ。梅崎の小説は、60ページから80ページまで、21ページ。最初だけ、原友木(はら・ともき)によるカット(イラスト・挿画)が付いてる。可憐な花の絵で、主人公の「私」が住んでる田舎のイメージだろうか。「私」自身は、その花に似た感じはしない。画家自身は、名前で検索してもなかなか情報がヒットしなかった。

    

前の記事で指摘しておいた通り、雑誌の目次では、「飢の季節」と書かれてる。「飢え」でも「飢ゑ」でもなく、「飢」。ただ、なぜか本文の冒頭の題名は「飢ゑの季節」になってた。正確には、「飢」と「節」は旧字の漢字。作者名の「梅」も、右下が「母」になってる字体。

   

後の全集では、中盤の235ページ上段から255ページ上段まで。偶然なのか必然なのか、雑誌と同じく全21ページとなってる。ただ、ページごとの内容・区切り方は違ってたから、完全に合わせてるわけではない。内容が一字一句、一致してるのかどうかはチェックしてないが、ほとんど同じなのは間違いない。漢字の字体は違ってる。

   

   

      ☆     ☆     ☆

続いて、小説全体の内容について。共通テストの問題文冒頭では、「第二次世界大戦の終結直後、食料難の東京が舞台である」と書かれてる。間違いではないが、ややミスリーディングな(誤解を招きやすい)説明だと思う。というのも、食料自体は一応あるからだ。

      

戦争で食べ物が不足してるのは事実だが、主人公の「私」の周囲にはかなりの食べ物やお店がある。どこにも食べ物がなくて焼野原をさまよい歩くイメージとは全く違う状況なのだ。

  

では、なぜ彼は「いつも空腹」(問題文冒頭の説明)なのか。それは、食べ物を買うお金が無いからなのだ。私は前の記事のタイトルに、「誰が、何に、どれほど飢えているのか?」と書いた。主人公は、確かに食べ物に飢えてるが、その原因はお金が無いから。お金に飢えてるのだ。

    

その意味では、主人公の飢えに、戦争は直接的には関係ない。お金が無くて食べ物を買えない状況は、21世紀・令和の現代日本でも少なからずあることだ。特に去年(2022年・令和4年)からの物価高騰は、格差社会の下側の食事に深刻な影響を与えてる。

   

   

      ☆     ☆     ☆

では、なぜ主人公「私」にはお金がないのか? もちろん、戦後だから困ってる人は非常に多かったはず。仕事や職場も、無くなったり、制限させたりしただろう。

  

「復員後ただちに上京してみると、私がつとめていた会社のあたりは焼野原になっていて、焼け残ったくさむらの中で蟋蟀〔こおろぎ〕がないているだけであった。社はどこに行ったのか判らなかった。こんな具合で私はうやむやの中に失業したのであった」。

  

これが筆者・梅崎の事実なら、会社は東芝ということか。検索をかけると、確かに東芝(当時は東京芝浦電気)の主力工場が戦争末期の空襲で壊滅的な被害を受けたという情報がヒットする。

    

  

      ☆     ☆     ☆

しかし、小説を読む限り、もしその気になれば、お金の問題はそれなりに何とかなりそうな感じなのだ。まず、上京してアパートを借りるだけでもお金を持ってたことになるし、新聞も読んでて、給料をもらう前から片道2時間の電車通勤を続けてる。多めの交通費は持ってるらしいのだ。往復の交通費だけでも、1食分か2食分の食費にはなるだろう。

   

そして決定的なのは、「失業したのであった」と書いた直後に一言だけつぶやいてること。「そして二箇月ばかり売り食いしてあそんだ」。あそんだのか!、と突っ込みつつ、私はつい笑ってしまった。この辺り、明らかにウケを狙った流れを作ってる。さんざん事細かく、飢えの苦しみを書いた後、

  

「失業したのであった。そして・・・あそんだ。だから金銭的な意味では、私は貧窮の底にいたのだ」。

  

漫才のボケのような言葉のつなぎ方になってる。横の相方が、「あそぶなよ!」と突っ込む所だろう。

   

この独特のボケの流れは、肝心の食事の描写にもある。彼の表現だと、「一食」というのが僅かな量の食事で、「二食」「三食」が沢山の量らい。職場近くの食堂で1ヶ月に食べる全体量は、「登録票」で決まってるから、自分はいつも一食だけで我慢して空腹だ。そう強調しつつ、よく読むとこう書いてる。どうもやっぱり、もっと食べてるような気もするのだ。  

     

「私はこらえきれなくて、二食分を買って食べたこともしばしばあったのだ。しかしそうすれば、必ず昼か晩を抜かねば勘定があわぬ筈だった。それがどんなに辛いことであるか、私自身が一番よく知っていた。だから歯をくいしばっても一食分なのであった。このきびしい戒律を自分に課しているつもりでいても、私の登録票はいつも先の日までくいこんでいたのである」。

   

この話を現代の女の子のダイエット話に直せば、こうなるだろう。「ダイエット、きつ~い! 我慢できなくて、やっぱ食べちゃうこともあるんだ。でもそれだと体重が増えちゃうから、必死にいつも我慢してるわけ。まあ、結局、体重は増えてるんだけどね」。

     

食べてるだろ!、と突っ込みたくなる。実際、登録票の一ヶ月分を早めに食べきったとしても、どうも逃げ道が色々とあるようなのだ。まず、遥か遠くの食堂に行かなくても、家主からまとめ買いして自宅に備蓄してる芋を食べれば済むらしい。

  

15円で1貫目(3.75kg)。150倍すると2250円だから、今現在(令和)の値段とほぼ同じ。たまにはタダで芋を御馳走してもらえることもある。家主の保守的で反共産主義的な話に相槌を打つだけで。「私はひとかけらの芋のために、思想をすら売りわたしたといってもよかった」。この言葉、文脈的には全く重みがない。おそらく誇張表現で笑いを誘ってる。真面目な左翼、共産主義者でもないはず。

     

実際すぐ後で、自分(梅崎春生)の先輩にあたる作家T・Iに対する主の悪口にも話を合わせると書いてた。「やはりひとかけらの芋のために、私は芸術家のたましいも売りわたしてしまったものらしかった」。

  

これはもう明らかに、文芸仲間に向けた大げさなジョークだろう。当時の読者はみんな、T・Iが誰なのかも分かるから、余計に笑えるのだ。おそらく、稲垣足穂(いながき・たるほ)。雑誌の目次の右側に、著作『桃色のハンカチ』の広告まで載ってる(序文は江戸川乱歩)。

  

有名な先輩に対する悪口に相槌を打ちつつ、タダで呑気にイモを食べてる梅崎のとぼけた姿を思い浮かべて、読者は微笑むのだ。T・Iに対する主の悪口も過激。「もっとも役に立たぬ人間」、「あんなのが芸術家だというんかね」、「読んだことはないけんど、どうせろくな小説じゃあんめえよ」。

  

ちなみにT・Iは、「私」の前の住人で、食事付きの恵まれたアパート契約。それに対して、「私」は食事なしの貧しい契約。T・Iでさえバカにされてるということは、私はもっとバカにされてることをも意味してるのだ。この辺り、よく読むと、自虐的なユーモアに満ち溢れてる。

    

話を食べ物の調達に戻すと、芋もあるし、芋を買うお金もある。さらに本当に困ったら、家主の芋を盗むとか、近くの柿を盗むこともできて、実際たまにやってるのだ。盗みに、やり切れない感じがあると言いつつ、深刻な反省は感じられない。というのも、内心の葛藤や苦悩の何倍も、盗んだ食べ物の魅力を書き連ねてるから。

  

泥棒の話の最後も、明らかにふざけた文章になってる。柿の持ち主が、最近、柿が誰かに盗まれてるという話を「私」にするのだ。「『あんたもな、そんな奴めっけたら、遠慮なくしょょぴいて呉んろよな」(注.原文のまま) 私はだまってうなづいた。うなずくより手がないではないか。私はそのとき、お猿みたいにまっかな顔をしていたに違いないのだ。」。

  

反省というより、ヤンチャしたネタを武勇伝にして面白おかしく話してる印象だろう。

    

   

      ☆     ☆     ☆

結局、食べ物に飢えてるのは、お金がなくて、お金に飢えてるから。しかし更に、なぜお金に飢えるのかというと、小説の内部には書かれてないことが原因だろう。既に酒を飲んでカロリー摂取してる可能性もあるが、そこは時期的に確認できてないので保留しておく。

     

それより、この小説自体も含めて、小説の執筆に時間と労力をかけてるからだと思われる。準備となる長い空想も含めて。辞めるまでに会社で働いた期間は短いし、通勤時間を除けば、勤務時間も短め。日曜もヒマ。そもそも、会社に入るまでは遊んでるし、会社もすぐ辞めてる。

    

ということは、創作も含めて、空想・虚構・フィクションに飢えてると考えることも可能。実際、この小説には空想・夢想・幻想の類が最初から散りばめられてるのだ。冒頭、朝の目覚めの描写はこうなってる。起き上がる前に空腹で目覚めて、布団の中で色々と思い浮かべてるらしい。

  

「もはや眼覚めたそのときの私の想像に入ってくるものは、先ず白いご飯にあたたかい味噌汁をそえた朝食の幻想であった。・・・ごはんはつぶつぶに真珠のように光っていた。・・・豚肉の煮たものや秋刀魚の焼きたて。・・・鰻の蒲焼・・・」。

  

一連の空想が終わっても、またすぐ始まる。「乳首を唇から外した幼児のように、私はあわてて次の聯想の乳房にしゃぶりつく。また新しい知が湯気や匂いをたてながら、私の幻の食卓に置かれるというわけであった」。

   

  

     ☆     ☆     ☆

具体的な食べ物の空想を見ても、どうも彼はわりと美味しい物を選んでるような感じで、何でもいいからとにかく空腹を満たしたいという感じでもないのだ。「美味しい食べ物」に飢えてる。それは、小説執筆についても言えることだろう。美味しい小説を書きたい。だから実際、この小説も美味しい内容になってる。戦争の悲惨さや残酷さよりも、平凡な市民の食欲の欲深さ。

     

なお、上の乳首の表現の他にも、性的な表現が2ヶ所ある。「食物の幻想のオナニー」。「しょっちゅう見かける顔のひとりに二十歳位の若い女がひとりいて・・・いつも青いもんぺを穿いていたが、どういう訳かそれが少し破れていて、下着をつけていないのか裸の尻の一部分がむき出しにのぞかれた。いつまで経っても縫う気配もなかった」。

      

精神分析的に、性的欲望を中心に解釈し直すことも可能かも知れないが、さすがにこれだけでは素材が足りないだろう。美味しい性的対象に飢えてるというのも難しい。ただ、まだ若い男性の一人暮らしだから、女性に飢えてるという側面は十分あるはず。

  

少なくとも、悲惨な戦争でみんな食べ物が無くて飢えに苦しんでた・・というような悲しい歴史とは程遠い、軽い語り口の滑稽な小説だった。人によっては、あまりに悲惨だからこそユーモアでまぎらわせるしかなかったと受け取るのかも知れないが、この作品に限っては、日常のユーモラスな観察・表現の方が本質だろう。別の作品なら、戦争の生々しい話も色々と書いてるとの事。

    

   

     ☆     ☆     ☆

いつの間にか6000字も書いてしまったので、もう終わりにしよう。なお、私が一番笑ったのは、職場の先輩の女性・長山アキ子との英語論争。アキ子は「わざわざ自宅から物すごく大きな英和大辞典を・・・あの満員電車にもまれながら抱えて来」て、私を言い負かしたらしい。

   

東大卒の作家の梅崎を力づくで言い負かす、大辞典持ち運び女。これまた只者ではないし、大辞典を買うだけのお金は確保してたのだろう。弁当は「小さな芋のきれはしだけ」で我慢しつつ、争議のリーダーになって会社を解雇されるような側面も持ってた。

  

ともあれ、今日のところはこの辺で。。☆彡

    

       (計 5944字)

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誰が、何に、どれほど飢えているのか?~梅崎春生『飢えの季節』(初出『文壇』2巻1号、2023年・共通テスト・国語)

☆追記: 小説全体を読んだ感想記事を別に新たにアップした。

 梅崎春生『飢えの季節』、全文レビュー~戦後の日常・欲望・幻想をユーモラスに描くエッセイ私小説 )

   

    

    ☆     ☆     ☆

10年ほど前から、センター試験(現在は大学入学共通テスト)の国語の記事(特に小説関連)を書き続けて来た。

   

その中でも、アクセス数や熟読者数が多い記事が2種類、4本ある。去年(2022年)の黒井千次『庭の男』の記事(試験記事全文レビュー)と、18年の井上荒野『キュウリいろいろ』の記事だ(試験記事全体レビュー)。

      

この2つの小説には共通点がある。普通に問題文だけを読むと正直、あまり面白くはない。前者は変な話で、後者は平凡にも見える。しかし、小説全体を読んだり、深く読み込んだりすると、非常に興味深いのだ。ポイントはどちらも、小説の題名に表れてる。

    

「庭の男」とは誰で、何者なのか? なぜ、庭にいるのか? 「キュウリ」とは何のメタファー(比喩)で、「いろいろ」とはどんな種類なのか? もちろん、そうした考察・分析は、大規模の受験のレベルを超えたものになる。センターや共通テストでは、当たり障りのない「普通」の答を素早く求める力が求められてるのだから。

    

そして、その「普通」とは、基本的には出題者や学校・塾・予備校の教師が決めて、それを素直に学んだ生徒が繰り返していくことになる。コピペ的な再生産。しかしそもそも、小説とか小説家というものは、普通の枠を大幅にはみ出したもののはずだ。

   

その典型が、去年の小説。問題ではカットされたり、スルーされたりしてたが、実は、特殊な性の問題が小説全体で展開されてたのだ。その刺激的な部分を取り除いたのが、試験問題と正解になってた。

  

ちなみに問題・正解・分析は、河合塾の速報ページより。どの予備校・マスメディアでも、夜遅くの22時過ぎになって、ようやく公表。

    

    

      ☆     ☆     ☆

今回の小説「飢えの季節」も正直、普通に読むと面白くはないし、目新しさもない。ロシアがウクライナへ侵攻している現在、戦争の悲惨さを具体的に語ることは教育的に重要だろうが、それだけでは小説独特の価値には届かない。

   

これは私の「個人の感想」というより、かなり多くの感想だろう。ツイッターのネット民たちも、盛り上がってないのだ。せいぜい、主人公の「私」は女性かと思ってたら、実は男性だった・・とかいう感想が目につく程度。

     

戦争または敗戦の直後、食べ物その他、極度に飢えた主人公が、入社後に「夢」を語ってしまって挫折。退職して、新たな生き方へと向かう。問題文の切り取り方や設問、正解から考えると、出題者サイドは、夢や「新たな生き方を模索しようとする気力」(問6)を強調したいようにも見えるが、おそらく元の小説全体は、その逆の内容だろうと想像する。

    

   

      ☆     ☆     ☆ 

例えば、問題文の中央の一文。「・・・ただ一食の物乞いに上衣を脱ごうとした老爺。それらのたくさんの構図にかこまれて、朝起きたときから食物のことばかり妄想し、こそ泥のように芋や柿をかすめている私自身の姿がそこにあるわけであった。こんな日常が連続してゆくことで、一体どんなおそろしい結末が待っているのか。それを考えるだけで私は身ぶるいした。」

   

唐突に現れた、不気味な感じの老爺は、去年の小説なら、庭の立て看板の男(庭の男)に似てる。それは、自分自身の暗い闇の部分を、強調して可視化させる外的存在なのだ。内部の極端な投影としての現実。共同便所の横のうすくらがりで、寒いのに外套もなく、汚れてやせ細った身体で必死に食べ物にすがりつこうとする人間。「人間というより一枚の影」。

   

金儲け主義の会社を辞めた後(問題文の最後)も、「勇気がほのぼのと胸に」と書いた直後、会社についてこう書いてた。「曇り空の下で灰色のこの焼けビルは、私の飢えの季節の象徴のようにかなしくそそり立っていたのである」。

   

そう。会社を辞めた所で、悲惨な現実は目の前に「かなしくそそり立って」いるままなのだ。自らの無力さを感じさせる、強大な負の秩序として。

   

その強大な壁みたいな限界は、自分の中にもあるかも知れない。夢見ることさえ不自由なほど。あるいは、不自由すぎて僅かな夢を見ることしかできないほど。

    

問題文にある夢は唯一、「緑地帯には柿の並木がつらなり、夕昏散歩する都民たちがそりをもいで食べてもいいような仕組」のみだった。空腹で柿を勝手に食べても捕まらない社会。この夢が「都民の共感を得ない筈は」ないと思いこんでたら、会社では散々の悪評。「ただただ私は自分の間抜けさ加減に腹を立てていた」。

    

なお、これがどの程度「私小説」的な実話を含んでるのか分からないが、作家(著者)もあまり夢や勇気に満ちたリアルライフには見えない。「58年ごろからの心身不調に加えて過度の飲酒による肝硬変のため」、50歳で死去。年齢だけ見るなら、ほぼ当時の男性の平均寿命と思われるが、死に方が気になるところだ。アルコールへの飢えは、別の欲望の歪曲だろう。

    

    

      ☆     ☆     ☆

おそらく、小説の全体を読むと、底なしの暗さがさらに確認できると思うので、今年も後ほど別記事で全文レビューを書こうと思ってる。今日は全文が手元にないし、今週は既に制限字数15000字をかなりオーバーしてしまったので、もう止めよう。

       

なお、小説の初出の信頼できる情報がほとんど見当たらないし、問題文には「一九四八年発表」と書かれてるだけだが、おそらく、雑誌『文壇』第2巻・第1号(1948年、前田出版社)だろう。

     

原題は、「飢の季節」らしい。「え」がないし、旧字を使った『飢ゑの季節』(大日本雄弁会講談社)でもない。雑誌の最後に掲載されてることもあり、元のページ数は不明だが、短編小説なのは確実。

   

230115b

 

マイナーで短命、同人誌的な文芸誌なので、極端にデータが少ない中、他の号の非常に小さいカラー写真なら国会図書館が掲載してた。古書店の一部で扱ってるらしい。

   

230115a

     

ともあれ、おそらくまた1週間か2週間後くらいに記事を書く予定。今週は計16402字で終了。ではまた来週。。☆彡

 

   

  

cf. 黒井千次『庭の男』全文レビュー~居場所も力も失った高齢男性(家の男)の不安と性的倒錯(窃視症)

 看板の視線への対人恐怖、軽い社交不安障害+限局性恐怖症か~黒井千次『庭の男』(22年・共通テスト・国語

 フィクションとしての妖怪娯楽と、フーコー的アルケオロジー(考古学)~香川雅信『江戸の妖怪革命』(21年・共テ・国語)

 妻、隣人、そして自分・・戦争をはさむ死の影のレール~原民喜の小説『翳』(2020年センター試験・国語

 妻と再会できた夜、月見草の花畑~上林暁『花の精』(2019センター試験・国語)

 自転車というキュウリに乗って、馬よりゆったりと♪~井上荒野『キュウリいろいろ』(18センター国語)

 「春」の純粋さと郷愁が誘う涙、野上弥生子『秋の一日』~17センター国語

 キャラ化されない戦後の人々、佐多稲子『三等車』~16センター国語

 啓蒙やツイッターと異なる関係性、小池昌代『石を愛でる人』~15センター

 昭和初期の女性ランニング小説、岡本かの子『快走』~14センター

 幻想的な私小説、牧野信一『地球儀』~13センター

 鷲田清一の住宅&身体論「身ぶりの消失」~11センター

    

      (計 2913字)

   (追記79字 ; 合計2992字)

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